ナイン・レコード   作:オルタンシア

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『ごめんなさい』

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深い闇の中に沈み込んでいた意識が、泡を立てながら浮上していくのを確かに感じた。

目が覚めて最初に飛び込んできた景色は、青いキャンパスに、筆についた絵の具を飛び散らせた空と、穏やかな瑠璃色の海。

ぼんやりとした目で空を見上げていたら、潮の匂いがブイモンの鼻腔を擽り、少しべたつく風が頬を撫でる。

ざざあんという波の音がして、地面が微かに心地よく揺れていた。

 

『………………?』

 

事態が飲み込めなくて、ぼーっとしたまま寝転がっていると、再び眠気が襲ってきた。

眠い、と目を閉じようとしたら、空の明るさを遮る影が生まれる。

あら、と優しい声が降ってきた。

 

「ブイモン、起きたのね?」

『………………』

「大丈夫?」

『………………』

「まだちょっとぼーっとしてるみたいね。私のこと、分かる?」

『…………そ、ら?』

 

覗き込んできた陰は、眩しいオレンジの髪。

ピヨモンのパートナーである武ノ内空だった。

穏やかで優しい笑みを浮かべながら見下ろしてくる空を、しかしブイモンは何も考えられずに見上げるだけだった。

しばらく見つめ合うような体勢になり、空は困ったように眉尻を下げて笑った。

 

「うーん、もしかしてまだ眠い?困ったわね、もうすぐサーバ大陸に着くんだけど……」

『ソーラー?どうしたの?』

 

しょぼしょぼとする目に逆らえずに殆ど閉じかけている赤い眼に苦笑していると、少し離れたところからピヨモンの声がした。

ぴよ、ぴよ、ぴよ、とひよこのような鳴き声をさせ、歌うように空を呼び掛けて近づいてくる。

後ろから抱き着いてきたピヨモンを軽く窘めながら、ブイモンが一瞬目を覚ましたことを教える。

 

「でもまだ眠そうなのよ。困ったわねぇ、もうサーバ大陸が見えてきてるのに……」

『そっかぁ。ブイモン、まだ眠い?』

『………………』

 

何かを話しているようだが、眠くて脳みそが全く働いていないせいで何を話しているのかも、ブイモンは判断できない。

殆ど閉じている瞼も、もう閉じている。

あ、と空はそれに気づいて声を漏らした。

 

「うーん、これは……」

『どうしようか、ソラ?』

「……とりあえず、大輔呼びましょうか」

 

本格的に眠ってしまったブイモンを、空は再度苦笑しながら見下ろし、太一や治と一緒にホエーモンの頭部でもしっかりと立っていられるギリギリのところで、近づいてくるサーバ大陸にはしゃいでいる可愛い後輩を呼ぶ。

はーい、っていい子の返事をして、空の下に駆けてくる。

その際、賢とばちっと目があった大輔だったが、大輔はすぐに目を逸らして賢を見なかったことにした。

あまりにもあからさまで、空は眉を顰めたが、対角線上にいた治の視線を感じたので、開きかけた口を閉じる。

大輔と賢は、今絶賛喧嘩中である。

何が理由なのか、何があったのか、2人が喧嘩をしていた時、上級生達はテントで眠りにつこうとしていた。

うとうとと瞼が視界を閉ざそうとして、意識も深淵に誘われかけていた時に、テントの外から聞こえてきた怒号にも似た大きな声。

びっくりして飛び起きて、一瞬何が起きたのか分からず、しばらくベッドの上で挙動不審気味になっていたが、テントの外から声が聞こえてきたことに気づいて、同じく大きな物音を聞いて飛び起きたミミとヒカリを伴い、テントの外へと出た。

そこで空を筆頭とした子ども達が見たのは、息を切らして向かい合っている大輔と賢であった。

大きな声はどうやら2人が喧嘩をした喧騒だったらしい。

一触即発の険悪な雰囲気を纏っていたが、太一と治が間に入ったことで、それは免れた。

しかしその日を境に、大輔と賢は一切会話をしなくなってしまった。

サーバ大陸に着くまで、ホエーモンの胃袋の中で5日間過ごしていたのだが、その5日間大輔と賢は口を聞かなかったのである。

というより、大輔が一方的に賢を無視していた、という方が正しいだろう。

何があったのか気になるところではあるが、上級生達はみな、大輔の頑固さをよく理解しているので、向こうから言ってくれるのを待つしかない。

……賢には申し訳ないが。

 

「……っていう訳なんだけど」

「えー?ブイモン、また寝ちゃったんですかぁ?」

 

ひとまず大輔と賢の問題は隅に置いておくことにして、空はブイモンが先ほど起きたが再び寝入ってしまったことを伝える。

見るからに不満げな様子の大輔に空は苦笑するしかなかった。

誰かに触れられることを極端に嫌がるブイモンは、眠っていても大輔以外の誰かに触れられていることが分かるようで、上級生が背負ってやることが出来ない。

だからと言って大輔のみに負担を被せるのもどうか、と上級生達は頭を悩ませていた。

ブイモンの大きさは大輔とほぼ同じぐらいだ。

ちょっとだけブイモンの方が大きいかな?というと大輔が怒るので言わないが、ともかく彼らの身長はそう変わらないので、大輔が背負って行けば間違いなく足は遅くなるだろう。

サーバ大陸に着いたら連絡をくれとゲンナイにも言われているので、その時に相談しよう、ということになり、一行はもう目と鼻の先まで見えてきているサーバ大陸を見据えていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

子ども達と沖で待ち合わせたことから、身体の大きなホエーモンは、浅瀬に近づくことはできない。

そのため、ホエーモンとは沖合でお別れとなる。

ホエーモンと合流するために作った筏に再び乗って口から出してもらった子ども達は、ホエーモンに手を振りながら別れを告げた。

手を振る代わりに潮を吹いて挨拶を返してくれたホエーモンは、子ども達がサーバ大陸の浜辺に上陸するまで、沖合で見守っていてくれた。

 

すー、っと。

 

太一は両腕を横に広げ、大きく深呼吸をした。

昼間はホエーモンの頭部で代り映えのしない、果てしなく何処までも続く海を眺め、夜になればホエーモンの胃に避難して海中を進むという生活を繰り返すこと、約5日間。

ようやく地面に足をつけることができる、と子ども達はみんな安堵の息を漏らす。

ずーっとホエーモンに運んでもらって、楽ちんだったとはいえ、代り映えのしない海を眺めながらの移動は、それはそれで息が詰まった。

おまけに何処かの誰かさん達が喧嘩をしてしまって、ちょっとだけみんなの空気が悪かった。

二重の意味で、新鮮な空気が美味しい。

 

賢の懐中時計により、丁度昼時と知った子ども達は、昼食を取る。

今日の昼食は丈のリクエストにより、白米とみそ汁、塩鮭、甘い卵焼き、それから納豆だった。

手早く済ませ、サーバ大陸に着いたことをゲンナイに伝えるべく、光子郎はパソコンを開いた。

ファイル島で、アンドロモンの工場でゲンナイと対面した際に、サーバ大陸に着いたらここをクリックするように、と言われていたアドレスがメモ帳の機能にメモされている。

文字は青くなっており、その下には線が引かれていた。

これはリンクと呼ばれる機能で、これをマウス等でクリックするとそのページに飛ぶことが出来る。

光子郎はメモ帳のリンクをクリックする。

ぱ、と画面が切り替わり、何かがダウンロードされた。

それは、見たことのない通話サイトだった。

そこにはゲンナイの名前がリンク付きで貼られており、それ以外は何もないシンプルなページだった。

恐らくこのリンクをクリックすれば、ゲンナイと通信が出来るようになるのだろう。

光子郎は迷わずクリックする。

“LOADING”という文字が浮かんで、コール音が数秒。

 

《やあ》

 

ぱ、と画面いっぱいにゲンナイの顔が表示された。

 

「こんにちは、ゲンナイさん。先ほどサーバ大陸に到着して、今お昼ご飯を食べ終わったところです」

《そうか。概ね予定通りだね》

「はい。それで、僕達はどうすれば……?」

《まずは、私の方で用意した案内デジモンと合流してほしい》

「案内デジモン、ですか?」

《ああ……このサーバ大陸はファイル島とは比べ物にならないほど強く、深い闇が渦巻いている。だからこちらも思うように動けなくてね……》

 

ファイル島でもそうだったように、このサーバ大陸でもその闇を利用して世界を手に入れようとする悪いデジモンはいるらしい。

それを光子郎の傍らで聞いていた賢は、抱えた卵を抱きしめる腕に力を込めた。

そのことに気づいたのは、喧嘩をしてしまった大輔と、ファイル島と発つ前から口数が少なくなってしまったヒカリだけだった。

 

《それで、どうやら今回の敵はデビモンと違って、ネットワークもそれなりに使いこなしているらしくてね。こちらがネットワークなどを使って仲間と通信をしていると、正確に位置を割り出して襲ってくることが何度もあった。だからなるべくこの通信も控えたいんだ》

「それで、案内デジモンを?」

 

光子郎の斜め後ろにいた治が、ずり落ちかけた眼鏡を指で押しながら聞き返す。

ゲンナイは小さく頷いた。

 

《その案内デジモンには君達の紋章を隠した場所を教えてある。だからそのデジモンに案内してもらいながら、紋章を集めてくれ。これ以上はそろそろ危険だから、詳しいことは案内デジモンに聞いてほしい》

「分かった。で?その案内してくれるデジモンってのは?」

《君達に送った地図に座標を送ってある。案内してくれるデジモンとはそこで合流してくれ。ああ、そうそう。ミミに頼まれていたものも用意できたから、後で送るよ》

 

ファイル島を出る前に、ミミが頼んだスキンケアやヘアケアの類のことだろう。ミミは両手を合わせて喜んだ。

必要事項を伝え終えたので、光子郎も挨拶をして通信を切ろうとした。

が、その前に割り込んだ声がする。

 

「あ、あの!ちょっといいですか!」

 

大輔だった。

全員の注目を浴びることになったが、それに構わず大輔は画面の向こうにいるゲンナイに話しかける。

 

「あの、もう5日経ったけど、ブイモン、さっきちょっとだけ起きたけど、また寝ちゃって。幾ら話しかけても起きなくて」

「ああ、そうだ!ゲンナイさん、ブイモンが全然起きないんです。ブイモン、大輔と賢くんとヒカリちゃん以外に触られるの、ずごい嫌がるから私達が運んでやることが出来なくて……どうにかなりませんか?」

 

また上手く言葉を繋ぎ合わせられなくてしどろもどろになっている大輔に、空が助け船を出す。

2人の言葉に、他の子ども達は少し離れたところで熟睡しているブイモンに視線を向けた。

デビモンを倒して、ファイル島を出発してから広大な海をどんぶらこと渡って5日も経つのに、ブイモンは上陸直前に一瞬目を覚ましただけで、その後また眠ってしまった。

幾ら呼びかけても揺さぶっても、ブイモンは起きなかった。

諸々の理由でブイモンを運ぶことが出来るのは大輔と賢とヒカリの、最年少3人だけだ。

しかし大輔と賢は今喧嘩の真っ最中だし、賢はまだ卵から帰らないパートナーを守らなければならないために、ブイモンを背負うことはできない。

だから残りはヒカリだけなのだが、大輔は女の子に負担をかけさせたくないと言っているので、実質大輔だけになる。

上級生としては下級生にそんな負担をかけさせられないので、何とか出来ないものかとダメ元でゲンナイに頼んでみた。

ゲンナイも想定外だったようで、困ったように眉尻を下げて小さく唸った。

 

《うーん、そうか……もう5日も経っているし、アンドロモンの見立てでは数日で起きるはずだったのに……直接見てみないと分からないが、分かった。大輔でもブイモンを運べるようにしてみるよ》

「あ、ありがとうございます!」

 

それじゃあね、とゲンナイは笑顔で手を振り、そこで通信は途切れる。

光子郎はゲンナイから送られてきたサーバ大陸の地図を開いた。

ファイル島の小さな点と違い、サーバ大陸は広い。

子ども達がいる箇所が青く点滅しており、マウスのカーソルを使って地図を少しずらしてみたところ、赤く点滅している箇所があった。

恐らくここに行けと言うことだろう。

軽く準備を済ませ、子ども達はゲンナイに指定された箇所に向かって歩き始めた。

 

 

 

 

 

日はもう傾き始めている。

ファイル島にいた時と全く変わらない夕陽の色は、この世界に危機が迫っているとは思えないほど綺麗だった。

今日はここでキャンプしよう、という太一の号令の下、子ども達は日が暮れる前に寝る準備をした。

とはいっても、ゲンナイさんが用意してくれた寝床用のテントに、身体も洗えるシャワー用のテント、食事のデータのお陰で子ども達は、ここに来たばかりのような苦労をしなくて済む。

それでも太一が早めにキャンプしようと決めたのは、大輔がいつもよりも早く疲れてしまったからだ。

当たり前だろう、大輔は初進化を果たしてからずっと眠り続けているブイモンを背負って歩いているのだ。

全身から力が抜けている者を運ぶのは、デジモンであっても大変だということがよく分かった。

誰よりも息を切らして、汗を滝のようにぐっしょりとかきながら、みんなの後を一生懸命ついてくる姿は、見ていてとても気の毒である。

かといって手伝ってやることはできない。

文句も愚痴も一切言わずに、それが当たり前だと言うようにブイモンを背負う大輔を気遣い、少し早いがキャンプを決めた次第である。

夕飯は各自好きなものを、光子郎のパソコンから出してもらう。

ミミが真っ先に生クリームとイチゴ添えのチャーハンをリクエストした時は、全員の時が一瞬止まったが、見ないふりをした。

丈がものすごい何か言いたそうにしていたけれども、全身をぶるぶる震わせて言いたいことを全てのみ込んで我慢した。

気になったことや間違ったことは口にして訂正しなければ気が済まない丈にしては、かなりの譲歩である。

ゴマモンが慰めるように丈の足を前足で優しく叩いたら、丈はゴマモンに愚痴をこぼし始めた。

うんうん、って嫌がらず鬱陶しがらず、愚痴を聞いてやるゴマモンは、生意気な性格からは考えられないほどいい奴である。

 

「俺、今日はカレー食いたいっす!」

「カレー、ください」

 

それは、ほぼ同時だった。

光子郎のパソコンから、各々が食べたいものを出してもらって、順番が回ってきた時。

大輔と賢がほぼ同時に、同じメニューをリクエストした。

はた、とお互いが顔を見合わせ、しかし大輔はすぐにそっぽを向いて光子郎にカレーを催促する。

光子郎はどうしようかと困惑しながら太一と治の方に目線を向ける。

2人とも小さく頷いたので、特に言及したり賢をフォローするような言葉をかけずに、大輔にリクエストされたカレーのデータをパソコンから出して、大輔と賢に渡した。

ありがとうございまーす、って笑顔で受け取ったらさっさと離れて行ってしまった。

賢は何か言いたそうに腕を伸ばしかけて、止めた。

小さく溜息を吐き、大輔が行った方とは反対の方に行って、卵を抱えなおしてカレーを食べる。

自分達でフォローするから、今は傍観してほしいと太一と治に言われているから、その通りにしているが、こうして目の当たりにしていると何もしてやれないジレンマで、とてつもなくもどかしい。

テントモンが腹減ったと促してくるのを適当に宥めてやりながら、光子郎はハンバーグのメニューを選択して、テントモンに渡してやった。

 

 

 

 

 

 

静かな、夜だった。

 

煌めく星々は静まり返る街を照らすには光が小さすぎて、夜空に消えている。

車が通り過ぎる音すら聞こえず、賢は尿意を催して目を覚ました。

まだ眠いと訴える身体を徐に起こし、同じベッドで寝ていた兄を叩き起こす。

おにいちゃん、といれ。寝ぼけて籠った声でそう言えば、兄は枕元に置いておいた眼鏡を手探りで探し当て、引っかける。

大きな欠伸をしながら、兄はベッドから降りて賢の手を引いてトイレに付き合ってくれた。

子ども部屋から廊下に通じる扉のノブに手をかけた兄は、音を立てないようにそうっと、ゆっくりとノブを下ろした。

かちゃり、という音が嫌に響いて兄弟はぎくりと肩を震わせたけれど、それ以外の音が何も聞こえなかったので、小さく胸を撫で下ろして廊下に出た。

真っ暗な廊下。

電気をつけると目が冴えてしまうからと、兄は電気をつけずに窓から漏れる街の灯りを頼りにトイレへと向かった。

賢は、夜の廊下が好きではなかった。

概ね小さい子どもと言うのは、夜の時間帯は家ではあっても好きではないものだが、賢のそれは恐らく他の子どもの比ではなかったと思う。

何もないはずのところをじーっと見ていたかと思うと、泣きそうになりながら兄や母にしがみつくことは日常茶飯事だったし、特に大きな音がしたわけでもないのに耳を塞いだり、不可解な行動をよくしていた。

最初は不思議に思っていた兄や母だったが、そんなことをしょっちゅうしていればいつしか日常の一部となり、誰も気にしなくなった。

 

季節はそろそろ暖かくなりそうな、春の先ごろ。

トイレを済ませて手をしっかりと洗い、兄もトイレをして一緒に戻ろうとした時だった。

 

 

どぉおおおおおおおおおおおおん!!

 

 

下から突き上げるような爆音と振動。

ぎゃ、と賢は小さな悲鳴を上げて兄にしがみつく。

地震のような振動が2秒ほど。

兄は賢を抱きしめてその場にしゃがむ。

揺れが収まり、兄はそろそろと顔を上げて辺りを見渡す。

頭を抱えてうずくまっていた賢が見上げた兄は、眉を顰めて不思議そうな顔をしていた。

立ち上がって賢から離れていき、リビングの窓へ一直線に走っていく。

賢も待ってと小さな声で兄に呼びかけながら後を追った。

ぺたぺたぺた。

程よい弾力のあるものが硬いものにくっついて離れていくような音を立てながら、賢はよちよち走る。

がらり、兄が窓を開けた。

びょお、と冷たいビル風が窓から屋内に入り込んでくる。

兄弟が下を覗き込むにはまだ高い塀に、兄はリビングから椅子を引きずってベランダに出した。

よじ登り、塀の下を覗き込んでいる。

兄は、何をしているのだろう。

兄と同じ景色を見たい賢は、兄が立っている椅子に駆け寄ってよじ登り、兄の前に割り込むように立って、そして────。

 

 

 

 

 

「っ、はあ、はあ……!」

 

がばり、とベッドのクッションを揺らしながら、賢は起きた。

詰まっていた息を忙しなく吐き出して、全身を硬直させながら小さく肩を震わせ、視線は何処を見るでもなく泳いでいる。

薄暗いテントの中は、まだ誰も起きていない。

枕元に置いてある懐中時計に手を伸ばして、ボタンを押して蓋を開ける。

寝息すら聞こえてこない静寂なテントに、かち、かち、かち、と微かに針が動いている音が嫌に響いた。

時刻は、6時を少し前を差している。

起きるにはまだ早い時間だけど、目はすっかり冴えてしまってもう1度寝ようと言う気になれない。

溜息を吐いて、掛け布団を握りしめている手からゆっくりと力を抜いていった。

こつん、と下ろした手に何かが当たる。

卵だった。パタモンが眠っている、デジたまだった。

 

「………………」

 

苦しそうな表情を浮かべながら、賢はデジたまにそっと手を伸ばす。

手を置く。暖かい。

はじまりの町で知った、デジたまの孵し方を、この数日間で何度も行ったけれど、パタモンはいつまで経っても生まれてきてくれなかった。

卵は暖かいから、中で死んでしまっているということは絶対にない、と光子郎が言ってくれたのに、パタモンは数日経っても生まれてきてくれないのである。

どうして生まれてきてくれないのかなぁ、って賢はぼんやりと光のない目でデジたまを見つめながら、両手を伸ばして抱きかかえる。

ここにいるのに、ここにあるのに。

パタモンは、生まれてこない。

ここに来る前、みんなで筏を作っていた時に話しかけてきてくれたエレキモンだって、大丈夫だって、すぐに生まれてきてくれるよって言っていたのに……。

 

「賢……?」

 

びくり、と肩を震わせ、弾けるように振り向く。

まだ起きないと思っていた兄が、上半身を起こして賢を見ていた。

 

「どうしたんだ?」

「……お、兄ちゃん」

 

ど、ど、ど、と心臓が激しく鼓動して、兄を呼ぶ声がひっくり返った。

目をぼんやりさせて、デジたまを抱く腕が見るからに震えているのが分かって、治は賢の異変を察した。

枕元に置いておいた眼鏡を手に取り、顔にかけてベッドから降りた。

僅かな振動を感じたガブモンが、うーんとか言いながら寝返りを打つ。

それを苦笑しながら一瞥したあと、治は賢のベッドに腰かける。

2人分の体重を受けたベッドのクッションが、僅かに沈んだ。

 

「どうしたんだい?眠れないのか?」

 

賢の隣に座った治が、優しい声色と表情をしながらそう問いかけた。

その顔は、まだ一緒に住んでいた時、怖い夢を見たり母の怒号に怯えたりしていた賢を宥める時に見せてくれた、あの顔と全く変わらなくて、賢の胸が締め付けられた。

涙が浮かびそうになったけれど、賢は堪えるように兄から顔を背けてデジたまを見下ろす。

 

「………………」

「……賢が懸念……心配している、というか、心に引っかかっているのは……パタモンのことかい?それとも……大輔のことかい?」

 

ぐ、と図星を突かれて賢は唇を噛みしめる。

パタモンのこともそうだが、賢は大輔のことでも頭を悩ませていた。

賢は今、大輔と喧嘩の真っ最中なのである。

喧嘩をしている、というよりも一方的に無視をされていると言った方が正しいだろう。

大輔に話しかけたくとも、大輔は目を合わせるとぷいっとそっぽを向いて、止める間もなく何処かへ行ってしまうのだ。

これでは仲直りしたくとも、ごめんなさいすら言えない状態である。

しかし今まで喧嘩をしたことがない賢は、ごめんなさいという言葉は知っていてもどうやって仲直りすればいいのかまでは分からなかった。

身近で、喧嘩をした両親はそのまま仲直りすることなく離ればなれになったから、参考にはならない。

兄とは喧嘩をする前にどちらかが譲ってしまうから、そもそも喧嘩にならないのだ。

喧嘩を知らないから、仲直りの仕方も分からない。

1度ヒカリに相談してみたのだが、ヒカリも兄とは喧嘩をしないしお友達ともしたことがないから、分からないらしい。

ごめんね、とヒカリは謝ったけれど、ヒカリは何も悪くない。

そう言えばヒカリの様子がおかしかったが、一体どうしたのだろうか。

ファイル島を出た辺りから、ずーっとぼんやりしていて、太一や他の上級生達が話しかけると、抜けた魂が戻ってきたようにびっくりするから、上級生達は大輔と賢とは別の意味で心配していた。

 

「……賢?」

 

もんもんと考え込んでいたら、どんどん考えが脱線していき、何も言わない賢に治が声をかける。

は、と我に返った賢は首を左右に振って脱線しかけた考えを振り払う。

大輔のこともそうだけれど、それも大事だけれど。

 

「……パタモン」

「ん?」

「……パタモン、いつ、生まれてきてくれるのかなぁ」

 

数日経っているのに、全く生まれてくる気配のないパタモン。

大輔と仲直りしたいのと同じように、パタモンとも仲直りがしたいのに、パタモンはいつまで経っても生まれてこないのである。

大輔と違って、パタモンとは明確な喧嘩をしたわけではないのだけれど、初めて進化をした時は2人の心はかなりズレたところにあった。

賢は戦いたくない、パタモンは守るために戦いたい。

2つの反発し合う気持ちが存在していたにも関わらず、正常に進化したことはほぼ奇跡に近いが、今は賢はそんなこと知る由もない。

 

 

自分さえ我慢すれば、何も言わなければ、口を噤んでいれば丸く収まるのなら、それでいいと思っていた。

友達との絆を壊さずに済むのなら、自分は物言わぬ貝でいい。

けれどこの世界は、そしてパタモンは、それを許してくれなかった。

自分の世界に帰るためには、戦ってこの世界を救わなければならない。

そして戦うためには、パートナーであるデジモンを進化させてやらなければならない。

分かっている。分かっているのだ、本当は、ちゃんと。

戦わなければ生き残れない、強くなければ護れないという、この世界の恐ろしくシンプルなルールも。

他の世界から人間の子どもを呼ばなければならないほどに、闇に支配されつつあるこの世界の、最後の希望であることも、ちゃんと分かっている。

賢は賢い子である。聡い子である。

戦いたくないなんて駄々をこねても、それが通用しないことぐらい、ちゃんと分かっている。

だってデビモンは、賢がどれだけ戦いたくないと叫んでも願っても、その恐ろしい魔の手を伸ばすことをやめなかった。

子ども達を本気で消そうとしていた。

最後には闇を取り込みすぎておかしくなったとエンジェモンから教えてもらったから、ああなることは本意ではなかったのだろうとは思うけれど、それでも闇の力を抜きにしてもデビモンは子ども達を戦場に引きずり出してきた。

まだ10歳前後の子ども達なのに、大人の庇護をまだまだ必要とする子ども達なのに。

この世界は、そんな子ども達の都合なんか知らないのだ。

異世界から来た者達であったとしても、この世界のルールには従わなければならない。

弱き者に、生き残る資格はない。

子ども達が生きている世界よりも、ずっと厳しい世界だった。

帰るためには、この世界を救って、生き残らなければならない。

分かっているのだ、それぐらい。

賢い子どもが、そんな簡単なこと分からないはずがない。

同い年の大輔や、ヒカリだって理解している。

 

それでも、トラウマを抱えた少年には、どうしても1歩が踏み出せなかった。

 

「パタモンは、僕のことを護ろうとしてくれてたのに、僕はそんなパタモンから目をそらしちゃった。見ないふりしちゃった……パタモン、僕のこと、嫌いになっちゃったのかなぁ……」

 

大好きなパートナーを護るために、その手を離すことを選んだパタモン。

人間の子どもとデジモンは、どう足掻いても違うのだと、突きつけられた気がした。

大輔とブイモン、ヒカリとプロットモンと一緒に、上級生やそのパートナー達に護られていればいいと思っていた賢の願いは、星屑にさえ届かない。

パタモンは、デジモンだ。

非力でも、パートナーを護る“武器”でいなければならなかった。

賢と違って庇護に甘んじることは許されなかった。

そのことを本能的に悟って、パタモンは“選んだ”のだ。

賢の横に並ぶのではなく、前に出ることを。

それは、パートナーデジモンの“運命”である。

だからこそ、賢はパタモンから目をそらしてしまったのだろう。

そんなことをすれば、パタモンが悲しむと分かっていたのに。

 

大輔のことだってそうである。

分かっているのだ、謝罪の言葉を口にしなければ、せっかく友達になった大輔と二度とお話ができないことぐらい。

でもどうやってごめんなさいをすればいいか分からない。

怒らせたのなら、ごめんなさいをすればいいのは分かってるけれど、喧嘩をしたことがない賢には、分からない。

 

「……そんなこと、ないよ」

 

弟とも親友とも喧嘩をしたことがない治も、賢と同じで仲直りの仕方は知らない。

パタモンに嫌われた、大輔と仲直りしたいと思っている弟に、治はそう言ってやることしか出来なかった。

 

 

 

 

 

地平線の向こうから登り始めたお日様が、月と星を追いかけるように昇ってきて、暑さと寒さを防いでくれるテントの布の向こうから、薄らと朝日の白い光が透けて入ってきた頃、子ども達は目を覚ます。

おはよー、と子ども達は口々に挨拶を零し、着替えたり顔を洗いに行ったり、軽く運動をしたりと、各々朝の準備を行う。

早めに起きていた賢は、みんなが起きた頃に毎朝の日課である、懐中時計のネジを回した。

かち、かち、かち、と針が時を刻むのを耳にしながら、賢ものろのろと着替えをする。

だいぶ古いその懐中時計は、腕利きの職人が作ったものなのだろう、少しも狂うことなく正確に時を刻んでいる。

限界まで回せば、24時間持つその時計は、今8時を指している。

 

その時、ちょっとした朗報があった。

それは、みんなが起き出して、各々の準備を終えようとしていた頃だ。

洗顔を終えた大輔が今日も1日ブイモンを背負って行かなきゃいけないんだなぁってちょっとげっそりしていたら、自分が使っているベッドに青い陰が座っていた。

ブイモンだった。ブイモンが、やっと目を覚ましたのである。

暫く目を覚まさずに、1日中背負っていくことを覚悟していた大輔は、何が起こったのは最初は分からなかった。

理解するのに時間がかかった大輔は、数秒のフリーズを経て再起動し、英語で捲し立てながらテントの外にいる先輩達に知らせた。

太一達は面食らっていたが、一行の中で唯一英語が理解できる治が翻訳したことで、歓喜の表情に変わる。

ここに上陸する直前、1度だけ目を覚ましたっきりで、あとはずーっと眠っていたブイモンのことをずっと気にしていた子ども達は、森中に響き渡るほどの悲鳴やら歓声やらを上げて、目を覚ましたブイモンを喜んだ。

しかしテントに入って、ブイモンの様子を確認した一行は、すぐに静まり返ってしまう。

確かにブイモンは目を覚ましたが、様子がおかしかった。

赤い眼をとろんとさせて、今にも眠ってしまいそうだった。

こっくりこっくりと何度も船を漕いでいるし、完全に目を覚ましたとは言い難い。

しかし大輔が手を差し伸べれば、ゆるりとではあるがその手を取り、引っ張れば立ち上がって歩くまでは可能になっている。

その足取りは遅いが、大輔はこれから数日は覚悟していた地獄のおんぶ日和を回避できたと、涙を流していた。

んな大袈裟な、と思ったけれど、自分とそう身長が変わらないデジモンを背負って歩き続けるとか、それ何て罰ゲーム、と言いたくなるような苦行であることは間違いないので、大輔が咽び泣くのも無理はないだろう。

 

朝食を取った一行は、昨日の続きで先へ進む。

ブイモンにとっては数日ぶりの食事だったのだが、それでもブイモンは覚醒することなく、一口二口を口にしただけで、またこっくりこっくりと船を漕いだ。

完全に覚醒するにはまだ数日かかるだろう、というのは丈の見解だった。

ブイモンのペースに合わせて、一行は目的地へ向かう。

ゲンナイがくれた地図によると、これから一行が向かう先にあるのは、コロモン達が暮らしている村だそうだ。

コロモンの村、と聞いて一行が思い浮かぶのは、やはりというか太一のアグモンだろう。

初めて出会った時以来その姿を見ていない、薄いピンクでコロコロとしたフォルム。

そのコロモンが住んでいる村が、この先にあるという。

案内してくれるデジモンとは、コロモンの村で合流する予定だ。

そのデジモンとは、一体どんなデジモンなのだろうか。

ゲンナイから特徴を聞くのをすっかり忘れていたことに気づいて、太一達は苦笑した。

 

「ゲンナイのおっさんのこと、悪く言えねぇな……」

「とりあえず村に着いて、そのデジモンと逢ったら謝罪しようか……」

 

子ども達のサポートで、色々とうっかりをしでかしたゲンナイさんだったが、自分達も対外だな、と太一と治は乾いた笑いを漏らす。

いつの間にか砂漠だった周りの風景は、森のエリアに変わっていた。

ファイル島でも、ゲンナイからテントをもらう前に砂漠のエリアを横切ったが、その時と比べると日差しは強くなく、適度な風も吹いていて、あの時のような苦労を感じることはなかった。

それでも、その砂漠のエリアが終わりを告げて、森のエリアに足を踏み入れた子ども達は、安堵の息を漏らした。

ファイル島にいた時と同じ空の天辺に、太陽が鎮座している。

賢の時計でちょうど昼時だと分かった一行は、そろそろ昼食を取ろうかとしていた。

その時である。アグモンが突如立ち止まって、鼻をひくひくさせたのは。

どうした、って太一が聞くと、懐かしい匂いがすると言って立ち止まった時と同じように、急に走り出したのである。

少々入り組んだ森ではあったが、アグモンは漂ってくる懐かしい匂いに従って迷うことなく森の中を突き進んでいく。

子ども達は、その後を追いかける。

大輔も、眠そうなブイモンを引っ張って、上級生達に置いていかれないように必死に走った。

ずんずん進んでいくアグモン、後ろを振り返らずにパートナーの後を追いかける太一。

少しずつ距離が開いていく大輔とブイモンに気づいて、ヒカリとプロットモン、それから空とピヨモンが大輔のスペースに合わせて一緒に走ってくれた。

更に、それに治が気づいて、太一とアグモン、それから大輔達が視界に映るギリギリのところを走って、どちらも見失わないようにしてくれた。

 

やがて見えてきたのは、森の風景としては不自然な人工物。

村だ!とアグモンは言って更にスピードを上げた。待てよ、って太一は声をかけながらもその足を止めない。

だいぶ距離を離されてしまったが、大輔達もその人工物を捉えられるところまで来た。

子ども達の足も、自然と早くなる。

 

 

 

 

 

そんな子ども達を見ている、1つの陰に誰1人として気づくことはなかった。

 

 

 

 

 

 

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