ナイン・レコード   作:オルタンシア

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約束の日──Side K──

.

 

 

 

 

 

その日、賢と兄は不思議な出来事と邂逅することになる。

 

 

 

 

 

絵本を読んだり絵を描いたりと、お家の中で遊んで過ごすのが好きな賢が外で遊ぼうと思ったのは、本当に偶然である。

見かけない女の子と姉弟と意気投合し、次の日も遊ぶ約束をした賢はお母さんがお仕事に出かけたのを見送ってから、ブレスレットを右の手首につけて、お砂場セットとお家の鍵を持って玄関に向かう。

このブレスレットはお母さんにおねだりして買ってもらった、細い革が2本、ねじり合って小さな水晶の玉がついているものだ。

賢はこれがお気に入りで、保育園に行く時以外はずーっと身に着けている大切なもの。

今日は春休みの真っ最中。お休みの日はいつもお兄ちゃんと遊ぶ賢が、珍しくお外に出ようとしているから、不思議に思ったお兄ちゃんが何処に行くのって尋ねてきた。

お砂場セットを持っているのだから公園に行くことぐらい、頭のいいお兄ちゃんならすぐに分かるはずなのに、賢が滅多にお外に出ないせいで混乱してしまったようだ。

新しいお友達が出来た昨日は、お兄ちゃんは塾があったためにいなかったのである。

お兄ちゃんにもお話ししようと思っていたのだが、その日は塾でテストがあったらしく、いつもより帰りが遅かったために賢は先に眠ってしまった。

お兄ちゃんとお話出来ないまま翌日を迎えた賢は、朝食をかきこむのももどかしく、口をもごもごさせながら遊びに行く用意をした。

行儀の悪いことをしている賢を、しかしお母さんはこらって咎めることもせずに、賢が持ってきたお皿を受け取って流し台でお皿を洗う。

そんなお母さんをしかめっ面で見やるお兄ちゃんに気づくことなく、賢は口の中のものを飲み込んで、洗面台に向かい、顔を洗ったり歯を磨いたりして準備をした。

お皿を洗い終わったお母さんが出かける頃、賢も準備を終えてお砂場セットを持って玄関に向かったところを、お兄ちゃんに見つかったのである。

そこでようやく、賢は新しく出来たお友達のことをお兄ちゃんにお話しして、お兄ちゃんが呼び止める間もなく玄関を飛び出していった。

午前中にたっぷり遊んだ賢は、お腹をいっぱい減らして帰ってくる。

お帰り、って置いてけぼりにされたお兄ちゃんが笑顔で出迎えてくれた。

お昼ご飯を用意して待ってくれていたお兄ちゃんは、出がけに賢が言っていた新しいお友達について尋ねる。

置いてけぼりにしてしまったことなんかすっかり忘れていた賢は、楽しそうにお友達についてお兄ちゃんに教えてあげる。

女の子が2人と、男の子が1人。賢と同い年の男の子と女の子で、もう1人の女の子はお兄ちゃんと同じぐらいだそうだ。

昨日会ったばかりで、3人のことはよく知らないけれど、一緒に遊んでいてとても楽しかったから、今日も一緒に遊ぶ約束をしたのだそう。

お昼ご飯を食べたらまた遊ぶ約束をしたらしく、賢は急いでご飯をかきこんでいる。

慌ててご飯をかきこんだから、喉に詰まらせかけた賢をお兄ちゃんが苦笑しながら賢の背中を軽く叩いてあげた。

水で無理やり飲みこんで、でも賢は学習せずにまた急いでかきこむ。

 

「……僕も行っていいかい?」

 

ご飯を食べ終わり、出かける準備をしていた賢に、お兄ちゃんが遠慮がちに言った。

賢は、驚いた。

お兄ちゃんはいつも賢がすることをニコニコしながら見守ってくれるけれど、一緒に何かやろうと言い出すことはなかった。

そういうのは大体賢からお誘いしていたのだ。

お兄ちゃんから混ぜてって言うことは全くと言っていいほどなかったのだけれど、賢はお兄ちゃんが一緒に遊ぼうって言ってくれたのが嬉しくて、素直に頷く。

お兄ちゃんはパッと嬉しそうに笑って、自分の部屋へいそいそと戻り、誕生日に買ってもらったサッカーボールを持って賢と一緒に玄関を飛び出していった。

 

 

 

 

 

何だこれ。

それが賢の、そしてその場にいた全員の感想だろう。

賢がお友達になったホイッスルを首から下げた女の子と、知らない言葉を話す姉弟と仲良くなって1日近く。

たった1日近くしか出会っていないのに、長年の親友のように仲睦まじく遊んでいた彼らは、ホイッスルを首から下げた女の子が持ってきた“あるもの”に釘付けになっている。

“それ”は、黒かった。

“それ”は、小さかった。

お兄ちゃんと一緒にやってきた女の子の両腕にすっぽりと収まるほどの大きさで、黄色い円らな目をぱちぱちさせながら賢やお兄ちゃん、他のお友達をきょときょとと見上げている。

なあにこれ、って聞いたら、女の子はぱぱのぱそこんからでてきたの、って教えてくれた。

曰く、昨日の夜にパパのパソコンから出てきた卵を温めて、朝になったら孵ったのだそうだ。

何が生まれるのかな、ひよこさんかな、卵が大きいから大きなひよこさんかな、ってちょっとだけわくわくしていたら、全然思ってもいなかったものが生まれてきて、女の子はびっくりしたそうだ。

びっくりはしたけれど、ちっこくて可愛いし、全然怖くないから、お友達に見せたいと思って女の子はこの不思議な生き物を連れてきたそうだ。

確かに、と賢はその不思議な生き物をまじまじと見やりながら思う。

女の子の両腕にすっぽりと収まるほど小さいその不思議な生き物は、何処からどう見ても怖いとは思えなかった。

黄色い円らな目をぱちぱちさせながら賢達を見上げてくる黒いのを見て、すっかり警戒心が解けた賢達は、早速一緒に遊び始める。

お兄ちゃん達は何やらお話していたけれど、賢はそれよりもみんなで遊ぶ方が大事だった。

 

「ブランコ、のろう!」

 

賢達以外、誰もいない公園は遊具を独り占めしてもズルいって言葉は聞こえてこないし、お兄ちゃんもこらって言ってこない。

滅多に出かけない公園に3日連続で遊びに来た賢のテンションは爆上がりだ。

興奮で顔を赤くさせながら、女の子と男の子と一緒にブランコに行く。

女の子は黒いのを膝に乗せて座り、賢と男の子は立ってブランコを漕ぐ。

きゃあきゃあとはしゃぐ声が公園だけでなく、周りの集合住宅街に反射して響き渡る。

お話が終わったらしいお兄ちゃん達が、今日も持ってきたサッカーボールを追いかけているのが見えた。

 

ぷくぷく ぷくぷく

 

女の子が漕いでいるブランコが前の方に行ったとき、黒いのは口(見えないが)からシャボン玉をぷくぷくと吐き出した。

それを見た賢は、そう言えば公園に行く前に、何処からかシャボン玉が風に乗って飛んできたのが窓から見えたが、もしかしてあのシャボン玉はこの黒いのが出した奴だったのかなぁ、と思った。

その内男の子がブランコに飽きて、滑り台を指さしながら知らない言葉を発する。

賢と女の子はゆっくりとブランコを止めて、ぴょんと飛び降りると先に走って行った男の子の後を追う。

そして10分ぐらい、滑り台を延々と登っては滑るを繰り返した。

お兄ちゃん達はまだサッカーボールを蹴っている。

滑り台にも飽きた賢達は、黒いのが吐き出すシャボン玉を追いかけ始めた。

手を伸ばすとふわりと逃げていき、気づかぬうちに耳元に寄ってきてパチンと弾ける音でびっくりしてひっくり返る。

そしてまた黒いのがシャボン玉をぷくぷく吐いて、賢達は追いかける。

 

「ほんとうに、このこなんなんだろうね?」

 

シャボン玉を吐き出すことに夢中になっていた黒いのを見下ろして、改めて賢は口にする。

男の子と女の子も、黒いのの周りに群がるように賢と一緒にしゃがんで、黒いのをじっと見つめた。

黒いのはシャボン玉を吐き出すのが楽しいようで、それに気づかない。

つん、と男の子が躊躇も遠慮もなく黒いのをつつく。

ぷにょ、と程よい弾力の感触が男の子の指先に伝わった。

じーっと黒いのを見つめた後、男の子は何か言う。言葉は分からなかったが、ジェスチャーさえあれば何とかなるものである。

男の子が黒いのを指さしてから両手を差し出しているので、恐らく黒いのを抱っこしたいのだろう。

女の子は小さく頷いて、黒いのを差し出す。

男の子は黒いのを受け取り、ぎゅっと抱きしめた。弾力のある身体がむぎゅっと潰される。

ぷきゅ、と黒いのが鳴いた気がして、賢もその柔らかそうな身体を抱きしめたくて、男の子におずおずと両手を差し伸べる。

賢と賢の手を交互に見た後、察した!といった表情を浮かべて賢に黒いのを手渡した。

受け取った賢の手に、黒いのの感触が伝わってくる。

見た目はつるつるしていそうだった黒いのだが、ちょっとだけほわほわとした毛が生えていた。

賢の好奇心が刺激される。本当に、この生き物は何だろう?何処から来たのだろう?

お兄ちゃんが持っている図鑑でも見たことのない生き物に、賢の心はわくわくしていた。

もしかしてまだ誰も発見していない、“しんしゅ”の生き物かもしれない。

お父さんやお母さんに教えたら何て言うかな、と思いながらも、賢はそろそろ返してほしそうな女の子に黒いのを返した。

 

そうやって黒いのをぐるぐると互いに回していくこと、数分後。

 

 

「……え?」

 

最初に異変を察知したのは、賢である。

3人で輪になって、順番に黒いのを手渡すのが面白くてどんどん回していたら、きゅうにずしっとした重みを感じたのである。

ぱっちりとした赤い目と、目が合った。

へ?と間抜けな声を上げてしまったのは、致し方ないと言えよう。

つい先ほどまで、男の子の手の中で黒くちんまりとしていたはずの生き物は、賢の手の中で突然その姿を変えた。

“それ”は、ピンク色だった。

“それ”は、大きかった。

それをそう認識した瞬間、急に手のひらを重たく感じて、賢はつんのめりそうになった。

その前に賢の手のひらから黒かったピンク色がコロコロと転がっていったから、幸い転ばずに済んだ。

 

「……何これ?」

「……さあ?」

 

賢が宙に呟いた言葉を拾って、女の子が答えてくれたけれど無意味であった。

何故なら黒いのの正体も、誰も分かっていなかったのに、いつの間にか姿形が変わってしまったピンク色のことなんか、誰も分かるはずがない。

どうしよう?どうしよう?って3人で顔を見合わせていたら、ピンク色がぴょこんぴょこんとその場を跳ねながら、何かを訴えてきた気がした。

きょとんと見下ろしていると、ピンク色は頭のひらひらを女の子の腕に巻きつけてぐいぐいと引っ張っている。

もしかしてもっと遊びたいのかしらん?って思った3人は、サッカーボールを蹴って遊んでいるお兄ちゃん達の下へ行って、混ぜてもらうことにした。

黒いのがピンクに変わったことは、当然驚いていた。

 

 

 

 

 

夕暮れ時の鐘の音が鳴り響いている中、賢とお兄ちゃんはただいまって小さな声で玄関の扉を開ける。

お帰りなさい、って言うお母さんの優しい声が返ってきたので、賢とお兄ちゃんの肩が強張った。

急いで玄関を閉めてリビングに向かうと、お母さんが台所で夕飯を作っている。

もう一度、ただいまと気まずそうに言えば、もうすぐ夕飯が出来るから手を洗っていらっしゃい、っていう言葉が返ってきた。

表情は、笑顔。機嫌はよさそうだ、と判断した賢とお兄ちゃんは、小さく返事をして洗面所に向かった。

 

賢は、お家が好きじゃない。

いや、お家が好きではないというよりも、家の中に漂う淀んだ空気が嫌いと言った方がいいだろう。

料理上手でお仕事もバリバリ熟すお母さん、もうすぐ昇進するかもしれないお父さん、勉強が好きでテストでいつも100点を取っているお兄ちゃん、いつもニコニコしている賢の4人家族は、ご近所さんでも色んな意味で目立っていた。

というのも、夜になると毎晩のように騒がしいのだ。

騒がしいというのは、賑やかといういい意味ではなく、騒音という意味でだ。

毎晩のように女性のヒステリックな怒鳴り声がして、男性がそれを宥めるうちにどんどんヒートアップしていくのである。

夜中ということで流石に夫婦も配慮はしているが、少なくとも両隣は毎晩のように引き起こされている喧嘩に辟易している様子だった。

何度か管理人から注意を受けてはいるものの、なかなか改善される様子がなく、両隣はそろそろお引越しを検討しているという話は、誰も知らない。

 

ご飯を食べている間の会話は、ないに等しい。

お母さんの教育方針という奴で、ご飯を食べている時はそちらに集中すべきだと言うことで、テレビもつけていなかった。

つけても、ニュース番組ばかりで、バラエティーとかアニメとかもお母さんが家にいる間は殆ど見たことがなかった。

日曜日の朝にやっている、戦隊ものの特撮ヒーローでさえ、賢は見たことがない。

そのせいで幼稚園でもお友達の話題について行けなくて、1人でぽつんといることが多いのだけれど、幼稚園の先生もお母さんも、賢にお友達がいないという上辺だけを見て心配している。

 

「ご馳走様」

 

張りのない声で、お兄ちゃんが食事を終える。

お皿はお母さんが片付けるからそのままにして、お兄ちゃんは部屋へ戻る。

お母さんは何も言わずに、ニコニコしながらお兄ちゃんにお勉強頑張ってねとだけ言った。

お母さんはいつもそうだ。賢はむくれる。

お母さんはいつも、お兄ちゃんがお勉強に集中できるような環境作りをしている。

例えばお食事。身体にいいとされるものは何でも買って、野菜中心の食事。

お部屋のお片付けやお洋服を畳むのだって全部お母さんがやってくれている。

賢には、自分で出来ることは自分でしなさいって言うのに。

ごちそーさま、って賢も両手を合わせて自分の食器を台所に持って行き、軽く洗ってからお兄ちゃんと共用している子ども部屋へ向かう賢の背中に、お兄ちゃんの邪魔しないでねとだけお母さんは声をかけた。

態と返事をしないで部屋に入る。

お兄ちゃんは、勉強机に向かっておらず、2段ベッドの下の段にぼんやりと座っていた。

賢がそっと扉を閉めた音は、静まり返っている子ども部屋に、嫌に響いてお兄ちゃんは身体を大袈裟に震わせて我に返る。

 

「……お兄ちゃん?大丈夫?」

「……大丈夫だよ。心配かけたみたいでごめんね」

 

お兄ちゃんは時々、心が何処かへ飛んで行ったみたいにぼーっとしている時がある。

そして微かな物音を立てたり、賢が声をかけると、びくっと身体を震わせて何処かへ飛んで行っていた心が戻ってくるのである。

賢は洋服をぎゅっと握りしめた後、とてとてという音がしそうな足取りでお兄ちゃんに歩み寄った。

 

「……お兄ちゃん」

「……大丈夫だよ、賢。さて、母さんに内緒でこっそり遊んじゃおうか」

 

何して遊ぶ?って聞いてくるお兄ちゃんの顔が何だかとっても悲しそうで、賢は何と言えばいいか分からなかった。

 

 

 

 

 

静かな、夜だった。

 

煌めく星々は静まり返る街を照らすには光が小さすぎて、夜空に消えている。

車が通り過ぎる音すら聞こえず、賢は尿意を催して目を覚ました。

まだ眠いと訴える身体を徐に起こし、同じベッドで寝ていたお兄ちゃんを叩き起こす。

おにいちゃん、といれ。寝ぼけて籠った声でそう言えば、お兄ちゃんは枕元に置いておいた眼鏡を手探りで探し当て、引っかける。

大きな欠伸をしながら、お兄ちゃんはベッドから降りて賢の手を引いてトイレに付き合ってくれた。

子ども部屋から廊下に通じる扉のノブに手をかけたお兄ちゃんは、音を立てないようにそうっと、ゆっくりとノブを下ろした。

かちゃり、という音が嫌に響いて兄弟はぎくりと肩を震わせたけれど、それ以外の音が何も聞こえなかったので、小さく胸を撫で下ろして廊下に出た。

真っ暗な廊下。

電気をつけると目が冴えてしまうからと、お兄ちゃんは電気をつけずに窓から漏れる街の灯りを頼りにトイレへと向かった。

賢は、夜の廊下が好きではなかった。

概ね小さい子どもと言うのは、夜の時間帯は家ではあっても好きではないものだが、賢のそれは恐らく他の子どもの比ではなかったと思う。

何もないはずのところをじーっと見ていたかと思うと、泣きそうになりながらお兄ちゃんやお母さんにしがみつくことは日常茶飯事だったし、特に大きな音がしたわけでもないのに耳を塞いだり、不可解な行動をよくしていた。

最初は不思議に思っていたお兄ちゃんやお母さんだったが、そんなことをしょっちゅうしていればいつしか日常の一部となり、誰も気にしなくなった。

 

トイレを済ませて手をしっかりと洗い、お兄ちゃんもトイレをして一緒に戻ろうとした時だった。

 

 

どぉおおおおおおおおおおおおん!!

 

 

下から突き上げるような爆音と振動。

ぎゃ、と賢は小さな悲鳴を上げてお兄ちゃんにしがみつく。

地震のような振動が2秒ほど。

お兄ちゃんは賢を抱きしめてその場にしゃがむ。

揺れが収まり、お兄ちゃんはそろそろと顔を上げて辺りを見渡す。

頭を抱えてうずくまっていた賢が見上げたお兄ちゃんは、眉を顰めて不思議そうな顔をしていた。

立ち上がって賢から離れていき、リビングの窓へ一直線に走っていく。

賢も待ってと小さな声でお兄ちゃんに呼びかけながら後を追った。

ぺたぺたぺた。

程よい弾力のあるものが硬いものにくっついて離れていくような音を立てながら、賢はよちよち走る。

がらり、お兄ちゃんが窓を開けた。

びょお、と冷たいビル風が窓から屋内に入り込んでくる。

兄弟が下を覗き込むにはまだ高い塀に、お兄ちゃんはリビングから椅子を引きずってベランダに出した。

よじ登り、塀の下を覗き込んでいる。

お兄ちゃんは、何をしているのだろう。

お兄ちゃんと同じ景色を見たい賢は、お兄ちゃんが立っている椅子に駆け寄ってよじ登り、お兄ちゃんの前に割り込むように立って、そして兄弟は見た。

 

街灯に照らされた夜の街に浮かんでいたのは、オレンジ色のティラノサウルスと、大きな鸚鵡の怪獣。

 

オレンジ色のティラノサウルスは大きく咆哮を上げながら鸚鵡に突進していくのが見える。

周囲のお部屋から賢やお兄ちゃんと同じぐらいの子ども達が、同じようにベランダに出たり、窓から覗き込んだりしてオレンジ色のティラノサウルスと大きな鸚鵡の戦いを見守っている。

派手な爆音と轟音が辺りに鳴り響いているにも関わらず、大人達は起きる気配が全くなく、戦いを見守っている子ども達を邪魔する者は誰もいない。

お兄ちゃんはいつの間にか持ってきていた双眼鏡で、その戦いを見ていた。

僕も見たい、ってお兄ちゃんに双眼鏡を借りて、覗いてみる。

オレンジ色のティラノサウルスが倒れたところが見えた。

ああ、って近所から誰かの悲痛な声が聞こえる。

大きな鸚鵡が、頭の触覚からバリバリという電気の糸を出しているのが見える。

オレンジ色のティラノサウルスは起き上がる気配がない。

危ない、と何処かのマンションから、誰かが叫んだ。

 

 

ピィーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー………

 

 

ホイッスルの音がマンションの壁に反響し、夜空に吸い込まれるように余韻を残して消えていく。

一瞬の間を置いて、オレンジ色のティラノサウルスが目を覚まし、大きな咆哮を上げる。

………あ、

 

「賢!?」

 

お兄ちゃんの腕の中から飛び出した賢は、制止するお兄ちゃんの声も聞かずにリビングを真っすぐ突っ切って行き、靴をつっかけるように履いて玄関を出て行った。

ぎょっとなったお兄ちゃんは少し遅れて後を追ってきたが、賢は気にしている余裕はない。

エレベーターを待つ時間ももどかしく、賢は階段を駆け下りていく。

背後でお兄ちゃんが待ちなさい、って止めてくるけれど、賢は止まらない。

それよりも早く“あそこ”に行かなくてはと、賢の心が訴えていた。

途中で何度か転びそうになったけれど、賢の心が“早くあそこに行け”と急かしている。

あのオレンジ色のティラノサウルスがいる場所は分かっていたから、何処をどう行けばあそこに辿り着くのか頭に地図として入っていた。

早く行かなければ、“あそこ”に行かなければ。

 

走って、走って、走って、後少しで辿り着くというところで、白い光がそこを中心に広がっていくのが見えた。

あまりの眩さに、賢はうわっと短い悲鳴を上げながら立ち止まって、腕で顔を庇う。

すぐ後ろから追いかけていたお兄ちゃんも同様に。

数分という、思っていた以上に長い時間、光が辺りを包んでいた。

閉じた瞼の向こうで光が収まっていくのを感じた賢は、そうっと目を開ける。

そして賢の視界いっぱいに広がった光景は、信じがたいものであった。

この道はあまり使ったことがなかったけれど、それでも自分が住んでいる街が“破壊されている様を目の当たりにする”のは、かなりショッキングだった。

道路の上を横切る歩道橋は見るも無残な状態で、コンクリートは彼方此方抉れている。

歩道に植えられた樹々は薙ぎ倒され、周りのマンションの一部にも破壊された跡が見られた。

 

「これは……一体……」

 

後から追いついてきたお兄ちゃんもこの光景を目撃して、唖然としていた。

 

「コロモォン!」

 

女の子の声がする。

この数日間で仲良くなった、首からホイッスルを下げた女の子だ。

やっぱりそうだ、と賢は思った。

 

オレンジのティラノサウルスは、女の子が昨日連れてきた黒いのであり、ピンク色の不思議な生き物の、コロモンだ。

 

ホイッスルが鳴り響いた後に、大きく咆哮したティラノサウルスを見た瞬間、賢の脳裏に浮かんだのは一緒に遊んだあの生き物だったのである。

双眼鏡越しに見たあのオレンジのティラノサウルスとは、とても似ても似つかないものだったはずなのに、どうしてか賢は“コロモン”だと思った。

 

ぼく、コロモン。

 

一緒に遊んでいる最中に、突然言葉を発した、あのコロモン。

その証拠に、友達になった女の子が懸命にコロモンの名前を叫んでいる。

その近くに、お兄ちゃんと同い年の、女の子のお兄ちゃんがいた。

 

「あ……」

 

その光景をぼんやりと眺めていたら、後ろの方から声がして反射的に振り返る。

ゴーグルをかけた男の子と、そのお姉ちゃんだった。

どうやら賢とお兄ちゃんと同じように、この光景を目撃してここに来たらしい。

男の子と目が合う。……ああ、あの子も分かったんだ、と賢は思った。

あの子も、あのオレンジ色のティラノサウルスが、昨日一緒に遊んだコロモンだって、分かったんだ。

だからここに来たんだ。

でもどうしよう?賢は考える。

女の子に、何て声をかけようか。

コロモンの名前をずっと呼んでいた女の子は、やがて声をすぼめていき、めそめそと泣きだしたのだ。

女の子のお兄ちゃんが、泣きだした女の子を慰めるように傍に寄る。

賢も何か言おうとして口を開き、手を伸ばしたが後ろからポンと肩を叩かれた。

お兄ちゃんだ。

見上げると、お兄ちゃんはゆっくりと首を横に振った。

何も言うべきではない、とお兄ちゃんの目が語っていた。

一瞬迷った賢だったが、ゴーグルをかけた男の子もお姉ちゃんに連れられて名残惜しそうにしながら立ち去っていくのを見た。

これ以上ここにいても、何も出来ない。

それは賢も分かっていたので、治の手に引かれながら自分達のマンションに帰るのだった。

 

 

 

 

 

滅多にテレビがつかないはずの賢のお家で、この数日間ニュース番組がつけっぱなしになっている。

保育園がお休みの春休み、ずっとお家にいる賢はお母さんがお仕事の時はこっそりアニメを見ていたのだけれど、この数日間お母さんはずっとお仕事を休んでニュース番組にかじりついている。

そのニュース番組は、ずっと同じ内容を繰り返していた。

数日前に賢とお兄ちゃん、他の沢山の子ども達が目撃した、大きな怪獣達の戦いのせいで壊れてしまった街。

テレビには壊れた街の様子が様々な角度や場所から映し出されている。

賢が実際に見た通りの光景が、テレビの中に映し出されているけれど、どの番組も同じことしか言っていない。

民間人を狙った無差別爆弾テロだと、ニュースのコメンテーターはずっと言っているけれど、誰1人としてあの大きな怪獣のことは言っていなかった。

あれだけ大きな怪獣が暴れまわって、沢山の子ども達がそれを目撃していたのに、ニュースの人達は誰もそのことを言わないのだ。

お兄ちゃんにそう言ったら、賢いお兄ちゃんは口元に人差し指を持って行って賢に口止めをした。

大人は、真実や事実ほど信じないものなのだと。

例え子ども達が実際に目撃したものだとしても、大きな怪獣が暴れていたなんて突拍子もないものを、大人が信じるはずがない。

況してや、目撃者は子どもだ。

毎日のように空想や創作物語を頭の中で作り上げては、その物語に入り込んでいる子ども達の言葉なんか、大人が信じるわけがないのだ。

お兄ちゃんは寂しそうにそう言った。

だから賢も、言わないことにした。

数日前の夜に、お母さんとお父さんが気づかないうちにあの現場に行って、こっそりお家に帰ってきたから、お母さん達にはバレていないから都合がいい。

でも……。

 

「賢ちゃん?何処に行くの?」

「……ちょっと、そこまで」

「そう?気を付けてね」

 

数日前に爆弾テロがあって、他の家庭は外出を自粛したり、お兄ちゃんには危ないから外に出ないでねって口を酸っぱくして心配しているのに、賢には何も言わない。

賢は小さく溜息を吐いて玄関を出る。

向かうのは、みんなで遊んだあの公園。

それは本当に偶然だったのか、必然だったのか、運命だったのかは分からない。

ただ数日間は大人しくお家にいたのに、今日になって公園に行こうと思ったのは何故だったのか。

何か胸騒ぎのようなものを感じた賢は、真っすぐ公園に向かって行く。

息を切らしながら、公園まで走ればやっぱりいた。

首からホイッスルを下げた女の子と、ゴーグルをかけた男の子、そしてその男の子のお姉ちゃん。

初めて出会った砂場に座り込んでいる女の子の隣に、男の子は座っており、お姉ちゃんの方は男の子とは女の子を挟んで反対側で両ひざに手をついて女の子を見下ろしている。

賢は、駆け足で3人に駆け寄った。

声をかけると、姉弟が気づいて振り返る。

女の子の方は、遅れてゆっくりと顔を向けた。

その目は、泣きはらした後があった。

……コロモンはみつからなかったのだと、何処かへ行ってしまったのだと、賢は悟った。

 

「ひっく……ひっく……」

 

女の子はしゃくりあげている。

何と声をかけていいものか、賢は何度か口を開きかけては閉じるということを繰り返していた。

困り果てた賢は、姉弟の方を見やる。

するとお姉さんの方が、片言の言葉で賢に話し始めた。

自分達は明日、アメリカに帰らなければならないと。

お兄ちゃんが少しだけ英語が分かるから、教えてもらった。

この姉弟は普段アメリカに住んでいて、今回は伯父さんの家に遊びに来たらしいのだ。

本当ならもう少し滞在する予定だったのだが、街が破壊されてしまったので予定を切り上げて明日帰ることになったと。

今日はお別れを言いに来たのだと。

それを聞いた女の子は弾かれたように男の子を見やる。

その表情には、絶望の色が浮かんでいた。

コロモンがいなくなってしまい、その上出来たばかりの友達まで明日帰ってしまう。

女の子は、声を上げて泣いた。

いやだ、かえらないで、そばにいて、ずっといっしょにいて。

その言葉をずっと繰り返しながら、女の子は男の子にしがみついている。

日本語が分からない男の子は、女の子が何を言っているのか分からなくてお姉ちゃんと賢を交互に見やっていた。

賢も困っている。

どうしたら女の子を慰められるのか分からなくて、何と言っていいのか分からなくて。

お姉ちゃんの方も困惑していた。

沈黙が続く。数分間の静寂。

やがて男の子は、何か意を決したような表情を浮かべると、しがみついてくる女の子を離した。

突き放されたと感じたらしい女の子が、縋るように男の子を見やると、男の子は頭に着けていたゴーグルを外すと女の子にずいっと突き出した。

キョトンとなる女の子とお姉ちゃんと賢。

男の子は構わずゴーグルを女の子に突き出す。

まるで受け取れとでも言いたげに。

ゴーグルと男の子を交互に見やった女の子は、やがておずおずとそのゴーグルを受け取った。

それが正解だと言うように、男の子は満足気に頷く。

そして、男の子はこう言った。

 

『───』

 

だがその言葉は、遠い異国の地の言葉で、女の子も賢も分からなかった。

お姉ちゃんが代わりに言ってくれた。

 

「やくそく」

「やくそく?」

 

お姉ちゃんは言った。

次に逢う時までに持っていてほしいと男の子は言いたいのだ。

また逢うための、約束。

男の子が渡したゴーグルを両手で持って、女の子はやっと笑顔を見せてくれた。

よかった、と賢が安堵すると、今度は女の子が動く。

首からかけていたホイッスルを取って、ゴーグルをくれた男の子に渡した。

ゴーグルを預かるから、自分のホイッスルを預かっていてと。

言葉はなくとも、異国の言葉同士だとしても、その想いは伝わり男の子はホイッスルを受け取った。

また逢うための、約束。

2人を見守っていた賢の視界に、ちゃり、という音を立てて何かが映り込んだ。

賢の手のひらほどの大きさの、ペンダント。

目をぱちぱちさせながらそれを見て、反射的に手を差し出すとぽとりと落とされた。

お姉ちゃんが、自分の首から下げていたペンダントを賢に渡したのだと気づいたのは、数秒後。

約束の印、とお姉ちゃんは笑った。

自分にも、また逢うための約束をしてくれたのだと、賢は悟った。

賢も何かを上げなければと、慌ててポケットを探った。

何かないか、何か……右の手首の感触に気づく。

お母さんにねだって買ってもらった、二本の細い革がねじり合って、小さな水晶の玉がついたブレスレット。

何処に行くにもつけていた、大切なもの。

賢はペンダントを首から下げると、手首からブレスレットを外し、お姉ちゃんに手渡した。

ありがとう、ってお姉ちゃんは受け取った。

賢の手首に合わせてつけられていたブレスレットだが、特殊な結び方をしているから大きさは自由に変えられる。

紐をずらして、自分の手首に合うように調節してから、お姉ちゃんは手首に着けた。

男の子も首にホイッスルを下げて、女の子は頭にゴーグルを着けて。

 

──また逢う日まで

 

それが、4人の合言葉になった。

 

 

 

 

その数か月後、賢とお兄ちゃんは離ればなれにされることになる。

 

 

 

 

 

.

 

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