ナイン・レコード   作:オルタンシア

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ありがとうの花束を

.

 

 

 

 

 

それは、微睡の中で揺蕩う意識。

 

 

それは、水底の奥から浮かぶ泡。

 

 

 

 

 

一体いつの頃からだっただろうか。

八神太一という少年が、八神太一ではなく“お兄ちゃん”となるに至ったのは。

ヒカリが生まれたのは、太一がまだ3歳の時だった。

3歳と言うと単語と単語を繋ぎ合わせて、短い文章を使う頃だろうか。

自分の気持ちを上手く言葉として吐き出すことが出来ず、他人に通じなくてやきもきして、うわああんって地団駄を踏んで、お母さんを困らせる年頃に、ヒカリという妹は生まれた。

お母さんに甘えて、抱っこ抱っこってせがんでは、しょうがないわねぇって苦笑いするお母さんが、いつの間にかそれをしてくれなくなった。

やがてお母さんのお腹は破裂してしまうんじゃないかってぐらい膨らんで、おかあさんどうしたの、おなかいたいの、って拙い言葉で小さいなりにお母さんを心配しながらばたばた走り回っていた姿は、今でもお父さんとお母さんのいい思い出として語られている。

違うわよ、赤ちゃんが生まれるのよって、お母さんに優しく教えてもらった時はよく分からなかった。

赤ちゃんって、近所の山口のお姉さんとお兄さんのとこにいる、ちっちゃい子のこと?

保育園のお友達のお母さんが抱っこしてる、あのちっちゃい子?

太一が困惑している間にも、お母さんのお腹はどんどん大きくなっていく。

やがてお母さんは病院に行く回数が増えて、お父さんがお仕事に行かなくなって、お家で過ごすようになった。

お母さんの代わりにお家のことをするようになった。

でもずーっとお仕事でお家のことなんか何も知らないお父さんが、いきなりお家のことをやるのは結構大変だった。

太一はその時のことを覚えていないけれど、お母さんは今でも昨日のことのように思い出しては、嬉々として教えてくれる。

掃除機を使えば太一が散らかした服を吸い込んでしまうし、洗濯物は適当に放り込むせいで色映り、ご飯は水の量を間違えてべちゃべちゃになったり、固くなったり、卵焼きという名のスクランブルエッグが毎日出たりして、家中が泥棒にでも入られたかのようにしっちゃかめっちゃかにひっくり返っていた。

太一だってここまで暴れない、とお母さんはそれを笑って許したらしい。

家のことなんか普段は全然しないのだ、家中ひっくり返してしまうのは致し方なし。

2人目が出来る頃には夫の扱い方も心得ているので、あれやってこれやってとこき使ってしまえばいいのである。

そのうち、最初は不器用だったお父さんもだんだん慣れてきて、最近ではお母さんよりもオムライスを作るのが上手になった。

太一の好物に、お父さんの作ったオムライスが追加されることになる。

 

 

出産のためにお母さんが入院することになった時、太一は泣き喚いて駄々を捏ねて大変だったと教えられた。

ただでさえお母さんのお腹が大きくなっていくせいで抱っこもおんぶもしてもらえなくなって、掃除も洗濯もお料理だってしてくれなくなって、不満がたまり始めていたというのに、その上お母さんが入院していなくなってしまうなんて聞いてない。

やだやだって全身でだだをこねたけれど、そんなことでお母さんの入院の決定が覆るはずもなく、お母さんはお父さんと仲良くねって言い残して病院に行ってしまった。

拗ねに拗ねて、3日ほどお父さんと口をきかなかったという、お父さんにとってとばっちりを受けることになる。

さらに4日後に、お母さんは生まれたばかりの赤ん坊をその腕に抱いて帰ってきた。

それが、ヒカリだ。

最初の印象は、“自分より小さい”、それだけだった。

 

「見て、太一。今日からお兄ちゃんよ、この子はヒカリ。仲良くしてあげてね」

「ああ、小さいなぁ。太一が赤ちゃんのころを思い出すよ」

 

そう言ってニコニコ笑いながら妹を見下ろす両親を、その時はふーんとしか思っていなかった太一だったけれど、やがて太一は赤ん坊が生まれるという意味を思い知ることになる。

妹が生まれた時、まだ3歳だった太一は当然甘えた盛りだ。

お母さんがやっと帰ってきて、破裂しそうなぐらい大きくなっていたお腹も引っ込んで、やっとお母さんに甘えられると思っていたのに、お母さんはずーっと妹に付きっ切りなのだ。

太一が遊んでって足元に纏わりついても、絵本読んでってせがんでも、お散歩行こうって誘っても、お母さんは後でねって言ってヒカリに構ってばかりだった。

後っていつ、ねえねえまだぁ?ってお母さんの周りをちょろちょろしては、お母さんに叱られる。

ヒカリが起きるでしょ、今ヒカリミルクの時間なの、ヒカリのおむつ変えてるから待って。

ヒカリ、ヒカリ、ヒカリ。

太一が何を言っても何をしても、お母さんの口から飛び出してくるのは妹のヒカリの名前で、太一を呼ぶことはめっきり減ってしまった。

代わりに太一を形容する呼称が変わった。

 

“お兄ちゃん”

 

ヒカリがお母さんのお腹にいるときに何度か聞いた、太一の新しい呼び名だ。

お兄ちゃんなんだから我慢しなさい、お兄ちゃんなんだからしっかりしなさい。

“ヒカリ”と同じぐらい、“お兄ちゃん”という言葉が飛び交った。

太一の不満はどんどん溜まっていくばかりなのだが、赤ちゃんのお世話で忙しいお母さんは気づかない。

太一は太一なのに、“お兄ちゃん”なんて名前じゃないのに。

そうやって駄々を捏ねたことも、1度や2度じゃない。

今までずっとお父さんとお母さんの愛を一身に受けて、独り占めしていたのに、突然出来た妹に対していきなりお兄ちゃんになれなんて、無理な話ではある。

そんなもんだから、当初太一は妹のヒカリを嫌っていた。

ぼくからおとうさんとおかあさんをうばった、わるいやつだ。

割と本気でそう思っていたし、時々意地悪をすることもあった。

勿論、その度にお母さんやお父さんに叱られる。

まだ赤ちゃんなんだから、仕方ないでしょって怒られる。

だからますます太一はヒカリが嫌いになる。

でも不思議なことに、ヒカリは兄から嫌がられて、時々意地悪をされているにも関わらず、兄の姿を見るととても嬉しそうに笑うのである。

泣きじゃくって、お母さんやお父さんがよしよしってあやしても全然泣き止まないのに、お兄ちゃんが傍に来るとぴたっと泣き止むのだ。

にこーっと、ふにゃりとした笑みを浮かべて、太一に手を伸ばしてくるのだ。

小さな太一の手よりも、もっと小さな手が、太一の指を握ってくるのだ。

何度邪険に扱っても、何度意地悪しても、太一を見るたびににこーって笑いかけてくる妹に、太一はタジタジだった。

その度に思い知るのだ、己の器の小ささに。

目の前でまだ寝転がることしか出来ない小さい妹よりも、ちっぽけなことに捕らわれているような感覚になるのだ。

 

でもその時はまだ、“兄”としての自覚に芽生えたわけではなかった。

 

 

 

 

 

 

バシン、という弾力のあるものを叩く音が反響した。

 

次に太一に襲い掛かったのは、頬に走るヒリヒリとした痛み。

その痛みで太一の目の端からじんわりと水の粒が溢れる。

見上げた先には、怒りの形相を浮かべているお母さん。

肩をいからせ、歯を食いしばり、顔を真っ赤にして鼻息を荒くしながら、溢れ出そうな怒りを必死で抑えて振り絞るように口にする。

 

「ヒカリは……病気だって言ったでしょう……!」

 

その直後、治療室のランプが消えて、扉が開いた。

ストレッチャーに乗せられて出てきたヒカリに、お母さんが今にも泣きそうな表情で駆け寄る。

叩かれた頬を押さえながら、太一もヒカリの顔を覗き込んだ。

頬を真っ赤にしながら、小さい身体が全身を使って呼吸をしている姿は、見ているだけで胸が痛んだ。

そんなつもりじゃなかったのに、こんなはずじゃなかったのに。

夏も近づき、セミの煩い鳴き声が合唱を奏で始めた頃の季節だ。

まだ身体に見合わない大きなランドセルを揺らしながら、学校から帰宅した太一は、その日は誰とも約束していなかったからどうしようかなぁと考えていた。

お母さんもお父さんも当然だが仕事でおらず、家にいるのは風邪を引いて保育園を休んだヒカリだけだ。

人より風邪を引きやすい体質のヒカリは、もう4日も保育園を休んでいた。

5日目の今日の朝も、共同の子ども部屋の2段ベッドの下で苦しそうに呼吸をしていたヒカリを可哀想に思っていたが、帰宅した太一が見たのはソファーに寝そべってテレビをぼんやりと眺めていた妹の姿。

お出かけの時にしかつけない、お兄ちゃんとは少し形状が違うゴーグルを首から下げて、それを指で弄んでいた。

元より風邪を滅多に引かない元気少年の太一が、それを見てヒカリの具合がよくなったのだと思うのは当然と言える。

特に予定がなかった太一はランドセルを放り出して、ヒカリを連れて近所の公園に遊びに行った。

手に持って行ったのは幼稚園の頃に買ってもらったサッカーボール。

絵本を読んだり絵を描いたりして遊んでいることが多いヒカリは、保育園でも友達が殆どおらず、遊び相手はもっぱらお兄ちゃんである。

普段はお友達とばっかり遊んでいるお兄ちゃんが、珍しくヒカリを誘って公園に連れて行ってくれたから、ヒカリは嬉しくてたまらなかった。

身体が怠いのなんか全然気にしないで、お兄ちゃんとボールを蹴り合いっこしていたが、まだ風邪が治り切っていない病弱な身体が、炎天下にも近い日差しを長時間浴びればどうなるかは、火を見るよりも明らかだ。

結果、ヒカリは倒れてしまった。

頬を真っ赤にさせ、焦点の合わない視界の向こうでぼやけている兄に向って蹴ったはずのボールが、見当違いな方向へ飛んで行ったのが、最後の記憶だ。

気づいた時には病院にいて、お母さんとお兄ちゃんが泣きそうな顔でヒカリを見下ろしていた。

大丈夫?ってお母さんがしきりに声をかけて、優しく撫でてくれたけれど、ヒカリはそれに答えずに兄の方を見上げる。

何かを堪えるような、言いたいことを我慢しているような表情は、ヒカリの知っている兄の姿とは程遠かった。

元気を体現しているような男の子は、勉強もじっとしていることも苦手で、いつも外で遊びまわって泥だらけになって、お母さんにそのことで叱られたって知らん顔するような子だ。

思っていることは全部口にして、相手が誰であろうがズバズバと意見をぶつける子だ。

身体があんまり丈夫じゃないヒカリに対しても、お外で遊ばないからだって引っ張り回して連れ回すのに、何故か黙って見降ろしてくる。

喉を擦るように吐き出される息の中、何も言わない太一を不思議に思いつつ、ヒカリは頑張って口を開いた。

 

「……おにいちゃん……ボール、けれなくて……ごめんね……」

 

その言葉に、太一とお母さんは目を見開く。

ヒカリの口から飛び出てきたのは、熱で苦しい言葉でも兄を恨む言葉でもなく、兄への謝罪だったのだ。

ヒカリが倒れる直前に太一が言い放った言葉に対する返答だったと太一が気づいたのは、翌日。

くらくらする視界の中で変な方向へボールを蹴った時に、太一から聞こえてきた咎めるような言葉。

ちゃんと蹴ろよー、と言いながらボールを取りに行って、太一がほんの数秒目を離した隙に、ヒカリは倒れた。

何が起こったのか理解できず、駆け寄った太一が触れたヒカリの小さな身体は、とても熱かった。

どうしたらいいのか分からずおろおろしていたところに、通りがかった近所に住む小母さんが太一に気づいてくれて、お母さんに知らせてくれたのだ。

救急車を呼び、小母さんと一緒に乗って病院まで向かい、小母さんと一緒に処置室の前でぼんやり待っていたら、お母さんが真っ青な顔をして駆けつけてきた。

まだ風邪が治っていないヒカリが、どうして外で倒れたのって当然お母さんは疑問に思う。

太一がおろおろししながらヒカリと一緒にいたことを小母さんが言えば、お母さんの形相がみるみる般若になっていった。

鬼みたいに顔を真っ赤にして、ぶるぶる震えて、お母さんに引っ叩かれたのはその時だ。

 

──懐かしいな

 

滲む白い背景に浮かんでいるその風景を、太一は自嘲しながら眺めていた。

自分はあの時まで、ヒカリのことは“自分より小さい子ども”としか思っていなかった。

妹というよりも、“一緒に住んでいる遊び相手”という認識の方が強かったのだ。

自分が“兄”であるという自覚が全くなかったのだ。

母親のように、自分の腹の中で子どもが育まれていくでもなし、父親のようにその過程を見守って、母親のフォローをするでもなし、ただ見ていることしか出来ない、甘えた盛りに生まれてきた妹を“妹”として見られなかったのである。

幾ら周りからお兄ちゃんだから、お兄ちゃんなんだからって言われたって、太一自身が自覚しなければ何の意味もないのだ。

お母さんに引っ叩かれて、叱られて、ようやっと自分は“兄”にならなければならないのだと分かった。

妹が何かあった時には、お父さんよりも早く駆けつけて守ってあげないといけない。

妹に異変があった時は、お母さんよりも早く気づいて声をかけてやらなければならない。

それが太一の、“兄”の役目なのだ。

 

《おにいちゃん》

 

再生された苦い記憶が、白く滲む背景に沈むように溶け込んでいき、代わりに現れたのは“あの時”の妹。

 

《ボール、ちゃんとけれなくて、ごめんなさい》

 

くすんくすん、と泣きながら言ったのは、“あの時”の言葉。

……太一は、目を閉じてゆっくりと息を吐いた。

目を開け、徐に妹に歩み寄る。

小さな妹は、自分が思っていたよりもずっとずっと小さかった。

 

「……もういいよ、ヒカリ」

 

あの時言えなかった言葉を、太一はようやく言えた。

顔を真っ赤にして、苦しそうに胸を大きく上下させながら呼吸をしていたヒカリに、言ってあげなければいけなかった言葉。

 

「もういいんだよ、ヒカリ。お前は何も悪くない。俺が、俺がちゃんと“お兄ちゃん”をやらなきゃいけなかったのに、それがどういうことなのか全然分かってなかったから……」

 

そう言って太一は小さなヒカリの頭を撫でてやれば、泣いていた妹は優しい兄の手と言葉で、ぐしぐしと涙をぬぐい、そしてへらりと笑った。

妹の姿が先ほどの記憶と同じく白い背景に溶け込んでいった直後、太一の身体が後ろに引っ張られる。

 

「………………」

 

白かった視界はいつの間にか闇に閉ざされていて、ゆっくりと瞼を開ければ窓から差し込む月の光が、四角い窓から薄暗い部屋を青白く照らしている。

背中にふかふかとした感触と、目の前に広がった木目の板が敷き詰められた天井が視界に入る。

やけに頭と腹が重い気がして、太一は眉を顰めながらゆっくりと時間をかけて起き上がった。

ころん、と太一の腹からピンク色の丸い物体が転がる。

うわ、という聞き慣れた少し掠れた声で、パートナーのコロモンだと気づいた。

 

「コロモン?」

『ううん……ふぇっ!?タイチ!?』

 

口元をむにゃむにゃさせながら、固く冷たい床に転がったことで目を覚ましたコロモンは太一が起き上がっていることに気づいて、赤い目をぱちぱちさせながら太一を見上げる。

 

「……よう、コロモン」

『……タイチ?』

「ああ」

『ほんとに……?』

「ああ、心配かけちまったかな?」

『…………うわぁあああああああああああああああああああああん!』

 

唖然と太一を見上げていたコロモンを抱き上げて、座っている膝に乗せてやる。

何度も確かめるように太一に問いかけたコロモンは、やがて目をうるうるさせて大声を上げてわんわん泣き始めた。

漫画みたいな涙を流して、太一に縋りついてくるコロモンに苦笑しながら、太一はよしよしってコロモンのコロコロした身体を優しく撫でてやる。

 

『ごべん゛ね゛ぇええごべん゛ね゛ぇ゛え゛え゛え゛え゛え゛え゛!!ボクの゛ぜい゛でごん゛な゛ごどに゛な゛っぢゃっでぇ゛え゛え゛え゛え゛え゛え゛え゛』

「おいおい、落ち着けって……」

 

大量の涙を流しながら太一にえぐえぐって縋りついてくるために、太一の青い服が更に濃い青に変色する。

きったねぇなぁ、って太一は笑いながらも、引きはがそうとはしなかった。

鼻水をつけられているわけでもなし、泣き方からしてコロモンに散々心配をかけただろうということは分かったので、邪険に扱うなんてできなかったのだ。

 

『ぼぐ、ぼぐ、だい゛ぢがだお゛れ゛だどぎ、じんじゃっだっでおぼっで!ぼぐ、ぼぐの゛ぜい゛でだい゛ぢが……!』

「だぁから、落ち着けって。泣くなよ、何言ってるか分かんねぇよ」

『……おや、目が覚めたっぴか?』

 

泣いているせいで濁点だらけになっているコロモンに苦笑していたら、からり、と障子が開いて中に入ってきたのは、知らないデジモン。

濃いピンク色の体毛と、丸い身体に取ってつけられたような手足、天使のような羽が頭頂部から生えていた。

 

「……誰だ?」

『命の恩人に対して誰だとは、失礼なやつだっぴねぇ』

「……命の、恩人?」

『ピッコロモン……ぼくたちを、かくまってくれたデジモン……』

 

コロシアムで丈の紋章を探していた時に、ピコデビモンが連絡を取ってくれた、子ども達を匿ってくれるデジモンとはまた別の、子ども達の協力者だそうだ。

 

「ああ、そうだったのか……サンキュ、ピッコロモン」

『うむ。怪我の具合はどうだっぴ?何処まで覚えてるっぴか?』

 

あの時あったことは、断片的にだが覚えている。

瓦礫に埋もれた敵のグレイモンが、その瓦礫の山を吹っ飛ばして起き上がった時、吹っ飛ばされた瓦礫の破片が太一の額部分に当たって気を失ってしまった。

次に気が付いた時には、太一のグレイモンはスカルグレイモンへと変貌して、仲間達を襲っていた。

何が起きたのか理解できなかった。

いつもみんなの先陣を切って、敵に対しても勇敢に立ち向かっていくグレイモンが、全身骨だらけになって不気味な咆哮を上げながら仲間に襲い掛かっている姿なんて、誰が想像できただろうか。

何とか止めることは出来たけれど……その後のことは覚えていない。

それを聞いたピッコロモンは、ふむと一言呟くと、他の子ども達から聞いたことをそのまま太一に伝えた。

太一が気を失った後にピコデビモンが連絡を取ってくれたデジモンが迎えに来てくれたのだが、そこでは太一の怪我を治療する設備が整っておらず、更に最年少の3人まで倒れてしまったらしい。

それはつまり、妹のヒカリも倒れたということで……。

 

「ヒッ、ヒカリ!ヒカリは……っ!!

 

太一の他にも、大輔とヒカリ、賢の最年少3人も倒れたと聞いて太一は当然取り乱し、ヒカリは何処だと尋ねようとして頭に走った痛みで身体を丸めながら呻いた。

 

『これ、無理するんじゃないっぴ。キミは頭を打ったんでショ?頭の怪我は特に気をつけなきゃいけないんだっぴ。大人しく寝てるっぴ』

「っ、でも、ヒカリが……!」

『あの子達なら心配いらないっぴ。さっき様子を見に行ったら、目を覚ましていたっぴ。でも色々あって疲れていたみたいで、私と挨拶したらまた寝てしまったっぴよ。だから君も休みなさい!』

 

び、と槍の鋩と共に正論を突きつけられた太一は、ぐうという小さな呻き声をあげることしか出来なかった。

そんな太一を見て、それまでとぼけた表情を浮かべていたピッコロモンは、突きつけた槍を下ろすと神妙な顔つきになり、目を伏せる。

 

『……ワタシ達の世界のことなのに、全く関係のない君達を巻き込んで、あまつさえ怪我を負わせてしまったことは、本当に申し訳ないと思っているっぴ』

「ピッコロモン……」

『おまけに君のデジモンは、君が怪我をしてしまったことで大変傷ついて、紋章の力を暴走させてしまったっぴ。確かに時間はないっぴ。でもそのために君達を犠牲にするわけにはいかないっぴ』

 

大人しく寝ていれば、頭に巻いている包帯が怪我の治癒を早めてくれるそうなので、太一は渋々寝ることにした。

コロモンはぐしぐし言いながらも、布団に潜りこんで太一にぐりぐりと身体を寄せてくる。

それをそっと抱き寄せて、太一は優しく撫でてやった。

ピッコロモンはお休み、と2人に言い残して、そっと部屋を出て行った。

 

「………………」

『………ごめんね、タイチ』

 

静まり返った空間は、先ほどと変わらず青白い月の光が窓から差し込んでいる。

ピッコロモンが出て行き、鈍い痛みが千留ように疼く中ぼんやりと天井を見上げていたら耳元で声がした。

 

「……コロモン?」

『……ぼくのせいで、タイチがけがしちゃった……ぼくは、タイチをまもらなきゃいけないのに……タイチは、ぼくの、パートナー、なのに……!』

 

治まっていた涙が再び、コロモンの紅い目から零れる。

太一は仰向けにしていた身体を横向けにして、泣いているコロモンと向き直った。

 

「何言ってんだよ……あんときも言ったけど、コロモンは悪くないだろ?悪いのは……」

『ちがわないよ、だってぼくはタイチのパートナーなんだよ?ぼくがまもんなきゃいけないんだよ?なのにぼく……ぼく……!』

 

参ったな、と太一は縋ってくるコロモンを拒否せず受け入れながら眉尻を下げる。

どうしたら分かってくれるのだろうか。

どう言ったら分かってくれるのだろうか。

 

『ぼく、ぼく、こわい。どうしよう、タイチ。またタイチをまもれなかったらっておもったら、こわくてたまらないんだ。ねえ、どうしよう、ぼく、どうしたらいいのぉ……!』

 

ぼろぼろと涙を零しながら心情を吐露するコロモンに、何と言ってやればいいのか分からずに、太一が途方に暮れた時だ。

泣いているコロモンに重なって、“あの日”の妹の声が聞こえてきたのは。

 

《ぼーる、ちゃんとけれなくて、ごめんね》

 

夢の中で、もういいよと言ってやった時の妹の言葉。

まだ風邪が治りきっていなかったことに気づかずに連れ回してしまい、強い日差しによって倒れてしまった妹。

 

《ごめんなさい》

 

悪いのは妹の体調不良に気づけなかった太一だったのに、“お兄ちゃん”にならなければならなかったにも関わらずそれを怠った太一だったのに、妹はお兄ちゃんを責めなかった。

それは、その言葉は倒れる直前に聞いた兄の、ちゃんと蹴ろよーという不満の返答だった。

 

──ああ、そうか。

 

どうして今になってあんな夢を見たのか、分かった気がした。

今のコロモンは、“あの時の妹”だ。

太一が怪我をしてしまったのを自分のせいだと思い込んで、心に闇が生まれて力を暴走させてしまったコロモンは、“あの日の妹”と同じなのだ。

同時に、“あの日の自分”でもあるのだ。

太一を護れなかったコロモンは、まさしく“太一”だった。

兄である自覚がなかった太一と、護るべきパートナーであるとちゃんと理解していたコロモンとは少し違いはあるだろうが、それでも今のコロモンは“あの日の太一”によく似ていた。

意識は取り戻したし、ここに連れてきた時にピッコロモンにも看てもらったお陰で、特に後遺症はないだろうというお墨付きももらったけれど、それでもコロモンはきっと気が気ではなかったはずだ。

太一がこのまま目を覚まさなかったらどうしよう、死んじゃったらどうしよう。

目を覚ましたとして……もうコロモンなんか嫌いだと言われたら。

もういらないと、パートナーなんかじゃないと拒絶されたらどうしようと。

きっとコロモンは、自分が死ぬよりもパートナーが死んでしまうことの方が、パートナーに拒絶される方が怖い。

自分も同じだった。母に引っ叩かれてようやく妹が抱えている弱さを知った太一は、ヒカリが目を覚ますまで気が気ではなかった。

ヒカリが目を覚まさなかったらどうしよう、ヒカリが死んじゃったらどうしよう。

目を覚ました妹に再度謝られて、太一は猶更自分を責めた。

ごめん、ヒカリ。お兄ちゃんが悪かったって。

でもヒカリが見せてくれたのは、困ったような表情。

その時は分からなかったけれど、あの日のヒカリの言葉の真意が、今になってようやく分かった。

コロモンが欲しいのは、お前が悪いんじゃないという否定の言葉じゃない。

 

「……コロモン」

 

太一は、怖い夢を見てお兄ちゃんのベッドに潜り込んでくる妹に見せるのと同じ顔を、コロモンに見せてあげる。

ぐすぐすと泣いていたコロモンは、目をぱちぱちさせながら太一を見つめた。

 

「好きだぜ」

『……タイチ?』

 

ぎゅ、と抱きしめてやる。

 

「好きだよ、大好きだよ、コロモン。“あんなこと”ぐらいで、嫌いになったりするもんか」

『っ!』

 

それはきっと、ヒカリが言いたかった言葉。

それはまさしく、太一が言わなければならなかった言葉。

 

「ごめんな、コロモン。怖かったよな、こんなことになっちゃってさ。俺、お前と一緒だと何にも怖いもんがなくなってたから、すっかり忘れてたぜ。自分が生身の人間だったってこと」

 

最初こそ見慣れない生き物に警戒していたものの、1ヵ月近く共に過ごしているうちに情のようなものが芽生え、それがいつしか信頼になっていた。

その信頼が、今回の事態を最悪な方向へと導いてしまった。

でも、きっともう大丈夫。

 

「ありがとう、コロモン。もう大丈夫だよ。俺はここにいる。だから……そんなに自分を責めるなよ。な?」

『……タイチ』

「俺がいいって言ってんだから、いいんだよ。あーでも、他のみんなにはちゃんと謝っとかないとなぁ。明日一緒に謝ろうぜ」

『……タイ、チ……』

「さっ、寝よ寝よ!早く怪我治して、お前らの世界を救わないといけねーんだし!」

 

太一がしなければならなかったのは、否定の言葉をかけることではなく、コロモンを安心させてやることだ。

コロモンは守らなければならないパートナーを、みすみす守れなくて傷ついてしまった。

それは事実だ。

周りがどれだけ、例えそれが太一であっても、お前のせいじゃない、お前は悪くないと言ったところでコロモンは自分を責めるだけである。

ならばどうすればいいのか、簡単なことだ。

傷ついているコロモンを抱きしめてやること、それだけでいい。

パートナーを護れなかったから泣いているのだから、そのパートナーがもういいって、大丈夫だって言えばいいのだ。

ごめんじゃなくて、ありがとうと言えばいいのだ。

ごめんという言葉は、相手の罪悪感を増幅させてしまう言葉だから。

 

「明日からまた頑張ろうぜ。失敗したって、何度だってやり直せるんだ。俺の怪我が治ったら、また頑張って護ってくれよ。俺も……お前が頑張れるように、精一杯やるからさ」

 

太一は、ここにいる。

ちゃんと、ここにいる。

自分を拒絶せずに、優しく抱きしめてくれる太一を、コロモンは目をぱちぱちさせながら見つめた。

 

「お休み、コロモン」

 

そう言うと太一はコロモンを抱きしめたまま目を閉じる。

数秒後に聞こえてきたのは、すーという寝息。

数分すればその寝息は男子を悩ませる鼾へと変わるだろう。

初めて一緒に寝た時は、その鼾にびっくりしてその夜は一睡もできなかったものだ。

1週間もすれば慣れてしまったその鼾が、今聞けるのはきっと奇跡。

 

『……タイチィ……』

 

ぼろ、とまたコロモンの紅い目から涙が溢れる。

護れなかった自分を責めるでも、許すでもなく、太一はありがとうと言った。

それだけでコロモンの心の中に溜まっていた蟠りや、燻っていた闇がすーっと晴れていったのが分かった。

また太一をあんな目に合わせるのではないかと思うと、不安で、怖くて溜まらなかったのに、いつの間にかそんな気持ちが何処かへ飛んで行ってしまったのである。

 

『……ごめんね、タイチ』

 

もう夢の中へと旅立っている太一には、きっともう聞こえていない。

もういいと太一は言ってくれたけれど、それでも最後に1度だけ謝罪がしたかった。

これで、最後だ。

 

 

きっともう大丈夫。

 

 

 

 

 

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