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その当時ヒカリを構成していたのは、兄の背中と世界の半分だった。
先へ先へと走って行ってしまう兄は、後ろからついてきている妹のことなんかいつもほったらかしだった。
待って、といつも言っているのに、お兄ちゃんはお前がついてこいよと言わんばかりにどんどん先へ行ってしまう。
小さいヒカリよりは大きいけれど、それでもまだ兄として未熟な兄は、まだ“兄”が何たるものなのかをよく理解していなかった。
自分より小さい、ぐらいの認識でしかなかった。
面倒をみなければならないという発想に至ることはなかったし、ましてや一緒に遊ぶという選択肢すら浮かばなかった。
まだ7歳の彼にとって重要なのは、友達と遊ぶことだったのだ。
ヒカリは女の子で、兄は男の子。
見た目通り活発で、身体を動かす遊びが大好きな兄と違って、ヒカリは絵本を読んだり絵を描いたりするのが好きだから、ヒカリと遊んでもつまらないのである。
だが幸か不幸か、ヒカリは自分よりも他人を優先するきらいがあった。
大好きなお兄ちゃんとどうしても一緒にいたいヒカリは、絵本もお絵かきも我慢してお兄ちゃんの後を追ってお外に出る。
お兄ちゃんがお友達とサッカーしているのを離れて見たり、お友達がいない時は一緒にサッカーをさせてもらったりする。
ヒカリは身体が丈夫とは言い難い体質だった。
季節の変わり目にはいつも風邪をひいていたし、その度に寝込むほど、身体が弱かった。
それでもヒカリは、自分ではなく他人を優先していた。
どんなに体調が悪くとも、相手が楽しそうにしているのを邪魔したくないといつも我慢していた。
そのせいで後に兄とヒカリが悲劇に見舞われてしまうのを、ヒカリはまだ知らない。
ひょんなことから仲良くなった男の子と姉弟は、約束通り公園に来ていた。
3人と早く遊びたくって、ついつい早起きしちゃったヒカリは、まだお外が薄暗いのを残念に思いながらまだかなまだかなってベッドの中でゴロゴロして、長い長い時間を持て余した。
大人からすればたった2時間のことだったけれど、まだまだ小さいヒカリには永遠の時に感じられた。
ようやく朝日が昇って、お母さんが起きなさいって声をかける前に飛び起きたヒカリは、お母さんが作ってくれた目玉焼きとトーストを一生懸命もぐもぐして、ご馳走さまって台所に持っていった。
いつものヒカリからは考えられないスピードで朝ごはんを食べ終えたから、お母さんはびっくりしていた。
お顔も洗って歯磨きもして、お母さんのブラシを拝借して短く切られて寝癖であちこち跳ねている髪を一生懸命梳く。
短すぎてびよんびよんと跳ねている髪は、ブラシで梳くだけじゃ全然直らなくって、結局お母さんに綺麗にしてもらった。
どうしたの、ってお母さんが聞いてきたけれど、ヒカリは答える時間ももどかしいと言わんばかりに、髪を整えてもらったら急いでお部屋に戻った。
入れ替わりに、ようやく起きてきた兄が部屋を出て行く。
うわ、と兄を押しのけるように入ってきたヒカリにびっくりして声を上げた。
お洋服が入っているタンスを開けて、どれにしようかなって悩むヒカリに、兄は何かあったのかと母に聞いたが、母も何も知らないので答えられない。
お気に入りの、クリーム色のワンピースを手にとってみる。
裾の方に可愛く細かいお花の刺繍がしてある、ヒカリのとっておきだ。
何処か遠いところにお出かけする時に必ず着るもので、ようやくできたお友達に見て見てってしたかったのだが、男の子の方はともかく姉弟は兄と同じで走り回るのが好きな子達だった。
お気に入りのワンピースで走り回ったら、汚れてしまうかもしれない。
早々に却下して、あーでもないこーでもないって悩みまくって、結局お外で遊ぶ用のお洋服を取り出した。
放り出したお洋服をタンスにしまい、お着替えをしてお砂場セットとパジャマを持って部屋を出る。
カラコロ、カラコロ、という音を聞いて、お母さんはまたびっくりしていた。
パジャマを洗面所にある洗濯籠に放り込んだヒカリは、元気よく行ってきますって言ってお家を出て行く。
お兄ちゃんが昨日シュクダイをしていて遊んでくれなかったから、今日はお兄ちゃんに1日べったりすると思っていたのに、ヒカリは兄に見向きもせずにお家を出て行ったのである。
兄も兄で、いつも鬱陶しいほどくっついてくるヒカリがさっさと出かけてしまったのを見て、唖然としていた。
お母さんとお兄ちゃんがそんな状態になっていることなんかつゆ知らず、ヒカリは公園へと急ぐ。
今日また一緒に遊ぼう、って約束したけれど、時間を決めていなかったことに気づかず、ヒカリは早くあの3人と遊びたくって、公園の入り口からひょこっと顔を覗かせた。
いた、兄とはまた違う、特徴的な爆発した髪の姉弟と女の子と見紛う顔立ちの男の子。
ヒカリはニコニコしながらお砂場セットをカラコロ鳴らして、3人に近づいて行く。
先に気づいたのは、男の子だった。
しゃがんで、昨日ヒカリがしていたみたいに砂山を作って遊んでいた3人だったが、カラコロという音で男の子が気づいたのか、顔を上げてヒカリを見つけた。
ヒカリに背を向けて遊んでいた姉弟に何か話しかけてヒカリの方を指さすと、姉弟は振り返ってヒカリを見た。
弟くんは花が咲いたように笑うと立ち上がり、たーっとヒカリに駆け寄ってくる。
遅れて、お姉さんと男の子も立って弟の後をついてくる。
駆け寄ってきた弟くんは、何か早口でまくし立てた後、ヒカリをぎゅーっとした。
突然ぎゅっとされたヒカリは、しかしよく分からずされるがままである。
ぽか、と小気味いい音がして、弟くんが離れた。
お姉さんが弟くんの頭を叩いたらしい。
頭を抑えながら弟くんが何か抗議して、それを見た男の子が苦笑している。
ごめんね、ってお姉さんにたどたどしく謝られたけど、何のことかわからないヒカリは首を傾げた。
まあいいや、ってヒカリは弟くんと男の子の手を取って、あそぼって言って4人でお砂場に戻る。
しばらくはお砂場で遊んで、飽きたらブランコや鬼ごっこやかくれんぼをしたり、滑り台を滑ったりして、たっぷり遊んだ。
お友達に会いたくって、ついつい早起きしてしまった時は永遠を感じていたのに、いつの間にか公園の時計は長い針も短い針もてっぺんを指していた。
お昼ご飯の時間である。
また後でね、ってお昼ご飯を食べたら遊ぶ約束をして、一旦4人は解散した。
いっぱい遊んだからお洋服は砂まみれだし、走り回って転んでしまったからズボンもちょっとだけ汚れてしまった。
お母さんに怒られるかも、とお家の前に着いてからちょっとだけヒカリは怖かったけど、ただいまーってドアを開けてお家に入ってきたヒカリの様子を見たお母さんは、何故かニコニコ笑っておかえりなさいってだけ返した。
あれ?ってヒカリは首を傾げたけれど、怒られないと分かって玄関を上がる。
お洋服は脱いでベランダに置いておきなさい、って言われたから言われた通りにして、新しいお洋服に着替えた。
少し遅れてただいまー、って兄の声がする。
おかえりなさい、ってお母さんの代わりにお出迎えすると、兄はヒカリなんか目じゃないぐらいドロドロに汚れていた。
一体どうしたらそんなに汚れちゃうの、ってぐらい汚れていたので、お母さんが怒っていた。
ヒカリが服を汚しても怒らなかったのに。
何度言っても聞かない息子と、ようやくお洋服を汚してくれた娘では雲泥の差であると、のちに母が語ってくれたが、今はまた今度。
お昼ご飯は焼きそばだった。
大人1人前では多すぎる焼きそばは、いつもなら兄と半分こしてもまだ余るぐらいヒカリは食が細い。
だが今日はいっぱいいっぱい遊んだせいか、お母さんとお兄ちゃんが目を丸くするぐらい、勢いよく焼きそばを掻っ込んでいた。
上に乗っかっている目玉焼きを潰して、焼きそばと混ぜるようにぐちゃぐちゃして、お皿を持って焼きそばを頬張る。
いっぱい遊んでお腹が空いたから、いつもなら残してしまうヒカリは全部平らげた。
ごちそうさまでしたをして、少し休んだら歯を磨いて、また公園へと向かう。
次は何をして遊ぼうかな、とわくわくしながら公園に行ったら、増えていた。
姉弟と男の子の傍に男の子とよく似た黒髪のお兄さんがいた。
黒髪のお兄さんは、お姉さんや兄と同じぐらいに見える。
いつもなら知らない人を見ると委縮してしまうヒカリだが、姉弟と男の子が一緒にいるせいか、不思議と怖いと感じなかった。
それどころか、あのお兄さんは誰だろう?と言うちょっとわくわくとした気持ちが湧いてきた。
お砂場セットをカラコロと鳴らしながら、ヒカリは4人に近付いていく。
弟くんは、すぐに気づいてくれた。両手を思いっきり振って、全身でアピールしている。
それによりお姉さんとお兄さん、それから男の子も気づいてヒカリの方を見る。
男の子がヒカリを指さしながら何かを話していた。
合流したヒカリに、こんにちは、ってお兄さんが柔らかく微笑みかけてくれた。
こんにちは、って頭を下げる。
仲良くなった子なんだよって紹介してたの、って男の子がにこにこしながら教えてくれた。
そっか、ってヒカリもにこにこする。
何をして遊ぼうか、ってヒカリが言う前に、お兄さんがサッカーボールを差し出してくれた。
何をして遊ぶのか、満場一致で決まった。
何かに呼ばれた気がしたヒカリは、目を覚ましてベッドを抜け出す。
暗いお部屋は兄と共同で使っているため、灯りをつければ兄は間違いなく目を覚ましてしまうだろう。
だから怖いけど、ヒカリは部屋のヒカリをつけずに出入口まで移動する。
窓から差し込む優しい月の光は満月で、灯りをつけずとも十分光源としての役割を果たしていた。
背伸びをして、ドアレバーに手をかける。
かちゃり、とラッチが音を立てて、部屋の扉が開いた。
ぎい、蝶番が鳴る。扉の隙間から顔を覗かせたヒカリは、窓から差し込む青白い月の光で灯されたリビングを見渡した。
見慣れたはずのリビングに、人工的な白い光がないだけで知らないところに見えた。
ごくり、と息を飲んだヒカリは、首から下げていた宝物のホイッスルを手に持つ。
震える手で持ち上げ、口に咥える。
ぴぃ、と弱弱しい音を鳴らせば勇気づけられた気がして、ヒカリは意を決して部屋を出た。
お父さんの書斎は、リビングを通って子ども部屋の真正面にある。
とたとたとた、と小さくて短い脚を一生懸命動かして、早足でお父さんの書斎に向かった。
かちゃり、開ける。お父さんはまだ帰ってきていない。
なのにパソコンの電源がついており、ディスプレイが眩しく光っていた。
誘われるようなフラフラとした足取りで、お父さんのパソコンに近づく。
ヒカリの家族は、お父さん以外パソコンを使えないから、パソコンが使えるはずがないのだが、この時のヒカリはそれを知らない。
じ、とパソコンのディスプレイを見つめる。
ディスプレイの向こうから、何かが出てこようとしているのを感じたヒカリは、口に咥えていたホイッスルを離した。
「ヒカリ、何やってるんだ?」
兄が背後から声をかけてきたのは、その時だった。
「……………たまご」
そうヒカリが呟いたことが合図だったように、硬いはずのディスプレイが水飴のように柔らかくなって、何かが飛び出してくる。
ヒカリは、それに手を伸ばす。
そして……。
朝早くから出かけるお母さんの声を遠くから聞きながら、兄は眠い目を擦って起き上がる。
二段ベッドの上からはしごで降りて、ヒカリを起こそうとしたが、ヒカリが腕に抱いている“ソレ”を見てギョッと目を見開いた。
急いでお母さんを呼んだが、もう既にお母さんは外に出ていて、兄の声はガシャンという扉が閉まる音で遮られてしまった。
だから兄は仕方なく眠っているヒカリを叩き起こす。
ヒカリの腕に抱かれていたのは、卵だった。
お母さんの代わりに朝ご飯の用意をしていた兄は、ヒカリが後生大事に抱いている卵をどうするのかと尋ねる。
宝物のホイッスルを返事代わりに吹いた。
兄は兄らしく、卵の処遇をどうするのかと悩んでいたが、ヒカリにはどうでもよかった。
だって感じるのだ、卵の温かさを。
彼女の身体程もある大きな卵を抱きかかえて、そっと顔を添えてみれば、ドクン、ドクンって命の声が聞こえてくるのだ。
だから大きな目玉焼きにするなんてとでもない。
兄が揶揄いながら言うから、ヒカリは笛を吹いて抗議した。
ご飯を食べようとした時に、卵を落としてしまうという失態を犯したのだが、パソコンから出てきただけあってその卵は本当に不思議な卵だった。
落とした卵を拾おうとして、椅子から降りたヒカリだったが、卵はまるで意志を持っているかのようにころころと転がって、彼女から逃げていく。
ころころ、ころころ。
テーブルの下を潜ったり、自分の分の朝食を作り終えた兄が椅子を片そうとして持って行く前を横切ったりして、卵は逃げていく。
慌てて後を追ったヒカリと兄が目にしたのは、文字通り自立した卵がぱきぱきと割れて、飛び出してきた黒いプニプニした、見たことのない生き物だった。
ぺちーん、と兄の顔に激突した黒いのは、びょんびょんと角にぶつかっては跳ね返って暴れる。
咄嗟に抱え込もうとしたヒカリだったが、黒いのは猛スピードでベッドの下に潜り込んでしまった。
兄が慌てふためく中、ヒカリはベッドの下を覗き込んで様子を伺う。
低く唸って威嚇していた。警戒しているのか、怖がっているのか。
いずれにしても落ち着かせてやらなければならない。
が、それよりも先に兄が、首から下げていたゴーグルを外して、黒いのに投げつけてしまった。
そんなことをすれば余計に怖がるのに。
案の定、黒いのはビックリして、大量の泡を吐いた。
うわ、って兄は壁際まで後ずさって逃げる。
でもヒカリは、逃げなかった。
ぱちぱち、と吐かれた泡が弾けて消える。
ぴ、
ホイッスルを鳴らした。
ぷくぷく、
それに合わせて、黒いのが泡を吹く。
ぴ、ぴ、
ぷくぷく、ぷくぷく、
ホイッスルを吹く度に、黒いのがそれに合わせて泡を吹く。
楽しくって、面白くって、ヒカリは何度も笛を吹いて遊んだ。
たくさんの泡が、開いた窓から風に乗って空へ逃げていく。
団地に住んでいるたくさんの子どもが、それを目撃していた。
お腹が空いていたのか、ヒカリが持ってきたお菓子をすべて平らげてしまった黒いのを、兄は未だに訝し気に見ている。
どうしてかな、こんなにプニプニしてて可愛いのに。
この子は、彼女の“子ども”だ。
彼女が大切に大切に抱きしめて温めた卵から産まれた、彼女の“子ども”なのだ。
可愛がるのは当然だし、兄が変な名前を付けようとするのを止めるのも、“親”としての義務である。
ヒカリは、黒いのを母のように愛おしげに抱きしめた。
電話が鳴る。兄がはーいって言いながら電話を取るために離れていく。
しばらく黒いのを抱きしめていたヒカリだったが、ふと思いついた。
──みんなにも見せたい。
そうと決まれば、ヒカリは黒いのを抱き上げて、玄関へと向かった。
電話を切った兄は、ヒカリが目の前を横切って玄関に向かって行ったから、流石に止める。
でもヒカリの頭の中はお友達に見せたいという思いでいっぱいだった。
兄の手を振りほどいて、玄関に座って脇に黒いのを置き、靴を履く。
もう一度抱き上げて、ヒカリは玄関の扉を開けて、出て行った。
少し遅れて、兄も家を出る。
日頃からお母さんに言いつけられていることを護るために、玄関の鍵をきちんと閉めた。
エレベーターで追いついたので、一緒に乗る。
ちーん、と音がして1階について、ロビーを出て行った。
目指すは、公園である。
てってって、と足取り軽く公園へ向かうヒカリに、兄は怪訝な表情を向ける。
いつもなら兄と一緒に公園へ行くか、お部屋で絵本を読んだりお絵かきしたりしているのに、この2日間は公園で遊んでいる。
それも、食の細くていつもご飯を残してしまうがご飯を残さないどころか、お替りを要求するほど。
引っ込み思案だった娘に変わりように、両親は喜んでいたけれど、一番身近な存在である兄は首を傾げていた。
いっつもいっつも兄の後ばかりくっついてた妹が、2日連続で兄には目もくれずに公園で遊ぶようになったのだ。
大人は察することができても、まだ7歳の兄には難しいことだった。
そもそも引っ込み思案なヒカリは、自ら友達の輪に入ろうとする積極性もない。
だから、公園に着いたヒカリが辺りを見渡し、両手をぶんぶん振り回している男の子を見つけて、真っ直ぐかけて行ったのを見た時は仰天してしまった。
ぼさぼさの髪の男の子がたーっと駆けつけて、ヒカリをぎゅっと抱きしめたもんだから、兄は悲鳴を上げて慌てて引き剥がした。
きょとんとするぼさぼさの髪の男の子と、抗議の目を向けるヒカリ。
遅れてやってきた姉らしき女の子が、ごめんねってたどたどしく謝ってきた。
続いて、黒髪の兄弟らしき男の子2人、兄と同い年の方は眼鏡をかけている。
見かけない子ばかりだったけれど、兄弟の方は近所に住んでいるらしい。
学校が違うから、知らないのも無理はなかった。
姉弟の方は全く知らない言葉を2人して喋っていたので、兄は目を白黒させた。
幸い兄弟の兄の方がちょっとだけ姉弟の言葉が分かるらしく、通訳してもらうとアメリカという国に住んでいるらしい。
同じ日本人だけど、女の子の方は生まれてすぐアメリカに渡り、男の子の方はアメリカで生まれたから、日本語は全く分からないそうだ。
ふーん、って兄は4人を見渡す。
ヒカリと弟達は、ヒカリが連れてきた黒いのに夢中できゃあきゃあとはしゃいでいた。
兄は、目をぱちぱちさせた。
あんなに引っ込み思案で、誰かと喋るのが苦手だったヒカリが、あんなにも楽しそうに笑っている。
この2日間、ヒカリが1人で公園に向かっていたのは、恐らく彼らと遊ぶためだろう。
何だよ、それなら俺も誘えよ、と兄がむくれるのも致し方なし。
だって眼鏡の男の子が持っているのは、兄も持っているものだ。
白と黒で彩られた、サッカーボール。
君もサッカーするの、って聞けば、君も?って返ってきた。
だからヒカリと弟達が黒いのに夢中になっている間、兄と眼鏡の男の子と女の子はサッカーボールを追いかけることにした。
それなぁに、って男の子に尋ねられたけれど、彼女は何と答えていいものか考えあぐねる。
黒いのは、卵から産まれた。その卵は、パソコンから出てきた。
名前は知らない。犬でも猫でも鳥でもない、図鑑でも見たことがなかった。
何だろうね、ってみんなでじっと見下ろしていると、黄色くてつぶらな目をぱちぱちさせながら黒いのが3人を見上げる。
でもその内考えることに飽きた3人は、まあいっかって3人と1匹で遊び始める。
3人で代わる代わる抱っこして触り心地を楽しんだり、一緒にブランコに乗ったり、滑り台を滑ったり、かくれんぼや鬼ごっこもしたし、黒いのが吐き出した泡を追いかけたりもした。
その日は、満月だった。
不思議なこと、怪奇なことが起こる日は、必ずと言っていいほど満月の夜であることが多いと言われている。
昼間に兄と、兄弟と、姉弟と、黒いのといっぱい遊んだヒカリだったが、異変を感じて目を覚ました。
沢山沢山遊んだから、今日は熟睡すると思っていたけれど、ヒカリは元々眠りが浅い子で、僅かな物音で目を覚ましてしまうのだ。
だから隣にいるコロモンが呻きながら震えていることに気づくのも、必然であった。
コロモンは、昨日の夜にパソコンから出てきた卵から産まれた、あの黒い子が変化した姿だ。
最初は黒くて黄色い目で、牡丹餅みたいな形をしていたのに、みんなと遊んでいたらいつの間にか姿が変わっていたのだ。
大きさは黒いのの2個分ぐらいで、色はピンクになっていて、頭に長いひらひらしたのがついていて、おめめはウサギさんみたいに真っ赤になっていた。
ヒカリもみんなも驚いてはいたけれど、でもピンク色のは黒いのと変わらず人懐こくて、遊んで遊んでって全身を使って表現してきたので、なあんだってみんな安心して遊びを再開させた。
コロモン、という名前が判明したのは少し後だった。
それまでうんともすんとも喋らなかったのに、みんなと遊んでいたら突然喋れるようになって、みんなとってもびっくりしたものだ。
それでも、姿形が変わっても、言葉が喋れるようになっても、ヒカリが孵してあげた卵から産まれた、ヒカリの子であることに変わりはない。
いっぱい遊んだヒカリ達は、また明日遊ぼうねって約束して夕方の鐘を合図にお家に帰る。
帰宅して、手を洗ってうがいをして、部屋に入った直後にお母さんが帰ってきたときは、お兄ちゃんが変な動きをしていたけれど、ヒカリは一切気にせずにピンク色を抱きしめていっぱいお喋りした。
明日も同じ日が来ると信じて疑っていなかった小さな心に、亀裂が生じたのは数時間後。
夕飯のカレーを食べて、お母さんの目を盗んで兄と2人でこっそりカレーをコロモンにも食べさせてあげた。
美味しい美味しい、ってコロモンは嬉しそうに笑っていた。
お顔がカレー塗れになってしまったから、お兄ちゃんと2人でコロモンを隠しながらお風呂に連れて行って、みんなでシャワーを浴びた。
肩まで浸かって湯船に溜まったお湯に入った時、熱すぎたのかコロモンが悲鳴を上げそうになっていたけれど、兄がそれを阻止した。
身体を拭いてやって、またこっそり部屋に連れて行き、トランプとかカルタをやって時間を潰す。
お母さんにもう寝なさいって促され、2人と1匹はベッドに入った。
またあした、おやすみなさい。
その時のコロモンは何も変わった様子はなかったのに、一体どうしたのだろう。
顔色が悪い。ピンク色の身体に青いのが混ざって、おかしな色になっている。
パニックに陥りかけたヒカリは、慌てて2段ベッドの上にいる兄をホイッスルで叩き起こした。
しかし兄にも心当たりや原因が分からないらしく、様子のおかしくなったコロモンをただ唖然と見つめているだけだった。
その直後である。
ばきばき、めり、という音を立てて、突然ベッドが沈んだ。
かと思えばヒカリの布団が大きく膨れ上がり、兄が寝ている上のベッドも突き破ったのである。
布団がずり落ちる。
中から現れたのは、コロモンではなかった。
卵から産まれた直後の黒いのでもなかった。
それは、兄が持っている恐竜の図鑑に出てきた、ティラノサウルスによく似ていた。
黄色い身体に緑の目、鋭く伸びた爪が3本ずつ。
ベッドを破壊して現れた黄色い恐竜に、兄は言葉を失っていた。
酔った父親の声を聞きつけた兄が、慌てて扉のレバーを押さえつけるが、ヒカリはそれどころではなかった。
のっそりと動きだしたコロモンが、どすどすという音を立てて窓辺に歩み寄る。
外に出たがっているのだろうと悟ったヒカリは、窓を開けてコロモンの背に飛び乗った。
兄の声が背後から聞こえてきたけれど、ヒカリはそれに答えず、窓から飛び降りたコロモンの背中に、必死にしがみつく。
車をぺしゃんこにする勢いで着地したコロモンは、高所から飛び降りたことも感じさせずに、けろりとした様子で歩き出した。
人工的な明かりに照らされた夜の道は、昼間とは全く違う顔を見せており、ヒカリは息を飲む。
しかしコロモンはその歩みを止めず、何処へ行くでもなく進んでいくから、ヒカリは何も言わない。
お母さんと一緒に買い物に行く道、お兄ちゃんとお散歩した遊歩道、みんなと遊んだ公園までの並木道。
コロモンは背中に乗っているヒカリを気にも留めず、ただただ本能がままに歩いている。
「……コロモン、もうおはなししてくれないの」
黙り込んでしまったコロモンは、もうヒカリを見てくれない。
どうして、このこはひかりのこなのに。ひかりのこどもなのに。
ひかりがあたためてうまれてきた、だいじなこなのに。
やがてヒカリは、ヒカリとコロモンの決定的な違いを見せつけられることになる。
所詮、コロモンはコロモンであり、ヒカリの子ではないのだ。
理性を失った獣に成り果てたコロモンは、最初に自販機を破壊した。
その鋭い爪で貫いて、力を誇示するようにぶっ壊してしまった。
自販機から転がり落ちるジュース。ヒカリは慌てて拾い上げようとするが、同世代の中でも小柄なヒカリでは缶ジュース1本すら持て余してしまう。
どうしよう、どうしよう、おまわりさんにおこられちゃう。
そんなことを思いながら缶ジュースを拾おうとしているヒカリの心情など露知らず、自販機に勝ったコロモンは興味を無くしてさっさと先に行ってしまった。
唖然としながらも、まだコロモンとは心が繋がっていると信じていたヒカリは、その後をついていく。
次に興味を示したのは、車だった。
深夜とは言え、我が家に向かうための車は数台ほど行きかっている。
車が通るたびに、コロモンはきょろきょろと辺りを伺うかのように車を追いかけていた。
そして、ヒカリは見てしまう。
直前まで近づいてきたトラックに気づかなかったコロモンだったが、大きく跳躍してそれを避けたかと思うと、大きな口をがぱっと開けて、トラックに向かって炎を吐き出したのだ。
ぎょっとするヒカリ。
炎はトラックには当たらず、電話ボックスに辺り爆発、黒煙を上げながら炎上した。
響き渡る破壊音。
ヒカリは悟ってしまう。
圧倒的な力を持ったコロモンは、その気になればヒカリのことだってぺしゃんこにしてしまうことぐらい、簡単なのだと。
ヒカリのお部屋から飛び降りて、車をクッションにしたとは言え無傷だったことからも、コロモンはただの生き物じゃないことは何となく分かっていた。
でもあんなに仲の良かったコロモンが、みんなと一緒に楽しそうに遊んでいたコロモンが、こんな風になってしまうことをヒカリは信じたくなかったのだ。
ただただ本能がままに炎を吐き、頑丈なはずの電話ボックスを一瞬で破壊してしまうほどの強大な力を持つコロモンは、最早ヒカリの子ではない。
炎上する電話ボックスから目を離せないヒカリは、しかしそれでもコロモンから逃げようとしなかった。
「コロモン、ねえ、コロモン、止めて!ねえってば、ねえ!」
ヒカリの懇願は、コロモンの耳には届かない。
空を飛んでいる飛行機に気づいたコロモンは、炎を吐いた後それを追いかけていく。
「コロモン……もうお家帰ろう……?」
コロモンには届かない。
ヒカリの必死の声など、困惑した言葉など。
獣に成り果てた生物には、もう言葉は通用しない。
響き渡る爆音と轟音。
眩い光の筋が走る。
大きな鳥が、コロモンを傷つけようとする。
何度呼びかけても答えてくれないコロモンを、しかしそれでもヒカリは信じて呼びかけ続けた。
迎えに来た兄を振りほどき、コロモンと一緒に帰ろうとする妹を、兄は苦しそうな表情で見下ろすしかない。
走った電流が、ヒカリ達がいる歩道橋を破壊する。
砂埃と瓦礫が、ヒカリ達に襲い掛かる。
兄の悲鳴。瓦礫の向こうでヒカリを呼ぶ誰かの声が聞こえた気がした。
その光景を、大勢の子どもが見ていた。
異変を聞きつけて、察知した子ども達は、ある子は自室の窓やベランダから、ある子はリビングの窓から、そしてある子は親の目を盗んで玄関を出た廊下から。
1人の子どもが、異常を知る。
あらゆる電子機器がノイズを走らせながら、狂っていくのを。
電気が点滅したり、電子レンジが故障したり、でたらめな番号から電話がかかってきたり。
しかしこれほどまでに異常をきたしているというのに、大人達は誰1人として気づかない。
あ、という声を漏らしたのは、誰だっただろう。
舞い上がる砂埃で目を開けていられず、吸い込んだ息に混じった粉塵で喉をやられ、兄とヒカリは激しく咳き込んだ。
しかし、ガラガラという瓦礫の音がしたにも関わらず、兄妹の身体はぺしゃんこになっていない。
そろそろと顔を上げると、人工的な明かりを遮っていた、不自然に大きな影が出来ていた。
コロモンが、また大きくなっていたのだ。
今度はもっともっと、周りのマンションぐらいの、大きな恐竜に。
まるで自分達を護るように覆いかぶさっていたのだ。
それはまるで、友達同士の抱擁のようで、兄は真っすぐコロモンを見つめる。
コロモンが初めてコロモンになった時、コロモンは頭についているひらひらとした触手を使ってヒカリの顔に飛びついて、しがみついてきたのである。
兄は、最初はヒカリを食べようとしたのだと勘違いして投げ捨ててしまったが、後にそれがコロモンの挨拶なのだと知った。
友達の印だと。
言葉を喋れるようになったコロモンが、パートから帰ってきたお母さんが夕飯の準備をしている時に教えてくれたのである。
理性を失い、ヒカリと兄のことなど忘れてしまったかのようだったコロモンは、ちゃんと覚えていたのだ。
じわじわと、兄の心の奥から何かが沸き上がってくる。
身体に乗っている瓦礫を振り落としながら、大きくなったコロモンはヒカリ達を踏みつぶさないように慎重に立ち上がる。
空を突き破って生まれてきた、鸚鵡のような巨大な鳥に向かって、大きく咆哮した後青白い炎を吐いた。
飛び立とうとした大きな鸚鵡の翼が、炎に貫かれてもがれてしまう。
無数の抜け落ちた羽根が舞い、鸚鵡はその場に倒れ込んだ。
突進していくコロモンは、立ち上がろうとしていた鸚鵡をヘルメットのような角で突き上げるように押す。
コンクリートの地面を抉りながら踏ん張る鸚鵡。
停車している車が、歩道を護るガードレールが、一瞬にして破壊されていく。
「いや、いや、いや!コロモン、ねえコロモン!かえろう!おうちかえろうよぉ!!」
ヒカリは、とうとう泣きだしてしまった。
もうあのコロモンはヒカリの知っているコロモンじゃない。
みんなと一緒に遊んでいたコロモンじゃない。
ヒカリの知っている風景を、日常をぶち壊す、あの大きな鸚鵡と一緒だ。
泣くことで、ヒカリはコロモンを拒絶してしまった。
それでもヒカリは、コロモンの名を呼び続けた。
戦いは激しさを増すばかりだった。
周りを巻き込み、破壊しながらコロモンは鸚鵡と戦い、やがて蹂躙される。
大きな音を立てながら、兄とヒカリの前でぐったりと倒れこむ。
必死に手を伸ばすヒカリを、兄は羽交い絞めにして止めた。
倒れているコロモンに、鸚鵡が容赦なく歩み寄ってくる。
兄も必死にコロモンに呼びかけた。
しかしコロモンは目を覚まさない。
他の子ども達も、固唾を飲んで見守っている。
「コロモン!起きてよ!ねえ、コロモン!!」
兄は呼びかける。コロモンは起きない。
兄の脳内には、みんなで一緒に駆け回ったコロモンの姿。
兄の目から涙が溢れた時、弱弱しい笛の音が聞こえた。
それは、ヒカリがいつも首から下げているホイッスルだった。
泣きながら、しゃくりあげながら笛を吹き、ヒカリはコロモンを呼び起こそうと必死だった。
コロモンが生まれた時、コロモンは怖がってベッドの下に逃げ込んだ。
ヒカリはそんなコロモンに、怖くないよ、大丈夫だよっていう意味を込めてホイッスルを吹いた。
やがて警戒心を解いたコロモンはベッドの下から這い出てきて、ヒカリの腕に抱っこされたのだ。
それを思い出したヒカリは、懸命にホイッスルを吹く。
しかし泣いているのとしゃくりあげているせいで、上手く吹けない。
先程吸い込んでしまった粉塵で喉が渇き、また弱弱しく咳き込んだ。
もう1度吹こうとしたら、それを兄に取り上げられた。
耳元で鳴り響く、甲高い笛の音。
マンションに反響して彼方此方に飛んでいく。
この笛の音を、一体何人の子どもが聞いただろう。
限界まで吸い込んだ息を、限界まで吐き出せば、コロモンは目を見開いて飛び起きた。
大きく咆哮し、息を吸い、そして──
「……撃て!」
青白い光が、辺り一帯を包み込む。
熱風がヒカリ達に襲い掛かり、2人は、そして子ども達は咄嗟に目を閉じた。
ほんの、一瞬の出来事だった。
気づいた時には、全てが終わっていた。
そこにコロモンの姿はなく、そしてあの鸚鵡の姿もなく、ただマンションに阻まれた地平線の向こうが白み始め、朝を迎えようとしていた。
それでも、ヒカリ達の周りの惨状が、あれは夢ではないと突きつけていた。
抉れたコンクリートと、無残に破壊された歩道橋。
電流が走ったせいで黒焦げになっている街路樹。
「……コロモン」
取り残された兄妹は、その惨状を目に焼き付けるかのように、しばらくその場から動けなかった。
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