ナイン・レコード   作:オルタンシア

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そして、約束の日

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ダイスケェ、と今にも泣きそうな声色と表情で、ブイモンはパートナーの子どもを見下ろしている。

布団に寝かされているパートナーの大輔は、ブイモンの感情とは裏腹に穏やかな顔で眠っていた。

両隣には、同じように寝かされているヒカリと賢がいる。

ヒカリの布団の中でプロットモンは一緒に寝ており、治は賢の手を握って離さない。

 

『心配することないっぴ。直に目を覚ますっぴ。今は色んな事が起こりすぎて、キャパオーバーして心に負担がかかっちゃっただけだっぴよ』

 

深く息を吸えば、何処か懐かしい香りで肺がいっぱいになる木造の部屋に、障子で抑えられた太陽の光が差し込んでいる。

あれから丸1日経ったな、とぼんやり思いながら最年少達を見ていた治の耳に、ガラリと引き戸が開かれた音と甲高い声が届いた。

パタパタパタ、と頭部の翼をはためかせながら入ってきたのは、ピコデビモンのように丸いフォルムのデジモンだった。

ピコデビモンと違うのは、体毛がピンク色で頭部から生えた翼は白、天使のような羽であることと、足だけでなく手も生えているところだろう。

このデジモンの名前はピッコロモンと言い、エテモンの魔の手から逃げている最中に匿ってくれた、味方のデジモンの1体である。

ピコデビモンが連絡を取ってくれたデジモンとは別のデジモンで、太一が怪我をし、最年少の子ども達共々倒れてしまったことを聞いて、自分の隠れ家で休むことを提案してくれた。

太一は今、別室で治療を受けている。

 

 

太一が倒れ、最年少が3人倒れた。

エテモンに追われているというのに、まだエテモンを倒すための力をつけていないというのに、これは手痛いロスだ。

最年少3人は特に目立った外傷などはなく、また身体が小さいことから他の上級生達が背負って行けばいいだろう、ということは話し合わずともまとまったのだが、問題は太一だ。

小さい3人と違ってそれなりに体格がある上に、意識のない人間を運ぶのは大人でも大変だと言われているのに、まだ小学生の子ども達では太一を背負うのも一苦労だろう。

ガブモンが、俺がガルルモンになって運んであげる、と提案してくれたけれど、いつどこでエテモンの目が光っているか分からないし、何かあった時のためにも体力は温存しておかなければならない。

こうして考えている間にも、エテモンの魔の手は刻々と迫っている。

大丈夫ですよ、と悩んでいる子ども達に、一筋の希望が差し込んだ。

ピコデビモンである。先ほど連絡を取ってくれた、匿ってくれるデジモンに事情を説明したところ、5分で駆けつけると言ってくれたらしい。

短いようで長い5分という時間に、子ども達は安堵するやらその間にエテモンが来たりしないかと不安になるやらで、やきもきしながらその場で待機していた。

砂漠の向こうから水飛沫のように砂をかき分けて走ってきたのは、大きな豪華客船。

5分もしないうちにやってきた豪華客船は、崩れたコロッセオの前で停泊し、唖然としている子ども達の前にスルスルと舷梯が降ろされる。

客船の上から顔を覗かせ、大丈夫かと声をかけてきたのはファイル島でも見かけたヌメモンであった。

暗くてジメジメしているところに住みついているはずのヌメモンが、何故砂漠の乾燥地域に、そして豪華客船に?

砂漠を泳ぐ豪華客船と、乾燥地域で平然としているヌメモンというコンボで唖然としている子ども達を急かしてくれたのは、ピコデビモンとパートナーデジモン達であった。

舷梯を使わずパタパタとヌメモンのところまで行き、何かを話していた。

パートナー達に後押しされたこともあり、子ども達は舷梯を伝って船に乗った。

全員が乗ったのを確認し、ヌメモンが舷梯を仕舞ったのと同時に、豪華客船は回れ右をして元来た方角へと全速力で引き返していった。

とりあえずは難を逃れた、ということで胸を撫で下ろした子ども達ではあったが、まだ油断は禁物だ。

この砂漠一帯にエテモンのダークケーブルが張り巡らされていることに変わりはないし、頭を打った太一は応急処置しかしていないのだ。

豪華客船に乗せてもらっているとはいえ、いつエテモンが襲ってくるか分からないし、ここで戦闘になってしまえば太一達の身が危ない。

何処かもっと安全に休めるところはないか、とピコデビモンに聞こうとしたら、既に手配済みだと言う。

みんなで船に乗り込んで、子ども達が太一達を客室に運び込んでいる間に、別のデジモンと連絡を取ってくれたのだ。

それがピッコロモンである。

完全体で、魔法の力を操ることが出来るピッコロモンは、砂漠のエリアと隣接しているエリアに結界を張り、身を隠しているらしい。

そこならばエテモンにもそう簡単には見つからないだろうし、太一達をゆっくりと休ませることが出来るのだが、あまり悠長に時間をかけてはいられない。

そうしている間にも世界は少しずつ闇で侵食されていっているのだ。

紋章を見つけ、力を蓄えなければならない上に、太一がいつ目を覚ますか分からない。

そこで子ども達は、二手に分かれることにした。

太一達が目を覚ますまでに紋章をできるだけ集めるチームと、太一達を看病するチームだ。

と言っても人数の約半分が倒れてしまっているため、人数の関係で看病をするチームにいるのは治だけである。

 

『さてと……オサム、お前も少し休むっぴ』

「え……でも……」

 

賢の手を握り、ぼんやりと見下ろしている治を見かねたピッコロモンが、手に持っている杖で治の肩をポンと叩く。

現実に引き戻された治は一瞬肩をびくりと震わせ我に返ったのだが、賢を放って何処かへ行くのは気が引けるようで、賢から目を離せずにいる。

ぽか、と槍で頭を叩かれた。

 

『喝っ!未熟者!』

「いった……!」

『そんな顔色が悪い状態で看病したところで、倒れるのは目に見えてるっぴ!ケンはオサムの弟なんデショ?オサムまで倒れたらケンが悲しむっぴ!』

「………………」

『……どうしてもと言うのなら、休まなくてもいいっぴ。その代わりあの子達が倒れたことを、もう1回教えてほしいっぴ』

「……はい、分かりました」

 

居住まいを直し、治は言われた通りにピッコロモンに話す。

ここに来た時も軽く事情を話したのだが、敵のせいで太一が頭部を強打したことと、最年少組が倒れたと言うことしか言っていなかったのだ。

 

『うーむ、なるほどっぴ……』

 

コロモンの村でエテモンに襲われたところから、治は話を始める。

エテモンによってコロモンの村を壊滅され、逃げ込んだ洞窟の奥で太一の紋章である太陽の象徴、勇気の紋章を手に入れたこと。

コロモンの村から遠く離れた場所まで一気にワープし、ピコデビモンの案内によってコロッセオに隠された平等の象徴である誠実の紋章を見つけたこと。

そしてそのコロッセオにて、奇妙なデジモンと出会ったこと。

その奇妙なデジモンが、敵意に満ち溢れたグレイモンを連れてきて、太一とグレイモンが戦ったこと。

そしてその戦いで……太一のグレイモンがスカルグレイモンに進化し、子ども達やパートナーデジモン達を恐怖のどん底に陥れたこと。

 

『ダイスケ達が倒れたのはいつだっぴ?』

「スカルグレイモンが暴れて、暫くした後です。スカルグレイモンが気絶していた太一を護るように抱えていたのを、ブイモンが……あ」

『どうしたっぴ?』

「あ、えっと……」

 

頭の中でまとめながらピッコロモンに話していた時に、治はやっと思い出す。

スカルグレイモンから太一を奪取するさい、謎の光が飛んできてブイモンを包み込み進化をしたのだが、その進化がおかしかったのだそうだ。

ファイル島で1度だけ見た、ブイモンが大きく逞しくなったような翼が生えた姿、エクスブイモンではなく、炎色の衣を纏った竜人のような姿をしていたらしいのである。

子ども達はもちろん、同じデジモンであるパートナー達も知らない姿だったようだ。

 

「絵心がないから図にすることは出来ないんですが……ブイモンがそのまま大きくなって、エクスブイモンよりもスリムで、鎧みたいのを纏っていて……ああ、そうだ」

 

勇気の紋章が、背中に彫り込まれていたと、治は言った。

ピッコロモンは息を飲む。が、それをおくびにも出さずに、ゆっくりと息を吐いて平常を装った。

 

「ピッコロモンは、知ってますか?そのデジモンのこと」

『……いや、ワタシも知らないっぴ。不思議だっぴねぇ、知らないデジモンに進化するなんて』

「ピッコロモンも知らないんですか……ゲンナイさんなら知ってるかな?」

 

その治の呟きに、ピッコロモンは何も答えずスルーして続きを促した。

大輔達の様子がおかしくなったのは、その暫く後だ。

破壊の限りを尽くすスカルグレイモンに対して、大輔達がコロモンの名を連呼したのである。

確かにスカルグレイモンはアグモンで、そのアグモンはコロモンから進化する。

だがコロモンとして接していた時間は短く、子ども達にとってはアグモンの方がずっと身近な存在だ。

だからスカルグレイモンをアグモンと呼ぶのならともかく、最年少の3人はアグモンではなくコロモンと呼んでいた。

ヒカリに至ってはまるで錯乱したかのように叫んでいた。

もうやめて、お家を壊さないで、お家帰ろうよ。

頭を抱えながら、ヒカリはずっとそう叫んでいた。

そんなヒカリに呼応するように、大輔と賢もスカルグレイモンをずっとコロモンと呼んでいた。

……ねえ、

 

「ピッコロモンは……知っているんですか?僕達の知らない、何かを」

 

す、と。治はピッコロモンを真っ直ぐ見つめる。

その目は何処までも澄んでおり、真剣な表情は深い森で深呼吸をする古の樹々を思い起こさせる。

 

「ファイル島に来る前に、ゲンナイさんから色々と聞きました。この世界のこと、デジモンのこと、僕らがここに来たことも……」

 

治は目を閉じる。

 

「知っているのなら、教えてください」

 

どうしたものか、ピッコロモンは真っ直ぐその目を見つめ返した。

すぐに返事を返さなかったのは、ピッコロモンの失態だったかもしれない。

何のことだとでも返しておけば、あとは何とでも誤魔化せたであろうに、ピッコロモンはそれをせずに治と見つめ合ってしまった。

……言うべきなのだろうか。ピッコロモンは唇を噛みしめる。

知っている、と言えば知っているのだが、それを自分の口から言っていいものかどうか迷っていた。

本来なら、ゲンナイの口から子ども達に伝えられるはずの“事実”。

この子は相当賢いということを一目で見抜いたピッコロモンは、はてどうしたものかとこっそり溜息を吐いたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

あの日の公園に、大輔とヒカリと賢は佇んでいた。

今も十分小さい3人だが、目の前で楽しそうにはしゃぎまわって、跳ねるコロモンを追いかけているもっと小さい自分達の幻影が映し出されている。

今の今まで忘れていた、何物にも代えがたいはずだった優しい記憶に、大輔はそっと俯いた。

 

「これ、ヒカリちゃんがくれたものだったんだね」

 

コロモンを追いかける小さな大輔は、ホイッスルを首から下げておらず、代わりに今のヒカリが首から下げているゴーグルを頭に着けていた。

 

「何で、忘れてたんだろ」

 

大切だったのに。あんなにあんなに大切だったのに。

お父さんに買ってもらったゴーグルを泣いていた女の子に渡すほどに、強く誓ったはずなのに。

必ずまた逢おうって。アメリカに帰らなければならなかった、大人の庇護がなければ何処かへ出かけることも出来ないほどに小さかった大輔が出来た、唯一の約束。

コロモンを失い、自分を失いかけ、泣きながら縋ってきた少女を取り戻すために、あのゴーグルを渡したのに。

 

「……私も、そうだよ。大輔くんにもらったこのゴーグル、絶対絶対忘れないって思っていたのに、今日まですっかり忘れてた。大輔くんがくれたゴーグルは、私を勇気づけてくれる大切なものになってたのに、誰からもらったのか全然思い出せなくて……」

「……僕、も……何で忘れてたのかな。この懐中時計、大輔くんのお姉さんがくれたものだったのに……」

 

ヒカリと賢も、それぞれが大切に思っていながらどうやって手に入れたのかを忘れてしまっていたアイテムを手に取りながら、自嘲気味に笑う。

今の今まで忘れていた、大切な記憶。

たった今、思い出した。

自分達は、あの日に既に出会っていたのだと。

僅かな時間だったけれど、確かに友達だったのだと。

幻影のヒカリがコロモンを抱きしめ、幻影の大輔がコロモンを追いかけ、幻影の賢がコロモンと笑って。

楽しかったあの日々は、確かに存在していた。

それなのにどうして、自分達は忘れてしまっていたのだろう。

 

《それについては、ワタクシの方からお話いたしましょう》

 

突如として聞こえてきた声に、しんみりしていた空気に包まれていた大輔達はぎょっとなった。

遊んでいる幻影の自分達を尻目に、今の聞き慣れない声は誰だと全員で辺りを見回す。

大輔達を置いてけぼりにするように、声は語り出した。

 

《そう、全てはここから始まったのです。その日、1つの命が何かに導かれるように、世界の狭間を通って異なる世界へ渡ってしまった。それだけでも当時の管理者達は慌てたというのに、その命が芽吹いてしまった》

 

背景が中心に吸い込まれるように、場面が変わる。そこには、ヒカリと太一がいた。

お母さんが出かけた後、まだ幼い太一がお母さんの代わりに、ヒカリに朝食を作ってあげているところだった。

お兄ちゃんが作ってくれる朝食を椅子に座りながら待っているヒカリの腕には、大きな卵が抱かれている。

大輔達はその大きな卵に見覚えがあった。

大輔とヒカリの視線が、2人の間にいる賢に向けられる。

いや、正確には賢の胸のあたりだ。

賢がその腕にしっかりと抱いている、まだ芽吹く気配を見せない卵、デジたまである。

幻影のヒカリと賢が抱いているデジたまは、模様こそ違うものの大きさや形状などは全く同じだった。

 

《芽吹いた命は急速に進化を遂げ、管理者達の予想を遥かに超えたものへと変貌した》

 

場面がまた変わる。崩れた瓦礫、抉れたコンクリート、なぎ倒された街路樹、煙が上がっている周囲のマンション。

そこに佇む、大きな影はオレンジ色のティラノサウルスと、それを見上げている太一とヒカリ。

少し離れたところに、治と賢が、大輔とお姉ちゃんがいた。

 

《そしてこの光景を見てしまった多くの子ども達》

 

流れていく景色に映ったのは、この付近に住んでいた子ども達。

ベランダから、窓から、沢山の子ども達がこの光景を目撃していたのだ。

その中には、今一緒に冒険している上級生達の姿もあり、大輔達は息を飲む。

あの場所に、自分達だけじゃない。空や光子郎、ミミ、そして丈もいたのだ。

みんなが見ていたのだ、共有していたのだ。

あの日の惨劇を。

 

《事態を重く見た管理者達は、子ども達からこの日の光景を真っ白なペンキで上書きすることを選びました。異なる世界の存在を、人間達に知られるわけにはいかなかった。真実に近いことほど、人間の大人は信じないことなど知らずに》

 

場面は再びあの公園である。

黒く小さなデジモンを追いかける幼き日の大輔とヒカリと賢の幻影が、笑い声をあげていた。

 

《むしろ子ども達に真っ白いペンキを浴びせてしまったことで、逆に大人達は不審がることになってしまいました。人間は人間であって、デジモン達とは異なる存在であることを、当時の管理者達は知らなかった。デジモン達のように上書きすればいいと》

 

人は忘れるものであ。

それが如何なる理由であろうとも、大切な記憶であろうとも、時とともに風化していく遺跡のように。

そうしなければ生きていけないからだ。

コンピュータのように、データ容量を増やして新たな保存場所を作るなど、人には出来ないのだ。

 

《出逢ってはいけなかった出逢い、あってはならぬことが起きた。だから管理者は貴方方から記憶を消した。貴方方の大切な思い出とともに》

 

クツクツと、声は笑う。

黒く小さなデジモンはボタモンという、コロモンが進化する前の赤ちゃんデジモンだ。

ヒカリはコロモンの村で見たことがあり、その時にデジモン達に名前を教えてもらったので知っている。

大輔と賢はその時別行動をしていたから、ボタモンの名前は知らなかった。

それでも、全てを思い出した今なら分かる。

あの時に出逢った、あの黒くて小さいデジモンだったのだ。

幻影の大輔とヒカリと賢が3人で向かい合って、ボタモンを代わりばんこで抱っこしている。

賢の手に渡った時、ボタモンがコロモンに進化した。

次の日も遊ぼうねって約束してお家に帰った後、コロモンは意思疎通が出来るようになる。

 

惨劇が起きたのは、その日の夜だった。

 

《これには管理者達も驚いておりました。通常デジモンというのは、長い時間をかけて次の世代へと進化を果たすもの。それがこの世界での常識でありました。しかしその常識を、貴女が覆してしまった》

 

ヒカリのベッドの中で一緒に寝ていたコロモンは、やがてアグモンへと進化する。

大輔達が知っているアグモンよりもずっと大きく、つい数時間前までできていたはずの意思疎通が出来なくなってしまっていた。

ヒカリが呼びかける声など気にも留めず、アグモンはただ本能がままに動き回った後、更にグレイモンへと進化した。

 

《大輔、ヒカリ、賢》

 

声が真剣な色を帯びる。

 

《これこそが、貴方方が選ばれた理由ですよ》

「……え?」

 

声は、続ける。

 

《ボタモンがコロモンへ、コロモンがアグモンへ、そしてアグモンがグレイモンへ進化できたのは、偶然などではありません。デジモン達は長い時間をかけて力を蓄えなければ進化することはできない》

 

でもあのコロモンはそれが出来た。何故か?

 

《大輔、貴方はこれまで何度、姿なき者の姿をその目で見ましたか?》

 

ぎゅ、と大輔は茶色いズボンを掴むように両手の拳を握りしめる。

そんなの、何度もあった。自分にしか見えない存在。母にも父にも、そして姉にさえ見えない、不思議な存在。

 

《ヒカリ、貴女はこれまで何度、声なき者の声を聞きましたか?》

 

ヒカリは不安そうに、上を見上げた。

声がするたびに、ヒカリは兄にしがみついたし、耳を塞いだ。

何処にも誰もいないのに、ヒカリを呼ぶ声が怖くて。

 

《そして賢、貴方はこれまで何度、気配なき者の気配を感じ取りましたか?》

 

賢は俯く。不安がる賢のことを、誰も気づいてくれなかったのに、この声はそのことに気づいてくれていた。

誰も賢のことを見てくれないって思っていたのに。

 

《貴方方のその異質な力。誰もが持っていながら、その命が果てるまでに気づかれることのない力。貴方方はちゃんとその気配を、声を、そして姿を受け入れた。誰もが目を背けるものを、貴方方はきちんと受け止めて、真っ直ぐ向き合った》

 

すう、と。

 

地面から細い線が1本ずつ、くるくると回りながら現れた。

回転を緩めながら次々と現れ、徐々に姿が形作られていくそれは、深々と頭を下げていた。

足、脚、腰、胴体、腕や肩、そして頭部。

そうして完成された形に、大輔達は目を見開いた。

白い歪なストライプが入ったスーツを着ているそれは、脚と腕、それから腰は異様に細長く、広い肩幅はまるで子どもが描いた絵のようだった。

そして何より特徴的だったのは、その頭部である。

下げた頭が上がったそこにあるべき顔はなく、大輔達が抱えるのもやっとなほどであろう、デジたまよりも大きなガラス玉がシルクハットを被っていたのである。

手袋をつけたその手にはドクロの飾りがついた杖を持っていた。

 

《我々はそれを“命”と呼んだ。“感情”と呼んだ。“意思”と呼んだ。ヒカリが抱いた卵から“命”が生まれ、大輔と触れ合ったことで“感情”が生まれ、賢と向き合ったことで“意思”が生まれた》

 

シルクハットのツバを支えるように掴みながら、ガラスの頭部を持ったそれは芝居がかった口調で話を続ける。

 

《しかし本来なら平等に育まれなければならないはずのものが、“命”とばかり触れ合ってしまったために、バランスが崩れてしまった》

 

哀しい口調に変わる。

 

《同じことがありましたね、コロモン達の村で。貴女が触れあっていたパグモンの様子がおかしくなったことが》

 

様子がおかしくなったパグモンは、ヒカリがその腕に抱いて触れ合っていた個体だ。

幼年期のパグモンが成長期を通り越して成熟期である黒いガルルモンに進化したのは、そういうことだったのだ。

表情のないはずのガラスの頭部が、じっと自分を見下ろしているような気がしたヒカリは……悟った。

 

「……私の、せい?」

 

“命”を司る女の子は、悟るのだ。

ボタモンがコロモンになったのも、アグモンになって言葉を失ってしまったのも、グレイモンになって沢山のものを壊してしまったのも、全部ヒカリという女の子のせいなのだって。

ヒカリがパソコンのディスプレイに表示された、声なき声を発していた卵に気づかなければ、デジたまが現世に現れることはきっとなかった。

それが叶わなかったとしても、不気味がって距離を置いていたらデジたまから命が孵ることは、きっとなかった。

ヒカリの両目から、大粒の涙が零れる。

 

「……ごめん、なさい。ごめんなさい、ごめんなさい……!」

 

あの出逢いさえなければ、ヒカリは大輔達と楽しく遊んだという思い出だけで終わったはずだった。

大輔が帰る日に、また逢おうねって約束して、その約束が霞む霧の向こうに置いてけぼりにされて薄れゆくはずだった。

小学1年で大輔が転校してきた時に、僅かなデジャビュを覚えながらも仲良しになっていくはずだった。

 

でも、全てが遅い。

 

「ごめん、ごめんなさい、大輔くん、賢くん……!」

「っ、そ、んな、ヒカリちゃんの、せいじゃない……!」

「そうだよ……!だって、さっき、言ってたじゃない!僕達と出逢ったからあのコロモンは進化したんだって!ヒカリちゃんだけのせいじゃないよ……!」

 

大輔も賢も、ヒカリにつられてボロボロと泣き始める。

また逢おうと約束した、大切な友達。

ようやく再会できたことを喜びこそすれ、怒ったり責めたりするわけがない。

3人は泣いた。泣いて、泣いて、泣いて……どれぐらい泣いたか分からないぐらい泣いた。

互いに慰め合って、時には揶揄ったりして、泣きながら笑い合った。

笑い合いながら、泣いた。

大輔と賢の、お互いに対する怒りとわだかまりが、涙と一緒に溶けて流れ出ていったのは、その時だった。

 

《初めまして、というべきなのでしょうね。お三方》

 

ようやく泣き止んで、互いの顔を見合わせて笑い合った3人に、ずっと黙って見守ってくれていたガラスの頭部の者が穏やかに話しかける。

泣きはらした目を隠すことなく、大輔達はそれを見上げた。

 

「誰?」

《ふふふ、ワタクシは“ワタクシ”であって【ワタクシ】ではない、何者でもあり何者でもあるのです。どうぞお好きなようにお呼びください》

「?ど、どういうこと……?」

《おっと、まだ幼い貴方達では理解できませんでしたか。では“スワンプモン”とでもお呼びください》

 

ガラス玉の頭……スワンプモンはそう言いながら再び頭を下げる。

 

「スワンプ、モン……?」

《はい》

 

まだぐすぐす言っていたヒカリが、おずおずと言った様子でスワンプモンに話しかけると、スワンプモンは立っていた体勢から膝をつき、ヒカリの目線に合わせて優しく返事をした。

今の今までスワンプモンの姿を見て怖がっていたヒカリだったが、途端にその恐怖が風に乗って消えていく。

じ、と見つめ合っていたら、はしゃぎまわっていた幻影の大輔達が今の大輔達の前に並んだ。

それぞれの幻影がそれぞれの前に立って、ニコリと微笑みかけた後、その姿を薄めていきながら消えていく。

あの日の公園は、突如吹いた強風で大輔達が咄嗟に目を瞑った後、一面に広がる花畑へとその姿を変えた。

パステルカラーの見たことのない花が沢山咲いており、爽やかに吹く風に乗って花びらが空へと舞う。

甘い匂い。青空を泳ぐ白い雲。遮るものは何1つなく、花畑と青空の境界がくっきりと分かれていた。

ここは何処だろう、と辺りを見回す3人に、スワンプモンは優しく、そして真剣に語り掛ける。

 

《大輔、ヒカリ、賢。先ほども言ったように、それは貴方方だけの力。貴方方しか持っていない力です。貴方方が1人でも欠ければバランスが崩れてしまいます。それはまるで朝と昼と夜が一続きになって貴方方を見守っているようなもの》

 

スワンプモンは言う。

コロモンが一時的に言葉と理性を得たのは、大輔と賢とも触れ合っていたからなのだと。

しかし“命”であるヒカリとあのコロモンと触れ合う時間が長かったために、コロモンは精神のバランスを崩して、言葉を、理性を失ってしまったのだと。

 

《それと同じように、子ども達の精神のバランスが崩れてしまえば、デジモン達は力を発揮することができません。それどころか想定外の進化を果たしてしまうでしょう》

「……それが、スカルグレイモン?」

 

3人の脳裏に浮かんだのは、太一のアグモンである。

全身骨で出来たあのデジモンは、確かに強そうではあったけれど、あの暴れようはどう考えても自分達を守ってくれるようには見えなかった。

ゲンナイさんは、デジモン達は子ども達を護るための武器だと言っていたのに。

 

《貴方のデジモンも危なかったのですよ、賢?》

「え?」

 

思ってもいなかったことを指摘された賢は、ぎょっとなってデジたまを抱く腕に力を込める。

どういうこと?って賢が困惑気味に尋ねると、やはり分かっていなかったようですね、とスワンプモンは苦笑した。

 

《争いを嫌う貴方と、貴方を護りたかったパタモン。子ども達とデジモン達の心が1つにならなければ想定した進化には至りません。しかし貴方方の心はちぐはぐであったにも関わらず、想定内の進化を遂げた。これは偶然とも言える奇跡です。2度目は恐らくありませんよ。次こそあのスカルグレイモンのように、子ども達を護らなければならない立場でありながら、子ども達に襲い掛かる災厄になりうるでしょう》

 

スワンプモンは忠告する。

デビモンとの最終決戦は、運がよかっただけなのだと。

子ども達の、自分達の世界に帰りたいという気持ちと、デジモン達の、子ども達を元の世界に帰してやりたいという気持ちが一体となっていたために、デジモン達はその力を100%発揮できる姿へと進化出来るのだ。

だがあの時の賢とパタモンの気持ちは、互いに反対方向を向いていた。

パタモンが賢を傷つけるデジモンに変貌していたかもしれなかった、と聞かされた賢はぞっとする。

 

《賢、貴方もとっくにお気づきのはずです。賢い貴方が、分からぬはずがないのです。パタモンは待っているのですよ。貴方が勇気を出してくれることを》

 

賢が抱きしめているデジたまにそっと手を添え、優しく語り掛けるスワンプモン。

賢は俯く。唇を噛みしめ、デジたまを抱く腕の力を強める。

スワンプモンの言う通り、賢はちゃんと分かっている。

パタモンが生まれてこないのは、賢が今一歩踏み出せないからなのだと。

戦いを極端に恐れていることで、パタモンが生まれるために必要なエネルギーが供給されていないのだ。

デジモンは人の想いを受け取ることで進化をする。

 

《賢、パタモンにもう一度逢いたくないのですか?ごめんなさいを、しなくていいのですか?》

「……逢いたい」

 

再度問いかけてきたスワンプモンに、賢は乾いたばかりの涙をぽろぽろと零しながら呟いた。

 

「僕、パタモンに逢いたい」

 

ぴき、とデジたまに罅が入った。

 

「怖がってごめんって。パタモンを見ないでごめんって」

 

ぴきぴき、ぱき、と罅が下に向かって伸びていく。

蜘蛛の巣状に広がっていき、やがてデジたまが2つに割れ、命が顔を出す。

それは、ジェルのように半透明で、ぷるぷるとしていた。

円らな黒目は潤みながら賢を見上げ、やがて身体が光り、ピンク色の豚の貯金箱みたいな形に、更に光りに包まれて形が変わる。

翼のような耳が生えた大きなハムスターは、ファイル島にいた時からずっとそばにいてくれた、大切な友達。

青空のような澄んだ目は、うるうると涙が滲んでいた。

 

『ケン!』

「パタモン!」

 

賢は手を伸ばし、飛び込んできたパタモンを抱きしめる。

 

「ごめん、ごめんね、パタモン!僕が弱かったから、護られるのが当たり前だって思ってたから、パタモンに辛い思いさせちゃって……!」

『いいよ、いいんだよ、ケン!だってそれがケンだもん。弱くったって優しいのがケンだもん。僕のほうこそ、ケンを傷つけちゃってごめんねぇ!』

 

ぐすぐす言い合いながら、2人は自分の気持ちを、思いをぶつけ合う。

 

「僕、これからもいっぱい逃げるかもしれない。だって、僕は、やっぱり戦いとか、嫌いだもん」

『ケン……』

「でも僕、もう目を逸らすのやめる。パタモンとずっと友達でいたいから……お家に、帰りたいから……」

 

 

《よくできました》

 

 

途端に、3人とパタモンの意識が遠のく。

綺麗なパステルカラーの花畑が、白く滲んで遠くへ消えていく。

 

《本当はもっとお話をしたかったのですが、これ以上この場に留まるのは、貴方方の無防備な魂によくありません。大丈夫。“今度”はちゃんと覚えてますよ》

 

スワンプモンの声が遠ざかっていく。

まだ聞きたいことは沢山あるのに、眠いと訴える身体は成す術を知らない。

 

《そう遠くない未来で、ゲンナイ様と相まみえることでしょう。その時に改めてゲンナイ様とお話すればよろしい》

「スワンプ、モン、は……もう、逢えない……の……?」

 

気力を振り絞って声を出した大輔の言葉は、ちゃんとスワンプモンに届いた。

パステルカラーの花畑と共に、滲む白い背景の向こう側へ閉ざされそうになっているスワンプモンは、ガラス玉の頭部で表情などないはずなのに、笑っている気がした。

 

《さあ、どうでしょう?貴方方が望めば逢えるかもしれないし、そうではないかもしれない。全ては流れる時間(とき)のまま、風のように身を任せるまま》

 

ですが、

 

《許されるのなら、ワタクシももう一度、貴方方と逢いたいですねぇ》

 

それでは、さようなら。

 

 

 

 

 

「……私ね、大輔くんが転校してきた日に、懐かしいなって思ったの」

 

大輔達の視界に飛び込んできたのは、何処か懐かしい木目の板の天井。

開かれた障子の向こうから月の光が差し込んで、穏やかな風は少し肌寒い。

ここは何処だろう。テントの中ではない、デジタルワールドにはないと思っていた、自分達の世界の建物の中と似たような構造をしており、ふかふかの布団に寝かされていた。

それぞれの隣には、パートナー達。

デジたまだったはずの賢のパートナーは、夢の中と同じくパタモンになって倖せそうな表情でむにゃむにゃ言いながら眠っている。

それで、あれは夢ではなかったのだと悟る。

同時に、思い出す。

あの夢の中で語られた真実を、その真実を語ってくれた、スワンプモンというとても優しいデジモンを。

姿が見えない上級生達を不思議に思っていたら、窓から覗く真ん丸のお月様を見上げながらヒカリがぽつりと呟いた。

 

「最初はお兄ちゃんに何となく似てるからかなって思ったんだ。元気いっぱいで、おかしかったら笑ったり、怒る時はちゃんと怒ったりして……。そういうところがお兄ちゃんに似てるからなのかなあって。でも違ったんだね」

 

何処か苦しそうに笑いながら、ヒカリは枕元に置かれていたゴーグルを取った。

自分達はずっと前に出逢っていたのだ。

出逢ってはいけない者と共に。

 

「これ、返さなくちゃね」

 

でも今は全てを思い出した。悲しい想いと共に。

また逢おうっていう約束も一緒に。

だから、また逢う日まで交換こ、って渡し合っていたお互いの宝物を返さなくては。

物心ついた時からずーっと首から下げていて、お兄ちゃんとお揃いって道行く人に自慢していたけれど、それももう出来ない。

だってこれは大輔の宝物なんだから。

でも大輔は首を横に振り、自分に差し出されたゴーグルをヒカリの手と一緒に押し返す。

 

「もうしばらく持ってようぜ」

「え、でも……」

「うん。元の世界に戻ってからでもいいんじゃないかな?僕のはジュンさんのだし……」

 

あの日、宝物を交換し合ったのは大輔とヒカリだけじゃない。

賢と大輔のお姉ちゃんもお互いのを交換していたのだ。

賢は大輔のお姉ちゃんから懐中時計を、大輔のお姉ちゃんは賢からブレスレットを。

それに、と大輔は枕元に置かれたホイッスルを手に取る。

 

「ずーっとしてたから、いきなり返すのは何か寂しいっていうかさー」

「……そっか」

 

分かった、ってヒカリは返ってきたゴーグルを優しく撫でる。

本当は、ちょっとだけ安心していた。

大輔と同じで、ずっとずっと首から下げてお守りみたいに思っていたから、返さなければいけないのは分かっているのだけれど、少し寂しかった。

でも元の世界に帰るまでという制限を設けたお陰で、覚悟も出来た。

自分達の世界に帰ったら、これを大輔に返そう。

そしてちゃんと、また逢えたねって言おう。

ヒカリは密かに決意する。

 

「ジュンさんも覚えてなかったの?」

「そうだなー、賢から預かったブレスレット、いつもこれ何処で買ったんだっけって言ってたし」

「そっかー」

 

ジュンさんに逢うの楽しみだな、って賢は笑う。

俺も早く逢いてぇなー、って大輔も笑う。

喧嘩をしていたことなど、とっくに忘れていた。

 

 

 

 

 

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