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──閉じた蓋は、開けなくちゃ。
闇の底を漂っていた男子とパートナー達の意識を引っ張り上げたのは、賢の悲鳴だった。
ぎゃ、という短い悲鳴と共にどしんと何かが落下したような音がしたけれど、誰も最早気にしない。
だってその音の出どころは丈のベッドからなのだ。
最年長でありながら何処か頼りなく、何をするにも少々腰が引けている丈が、賢の悲鳴に驚いて飛び上がってベッドから落ちたということは安易に想像できた。
どうせゴマモンが慰めるから丈は放っておくとして、それよりも賢である。
賢の悲鳴のせいで、徐々に引き上げられていくはずだった意識を急浮上させた男子とパートナー達が見たのは、半狂乱になりながらベッドをひっくり返す勢いで何かを探し回っている賢の姿であった。
ばさばさと掛け布団を仕切りに振ったり、ベッドの下や裏側を覗き込んだりしている姿は鬼気迫る勢いで、兄の治でも声をかけるのを憚られた。
しかしこのまま放っておいたら、テント中をひっくり返しかねないので、治が恐る恐ると言った様子で賢に尋ねる。
涙を浮かべてしゃくりあげていた賢は、言った。
卵がない。それは、命を賭してデビモンを葬り去った、賢のかけがえのない友達が眠っている卵。
ここに来るまでずっとその腕に抱いて、大事に大事に温めていたのに、その卵が何処にもないのだという。
ベッドから落ちた丈が何とか這い上がった頃、男子とパートナー達はようやく事態を理解した。
もうパニックである。
着替えたり身支度を整えるのも忘れて、男子とパートナー達はテント中をひっくり返す勢いで、賢のデジたま探しを手伝った。
この時ばかりは、喧嘩をしていたのも忘れて大輔も手伝った。
自分のベッドの下や、賢が使っている小さなタンスの引き出しを全部引っ張り出してみたが、デジたまは何処にもない。
デジたまはデジたまだ。つまり卵だ。
命が生まれる前、命を守る脆い殻だ。
だから勝手に何処かへ転がっていくはずがない。
男子とパートナー達が眠っている間に生まれたのなら、デジたまの残骸が何処かにあるはずだし、何より幾ら赤ちゃんでもパタモンが賢の傍を離れるはずがない、というのはデジモン談であった。
しかし幾ら探しても、賢のデジたまは何処にもない。
これはいよいよまずいのでは……?と全員の顔がさあっと青くなる。
いや、全員ではなかった。
「おい、ブイモン!いい加減起きろって!」
男子とパートナー達がテント中をひっくり返しながら探し回っている間、やはりブイモンは眠っていた。
デビモンを葬り去ったあの夜から、1週間近く眠り続けているブイモンは、少しずつ覚醒はしているのだが、完全に目を覚ましたわけではない。
これだけ大騒ぎでテント中を探し回っている間も、ブイモンは深い眠りについていた。
上級生がどうするどうするって輪になっているところを抜け出して、大輔はブイモンの頬をぺちぺち叩きながら何度も呼びかけた。
10度目の呼びかけの後、ブイモンは薄らと目を開ける。
喉がガラガラになり始めていたから、助かった。
『……ダイスケ?』
「やっと起きたかよ、Sleepyhead!」
聞き慣れない単語を言った後、大輔はブイモンの腕を引いて無理やり上半身を起こしてやる。
目はとろとろだし、船も漕いではいるが、何とか覚醒してくれた。
「ちょっと、さっきっから煩いわよ!どうしたの?」
男子のテントの騒ぎを聞きつけた空が、テントの外から苦情を零す。
それどころじゃねぇんだ、と太一はパジャマのままテントの外に顔を出した。
着替えぐらいしなさいよ、という空のお小言は華麗にスルーして言い訳をすれば、煩いという苦情は空の頭から放り出された。
それからはもう、てんやわんやである。
子ども達とデジモン達総出で家探しである。
しかしテントをひっくり返しても、デジたまは何処にもない。
その内、最年長の丈が嫌な結論に辿り着いてしまった。
これだけ探してもない、と言うことは、賢が蹴っ飛ばすなり手放すなりしてベッドから落ちて何処かに転がったのではなく、誰かがテントに侵入してデジたまを持って行ってしまったのでは?というものである。
だってそれ以外考えられない。
デジたまから手足が生えて、何処かへ走り去っていってしまったわけではないのなら、それ以外考えられないのである。
子ども達が眠っている間に、パートナー達に気づかれることもなく、誰かが侵入してデジたまを奪って行ったと考える方が自然だ。
自然なのだが、そうなると次に思い浮かんでくる疑問は、何のために?である。
誰かによって持ち去られたのであろう、ということは理解したが、では一体何のために賢のデジたまを盗んだのだろうか。
そもそも誰がそんなことを?
疑問は尽きないが、次々と疑問が思い浮かんでくる治を止めたのは、太一だった。
「今は誰が盗んだとか何のために盗んだとか、どうでもいいだろ!探すのが先だ!」
そう啖呵を切ると、太一はさっさと着替えて、アグモンと共に外に出る。
太一の言う通り、今は賢のデジたまを探して、見つけるのが先だ。
泣きじゃくっている弟を慰めながら、治もパジャマを脱いで服を着替える。
丈と光子郎も着替えてパートナー達を伴って外に出て行った。
大輔もさっさと着替えたのだが……ブイモンを歩かせるのに苦労していた。
「ほ~らぁ、歩けってばブイモン!」
『………………』
しょぼしょぼする目を何度も擦りながら、ブイモンは大輔に手を引かれてのろのろとした足取りで歩き始める。
昨日よりはマシだが、これでは賢のデジたまを探すのに難航しそうだ。
更なる問題が、子ども達に降りかかる。
女子2人とパートナー達を呼びに行った空が、太一が着替えて外に出たのとほぼ同時に慌てて戻ってきたのだ。
どうした、と太一が問えば、空から返ってきたのはヒカリの様子がおかしいという旨。
そう聞いた太一の行動は早く、空とアグモンを置いてけぼりにして女子が使っているテントへと走る。
遅れて男子のテントから出てきた治達は、何事かと反射的に後を追った。
女子のテントに入れば、ヒカリが眠っているベッドの傍らに心配そうに見下ろしているミミとパルモン、それからプロットモンがいた。
突然入ってきた太一に驚いているミミとパルモンを無視して、太一はずかずかとテントに入っていき、ベッドに入っているヒカリに声をかける。
横向きに眠っていたヒカリは、重たそうに身体を上に向けて、今にも消えそうな声でお兄ちゃん、と呼んだ。
薄暗いテントの中でも分かるぐらい顔色の悪い妹に、太一の喉がひゅっと鳴る。
そして思い出す。
キャンプに行く数日前、ヒカリは37度以上の熱を伴った風邪を引いていた。
大輔と出会ってからは元気そのもので、大輔と一緒に外で遊びまわっていたヒカリは滅多に風邪を引かなくなっていた。
具合が悪くなることはよくあったけれど、悪化する前に大輔が気づいて太一や先生に教えてくれていたので、すっかり油断していたけれど、ヒカリは元々身体が丈夫ではないのである。
幼稚園児の頃はしょっちゅう風邪を引いたり体調を崩していたせいで、まともに幼稚園に通えなかった。
キャンプに行く数日前に久々に高熱を出してしまったヒカリは、危うくキャンプを休むところだったのである。
幸いキャンプの5日前に熱は引き、その後も解くにぶり返すことがなかったので、ヒカリは無事キャンプに参加出来た。
太一も安心していたし、大輔が同じグループにいたから、ぶり返したとしても目ざとく気づいて母に知らせてくれていただろう。
だがキャンプの5日前に治まって、キャンプ中も冒険中もぶり返さなかったからと言って、油断するべきではなかった。
少し考えれば分かることだったのに、と後悔するがもう遅い。
「ヒカリちゃん、熱はないみたいなんですけど……ちょっとしんどそうで……」
太一が自分の不甲斐なさに拳を握っていると、見かねたミミが教えてくれた。
え、って虚を突かれた太一は握っていた拳から力が抜けて、ミミの方を見た後、手袋を外してヒカリの額に手を伸ばす。
額から手に伝わる温もりは、熱くはない。
どちらかと言えば、少し冷たかった。
風邪と言えば熱を出すタイプのヒカリにしては、珍しく冷たいのである。
額から頬に手を移動させるが、やはりいつもよりも冷たく感じた。
ヒカリの枕元にいるプロットモンが、心配そうにヒカリと太一を交互に見やる。
「ヒカリ、気分はどうだ?」
「……ごめんね、お兄ちゃん……ちょっと、怠くて……」
太一は眉を顰める。ヒカリの体調を心配して、ではなく、最初に謝罪の言葉を口にしたことに対して、だ。
いつもこうだ。ヒカリは何も悪くないのに、ただちょっと我慢をしてしまうだけなのに、ヒカリはいつもごめんなさいって言う。
それは、何に対しての謝罪なのだろうかと、いつも思っていた。
我慢をして、結局悪化させてしまう罪悪感?
それとも迷惑をかけてしまっている申し訳なさ?
どちらにしても謝罪はいらない。
太一は気にするなと言って、頬から手を離してヒカリの柔らかい髪を優しく撫でた。
上級生達をかき分けて、大輔とブイモン、それから賢もやってくる。
「ヒカリちゃん、大丈夫?」
「具合悪いの?無理しないでね?」
「うん……ごめんね……」
少々呼吸が荒いヒカリに、大輔と賢は労りの言葉をかける。
ブイモンは相変わらず眠そうで大輔は大変だし、賢に至っては大切なデジたまが行方不明なのだ。
他人を気に掛けるほどの余裕はないはずなのに、大輔も賢も優しい子達である、と上級生達は苦笑した。
しかしいつまでも留まっていられない。
デジたまも探さなければならないのだ。太一は治に目配せをして、その意図を読み取った治は2人をさりげなく促してテントから出て行った。
光子郎と丈も後に続く。残ったのは、太一と空とミミ、それからそのパートナー達だけだった。
タオルを取り出して、水に濡らしてきますねと言って出て行ったミミを見送り、太一と空はヒカリの下から少し離れてこそこそと話し合う。
「空、ヒカリのこと頼むな」
「いいけど……アンタがついていなくていいの?」
「……ついてやりたいのは山々だけどさ……きっとあいつ、賢のこと知ったら自分の体調無視して一緒に探そうとすると思うんだ」
そうでなくても、きっとヒカリは賢くんのお手伝いをしてあげてって言うだろう。
自分は大丈夫だからって。ちょっと寝ていれば治るからって。
ヒカリは、そういう子なのだ。
どちらにしても、誰か1人がヒカリについていた方がいい。
「……本当に、ごめんね、お兄ちゃん……」
ヒカリから少し離れて内緒話をしていた太一と空の声は、小さくて聞こえない。
多分、ヒカリが体調を崩しちゃったから、出発が遅れてしまうというような相談をしているんだろうな、とどんどん自己嫌悪に陥っていくヒカリは、少し荒い呼吸を繰り返しながら再度謝罪した。
空との会話を中断させた太一は、苦笑しながらベッドに横になっているヒカリの下へ行き、優しく頭を撫でた。
「気にすんなって。ヒカリは悪くねぇんだから。でもこんなことなら、ゲンナイさんに薬とか用意してもらうんだったなぁ」
「ああ、そうね。ヒカリちゃんだけじゃなくて、私達も急に体調不良になったりしたら大変だもの。今度ゲンナイさんと連絡が取れそうな時に頼んでみましょ」
ヒカリが体調を崩さなければ、そんなこと思いつきもしなかっただろう。
絆創膏は空が持っているが、薬だけでなく包帯やガーゼ等も用意してもらった方がいいか。
メモ帳などはないので、あとで光子郎に伝えるとして。
「ヒカリは体調治すことだけ考えてな」
「………………」
「どっちにしても、案内してくれるデジモンとまだ合流できてないから、ここから出発することはできないのよ。だから、ね?」
ああ、そっか。ヒカリは微睡の中、太一と空の言ったことを頭の中で反芻する。
自分達の力を更に強める紋章がある場所に案内してもらうために、ゲンナイが用意してくれたデジモンと逢わなければならないのだ。
しかしそのデジモンは、まだこの村に来ていない。
そのデジモンと合流するまで、この村から出られないのである。
「空、ヒカリのことよろしくな」
「ええ。ヒカリちゃん、気にしないで眠っちゃいなさい。後で光子郎におかゆ出してもらうからね」
「うん……」
テントを出て行く太一の背中を名残惜しそうに眺めながら、ヒカリは目を閉じた。
案内してくれるデジモンがまだ来ていないことをゲンナイに連絡しようとしたのだが、タイミングが悪かったのか呼び出し音が幾ら鳴ってもゲンナイが出る気配はない。
仕方なく光子郎は通信を切って、賢のデジたまを探す方を優先させる。
子ども達は一番大きなテントを拠点として、子ども達は付近の森を探した。
しかし物言わぬ卵は、幾ら呼んだって返事をするはずがない。
何者かに持ち去られていたとしたら、もうこの辺りからはとっくに逃げているだろう。
みんなそのことに気づいているけれど、泣きじゃくる賢の手前、そんなことは口が裂けても言えなかった。
パグモンも手伝ってくれる。ぴょこんぴょこんとその丸い身体を跳ねさせながら、子ども達と一緒に探しに行ったり、集団でまだ探しに行っていない場所へ行ったり……それでも卵は見つからない。
つい先ほど滝の方から戻ってきたパグモンが、そう言って跳ねる。
そうですか、と光子郎は足元に描いていた簡易な周辺の地図の、滝の辺りにバツをつけた。
これはきっと罰なんだ。
賢はしゃくりあげながら、そんなことを考えてとぼとぼ歩いていた。
いつまで経っても生まれてこない、大切な友達。
戦うことを頑ななまでに拒否して、拒絶して、挙句の果てにはパタモンからも目を逸らしてしまった。
誰も止めることが出来なかったデビモンを止めたのは、最後まで戦うことを拒んでいた子どものパートナーが進化したデジモンであった。
世界で一番美しい光を纏いながら降臨した天使は、命を懸けてデビモンを葬り去った。
本当は救ってやりたかったと、まだ間に合うのならその手を取りたかったということを言っていたのは、きっと賢とブイモンしか知らない。
本来なら相容れない存在同士で、正反対同士で、両極端で、善と悪をそれぞれ体現したような2体のデジモンは、強すぎる力を出し切って力尽きてしまった。
そうでもしなければ、止められないほどに、デビモンは闇を取り込みすぎたのである。
それは分かっている。誰も、お兄ちゃんのガルルモンでも、デビモンを止めることが出来なかったのだ。
正反対で、両極端の存在で、光そのものであり善の代行者であるエンジェモンしか止めることが出来なかったことぐらい、賢だって分かっている。
それでも、賢にとって争いはトラウマでしかなかった。
大好きな人達を傷つけ、絆をぶっ壊す怖いもの。
見慣れたハムスターのような姿をしていたデジモンだったパタモンが、何の面影もない天使に進化しなければならないほどファイル島は危うかった。
でもやっぱり、争いは怖いし嫌いだ。
現に、賢とパタモンは今離ればなれになってしまっているし、大輔とも喧嘩をしてしまった。
嫌い。怖い。
デジたまが生まれないのは、そんな賢の怖がっている気持ちを敏感に察知してしまっているからなのだろうか。
パタモンには早く会いたいけれど、パタモンが生まれるということは、今度こそ否応なしに賢は戦いの場に身を投じなければならないということになる。
「ひっく……ぐす……」
僕ってこんなに泣き虫だったっけ。
しゃくりあげ、次から次へと溢れてくる涙を両腕でごしごしと拭いながら、賢はとぼとぼ歩く。
自分が今何処にいるのかなんて、気づいてもいなかった。
俯いて、泣きながら歩いていたせいで、治達とはぐれてしまっていたことに、全然気づいていなかったのである。
だからぱきり、という音が背後から聞こえて、びっくりして顔を上げたら全然知らないところにいたことを知って、硬直してしまった。
辺りを見回すが、360度何処を見渡しても樹々が立ち並んだ森の中で、自分達が昨夜寝泊まりしたパグモンの村のテントが何処にもない。
あれ、あれ、って賢はわたわた辺りを見渡して……ばちっと大輔と目が合った。
「………………」
「………………」
見つめ合う2人の間に、気まずい空気が流れる。
大輔の隣に突っ立っているブイモンは、相変わらず眠そうだったが、それでも昨日より足取りはしっかりしているようだった。
ブイモン大丈夫なのかなぁ、って軽い現実逃避をする。
「……何してんだよ、お前」
聞いたことのないような低い声を出したのは、大輔である。
何でこんなとこにいるんだ、と言いたげな声色と表情に一瞬たじろぎそうになったが、何とか踏ん張る。
「……大輔くんこそ、何してるの」
涙を乱暴に拭い、目元を赤く腫らしながら賢は大輔に尋ね返した。
しかし返ってきたのは、別に、という言葉である。
それにムッとした賢は、あっそとぶっきらぼうに言った。
本当は、パートナーがいない賢がふらふらとみんなから離れて行くのを見ていたから、喧嘩をしているとはいえ心配でついてきたのだが、そんなことは口が裂けても言えなかった。
そんなこと知る由もない賢は、そっぽを向いて、行く予定のなかったはずの道を進む。
一瞬迷って、大輔は眠そうなブイモンの手を引いて、賢とは10メートルほど距離を空けてついて行く。
「………………」
「………………」
てくてく、てくてく。
賢は歩く。大輔はついていく。ブイモンは引っ張られている。
静まり返った空間に、風と戯れて揺れる葉が擦れ合う音が響いていた。
「……どうしてついてくるの」
「……俺もこっちに用があるんだよ」
しばらく歩いて、賢は立ち止まって振り返る。
大輔もほぼ同時に立ち止まって、ぶっきらぼうに返す。
暫く大輔を見つめて、賢はまた歩き出した。
大輔も歩き出す。賢とは一定の距離を保ちながら、賢とほぼ同じ歩幅で歩きながら。
なのに何も言ってこない大輔に、ちょっとだけイライラし始めた賢は、ちょっとだけ歩みを速めた。
すると大輔も歩くスピードを賢に合わせて速くする。
「……ついてこないでよ!」
「何処に行こうが、俺の勝手だろ!」
一体何なのだ。
喧嘩をしたことのない子どもは分からない。
この1週間近く、賢のことをずっとずっと無視していたくせに、賢が話しかけようとするといっつもそっぽ向いて知らん顔していたくせに、どうして賢の後をついてくるのだろう。
しかしそれを指摘すると、大輔は気のせいだと言う。
澄ました表情を浮かべて、右手は眠そうなブイモンの左手を繋いで引いて、賢の後ろをついてくる。
賢には分からない。一度も争いをしたことのない男の子には分からない。
喧嘩をして、離婚をしてしまってから今まで1度も顔を合せなかった両親を見て育った賢には、全然分からない。
考えすぎてごちゃごちゃになってしまった賢の足は、やがて止まる。
「っ、さっきっから何なの!?」
振り返りながら大地を踏みしめ、叫ぶ賢にすっかり油断していた大輔は文字通り飛び上がる。
眠そうにしていたブイモンも、大声を出した賢にびっくりして目を見開いた。
振り返った賢の形相は、いつもからは考えられないほどに険しく、怒っていることが明確だった。
「大輔くんは、僕のこと嫌いになったんじゃなかったの!?」
「……は?」
「僕が、僕が分からず屋だったから、いつまでも戦いたくないって我儘言って、パタモンのことだってちゃんと見てなかったから、だから大輔くんは怒ったんでしょう!?喧嘩になっちゃったんでしょう!?僕のこと、嫌いになったから喧嘩しちゃったんでしょう!?」
賢にとって、両親の喧嘩の過程と結果を目の当たりにしてしまった子として、喧嘩イコール嫌いになるという結論を生み出してしまうのは当然と言えよう。
しかしそれは、飽くまでも賢の理論だ。
黙っていた大輔は、かっとなる。
後はもう売り言葉に買い言葉だ。
「っ、おっまえ、何訳分かんねーこと……!莫迦じゃねぇ!?喧嘩したら嫌いになるって、それじゃ俺は何度お姉ちゃんのこと嫌いになりゃいいんだよ!?俺もお姉ちゃんも、いつも喧嘩してるぞ!おやつとかテレビの取り合いとか!でも俺はお姉ちゃんのこと、嫌いだなんて1度も思ったことねぇし!離れたいとかいなくなれとか思ったことねぇし!」
「それは大輔くんとジュンさんの喧嘩が大したことないからでしょ!?大輔くんに分かる!?やめてって、そんなことしないでって、僕やお兄ちゃんが何度言ってもやめてくれなかったママとパパをずっと見てきた、僕達の気持ちなんか!僕やお兄ちゃんの気持ちよりも、自分達が喧嘩する方が大事だって言われてるみたいな……!世界からいらないって、ぽいって捨てられたみたいな気持ち、大輔くんに……!」
「そんなお父さんもお母さんもいらねぇだろ!捨てちまえよ!」
「捨てっ……!何簡単に言ってんの!?ゴミを捨てるわけじゃないんだよ!?大体捨てろって、だったら僕どうやって生きてったらいいのさ!ママがいないと僕まだ何も出来ない子どもなんだよ!?」
「別にお母さんの家から出てけって言ってるんじゃねぇ!一緒に住んでるだけの人って思えばいいじゃん!俺だって……!そうして、きたん、だから……」
口すぼみになっていく大輔。
また言ってしまった、と口元を押さえる。
言うつもりなかったのに、ずっとこの気持ちは押さえて生きていくつもりだったのに。
誰にも漏らさず自分の中だけで昇華していくつもりだったのに。
賢が訝し気に大輔を見つめている。
ああ、もう何もかも賢のせいだ。
イライラが募る。賢を睨みつける。また喧嘩になりそうな言葉が、大輔の口から飛び出てこようとする。
もう止められない。止めてくれる人はいない。
少しばかり覚醒したブイモンは、何があったのか理解できずにただ交互に大輔と賢を見やるだけだ。
しかし。
『っ!!』
ひゅ、とブイモンは息を飲み、大輔の手を振りほどいて戦闘態勢に入った。
突然の出来事に、口から飛び出そうとした大輔の言葉は喉の奥に引っ込み、賢も唖然とした様子でブイモンを見る。
ぞ、
途端に、背筋を氷のナイフでなぞられたような悪寒が、大輔と賢を襲った。
ひ、と短い悲鳴を上げて、その場で硬直する。
拳を握りしめ、変に強い力がかかってぶるぶると全身が震え、額からぶわりと冷や汗が流れる。
目を見開いた大輔と賢を護るように、ブイモンは辺りを忙しなく見渡した。
眠気は、とっくに吹っ飛んでいた。
濃密な闇の気配が辺りを漂っているのが分かる。
風が吹いているわけでも、太陽が分厚い雲に隠れているわけでも、況してや夜でもないのに、露出している大輔と賢の肌が総毛だつほどの寒さを感じた。
地面に伸びる影からぬっと手が這い出てきて、自分達の首を絞めているような感覚に陥る。
はー、はー、と無意識に浅くなっていた呼吸で、漏れる吐息が分かりやすいほどに大きくなった。
距離が開いていたはずの大輔と賢の間が、いつの間にか縮まっている。
周りには、生き物らしい生き物は何もない。
気のせい?いや、突き刺すような視線や全身に伸し掛かるようなプレッシャーは、絶対に気のせいではない。
ブイモンは注意深く辺りを見回した。
パグモンの村は森に囲まれており、大輔と賢はパグモンの村から少し離れた森の中にいる。
もう少し歩けば滝がある。そちらは既にパグモンが行っており、デジたまはなかったと子ども達に伝えているのだが、その時には既に1人で離れていた賢は知る由もなかった。
ひた……
かさかさと擦れて揺れている葉の中に、1本の針を落としたように微かな物音を、ブイモンは聞き逃さなかった。
振り向く。
毒々しいピンク色の身体に、赤い爪を持ったものが、いつの間にかそこに佇んでいた。
濃厚で、悍ましい闇の気配を隠そうともせず、その身体から漏らしているにも関わらず、ブイモンはそちらを振り返るまで“ソレ”がいたことに気づかなかった。
喉元に鋭い爪を突きつけられたような緊張感に包まれ、ブイモンは顔を青ざめさせながら息を飲む。
──無理だ。
瞬時に悟った。
無理だ。こいつには敵わない。対峙しているだけで分かる。
あいつに挑んだ瞬間、自分はその命を落とすことになると。
圧倒されるほどのオーラを感じたブイモンは、しかしそれでも尚戦闘態勢を解かない。
ここにいる中で、戦えるのはブイモンだけだ。
賢のパートナーは何故かいないが、とにかく大輔と賢を護らなければと、握って構えている拳に力が入る。
「え、あ……あいつ……なんで……?」
一方、賢は目を見開いて驚愕していた。
信じられないものを見ているような目をして、“ソレ”を見つめていた。
だって、あり得ないのだ。
いるはずがないのだ、ここに。
だって“ソレ”と出会ったのはファイル島である。
まだパタモンがいて、デビモンのせいでみんなとはぐれてしまった時、“ソレ”は賢とパタモンの前に現れた。
何をするでもなく、ただその場に佇んでいるだけだった“ソレ”が、どうしてここに?
「賢……?」
様子がおかしくなった賢を心配して、今の今まで喧嘩をしていたことなど頭から吹っ飛んで、大輔は声をかける。
しかし賢は“ソレ”から目を離さず、喉に言葉が張り付いたように口をパクパクさせている。
大輔は“ソレ”に再び目を向ける。
2本の鋭く尖った角が後頭部から生えており、目のようになっている赤い模様は、見ているだけで闇の底に落とされそうだった。
腕の先についた、角と同じく鋭く尖った赤い爪。
そして何より全身から発せられている闇の気配は、大輔の全身に絡みついて離してくれない。
少しでも動いたら、あの鎌のように湾曲を描いている爪で喉元を掻き切られそうな気がして、太一達の下に戻るという選択肢はその場で消されてしまった。
『……お前、誰だ?』
拳をきつく握りしめながら、ブイモンは尋ねる。
答えは期待していない。ここまで1度も言葉や鳴き声を発していないのだ。
ブイモンと違って腕をだらんとさせて、戦闘体勢すら取っていないところを見ると、戦う気も傷つけるつもりもないのか、それともブイモン達を莫迦にして見下しているのか、それすらも分からない。
しかし悍ましい闇の気配を隠そうともしないその姿勢は、自分達の味方ではないことは間違いないだろう。
──どうする?
ブイモンは構えを解かずに考える。
1番いいのは進化をして戦うことだ。
相手の実力は未知数だが、進化をして不意を突くことぐらいはできるはずである。
放たれるプレッシャーのせいで“ソレ”から目を離すことが出来ないが、それでも一縷の望みにかけるために、大輔に声をかけようとした。
ずる、べちゃ……
水気を多く含んだ粘着質のものが硬いところに落ちたような音がした。
ずる、べちゃ……
“ソレ”が発しているわけではなさそうだ。
何故なら“ソレ”は先ほどから1ミリも動いていない。
ずる、べちゃ……
ゆっくりと、一定の間隔でその音は聞こえてくる。近づいてくる。
大輔と賢とブイモンは、“ソレ”と対峙しているのとは違う緊張感を抱いた。
ずる……べちゃ……
ぬう、と。
それは現れた。
“ソレ”と対峙していたブイモン達の視界の端に、それは映った。
ずる、べちゃ……
暗い森の木々の間から太陽の下に姿を現したそれを見た時、大輔と賢とブイモンは“ソレ”と対峙していた時よりも緊張した。
何故ならそれは生き物の形を保っていなかったからだ。
歩み寄ってきたその音を裏切らず、全身が黄土色のヘドロで覆われており、そのヘドロが絶えず地面に落ちてべちょりと不快な音を立てている。
ひ、と大輔と賢が同時に引きつった声を上げた。
──あ゛……ア゛ぁ……
声になっていない呻き声を出しながら、それはゆっくりと腕らしき部分を上げる。
ぼた、ぼた、ぼた、と腕にまで纏わりついているヘドロがダマになって地面に落ちる音がする。
「………っ!」
もう限界であった。
「「『ぎゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!!』」」
大輔と賢とブイモンは同時に悲鳴を上げて、今の今まで抱いていた緊張感やら恐怖やらがすぽーんと何処かへ行ってしまい、猛ダッシュしてその場から走り去っていった。
砂埃を巻き上げながら、あわあわって慌てふためきながら、大輔と賢とブイモンは走る。
後をついてくるかもしれないとか、動いたら攻撃されるかもしれないって思っていたのが嘘みたいに俊敏な動きであった。
「何だあれ何だあれ何だあれぇえええ!!」
「ししし知らないよぉ!」
『早く逃げ、逃げ、あばばばばば!』
パニックに陥っている大輔と賢とブイモンが喚きながら、何処へ向かっているのかも分からずに走る。
後ろを振り返る余裕もなく、2人と1体は真っすぐ前を見つめて懸命に足を動かした。
どれぐらい走ったか分からないぐらい走って、走って、走って、2人と1体の目に飛び込んできたのは大きな滝だった。
とりあえずあそこに逃げ込もう、と誰ともなく思って疲れ始めてきた足を叱咤しながら、2人と1体は滝の裏側へと逃げ込む。
それがいけなかった。
「……え、アグモン?」
『ダッ、ダイスケ!?』
滝の裏側に逃げ込んだ2人と1体が見たものは、信じられないものであった。
息を切らして膝に手をついて、バクバクしている心臓を静めるために深呼吸をしようとしていた大輔達だったが、そこには檻の中に閉じ込められている数十体ほどのコロモンと、1つのデジたま、それから地に伏しているアグモン、それから見たことのないデジモンが2体いた。
灰色の体毛と、ウサギのような耳、それから鋭い3本の爪と意地の悪そうな赤い眼は、何処となくパグモンを思い起こさせた。
突然乱入してきた大輔達に、アグモン同様唖然としている。
『ア、アグモン、どうしたんだ、これ……』
『ブ、イモン、これ、全部、嘘だったんだ!あそこ、やっぱりコロモンの村だったんだよ!パグモン達が乗っ取ってたんだ!』
『……どういうこと?』
ブイモンはアグモンが言っていることが分からなくて、頭上に沢山の疑問符を浮かべている。
無理もない、ブイモンはこの1週間近くほぼ毎日眠りについていたのだ。
時折目を覚ましてはいたものの、完全に覚醒していたとは言い難く、うつらうつらと舟を漕いでばかりで、本格的に目を覚ましたのはつい先ほどである。
しかし大輔と賢は、アグモンの言いたいことを理解した。
「ま、マジかよ!」
「パグモンの村じゃなかった!?それに、そこのデジたま……!僕の!」
『ちっ、バレちゃしょうがねぇ!』
灰色のデジモン……ガジモン達は構える。
大輔達がここに来るまでに大分痛めつけられていたらしいアグモンは、ボロボロになった身体を何とか起こして、ブイモンの隣に並んだ。
これで2対2だ。この場に太一はおらず、アグモンは進化出来ないが、ブイモンなら進化することが出来る。
つい先ほど遭遇した、恐ろしいものはすっかり大輔達の頭から抜け落ちていた。
『行くよ、ブイモン!』
『おう!……っ!?』
アグモンの勇ましい掛け声とともにブイモンも1歩前に踏み出したのだが、その瞬間ブイモンの世界と視界がひっくり返る。
脳みそを揺さぶられるような感覚に襲われ、その場に両膝と左手をついた。
ぐらぐらする視界のせいで頭が重く感じ、右手で支えるように添えるブイモンを見て、大輔達は驚愕する。
「ブイモン!?」
「ど、どうしたの!?」
『ブイモン!』
『……っ、ご、め……きゅうに、ねむく……!』
目の前がぼやけ、呼吸が浅くなるのが分かった。
覚醒したはずの意識が、急に引きずり降ろされる感覚に陥ったブイモンに、再び眠気が襲い掛かってきたのである。
どうして、先ほどまで目は冴えていたのに。
懸命に瞼に力を入れるが、襲い掛かってくる眠気はそれを嘲笑うかのようにブイモンを眠りに誘ってくる。
せっかく2対2になれたのに、とアグモンは焦燥感に苛まれる。
ガジモンはにやりと嗤った。
『とんだ助っ人だったなぁ!え?来て早々戦えないなんてよ!』
『これで1対2に逆戻りだ!残念だったな!』
「なっ……ひ、卑怯だぞ!」
ニタニタと卑しい嗤いを浮かべるガジモン達に、大輔は吠える。
アグモンのボロボロ具合から、大輔達が来るまで2体がかりでずっとアグモンのことを甚振っていたのは、誰の目から見ても明らかだ。
何故アグモンが太一と一緒におらず、1体だけでこんなとこにいたのか、それはこの際置いておくとして、何らかの方法でこの場所にコロモンがいることを突き止めたアグモンは、太一達に知らせる前にコロモン達を助け出そうとしたところを、ガジモン達に見つかって袋叩きにあったのだろう。
ブイモン達が駆けつけた時に、一瞬だけ曇らせていた表情は、今は晴れやかだった。
弱い者を甚振り、虐めるのが大好きなガジモンは、大輔に卑怯と罵られても平然としていた。
『何とでも言え!お前達はエテモン様に捧げることが決まったんだ!』
「……エテモン?」
聞き慣れない名前に、賢が眉を顰める。
ガジモンは、鼻を鳴らして賢を莫迦にしたように見た。
『この世を支配するに相応しい、俺達のボスだ!もうすぐここにいらっしゃる。その時がお前らの最後だ!』
下品な笑いが洞窟内に響き渡る。
大輔は歯を食いしばり、賢は息を詰まらせた。
アグモンはボロボロで立っているのがやっと、ブイモンは再度襲ってきた眠気と戦っているし、賢のパートナーはまだ物言わぬデジたまで、ガジモン達に奪われている。
檻の中に捕らわれているコロモン達も、戦力にはならないだろう。
まさに四面楚歌、絶体絶命である。
太一達がこちらに向かってきてくれるのを祈るしかない。
しかし悪意は蛇のように地面を這い、他の子ども達にもその毒牙を向ける。
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