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この辺りですね、と光子郎がパソコンを見ながら言ったので、太一と治は筏に張った帆を畳んだ。
ファイル島から離れて1時間、周りには何もなく見渡す限り大海原である。
水色以外何もないところで、もしも悪意を持ったデジモン達に襲われれば一たまりもない。
筏の端っこから海を覗き込むような体勢を取っていた大輔は、何となしにぞっとして筏の真ん中へと引っ込んだ。
こつん、と何かが手に当たる。ブイモンだ。
鮮やかな赤い眼は海と空の間の青い瞼に遮られ、静かな吐息は筏にぶつかる波でかき消されている。
不気味なぐらい静かで、まるで死んでいるようだったが、呼吸によって微かに上下している胸により、ブイモンが生きていることが分かる。
アンドロモンは数日経てば目を覚ますと言ってくれたけれど、それでもやはり呼びかけても何も答えてくれないというのは、かなりきつかった。
ブイモン達と出会ってから、約1週間以上。
たった1週間しかまだ一緒に過ごしていないけれど、大輔にとってブイモンは頼れる相棒になりつつある。
他人に触れられることを恐れる、という弱点はあるものの、誰にだって弱いところの1つや2つは持ち合わせているものであり、マイナスポイントには至らない。
持ち前の好奇心もあって、ブイモンのことをもっと知りたいと思い、もっともっとお話しがしたいのである。
早く目ぇ覚まさないかなぁ。サーバ大陸まで、連れて行ってくれるデジモンがいても5日以上はかかるから、その間にまたいつものようにお喋りがしたい。
そう、いつものように。
しかし……
目が合った。
ブイモンとではない。賢と、だ。
大輔はすぐさま顔を逸らして、賢を視界に入れないようにする。
限界まで膨らませた頬は、つつけばぷしゅっと空気が抜けそうだ。
賢は何か言いたそうにしていたような表情をしていたが、知らない、あんな奴。
頑張ったパタモンを蔑ろにするような賢なんか、もう知らない。
大輔と賢は絶賛喧嘩中である。
ここに至るまで、2人は全く会話らしい会話を交わしていない。
と言うのも、賢が何かを言おうとするたびに、大輔はあっちを向いてしまうのだ。
賢は、その理由を分かっているから、無理に引き留めることが出来ずに途方に暮れている。
そんな賢を見て、流石にちょっとやりすぎたかなって思うけれど、でも賢の言葉を思い出すたびにむかむかして、やっぱりそうは思わないって首をぶんぶん振る。
珍しいこともあるものだ、と上級生、特にサッカークラブの先輩である太一と治と空は思うけれど、それでも咎めたり説教したりはせず、傍観するスタイルを貫いている。
自己主張が激しい大輔は、自分の言い分が通らないとがーっと喚いて相手と喧嘩になることがよくあるのだが、その喧嘩が収まるのも一瞬だ。
言いたいことを言うだけ言ってすっきりするから、相手に自分の主張を何が何でも押し通そうとは思っておらず、言い過ぎたごめんってすぐに頭を下げるのである。
お姉ちゃんともよく喧嘩をする大輔は、仲直りの仕方だってちゃんと知っていた。
今回のことも、賢にごめん言い過ぎたって言えばいいのだ。
そうすれば賢だって、僕も無神経だったって頭を下げることが出来る。
しかし大輔は、それをしなかった。
仲直りしようと思えないほどに、賢の言葉が酷いと思ったからだ。
パタモンは、頑張った。頑張っていた。
賢を守りたかっただけだった。その結果、賢の心に深い傷を残してしまったけれど、それでもパタモンは賢がその場で命を落としてしまうよりもマシだと判断したのだ。
身近で見ていた賢が、そのことに気づいていないわけがないのに、何故パタモンの頑張りを否定するような言い方をしたのか、大輔には分からない。
それほどまでに両親の離婚が賢のトラウマになっているのだが、家族が離ればなれではない大輔に、そんな心情を読み取れるはずもなく。
……そもそも大輔は、両親が嫌いだ。
だから余計に、両親が離ればなれになって、家族がバラバラになっちゃうことが想像しにくい。
賢のトラウマは、両親への愛ありきのものだ。
両親が好きだからこそ、家族がバラバラになってしまったことが賢にとって根深い“闇”として、心に巣食っているのである。
だから大輔には、分からない。
“両親が嫌いな大輔は、家族が離ればなれになる痛みを想像できない”。
お姉ちゃんと離ればなれになる可能性は考えていない。
だって大輔はお姉ちゃんが大好きだ。お姉ちゃんが行く方へ、大輔も向かう。
例え両親が1人ずつ引き取ると言っても、きっと大輔はお姉ちゃんを引き取った方を選ぶ。
無理やり連れていかれても、持ち前の行動力を駆使して、何としてもお姉ちゃんの下へ向かおうとするだろう。
……お姉ちゃんも、両親のことはあまり好いていないけれど。
「……うわあっ!な、何だ!?」
思考の海に沈みかけていた大輔を引き上げたのは、太一の悲鳴だった。
辺りを見張っていた子ども達は、太一の声に反応してそちらに顔を向ける。
海が、山のように盛り上がっていた。
幸い子ども達が乗っている筏が盛り上がった山に引き込まれることはなかったものの、子ども達は今の今まで平面だったはずの海に、突如として出来上がった山に、言葉を失っていた。
山の天辺から割れていくように水が流れ落ち、中から海の色とは正反対の、丸みを帯びた茶色いものが現れた。
ぽかん、と口を開いてそれを見上げていたら、それが喋った。
『初めまして、皆さん』
「うわ、喋った!」
「おい、太一!」
失礼なことを言い放った太一をどついて、治が頭をぺこぺこと赤べこのように下げまくる。
しかし茶色い山は、全く気にする素振りを見せず、笑いながら話を続ける。
『私は、ゲンナイ様に頼まれて君達をサーバ大陸まで運ぶ、ホエーモンと言います』
『わー!すごーい!』
『ホエーモン、初めて見た!』
唖然としている子ども達を尻目に、デジモン達は大はしゃぎである。
大きすぎるのと身体が半分海に浸かっているために全体図がよく分からなかったが、恐らくクジラ型のデジモンだろう。
子ども達が乗っている筏など一飲みにしてしまいそうなほどの巨体なデジモンは、普段は深海に住んでいるらしい。
選ばれし子ども達をサーバ大陸まで運ぶために、深海から浮上してきたのだという。
身体が大きいゆえに、深海に耐えうる強い身体を持っているものの、浮上すればその丈夫な身体は自らを殺す諸刃の剣だ。
『サーバ大陸までは、私が不眠不休で泳ぎ続けても、5日はかかります。しかし私の身体ではずっと海面に顔を出していることもできません』
「哺乳類とは言え、深海の生き物だものな。それはしょうがない」
「じゃあ、どうすりゃいいんだ?」
博識の治が納得し、それに呼応するように丈と光子郎も小さく頷いて同意する。
ホエーモンの頭部に乗って移動するものだと思い込んでいた太一が問うと、ホエーモンはけろっと言い放った。
『簡単ですよ。私の胃の中に入ればいいのです』
「へ?」
「い、胃の中ですか!?」
胃の中に入ればどうなるか、小学生でも分かる。
胃液という何でも溶かす液体があって、それで食べ物を消化してしまうのだ。
子ども達は一瞬顔を真っ青にさせたが、ホエーモンは笑った。
『大丈夫ですよ。私の方で胃液をコントロールするので、貴女達が胃の中に入っても、胃液が分泌されることはありませんから』
「……そうですか」
胃液をコントロールするなんて出来るのか、という疑問が治の頭を過ったが、ここは異世界である。
自分達の常識は通用しない。
行きますよ、と言って大きく口を開け、大量の海水と共にクジラに飲み込まれていく光景に眩暈を覚えながら、治は深く考えるのを止めた。
地響き。轟音。そして立ち込める砂煙。
大輔は今見ているものが信じられなかった。
堅いコンクリートが、紙みたいにくしゃくしゃにされて、崩れていくのを目の当たりにした大輔は、息を飲んだ。
高さのあるベランダから覗き込んだ夜の世界は、自分の知っている世界と一変していた。
普段なら立ち並んだマンションの灯りは、夜空に浮かんでいる星々を掻き消すように煌々としているのだが、今はまるで音楽を奏でているように点滅していた。
そして点滅している灯りで僅かに明るかった集合住宅街は、舞い上がる砂埃で覆われてしまっている。
リビングから持ってきた椅子に立って、大輔はお姉ちゃんと一緒にベランダの下で繰り広げられている惨劇を呆然と眺めていた。
昨日までお姉ちゃんと歩いていた、明日も歩くと信じていた歩道が無残にも壊される。
轟!
熱い塊が大輔とお姉ちゃんの視界を横切った。
爆音を鳴らしながら、何かに直撃する。
熱い塊と立ち昇った煙で、何にぶつかったのかは分からなかった。
それが飛んできた方へ、大輔は顔を向ける。
オレンジの巨体に、青い線がコントラストとして入っている、茶色い兜を被った、いつか図鑑で見たことのあるティラノサウルスのような恐竜が、唸り声をあげている。
「……あ」
その足元に、見知った子がいるのが見えた。
泣いている。泣きながら何かを叫んでいる。
その子を抱きしめている子がいる。
「……───っ!」
大輔は、その子の名を呼んだ。
熱い塊がぶつかった何かの方に夢中になっていたお姉ちゃんは、大輔の声に反応して同じ方を振り向いた。
上下左右、何処を見渡しても真っ黒である。
あの夢だ、と気づいたのは数メートル先に小さな光を見つけたからだ。
最後に見たのはもんざえモンの、おもちゃの町で一晩過ごした時だった。
小さな光が気になって手を伸ばした時、光の中に“誰か”が立っていた気がした。
そこで目を覚ましたことを思い出した大輔は、光の中に立っていた“誰か”が誰なのか、今度こそ確かめようと1歩踏み出した。
1歩、また1歩踏み出し、光に近づいていく。
上も下も左も右も前も後ろも全てが暗闇で、地面らしい地面など何処にも見当たらないはずなのに、何故か大輔の足はしっかりと地面を踏みしめている。
そのことに気づかず、不思議に思うこともなく、大輔はただ光に目を奪われる形で真っすぐ向かって行く。
しかし光は、大輔が近づいていこうとすればするほど距離を保つかのように離れていく。
逃げる光に、ムキになった大輔は駆け足になって追いかけるが、大輔がスピードを上げれば光も同じ速度で逃げていった。
大輔は、走る。光は、逃げる。
どのぐらい走ったか分からないぐらいに走って、奔って、はしって……。
──まだだよ
声が、した。何もない空間に響く、低くて優しい声だった。
その声に反応した大輔は、光を追いかけるのをやめて立ち止まり、辺りをきょろきょろと見渡す。
誰、そう言いたいのに声は出てこない。
─まだだよ。まだ早い。まだその時じゃないから……
ぐい、と襟首を掴まれて引っ張られたような感覚を覚えた直後、そのまま空中に放り投げられた。
うわ、と悲鳴を上げる暇もなく、上へ上へと浮上していく。
──今はまだ。もう少しの間、サヨナラだ
そして、大輔は見た。大輔の目の前に現れ、翻弄するように逃げ回っていた光の中に、誰かが立っていたのを。
遠ざかっていく光景の中、その誰かが薄らと笑っていた気がした。
飛び込んできた光景は、この5日間で見慣れたテントの天井である。
人1人が入るのがやっとな外見とは裏腹に、9人の子ども達と9体のデジモンが余裕で入れる広さのテントは、ゲンナイからもらった便利なアイテムの1つだ。
これがなければ子ども達はファイル島を旅している間、ずーっと野宿を強いられていただろう。
硬い地面に、寒さから身を守ってくれる毛布などなく、デジモンや他の子ども達とくっ付いて暖を取る羽目になっていたはずである。
いつ野生のデジモンに襲われるか怯えながら、安眠することが出来ずに常に寝不足の状態で旅をしていたことも考えられる。
寝不足の状態が続けば心の余裕や精神力も削られて、小さな諍いやつまらない喧嘩で仲間割れを起こしていたかもしれない。
安心して眠れる場所を確保できたのは有難い、と丈は度々言っていた。
むっくりと起き上がる。隣を見ると、まだ眠っているブイモンが小さな寝息を立てていた。
いつになったら起きるんだろうなぁ、と大輔はベッドから降りた。
催したわけではなく、喉の渇きを覚えたわけでもなく、ただ何となく目を覚まして、すっかり覚醒してしまったからだ。
隣の賢のベッドをちらりと見やる。卵を抱えて背中を向けていた。
すぐに目を逸らして、大輔はテントの外に出る。
見上げれば満天の星、はそこにはない。
暗いドーム状の空間は、ホエーモンの胃袋の中である。
子ども達をサーバ大陸まで運ぶために、ゲンナイによって派遣されたホエーモンは、深海に住むデジモンだ。
ずっと海上に顔を出しているわけにはいかないので、子ども達を胃袋に飲み込んで運ぶという手段を取ったのである。
最初こそ驚いたものの、自分達の常識に当てはめていたらこの世界を旅することはできないと、子ども達は突っ込むことを諦めて、大人しくホエーモンの胃袋に収まった。
深海に住んでいるとはいえ、ホエーモンは現実の世界のクジラと同じ哺乳類のため、定期的に酸素を供給するために海面へと浮上するも、潜っている時間と比例せず海面に出ている時間は僅かでいい。
潜水能力で他のクジラの群を抜いているマッコウクジラは、1度の呼吸で1時間から2時間もの間潜水することが出来るのだが、どうやらホエーモンはデジモンが故にそれ以上の時間を潜水できるらしいのだ。
ホエーモンの胃袋に飲み込まれたのがお昼前、その後2度ほど浮上してついでに子ども達もホエーモンの外に出してもらって、新鮮な空気を堪能した。
その後は夜ご飯を食べてまったりとした後、就寝の時間となったのでその後はどうなったのか分からない。
空を見上げても星空が見えないのはつまらないなぁと思いながらも、大輔はテントに戻らずにそのまま外に出てごろんと寝転がった。
「………………」
薄暗いホエーモンの胃袋は、星空の再現さえできていない。
昼間や夕方は明るかったのだが、夜になって眩しくて眠れないとミミがぼやいたのを聞いたホエーモンが、胃袋の灯りを落としてくれた。
胃袋に灯り……?って丈先輩が卒倒しかけたが、治と光子郎で何とか引き戻してベッドに放り込んでいた。
お休み、ってみんなに声をかけてベッドに入ったのは、何時だったか。
「大輔?」
ぼーっとドームの天井を見つめていたら、声をかけられたので大輔はびっくりして飛び起きた。
後ろを振り返ると、テントの入り口に治が立っている。
「トイレ……じゃないよな?どうした?」
トイレ用のテントは、男子用と女子用のテントの間に設置されている。
大輔は、男子用のテントの入り口の延長線上で寝転がっていたので、トイレではないと治は判断し、もしかして眠れないのだろうかと思って気軽に問いかけたのだが。
「え、と……」
何と言ったものか、大輔は言葉に詰まってしまって口をもごもごさせた。
変な夢を見てしまったから、目を覚ましてしまった、と言葉にすれば何でもないはずなのに、どういう訳か治に素直に言うことが憚られてしまった。
太一や空、ヒカリと賢だったらきっとあっさりと口を割っただろうに、どうしてか口が重い。
だから大輔は、迷った挙句眠れなくてとあながち間違ってもいないことを口にした。
治は一瞬だけ眉を顰めたが、それ以上追及することはなく、そうかとだけ返した。
「………………」
気まずい空気が流れる。治はトイレに行くでもなくテントに戻るでもなくじっと大輔を見つめ、大輔は大輔で目を逸らすタイミングを逃して治と見つめ合うという変な状況に陥ってしまった。
見つめ合うこと、数秒。
何だこれ、と大輔の心が色んな意味で折れかけた時、最初に動いたのは治だった。
テントの入り口に立っていた治は、大輔の下へと歩み寄り、隣に座る。
頭上に沢山の疑問符を浮かべた大輔が口を開くよりも、治が言葉を紡ぐ方が早かった。
少し、話をしようか。
「……話?」
「うん」
「話って言っても……」
何か話すことなどあっただろうか。
サッカー部の先輩で、太一と同じぐらい尊敬している治だけれど、改めて話をしようと言われると何を話せばいいのか分からず、口元に人差し指を添えてうんうんと考え込む。
治はくすりと笑うと、その後に紡いだのはありがとうという言葉だった。
「へ?」
「賢と仲良くしてくれて。1人だけ違う学校だし、もし大輔やヒカリちゃんがいてくれなかったら、仲間外れみたいに感じて、もっと大変なことになってたと思うんだ」
「………………」
途端に、大輔の表情が不機嫌なものとなる。
今、大輔と賢は喧嘩の真っ最中なのだ、と言っても大輔が一方的に賢に対して怒っているだけなのだが。
賢い治が、そんな後輩の様子に気づかないはずもなく。
「……昨日の様子だと、派手に喧嘩したみたいだね」
「………………」
「良ければ、何があったのかぐらいは聞かせてくれないか?僕は一応賢のお兄ちゃんだからね。何の情報もなしに賢を慰めることはできないよ」
「……賢に聞けばいいんじゃないですか」
「勿論、聞くよ。でもどちらか一方の話だけ聞いても、偏った意見しか出せないからね」
大輔が悪いのか、賢が悪いのか、はたまた両方が悪いのか。
どちらか一方の話だけを聞いても、それを判断することはできない。
いきなり賢に関するお礼を口にしたのは、どうやらそちらの方が目的だったようだ。
ニコニコといつもの笑みを浮かべているはずなのに、何処か威圧的なものを感じた大輔は、どうやら逃げることはできないらしいと観念して、ぐぬぬとなりながらも話すことにした。
ついうっかり晒してしまった、自分の醜態はひた隠しにして。
「……そうか」
しどろもどろになりながらも教えてくれた大輔の話に、治はそれだけ呟いた。
てっきり何かお小言を言われるものだと思い込んでいた大輔は、拍子抜けをする。
お姉ちゃんと喧嘩をすれば、お母さんが問答無用で説教するから、賢と喧嘩したことを咎めると思っていたのに。
……またお母さんのことを思い出して、大輔は治に見られないようにこっそりと苦い表情を浮かべた。
「……そうか。賢は……“争いを嫌うことを選んでいた”んだね……」
苦い表情を浮かべてぐぎぎと歯を食いしばっている大輔を尻目に、治は落とすようにぽつりと呟いた。
治と大輔以外誰もおらず、ホエーモンのドーム状の胃袋のせいで治の呟きは綺麗に反響して、大輔の耳に思いっきり届いてしまう。
ぽかん、と治を見やる大輔の視線に気づいて、治は口の端を吊り上げる。
「……なあ、大輔」
「はい?」
「……大輔は、自分の両親のこと……好きかい?」
治の質問に、大輔の肩が大袈裟に跳ねた。
心臓がバクバクと激しく鼓動して、全身が小刻みに震えているのを、確かに感じた。
どうしてそんなことを聞くのだろう。
もしかして、昨日賢と口論した時のことを、治は聞いていたのだろうか。
どうして昨日賢と口論をしたのか、自分が言ったことは誤魔化したはずだけれど、本当は聞いていたのだろうか。
その質問は、大輔にとってまさに禁句であった。
大輔は両親が大嫌いだ。嫌悪していると言ってもいい。
今よりももっと小さい頃は人並みに好きだったけれど、でも今は大嫌いだ。
しかしそれを公言したことは1度だってない。
何故なら
友達はみんな、両親のことが好きで、毎日のように昨日はお父さんと何をして遊んだとか、お母さんとこんなお話をしたとか、日曜日にはお父さんとお母さんとお出かけをするんだとか、楽しそうに話している。
ヒカリだって例外ではない。
何を置いてもお兄ちゃんが1番のヒカリちゃんだって、やっぱりお父さんとお母さんは大好きだ。
ヒカリのことは大好きだけれど、その大好きなヒカリがお父さんやお母さんのことを話題にすると口元を引きつらせてしまう。
人の感情に敏感なヒカリの前でそんなことをすれば、どうしたのって絶対に聞いてくるから、笑顔を保つのが大変だった。
もしも両親に対して嫌悪を抱いていることがバレれば、きっとヒカリは幻滅する。
家族が大好きで、それが当たり前のヒカリにはきっと大輔の気持ちは分からないだろう。
ヒカリのことが好きだからこそ、ヒカリとは喧嘩をしたくないからこそ、大輔は両親が嫌いであることを誰にも言っていない。
後先考えずに行動すると思われがちな大輔ではあるが、自分が両親に抱いている感情がおかしいことはちゃんと気づいている。
だから大輔は、両親も好きだけれどお姉ちゃんはもっと好きだという体で誤魔化していた。
みんなが両親のことを話題にしている時は、お姉ちゃんのことを話して、自分の両親のことは話題に出さないようにしていた。
一緒にお話ししているヒカリちゃんもお兄ちゃんが大好きだから、ヒカリちゃんは特におかしいとは思っていないようで、にこにこしながら大輔の話を聞いている。
お姉ちゃんが好きなのは本当だけれど、両親が嫌いであることを隠すためにお姉ちゃんの話題ばかり口にすることには、罪悪感はあった。
それでも、両親の話をしないためには、お姉ちゃんを全面的に押し出すしかなかった。
だから今回も、友人達に言っているようにしようと口を開きかけたが、治の方が一瞬早かった。
「誰にも言ったことないんだけど、僕はね、大輔」
吹くはずのない風が、吹いた気がした。
「父さんも母さんも、大嫌いなんだ」
そう言い放った治の表情は、いつもの見慣れた笑顔だった。
サッカーボールを上手に蹴ることが出来た時に見せてくれる、あの笑顔と全く同じものだった。
「……どうして?」
「どうして?簡単さ。僕と賢を引き離したから。それじゃ理由にならないかい?」
離れたくないと、みんな一緒がいいと泣いていた賢を無視して、両親は離婚した。
いかなる天才少年と言えど、当時の治は今の賢と同じ8歳だ。
大人の理不尽を止める術など持ち合わせているはずもなく。
「……父さんには、ちゃんと感謝はしているよ。僕を育ててくれているんだし。でも母さんを止められなかった時点で、僕にとっては同罪さ」
大人の問題だからと、まだ子どもだった治と賢を蚊帳の外に放り投げて、勝手に大人達だけで話を進めて、子ども達の都合などお構いなしだった。
もう一緒にいることすら苦痛で、顔も見たくないから離婚にまで至ったことはこの際仕方がない。
喧嘩ばかりする姿を子ども達に見せるよりは、ずっといいだろう。
それでも、治は大人達を許せない。
「……治さんは、お父さんとお母さんが賢を泣かせたから、嫌いなの?」
「……それだけが理由でもないんだけれど、まあ、概ねそんなところかな」
「理由?」
「うん」
賢を泣かせたこともそうだが、何よりも許せないことがあった。
でもそれは、今は言うつもりはない。
「誰にも、言ったこと、ないんですか?太一さんにも?」
「うん。太一にも」
「どうして?」
「……大輔は、今の話どう思った?両親が嫌いな僕は、おかしいと思うかい?」
大輔の質問に、質問で返すように、治は言う。
その顔は、断罪を待っている犯罪者のようだった。
唇をきゅっと結び、しっかりと大輔を見据える治の心臓は、激しく波打っている。
誰にも言ったことがないと言ったが、1度だけ。
たった1度だけ、治は太一ではない別の友人に、両親のことをぽつりと漏らしたことがあった。
どういう経緯だったかは、忘れた。どんな流れだったかも、忘れた。
でも治は何かの拍子に、両親が好きではないと漏らしたことがあった。
やっぱり、大輔のようにどうして?と聞かれた。
だから今の話を水で希釈するように薄めて、オブラートに包んで、話した。
友人の返答は、こうだった。
《育ててもらっているのに、嫌いだなんて酷い》
それは概ね、他人なら必ず返してくる言葉であった。
愛されて育った子どもなら、考えられる返答であった。
両親が揃っている子どもなら、当たり前の考えであった。
分かっていたことだ、そんな答えが返ってくることぐらい。
分かっていたのに……。
「……お、俺……」
「うん?」
「……おかしい、とは、思わない、です」
大輔らしくない消え入りそうな声だったが、しかし大輔はきっぱりとそう言った。
治は驚愕で目を見開き、大輔を見やる。
「……そう、かい?おかしいとは、思わないかい?」
たった1度だけ零したことを否定されてから、親友にさえ言えなかった心の内。
まさか弟と喧嘩をしている後輩に肯定されるとは思いもしなくて、震える声で思わず聞き返してしまった。
こくん、と大輔は呆けたように頷く。
「……そう」
それ以上は、聞かなかった。
大輔の性格をよく理解している治は、多分どうしてと聞いても大輔が何故なのか答えられないことぐらい、予想がついたからだ。
でも、それだけ聞ければ十分だった。
ずっと心の中に抱えていた重いものが、少しだけ軽くなった。
「……あの、何で、急に、そんな話に……?」
静まり返った空間が気まずくて、大輔はどうして治がそんなことを言いだしたのかと問いかける。
ああ、と治は思い出したように呟いた。
確か最初は賢の話をしていたはずだ。
どうして賢と喧嘩をしてしまったのか、両方から話を聞きたいのだと、治がそう言って。
そこからどうしてこの話になったのだったか、治は苦笑しながら答えた。
「……僕と違って、賢は父さんと母さんじゃなくて、争いを嫌うことを選んだ。それってとてもじゃないけど、すごいことだと思うんだ」
「……?」
「僕は“争いを引き起こした両親”を嫌いになったけれど、賢は“両親を仲たがいさせた争い”を嫌った。僕にはとても出来ないよ」
「…………」
「だから今回、賢が大輔と喧嘩をしたのを見て、ちょっとびっくりしたんだ。パタモンが進化をしてデビモンと戦うことすら嫌がっていたのに、まさか自分から大輔と喧嘩をするなんてね」
「………………」
今まで争いごとを避けてきた賢にとって、この冒険はとても酷なものとなるかもしれない。
しかしパタモンの死で立ち止まっていては、これから待ち受けているであろう困難を乗り越えることはきっと出来ないだろう。
帰りたいと願っても、この世界を救うまでは元の世界に帰還することは叶わない。
帰るために、戦わなければならないのに、両親の離婚をトラウマとして抱えて、争いごとは嫌いだと目を閉じ耳を塞ぐことは許されないのである。
ここは現実の世界とは違う。
兄の治の背中に隠れていればいい世界ではない。
歳もトラウマも、この世界では関係ないのである。
「ありがとう、大輔。賢の本心を知れてよかった。やっぱり大輔にも聞いてよかったよ。大輔に聞かずに賢の話だけ聞いていたら、きっと賢の本心を知らずに、見当違いな慰め方をしていたかもしれない」
「……いえ、俺は、別に」
「うん。そんなつもりじゃなかったのかもしれないけれど、僕がお礼を言いたいんだ」
友達と仲たがいするのが嫌で、今までは自分の意見を押しとどめていた賢が、初めて自分の本音を友達にぶつけたのだ。
だから今回のことはいい機会だと、治は笑いながら立ち上がる。
「……そろそろ寝ようか。これから5日間は海の上で、特にやることがないとは言え、規則正しい生活は身に着けておかなくちゃ」
戻ろう、と治が言うので、大輔も立ち上がってテントに戻る。
ベッドに上がり、お休みと言った治にお休みなさいと返して、大輔は寝転がった。
治も自分のベッドに、横になる。
布団を被るまでを見送って、大輔は寝返りを打ち、治には背中を向ける体勢を取った。
ブイモンは、まだ眠っている。
「………………」
太一のいびきだけがうるさい、テントの中。
大輔は治との会話を頭の中で再生させる。
──父さんと母さんが、嫌いなんだ
ひょんなことから知ってしまった、治の本心。
治ほどのいい子でも、お父さんとお母さんが嫌いだと思うことがあるのかと、驚いた。
確かに意外ではあった。
成績優秀で、品行方正で、運動神経もよくて、先生の言うこともよく聞く、学級委員も務めている所謂“いい子”とされている治が、悪いこととは無縁だと思っていた治が、“両親が嫌い”だなんて“悪い子”みたいなことを思っている。
両親を嫌うことは、悪いことだって分かっていた。
分かっていたから、大輔は誰にも言わなかった。
でも今、少しだけ胸のもやもやが晴れた。
治のような“いい子”ですら、両親が嫌いだと思っている。
いいんだ、自分も、嫌ってもいいんだ。
嫌いでもいいんだと、言われた気がした。
自分を産んで、育ててくれた親を好きでなければいけない、愛していなければならないなんて、そんな“呪い”に縛られる必要はないのだと。
“同じ”だったのだと。
気が付いたら、治を肯定する言葉が大輔の口からするりと飛び出していた。
治は驚いていたし、自分でもびっくりするぐらいするっと口から出ていた。
どうして、と追及されたらどうしよう、と内心はびくびくしていたが、治は何も言ってこなかった。
……いつか、自分も両親を嫌っていることを言えたらいいな、と思った。
話がそのまま流れてしまって、自分も同じ気持ちだと言うことは叶わなかったが、きっと治なら否定しないでくれる。
そのためには、賢と仲直りした方がいいのだろうけど……。
ごろん、ともう1度寝がえりを打って、天井を見上げる。
どうして治が急にそんなことを言いだしたのか、大輔には想像がつかない。
ただ賢と喧嘩をしていることを悲しんでいるわけでも、怒っているわけでもないことだけは伝わった。
談笑している最中でも、賢と仲直りしろなんて一言も言ってこなかった。
お友達と喧嘩をすれば、先生や大人がすっ飛んできては、同じことを言う。
喧嘩をしてはいけません、ごめんなさいをして、仲直りしましょう。
例えどんなに相手が悪くて、大輔が手を出したわけではなくとも、経緯を見ていなかった大人はどちらも悪いと決めつけてお互い様、と喧嘩両成敗と謝罪のさせ合いをさせる。
ぶっきらぼうにごめんなさいとお互い返せば、大人達はその張りぼての平和を満足そうに見つめて、うんうんと勝手に納得する。
大輔は後に引くタイプではないため、喧嘩をしたお友達とも翌日にはけろっと仲良く遊んでいるのだが、それだけはどうしても納得が出来なかった。
そういうのを、大人の自己満足だと、姉は不服そうに言っていたことを思い出す。
でも治は、言わなかった。
治の口から出てきたのは、ありがとうという言葉だった。
──賢に対する怒りが、少しだけ収まった気がする。
でもまだ当分許してやるつもりはない。
パタモンに酷いことを言ったのだ、パタモンが生まれてきて、ちゃんとパタモンにごめんねって言ったら許してやろう。
うつらうつらと閉じていく意識の向こうで、そんなことを思いながら大輔は眠りについた。
明日も晴れますように。
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