僕らの疑問
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季節は梅雨が明けて、日本中の空気が夏に彩られる頃のことだった。
もうすぐ夏休みだ、とはしゃぐ小学生の子ども達が、ずらりと並んだ集合住宅街の前の道を走っていく。
期末のテストが散々だった中学生の男の子が、両隣にいる友達に慰められている。
進路に悩んで、ベンチでぼんやりしている高校生の女の子がいる。
学生最後の夏休みだから、何処か旅行にも行こうかなと考えている、就職が決まった大学生が歩いている。
買い物帰りの、主婦たちの井戸端会議。汗だくになっているサラリーマン。
いつもの日常を背景の一部としながら、彼女はベランダで洗濯物を干していた。
昨夜は熱帯夜に近い温度で、それでも若くてお金があまりない夫婦は節約のためにエアコンを28度に設定していたせいで、寝汗をかいてしまったシーツを、物干しざおにかける。
皺を伸ばして、綺麗に伸ばす。
うん、と満足げに頷き、彼女はまだ残っている洗濯物に手を伸ばした。
ゆったりとした風が吹いて、物干しざおにかけたシーツや、彼女のスカートがふわりと膨らむ。
開けっ放しにしていたベランダの窓の向こうから、ニュースキャスターの無機質な声が淡々と原稿を読み上げている。
そしてその声に不釣り合いな、可愛い声が聞こえてきた。
「はいはーい、ママはここですよ~」
あーうー、と言葉にならない声に、彼女はくすりと笑いながら返事をした。
彼女の声を聞いて、可愛く笑う声。
1年近くほど前に彼女が生んだ、彼女の娘だ。
その日一緒に生まれた他の赤ちゃんよりも大きく生まれたその子は、初めての子ということもあって戸惑いの連続であった。
お腹が空いているのか、おむつを替えてほしいのか、どっちで泣いているのか分からなくて夫と2人で右往左往するのはしょっちゅうだったし、夜泣きが酷くて夫と交代しながらあやしたり、一たび泣けば家事の最中でも手を止めなければならないしと、ひと時も気が抜けない。
赤ちゃんのお世話がこんなに大変だなんて、思わなかった。
しかしそれも、彼女にとっては倖せであった。
普通の家に生まれた彼女は、決して高望みなどせず、普通の男性と結婚して、普通の倖せを築く。
あれが欲しいこれが欲しいと背伸びをして、上ばかり見ていてはいつか足元を掬われてしまう。
だからまっすぐ前を見て、時々辺りを見渡したり、ちょっとだけ後ろを振り返ってみたりするのがちょうどいいのだ。
いつかは一軒家を買って、家族で住みたいなぁというささやかな願いだって、“普通”の人なら誰だって抱く夢である。
夫は大手の出版会社で駆け出しの編集者をしており、いずれは海外へも足を運ぶこともあるかもしれないから、持ち家は無理かもしれないけれど。
「……よし、と」
最後に、自分のTシャツを干して洗濯は終了である。
物干しざおにかけられて、風に揺れている洗濯物を満足げに眺めた後、彼女は空になった洗濯籠を持って部屋に戻った。
ベビーサークルの中で、娘がお気に入りのおもちゃを振り回して遊んでいる。
うー、あー、とまだ言葉になっていない声を出して、機嫌がよさそうだった。
時々おもちゃを齧ったり、床に叩きつけたりして、だいぶ草臥れているおもちゃは、国民的アニメの主人公で、あんパンに命が宿ったヒーローのぬいぐるみである。
娘はそのアニメが大好きで、忙しい時に見せるときゃあきゃあとはしゃぎながらテレビにかじりついてくれるから、いつも大変お世話になっております、と彼女は頭が上がらない。
時計を見る。長針と短針が重なって、12の数字を指し示していた。
そろそろ昼食の時間である。まずは娘の離乳食を用意しなければ、と彼女はキッチンへと向かう。
うー、あー、と娘はベビーサークルの隙間から手を伸ばして、キッチンにいる母親を見やる。
「今ご飯作ってあげるからねー。もう少し待っててねー」
娘がミルクから離乳食に切り替わってから数カ月ほど経つ。
最初こそ慣れなくて、娘が好きなものが何なのか分からなくて、毎日、いや、毎食試行錯誤だった。
なかなか食べてくれなくてぐずるならまだマシな方で、火がついたように泣き叫んでフォークやスプーン、果てはまだ中身が入っている皿を掴んで投げられたことも多々あった。
夜泣きよりもこちらの方に心が折れそうになった。
今はだいぶ娘の好みも分かってきたので、手際よく離乳食を作ることが出来る。
鼻歌を歌う余裕も出てきて、家事も楽しむ余裕が出来てきた。
娘がもう少し大きくなって、自分のことが自分で出来るようになったら、もう1人か2人ぐらい欲しいなあと彼女は笑った。
「……よし、と」
今日の娘の離乳食は、野菜たっぷりの十分粥である。
赤ちゃんにしては野菜を嫌がらないので、彼女としてはとても助かっている。
味見をして、ちゃんと娘の好みの味になっているかを確認した後、娘のために買った、ピンクの可愛い茶碗に粥をよそう。
いつかこのお茶碗が小さく感じて、お母さーん新しいの買ってーなんて言う日が来るのだろうと思うと、嬉しいような寂しいような。
まだ1歳にもなっていない娘の将来の姿を思い浮かべては、一喜一憂するのもきっと“普通の倖せ”。
「はぁい、ご飯ですよ~」
彼女はニコニコしながらベビーサークルの中に入り、娘を抱き上げてベビーチェアに座らせる。
涎かけを首に巻いてやり、お茶碗を持てば娘は待ちわびていたように全身をばたばたさせた。
娘の目の前に座って、スプーンで粥を掬う。まだ少し熱いそれに息を優しく吹きかけ、冷ましてやる。
「はい、あーん」
自分の口を開けながら、娘の口元にスプーンを持っていく。
あー、と娘は母の真似をして口を開けた。
口の中にスプーンを持っていけば、ぱくりと口を閉ざして、スプーンに乗っていた粥を口の中に入れ、もごもごさせる。
美味しい?と聞けば、もう言葉が分かっているかのように、ニコリと笑いながらきゃあとはしゃいだ。
「今日はパパ早く帰ってこれるんだって。よかったねぇ。パパ帰ってきたらいっぱい遊んでもらおうねぇ」
何処にでもある、何処にでもいる、普通の親子の会話。
そしてそれが、彼女が見た娘の“最後”の笑顔であった。
空が晴れていく。闇が消えていく。
分厚い雲に覆われていたムゲンマウンテンの上空は、初めてここに来た時と同じ、沢山の色の絵の具がついた筆を振ったような、不思議な青空が広がっていた。
子ども達も、そして巨大化したデビモンを相手に奮闘したデジモン達も、それをぼんやりと眺めている。
異変は、それだけではない。
ふと、治が見上げていた空から視線を外して、海の方に向けた。
あ、と声を上げた治につられて、子ども達とデジモン達は海を見た。
海の向こうから、小さな島々がムゲンマウンテンに向かってきたのだ。
あの小さな島々が、デビモンによって引き裂かれたファイル島の欠片だと気づいたのは、丈であった。
光子郎のパソコンからメールの受信音が聞こえたので、光子郎は我に返って背負っている鞄からパソコンを取り出し、メールを確認した。
メールの相手は、アンドロモンからだった。
ファイル島から闇を祓ったことに関する感謝と、ゲンナイに報告をしたいので、疲れているところ申し訳ないがアンドロモンがいる工場に今から来てほしい、と言った旨であった。
余韻に浸る暇さえないのか、と子ども達は苦笑するしかない。
だから光子郎に、もう少し休ませてくれと言うメールをアンドロモンに送ってもらい、子ども達は疲れているデジモン達を伴ってムゲンマウンテンを下山する。
体力と気力を限界まで振り絞ってデビモンと戦ったデジモン達は、もう歩くのも億劫だと言いたげにのろのろとした足取りではあったが、誰からも早くしろという文句は出てこなかった。
子ども達を守るために奮闘してくれたということもあるが、何より足取りが重い子どもが2人もいるのである。
1人は賢。彼は先の戦いでパートナーを失った。
強大な闇の力に飲まれたデビモンを“救う”ために、自らも強大な光の力を取り込み、子ども達を、そして最愛のパートナーである賢を守るために、エンジェモンは文字通り命を懸けたのである。
命を賭してデビモンを葬ったエンジェモンは、しかしすぐに賢の下へ新たな命として戻ってきた。
今は物言わぬ卵だが、腕に抱けば優しい温もりが伝わってくる。
確かに、そこに命がある。
──本当に、死んでしまったのだと、改めて突きつけられた賢の目尻に、再び涙の玉が浮かんでくる。
いつも一緒だったのに、隣にいて笑い合っていたのに、友達は何処にもいない。
心にぽっかりと穴が開いたようで、賢は誰に何を言われても上の空だった。
上級生達もそんな賢の心情を察して、腫物に触るような扱いしかできなかった。
もう1人は大輔である。
意気消沈している賢とは裏腹に、半目になって誰よりも息を切らしていた。
無理もないだろう、大輔は今その背に自分とさほど身長が変わらないパートナーを背負っているのだ。
ずっしりとした重みは、眠っていて意識がないせいだろう。
耳元に聞こえてくる穏やかな寝息に、大輔は何度放り投げてやろうかと思ったほどだ。
だが自分のパートナーも、先ほどまで激戦を繰り広げていたのだ。
他のデジモン達が次々とリタイヤしていく中、エクスブイモンとグレイモンだけがデビモンに果敢に挑んでいったのだ。
今回ぐらいいいじゃない、と空に宥められたので、大輔は仕方なく深い眠りについてしまったブイモンを背負って、悪路をとっとこ歩いている。
そもそも他の先輩達に任せたくとも、誰かに触れられることを怖がるブイモンでは無理な話だ。
ここを降りると言われた時、丈が代わりに背負おうとしてくれたが、途端に顔を真っ青にさせて魘されたのである。
眠っていて意識がないにもかかわらずだ。
こんな時にまで弱点が発生しなくてもいいのに、と愚痴りながらも、大輔は最後まで頑張ってくれたブイモンを背負って、上級生達の後ろを歩く。
そう言ったわけで、子ども達がようやくムゲンマウンテンを下山したのは、太陽が空のてっぺんに昇りきった頃だった。
光子郎はデジヴァイスとパソコンを起動させて、ゲンナイからもらったテントを取り出し、デジモン達を自分達のベッドにそれぞれ寝かせてやった。
一晩中起きていた子ども達も、ベッドに身を投げ出したい衝動に駆られているのだが、それは後だ。
まずは話し合わなければならないことがある。
「……っつーわけで、第1回!全員参加の話し合いを始める!議長は俺!太一!」
「太一、眠いのか?」
話し合い、ということで子ども達はテントの中で円に並んで座る。
妙にテンションが高い太一に、治が苦笑しながら突っ込んだが、太一はそれを無視した。
太一達はゲンナイから頼まれた、ファイル島の闇を晴らすという試練を見事とは言えないが突破することが出来た。
アンドロモンからも、ファイル島から闇が祓われたという連絡が来たので間違いないだろう。
それが終わったら、いよいよゲンナイと対面できるわけだが、まずは。
「ゲンナイさんに聞きたいことなどをまとめたいと思います。誰か、意見のある人はいませんか?」
太一により、光子郎は書記係に任命された。
みんなの意見を、パソコンでデータとしてまとめてもらうためだ。
吝かではないので、光子郎はパソコンのメモ帳機能を開いて、いつでも打ち込める準備をする。
真っ先に手を挙げたのは、治だった。
「やっぱり僕としては、これかな。“どういう基準で僕達を選んだのか”」
「まあ、気になるよね」
あの日、キャンプ場には太一達だけではない。
沢山の子どもがいたはずなのに、どうして選ばれたのが彼らだったのか。
しかも太一達の学校の生徒だけでなく、一般客も大勢いたのだ。
その中には、家族で来た子どもだっていた。
何故太一達だったのか。
何故太一達でなければならなかったのか。
いや、そもそも子どもでなければならなかったのか。
キャンプ場には子どもだけでなく大人だっていたのだ。
大人の方が戦力としては上のはずなのに、どうして非力な子どもを選んだのか。
最年少の大輔達ですら、すぐに気づく簡単な、しかしとても重要な疑問だ。
デジモン達が進化するために必要なものを、自分達はもっているとゲンナイは言っていた。
しかしそれで納得できるほど、治は単純ではない。
そして治が疑問に思ったことは、本当に大切なことなのだということを親友の太一も空も分かっている。
最年長の丈も、後輩の光子郎やミミ、そして最年少の大輔達だって。
治がおかしいと言ったら、本当におかしな、見落としてはいけない、ただで納得してはいけないものなのだ。
だからこれは最優先で聞かなければならない。
次に手を挙げたのは、空だった。
「デジタルワールドを巣食っている闇って、一体何なのかしらね?」
「ガブモン達を見ていれば分かるけれど、デジモン達は、僕達の想像や理解をはるかに超えた力を持っている。そんなデジモン達ですら敵わなくて、異世界から僕らを呼ばなければならないほどの敵が一体何なのか……これも最重要項目だね」
一同頷く。
身を守ることすらできないような、子どもの自分達を呼ぶに至るほどの敵とは、一体何なのだろうか。
デビモンをあんな化け物に変貌させてしまう“闇”とは、一体何なのか。
デビモンですらあんなに苦戦したのに、海の向こうには一体どんな強敵が待ち受けているのか。
光子郎は息を飲みながら、それをパソコンに打ち込んでいく。
「ミミ達はいつお家に帰れるの?闇を晴らしてほしいってゲンナイさんは言ってたけど、それってどのぐらいかかるの?パパやママ、きっと心配してる……もう1週間も経ってるはずだもの」
ミミが言った言葉に一同は、あ、と思い出したように声をだした。
忘れていたわけでは、決してなかったのだ。
ただ次から次へと起きる出来事のせいで、頭の隅の方へ追いやられていただけだ。
そうだ、それも大切である。
自分達はいつ帰れるのか、光子郎はしっかりとパソコンに打ち込んだ。
「それも大切だけど、僕はもう少しここの世界のことを詳しく聞きたいな」
丈が口を開いて言ったのは、何よりも基本的なことであった。
確かに、デジヴァイスに記録として保存されていたゲンナイからは、この世界のことは大まかにしか聞いていない。
初日に披露してくれた治の推理を証明してくれたようなものだが、ファイル島の安全が確保できた今、きちんと詳細を教えてもらいたいものだ。
光子郎はそれもパソコンにちゃんとメモする。
「……次、大輔」
上級生達がある程度意見を出し切ったのを見た大輔が、珍しく控えめに手を上げる。
そのことに目を見張りながらも、太一は大輔を促した。
「えっと、ブイモンのこと、なんですけど……」
「ブイモン?」
「はい、あの、ブイモンって俺やヒカリちゃん達以外に触られるの、すっげー嫌がりますよね?ゲンナイさんなら何か知ってるかなーって……」
「……確かに、ゲンナイさんの口ぶりだと、ガブモン達のことを何か知ってそうだったよね」
ガブモン達はゲンナイさんに見覚えはなかったみたいだけど、と治は言う。
子ども達のためにデジモン達を用意したと言ったような趣旨を言っていたのを、ちゃんと覚えていた。
アグモン達は、何故ブイモンが誰かに触れられることを怖がるのか知らないが、ゲンナイなら何か知っているかもしれない。
治は光子郎を見やり、このことも書き加えておくように目配せをした。
他に誰か意見はないのか、と太一達が見渡すが、シンと静まり返った空間を破る者は誰もいなかった。
「……これからどうなっちゃうのかな」
ぽつりと呟いたのは、ミミであった。
誰も何も発していない静かな空間では、ミミの小さな声も嫌に響いた。
ギクリ、と何人かの肩が震える。
濃厚で、陰湿なあの力は、デビモンを変貌させてしまうほどの強大な力だった。
そして子ども達は、その闇に成す術もなく倒れ、エンジェモンの命を犠牲にしてその戦いの終止符を打った。
デビモンを侵食していた闇は、どう見てもファイル島だけに巣食っていた量ではない。
ならばどうやってデビモンはあれだけの量の闇を集められたのか
どうしてデビモンはあんな風になってしまったのか。
この世界にはまだ、闇が巣食っている。
ファイル島から闇を祓ったら、次はファイル島が浮かぶ海の向こう、遠くの地へ行かなければならない。
この世界を守護する光を司ったデジモン達ですら敵わなかった、強敵を倒すために。
子ども達全員で力を合わせてもデビモンに敵わなかったのに、エンジェモンが命をかけてようやくデビモンを倒せたのに、海の向こうで手ぐすねを引いて待っているデジモン達は、どれほど強いのか。
そしてそんなデジモンに、子ども達だけで勝てるのだろうか。
「……それでも」
静まり返った空間に、嫌に響いたのは太一の声だった。
「帰るためには、前に進むしか道は残されてねぇんだ」
「太一……」
「勘違いするなよ?俺だって本当は戦いなんざしたくねぇ。誰が好き好んで戦争なんざするか」
前しか見ていない少年が、きっぱりとそう言い切った。
「けど、やだやだって駄々こねたところで、ゲンナイさんがあっさり帰してくれると思うか?」
「……確かに、あっさりと帰してくれるぐらいなら、最初から強制連行はしないよな」
丈が溜息を吐きながら太一の言葉に賛同する。
ここに連れてこられる前に、ゲンナイの方からこの世界に渦巻いている強大な闇についての説明があったのなら、まだ心構えは違ったであろうに。
「だからさ、そこら辺も含めてゲンナイのおっさん、とっちめてやろうぜ。いくらでも罵倒していいっつってたんだし」
にしし、と太一は歯をむき出しにして、いたずらっ子のように笑う。
そうだ、ここで子ども達だけであーでもないこーでもないと話し合っても仕方がない。
まだ見ぬ敵に対して、見えない帰路について頭を悩ませても仕方がない。
全てはゲンナイに逢って、話を聞いてからだ。
この世界を、そして自分達の世界を救うとみんなで決めたのだ。
もう戻ることはできない。
「……とりあえず、こんなところでしょうか」
「今最優先で聞きたいのは、これぐらいだな」
全てを打ち込み終わった光子郎は、太一と治を見やる。
頷く太一と、答える治。
さて、と太一は立ち上がった。
「……もう行くのか?」
幾ら猪突猛進だからと言って、流石に急かしすぎではないだろうか。
立ち上がった太一を訝しむ治に、太一は、んなわけあるかとぶっきらぼうに返した。
「アグモン達もまだ寝てんだぞ?俺だって流石に疲れたよ。一晩だぞ、一晩?俺達も仮眠しようぜ」
「ああ、よかった。うんって言ってたら、殴り合いしてでも止めなきゃって思ってたところだったんだ」
「ほっと一息吐きながら、何で右の拳握ってるんだい?」
ぶん殴る数秒前と言った体勢の治に、すかさず突っ込む丈だったが、治が笑顔のまま丈の方を振り向いたので、顔を逸らすしかなかった。
ピロン、と光子郎のパソコンの電子音が鳴り響く。
アンドロモンから、いつ頃来られるかというメールが来たようだった。
仮眠してから向かう、という旨を打ち込み、光子郎もさっさと着替えて自分のベッドに潜り込む。
自分達の世界にいた頃、世界中にメル友がいた光子郎は、母親が注意するのも聞かずに、夜遅くまでメールをする日々が続いていたのだが、今回の徹夜は何故かどっと疲れてしまった。
メールをするために夜更かししているのとは違う神経を使ったからだろうか。
ボスン、とベッドに身を投げると、先に寝ていたテントモンの身体が振動で小さく揺れる。
それでも起きる気配はなく、口元をむにゃむにゃさせながら寝言を言い放った。
『う~ん、コウシロウはん、それ、ワテの、おやつ……』
「はは……起きたらご飯食べようか……お休み……」
そう言うと光子郎は物の数秒で深い眠りについた。
光子郎が泥のように寝入ったのをきっかけのように、男子も次々とベッドに潜り込んでいく。
女子も男子のテントを出て、自分達のテントへと向かおうとした。
「……あれ、ヒカリちゃん?どうしたの?」
「………………へ?」
立ち上がり、空の後を追うように大きく欠伸をしながらテントを出ていこうとしたミミが、何気なく後ろを振り返ると未だに座り込んでいるヒカリの姿を捉えた。
不思議に思って声をかけると、ヒカリは大袈裟に肩を跳ねさせて、ミミの方を振り返る。
……そう言えば、話し合いの間、ヒカリはずっとだんまりだった。
「もうお話合い、終わったわよ。アンドロモンのところに行く前に、少し仮眠するんだって。ヒカリちゃんも眠いでしょ?少しでもいいから寝ましょ」
「は、はい……」
わたわたと立ち上がって、ヒカリはテントを出る。
直後に、大きな欠伸。
もしかして、お話合いに参加しなかったのは、すっごく眠たかったからなのかも、とミミは思う。
最年少達が参加している手前、ミミも眠いのを我慢していたのだが、彼女だって何度か船を漕ぎかけたのだから、ヒカリが平気なはずがない。
気づけなくて悪かったかなぁ、と思い、ミミはヒカリの後ろを歩いて自分達のテントに向かった。
ヒカリの顔が真っ青になっている理由など、つゆ知らず。
爆音と、轟音。
ぶわりと舞い上がる風に混ざって、崩れた瓦礫の砂埃が、目や鼻や口に入り込んで、激しく咳き込む。
崩れていく、周りの見慣れた景色。
お母さんと手を繋いで歩いた歩道橋、お兄ちゃんと一緒に向かった公園への道。
立ち並んだ街路樹も、夜になると等間隔で道を照らしてくれる街灯も、お兄ちゃんと半分こしたジュースを買った自販機も、何も通っていない車道を無機質に点滅している信号機も。
全てが目の前でひっくり返される。崩れていく。
ピィーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー………
春の肌寒い夜空と、立ち並ぶコンクリートジャングルに反響する。
手を伸ばしても届かない、遥か彼方の空へと音が吸い込まれて消えてしまった後。
目の前の崩れた瓦礫が突如として盛り上がり、弾けるように飛び散った。
がらがら、大きな音。
響き渡る咆哮で、空気がびりびりと震え、風が生み出される。
男の子と見間違えられるほどに短く切られた髪が、乱暴に靡いた。
大きく咆哮したオレンジ色の恐竜は、身体に乗っている瓦礫を振り下ろした後、そのまま大きく開けた口にエネルギーを収集し始めた。
熱い風。
──撃て
誰かが、言った。
轟っ
勢いよく発射されたのは、青白い炎の光線。
口から真っすぐ吐き出された炎は、やがて辺りを包み込み……。
そこで、ヒカリは目が覚めた。
赤に近い茶色の瞳は小刻みに揺れ、瞳孔が開かれている。
全身に変な力が入ってぶるぶると震えた。荒い呼吸が、静寂なテントに嫌に響いた。
「………………」
自分が今何処にいるのか思い出したヒカリは、荒くなった呼吸を抑えようと深呼吸を繰り返す。
数分かかって落ち着いたヒカリは、ゆっくりと上半身を起こした。
隣を見る。プロットモンが熟睡していた。
ヒカリを護るために進化を果たして、一晩中デビモンと死闘を繰り広げたために、酷く疲労したのだろう。
ヒカリが身じろぎをしても起きる気配がなかった。
辺りを見渡すと、空とピヨモン、ミミとパルモンがまだ眠っているのが見えた。
沢山寝た気がするけれど、時間的には1時間も過ぎていない。
「………………」
息を吐く。もう一度ベッドに寝転がる。
二度寝する気にはなれなかったが、ぼんやりと1人起きているのも嫌だった。
起きる前に見た夢を、鮮明に覚えているからだ。
耳の奥に、夢の中の光景だったはずの爆音が繰り返し再生される。
ヒカリは呼吸をするのも忘れて、目を閉じ耳を塞ぎ、頭から布団を被った。
どうしてだか分からないが、とても怖い。
記憶にないはずなのに、まるでビデオのように色鮮やかに再生されるのである。
どうして、どうして。
大輔がエクスブイモンを起こすために、ホイッスルを思いっきり吹いてから、ヒカリの脳内に夢の光景が何度も再生されているのだ。
ヒカリがずっと黙っていたのは、そのせいだった。
どうしてあんな悲惨な光景が突然頭に浮かんだのかは分からない。
けれどあれは、テレビで見た映像などでは決してなかった。
だって、あれは、間違いでなければ……。
「あれは……グレイモン……?」
記憶の中にいたあの“恐竜”を、見間違えるはずがない。
あれは、間違いなくグレイモンだ。
茶色いヘルメットに、青い線のコントラストが入ったオレンジのボディの恐竜。
兄である太一のパートナーのアグモンが進化した、あのグレイモンである。
でもあんな風に、グレイモンが暴れている姿は見たことがない。
いや、そもそも“あそこ”は何処なのだろうか。
崩れた歩道橋とか抉れたアスファルトとか、壊れた信号機や自販機を見るに、あれはヒカリ達の世界の出来事のはずだ。
ならばグレイモンがいるはずがない。
グレイモンはこの世界の生き物なのだ。
この世界に来て、初めて出会ったはずなのだ。
……それでも、ヒカリは夢の中の光景をただの夢と否定することが出来なかった。
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