ナイン・レコード   作:オルタンシア

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いまとむかしとみらいのおはなし
Butter-Fly


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2030年7月25日、木曜日。

 

 

八神太一は外交官である。

 

デジモンとデジタルワールドの存在が人間に認知されるようになってから、2つの世界は手を取り合って共存する道を選んだのだが、それに伴い新たな問題も増えた。

人間側はデジモンを悪用したり犯罪に利用する者、憂さ晴らしや八つ当たりなどで虐待をする者、宗教的な理由でデジモンの存在を否定し抹殺しようとする者、デジタルワールドを我が国の領土と主張する者。

そしてデジモン側は、人間を見下して人間界に侵攻しようと企んだ者。

異なる空間にある2つの世界と共存するなど前代未聞であるために、そう言ったことに関する世界的法律がまだできていなかった時代、そう言った問題を解決していたのは太一と大輔をリーダーとして活躍していた世界中の選ばれし子ども達であった。

最初、政府の人間は子ども達にそう言った問題を解決させることに難色を示していたが、かといってパートナーのいない大人達ではどうすることもできず、況してやデジモンは現実世界にいると精密機械を狂わせてしまうほどの強い電磁波を放つために、人間だけで対処することはほぼ不可能に近かった。

それらを1つずつ解決していったのが、世界中の選ばれし子ども達なのだ。

デジモンを悪用したり犯罪に利用する者や、デジタルワールド及び人間界の支配を企んだ者には容赦なくパートナー達に叩きのめしてもらい、虐待する者は生身でデジタルワールドを冒険させて心を折らせたり、なかなかに容赦のないことをしたこともした。

デジモンの存在を否定する者、抹殺しようとする者は時間をかけて話し合った。

理解と納得をしてくれた者もいたし、それでも認めようとしない者もいた。

話し合いで全てが解決するとは思っていないが、それでも理解してもらう努力をしないという理由にはならない。

これは世界中の“元”選ばれし子ども達と現えらばれし子ども達の目下の課題でもあり、外交官としての太一の大切な仕事の1つでもあった。

だが太一の主な仕事は、現実世界とデジタルワールド間の調整や橋渡し、新たな問題が起こった時のための書類づくり等である。

太一達が初めてデジタルワールドを冒険したのは31年も前だが、2つの世界の交流が正式に始まったのはここ数年のことだ。

問題はまだまだ山積みで、次から次へとトラブルが太一の下に舞い込んでくるせいでなかなか家に帰れない日が続いているが、それでも太一は大切な世界に関われる仕事にやりがいを感じていた。

 

「八神外交官」

 

デジタルワールドと人間界の橋渡しになると決めたあの日から、がむしゃらに走ってきて早10年近く。

太一は今や世界になくてはならない重要人物となっていた。

毎日のように机に積まれる書類は、次から次へと生まれている2つの世界の問題に関する書類だ。

それらを隅々まで目を通していたら視界が霞んできたので、目頭を押さえていたら、秘書に話しかけられた。

要件を聞くと、太一の後輩と名乗る者が尋ねてきた、ということだった。

太一の後輩、というとあいつしかいない。

あいつも、太一と同じく2つの世界を繋ぐために誰よりも走り回った功労者だ。

有事の際には外交官と同じ権限が与えられており、外務省にも自由に出入りできるのだが、自分は一介の一般人ですからと言って、太一の職場に来たことは殆どなかったのに。

太一は秘書や部下達に断りを入れて、後輩が待っているロビーに出向く。

 

「よう、大輔」

「!太一先輩!」

 

ふかふかのソファーに座っているのは、見知った後輩の後ろ姿。

遠慮なく声をかければ、まるでご主人を見つけた子犬のように分かりやすく反応した。

もうとっくに先輩後輩の関係ではなくなっているから、太一さんでいいんだぞって言っても、この後輩は、先輩はいつまでも俺の先輩ですから、と言って先輩呼びを止めようとしない。

太一も、相手が大輔だからとその呼び方を許した。

 

「どうしたんだよ、今まで何度遊びに来いって言っても一般人ですからって断ってたのに、珍しいじゃんか」

 

何かあったか?と尋ねながら太一が向かいのソファーに座ると、大輔は笑顔を引っ込めてしまった。

ん?と思ったが、特に気にせず話を続ける。

 

「そういやブイモンはどうした?一緒じゃないのか?」

「……店番、させてます。連れてけってごねられたんですけど……」

「連れてくりゃよかったのに。俺は気にしないぞ?」

「………………」

「……大輔?」

 

何故か、大輔は目を伏せてしまった。

前かがみになるように背中を丸めて、両膝に両腕を乗せ、太一と大輔の間にある脚の低いガラスのテーブルを見つめている。

微かに反射した大輔の表情は、いつもの彼らしくなかった。

 

「……何かあったのか?」

「……そういうわけじゃないです。ただ……何となく太一先輩に逢いたくなって……」

「はあ?なぁに言ってんだよ、あと1週間もすりゃ逢えただろ?」

 

1週間後の金曜日は、8月1日だ。

31年前のその日は、太一達選ばれし子どもがデジタルワールドへと召喚された日で、今は“デジモンの日”という祝日になっている。

その日は、どれだけ仕事が忙しくとも、絶対に集まろうとみんなで決めた大切な記念日だ。

成長するにつれ、みんなそれぞれの夢や仕事で忙しくて顔を合わせることも少なくなっていたけれど、その日だけは何があっても顔を合わせようと決めたのである。

毎年の恒例行事となっているその日は、デジタルワールドで1泊2日のキャンプをしていた。

今年ももちろん、空やミミが中心となってその計画を立てており、その日に向けて休暇を取るために仲間達は仕事をこなしている真っ最中である。

太一の言う通り、1週間後には必ず逢えるのに、どうしてこの後輩は逢いに来たのだろうか。

 

「……いやぁ、太一さん最近忙しくて、うちの店にも食べに来てくれないじゃないですか?前に来たの、確か去年の10月でしたよね?」

「……そういやぁ、最近やけにデジタルワールドと現実世界のトラブルが増えてきて、てんやわんやしちまってたな……」

 

去年までは、少なくとも月に一回は近所にある大輔のラーメン店に赴いて、大輔が手ずから作ってくれたラーメンを食べていたのに、最近は愛妻弁当ばかりだった気がする。

妻にも、最近本宮さんのところに行かないのね、なんて指摘されていたような……。

 

「うちの店に来れないほど忙しいのに、遊びに行くのもどうかなーとは思ったんですけど……一回気になっちゃったらもう、忘れられなくて……」

 

苦笑いする後輩に、そう言うところ変わってないよなぁと太一は笑った。

要は、最近顔を見せなくなった太一を心配して来てくれたのだ、この後輩は。

猪突猛進のくせに周りをよく見ていて、1人ぼっちでいる子に真っ先に声をかけることが出来るぐらい、気遣いがあって優しい子だった。

言葉も気持ちもストレートにぶつけてくるから、ヒカリを始めとする大人しい子には引かれがちだったものの、大輔のそういうところ嫌いじゃないと、昔ヒカリが笑いながら言っていたことを思い出す。

 

「はは、悪かったな、心配かけて。確かに問題は増えてきたけど、俺の部下達はまあ優秀な奴ばっかでさ。少しずつ片付いているから、心配すんな」

「………………」

「そんな顔すんなって。仕事がひと段落したら、ラーメン食いに行ってやるから。部下達も全員連れてってさ」

「……ありがとうございます。太一先輩の元気な顔見れて、安心しました」

 

豪快に笑う太一に、本当に何でもないのだと判断したらしい大輔は、ようやく昔と同じ微笑みを浮かべてくれた。

よほど心配をかけてしまったらしいなぁ、と反省し、再度詫びるともう帰りますと言って立ち上がった。

 

「そっか。お見送りしたいんだけど、まだ仕事残ってるんだ。早いとこ戻らないと……」

「いいっすよ。太一先輩の顔見れましたし。早く戻ってあげてください」

 

俺は気にしないんで、という後輩の言葉に甘え、太一は自分の部署に戻る。

 

「問題増えちまったら、お前に押し付けるために呼び出すかもしれないから、覚悟しとけよー」

「えー、勘弁してくださいよ、太一せんぱーい」

「ははは、またな大輔!次は1日だ!ちゃんと準備しとけよ!」

 

冗談を言ってやれば、本気で嫌そうな表情を浮かべる大輔が面白くて、太一は笑う。

昔から喜怒哀楽の表現が分かりやすい大輔は、先輩達のかっこうのおもちゃだ。

太一はその筆頭で、構ってやっては揶揄って大輔の反応を楽しんでいた。

素直な大輔はそれを真に受けてきぃきぃと全身を使って怒るものだから、上級生達はますます大輔を可愛がる。

きっとこれからもこの関係は変わらないんだろうな、と思いながら、太一は背を向けて今度こそ自分の部署に戻った。

 

 

「…………さよなら、太一先輩」

 

 

その背が見えなくなるまで見送っていた大輔が、今にも泣きそうな顔でそう呟いたことに気づかぬまま。

 

 

 

 

 

 

 

 

2030年7月28日、日曜日。

 

 

記念日まであと4日と迫ったところで、太一は職場からくたくたになりながら出て行く。

デジタルワールドと現実世界の橋渡しの第一人者と呼ばれている太一は、毎日のように運ばれてくるデジモンと人との間で起こったトラブルに関する資料に全て目を通し、優先順位などを決めては部下や同僚達に振り分けたり、デジタルワールドのエージェントとリモート会議をしたりと、なかなかに忙しい日々を送っているのだが、毎年8月1日の1週間前ぐらいになると、同僚や部下達は気を遣って定時で帰らせてくれるのである。

一昨日は約1年ぶりに夕焼け空の下を歩いて帰宅したのだが、何故だか涙が出てきた。

スマホを取り出して、SMSで妻に今から帰る旨のメッセージを送り、スタンプで返事が返ってきたのを確認してから太一は職場の敷地を出た。

毎日毎日帰宅が0時を超えても、妻は文句を何1つ言わずに帰りを待ってくれて、軽い夜食も作ってくれて、本当に感謝している。

先に寝てていいんだぞ、っていつも言っているが、毎回貴方を待っている時間も楽しいの、って返されるので、ここ数年は手土産を欠かさないことにしている。

今日は何にしようか、とぼーっとした頭で考えながら門を出たら、門のところで誰かが佇んでいた。

誰か待ってんのかな、と思いながらそちらに目を向けて、太一は立ち止まった。

 

「……賢?」

「……あ、太一さん」

 

そこにいたのは少々草臥れたトレンチコートを羽織って、ぼんやりと何処か遠くを見つめていた、“元”選ばれし子どもの仲間で、3日前に突然やってきた後輩の親友、一乗寺賢だったのである。

こんにちは、いえこんばんは?と苦笑しながら駆け寄ってきた賢に、太一は先ほどまで見せていた疲れも忘れて笑顔を浮かべた。

彼もまた、成長するにつれ仕事が忙しくなって逢う機会が減ってしまった仲間だからだ。

とは言っても、賢とは大輔やタケルほど交流があったわけではない。

殆どが大輔を通してのものであったし、過去の出来事のこともあってか、賢は積極的に太一に絡んでくることはなかった。

元来優しい賢は、昔自分がしてしまったことを今でも後悔しており、その償いをするために刑事になったのだとヒカリから聞いたことがある。

 

賢には兄がいた。10歳の時に亡くなったらしいのだが、彼はいわゆる天才少年で、両親はそんな兄を溺愛していたらしい。

天才少年を生んだ親としてご近所でも有名で、兄が褒められるたびにいつも鼻高に兄を褒めていた。

賢のことも褒めてはくれていたが、まるで兄のついでのような物言いだったので、賢は寂しい幼少期を送っていたらしい。

兄さえいなくなれば、と呪いにも似た想いを抱えていた賢は、実際に兄がいなくなっても両親の関心が自分に向けられることがなかったために、余計に寂しくなったそうだ。

その心の傷と隙間を狙われ、賢は“ある者”に唆された結果、“デジモンカイザー”という人格を得て、デジタルワールドを歪ませ、支配しようとしていた。

それが全て仕組まれていたものだと知らず、全て自分の意志だと信じて疑わず、デジタルワールドを破壊して回った賢は、パートナーの死という出来事によって目を覚ました。

その後は自分がしでかしてしまったことの償いをするために1人で行動していたのだが、大輔の真摯な対応と心に響いた言葉により、正式に仲間に加わった。

しかし賢が犯してしまった罪は、幾ら償おうとも消えることはない。

もう自分のように苦しみ、悲しむ人間を増やしたくなくて賢は刑事になったのである。

 

「どうしたんだよ、賢。何かあったのか?」

 

12人の“元”選ばれし子ども達のうちの1人ということで、デジモンに関する犯罪を取り締まる課が新しく出来、賢はその課の責任者となった。

仕事の内容としては太一がやっていることとよく似ているが、賢が太一の職場に来ることは殆どなく、連絡を取り合うとしてももっぱらメールやビデオ通話がメインな今日(こんにち)、顔を合わせることも珍しい。

何か重大な事件でもあったのだろうか、と太一の眉間に皺が寄ったが、それは杞憂だった。

 

「あ、いや……何かあった、ってわけじゃないんです……ただ、何か顔が見たくなって……」

 

気まずそうに、照れ臭そうに、頬をかきながら賢はそう言った。

はあ?と拍子抜けした太一は間抜けな声を上げる。

同時に、安堵した。

 

「なぁんだよ、妙に真剣な表情して立ってたから、何か大変な事件でも起きたのかと思ったぜ」

「それだったらこんなところで呑気に突っ立ってませんよ」

「それもそうだ」

 

太一と賢は笑いながらそんな軽口を言い合った。

正直、太一は賢のことをあまり好いていなかった。

何よりも大切な相棒を操って、無理やり戦わせるようなことをしでかしたのだ、到底許せるはずもない。

しかし元来大雑把な性格の太一は、パートナーの死で本来の自分を取り戻し、自分の罪を償うために頑張ってきた賢を知り、許すと決めたのだ。

仲間達はごちゃごちゃ言っていたが、反省している奴をこれ以上責めるのは違うだろうという鶴の一声により、仲間達は渋々だが納得してくれた。

その内、賢の頑張りも徐々に認められ、冬になる頃には完全に許され、本当の意味で仲間になった賢を、実は大輔とタケルの次くらいに気に入っていた。

 

「しかし、お前と言い大輔と言い、あと4日もすりゃ逢えるんだからわざわざ逢いに来なくったってよかっただろうに」

「………………」

「賢?」

「……あの、太一さん……今日、アグモンは?」

「ん?今日はデジタルワールドに。あっちでちょいとトラブルがあったみたいでな。ゲンナイさんに泣きつかれて鬱陶し……いや、仕方なくヘルプに行ったんだ」

「……そうでしたか」

「そう言う賢こそ、ワームモンはどうした?」

「最近京さんが、子ども達の世話が大変そうだったので、ホークモンと一緒に京さんの手伝いをしてもらってます」

「そっかー。お前んとこ3人だもんなぁ。1番下の子はもう3歳なんだっけ?」

「はい。いたずら盛りで大変ですよ。この前も壁に油性ペンで落書きしちゃったみたいで……」

「あー、心が折れる奴だなぁ、それ。うちんとこも今でこそ大人しいけど、そんぐらいの頃はティッシュ巻き散らかしたり、コンセントの穴に色んなもん突っ込んだり、大変だったわ」

 

息子が初めてデジタルワールドを冒険したのは、あの時のタケルと同い年の時。

今はあの時の自分と同い年で、太一のような闊達な性格ではないものの、決断力は彼によく似ており、今は小学生達を率いて立派なリーダーとなっている。

ちなみに中学生のリーダーは大輔の息子だ。

 

「ん?アグモンに何か用事でもあったのか?」

 

話がどんどんずれていったが、アグモンのことを尋ねたということは、アグモンに用があったのだろうか。

そう思って聞くと、賢は何故か押し黙り、先ほどまで浮かべていた笑顔が消えて目を伏せてしまう。

 

「………………」

「……賢?」

「……大した用じゃ、ないんです。ただ……あの時のことを、ちゃんと謝っていなかったなぁ、って思ったら……居ても立っても居られなくなってしまって」

「………………」

 

太一は唇をきゅっと結んで賢を見やる。

賢が言っているのは、十中八九“あの出来事”だろう。

彼がデジモンカイザーと名乗り、デジタルワールドを支配しようとしていた時。

彼は“イービルリング”という特殊なリングを使ってデジモン達を操っていたのだが、そのリングは成熟期までのデジモンを操ることはできてもそれ以上のデジモン、完全体を操るには情報処理が不足していたために、完全体を完璧に操るために太一のパートナーであるアグモンに酷な実験を強いて、挙句自分の家来としてメタルグレイモンを操ったのである。

大輔とブイモンの活躍により、アグモンを取り戻すことは出来たのだが、メタルグレイモンを操るために生み出したイービルリングの改良版、イービルスパイラルで更にデジモン達を下僕とし、苦しめてきた。

賢が正気に戻ってからは色々あってみんなでバタバタしていたし、何より賢を許すと決めたからすっかり忘れていた。

アグモンもあの時のことは全く気にしていなかったから、今更そんなことを、というのが太一の心情である。

それでも、伊織ほどではなくとも真面目な賢はずっと気にしていたようだ。

 

「……謝ったからと言って許されるわけがないのは分かってますし、自分のエゴだとも分かってます。でも、どうしても謝罪したいんです。太一さん、あの時は本当にすみませんでした」

 

深々と頭を下げる賢に、太一は参ったなと苦笑した。

これが大輔なら、そんなことのためにわざわざ来たのか、って豪快に笑い飛ばしてやれるのに。

 

「……俺じゃなくてアグモンに謝ってくれよ」

 

分かっている。これは賢なりのケジメなのだということぐらい。

それを分かっているから、太一は賢を許すことにしたのだ。

でもそう言えば、賢に面と向かってそう言ったことがなかったなぁと思い出す。

言っていれば、賢も今更になって謝罪してくることはなかったかもしれない。

そうすると悪いことをしてしまったな、と思いながら、太一は上記の台詞を口にした。

人間とデジモンは一心同体なのだ、自分に謝るのならパートナーにも当然謝ってもらいたい。

それでチャラにしてやると、と付け加えるが、賢は何故か悲しそうな表情を浮かべるだけだった。

あれ?と太一は首を傾げる。

てっきり安堵すると思ったのに。

 

「……そう、ですね」

「そうだよ。8月1日になったら全員集合するんだから、そん時に改めてアグモンに謝罪すりゃいいじゃんか」

「………………はい」

 

やっぱり賢の表情は晴れない。

賢の望んでいる言葉が分からなくて、太一は頬をかいた。

大輔ならもっと分かりやすい反応してくれんのになーと思っていたら、俯かせていた顔を上げて太一を見てきた。

その目には、先ほどまで浮かべていた悲しみの色は何処にもなかった。

 

「……突然訪ねたりして、すみませんでした。僕、もう帰ります」

「そうか。気を付けて帰れよ」

「はい」

 

ありがとうございました、と言って賢は頭を下げ、踵を返して太一に背中を向けて歩き出した。

……その背中が妙に物悲し気で、太一は思わず賢を呼び止める。

 

「賢!」

 

振り返る賢。

太一は子どもの頃から変わっていない笑顔を浮かべながら、手を振った。

 

「またな!」

「………………」

 

賢はそれに返事をせず、もう1度頭を下げて再び背中を向けた。

 

 

 

 

 

 

 

2030年7月31日、水曜日。

 

 

明日はいよいよ記念日だ。

太一達が初めてデジタルワールドを冒険し、生涯の友と出逢った大切な日。

世界中の人間にデジモンのパートナーが現れるようになってから、世界は一新した。

新しい仲間と過ごすためのルールを1から作り上げ、今日(こんにち)に至るまでに血の滲むような努力を積み重ねて出来上がった平和の礎。

世界はその日をデジモンの日とし、パートナーとの絆を深めるための、世界共通の祝日と定めた。

外交官である太一の仕事は、デジタルワールドと現実世界の橋渡しだけでなく、デジモンを利用した侵略や戦争が起こらないようにするための調整役でもある。

デジモン達は人間の友達であり、仲間であり、隣人なのである。

共に生きる命なのである。

決してデジタルな世界の、デジタルな存在でも、況してや人間の欲望を叶えるための道具でもない。

当初はそれを分かっていない人間が大勢いたため、太一をリーダーとする世界の選ばれし子ども達は大変な苦労を強いられた。

特に、武力で他国を支配しようとしている国は、まず入国するのが大変だったし、話を聞いてすらもらえなかったものだ。

いっそのことそう言った国にはデジモンを送ることを止めるか、という意見も出たが、その国にいる選ばれし子どもに被害が及びそうになったので、太一と大輔がぶちギレて不法入国上等と言わんばかりの方法で相手国に乗り込み、説得(物理)を試みてようやく納得してもらえた、という逸話は最早伝説として語り継がれている。

デジモン達に何かしたら2人のデーモン(悪魔)が国を滅ぼしに来る、とさえ言われるほどになってしまったが、それはそれでデジモンに無茶なことを強いることが減ったので良しとしよう。

 

8月1日は記念日として祝日になったとはいえ、まだデジモン達との共存が始まってから数年ほどしか経っていない今は、まだまだ問題が山積みである。

しかも太一はデジタルワールドと現実世界の外交官であるために、デジモン関連の問題に関する資料は毎日のように届くから、それに目を通さないといけないのだ。

例え2つの世界の危機を救った英雄の1人とはいえ、特別扱いはできないのである。

明日は1度家に帰ってからデジタルワールドに向かうため、今の内に準備を済ませてしまおうと、定時で上がって妻の手料理を堪能した太一は自室へ向かう。

出張の時に使うボストンバッグを取り出し、1泊分の着替えやらパジャマやらアメニティやらを用意していたら、コンコンと控えめなノックが聞こえた。

返事をすると、扉を開けた妻が上半身だけを覗かせて、電話が来た旨を伝える。

誰だ、と聞いたら妹さんよと帰ってきた。

目に入れても痛くないほどに溺愛している、妹のヒカリから電話なんて珍しい、と目を丸くしながら準備を途中で放ってリビングに出る。

外されている受話器を手に取って、太一はもしもしと呼びかけた。

 

《……もしもし》

「どうした、ヒカリ?珍しいじゃんか、電話なんて」

 

いつもならSMSで済ませるのに、と太一は笑う。

デジモンとの共存によりインターネットは急速な発達を遂げ、今や固定電話は物好きぐらいしか所持していない。

強力な電磁波を発生させるデジモン達のお陰で、ちょっとやそっとじゃ電波障害なんて起きないぐらいには発達したし、電波を必要としない電子機器も増えたのだ。

しかしこれから先、万が一億が一、ということはある。

現実世界に住むデジモン達のために電波障害対策はしてあるが、それでもせいぜい成熟期レベルの対策だ。

完全体や究極体レベルになると発生する電磁波は並みのものではないから、太一達は今でも固定電話を所持しているのである。

 

《……声が、聴きたくて》

「……変なこと言うなぁ。明日逢うんだから、嫌でも聞くだろ?」

《うん……》

 

一体どうしたと言うのだ、この1週間、3日起きにそんなことを言ってくる人物が3人もいるなんて。

もうすぐ記念日で全員集合するのに、どうして大輔も賢もわざわざ逢いに来たのかさっぱり分からない。

おまけに近くに住んでいる妹まで、声が聴きたくなったという理由で電話してくるなんて。

太一が住んでいるマンションは実家と同じなのだが、ブラコンなヒカリもお兄ちゃんがいるからという理由で階違いの同じマンションに住んでいる。

作ったスープが冷めない程度の距離だが、近いが故にいつでも会えるだろうという理由で、太一もヒカリも互いの部屋には滅多に行かない。

それでも兄妹だから、他のメンバーよりは逢っている回数は多かった。

 

「……どうしたよ、元気ないな?」

 

滅多に電話をしてこない妹の、突然の電話と声の張りがないことから兄としての勘が働き、太一は優しく尋ねる。

何か嫌なことでもあったのだろうか、旦那と喧嘩でもしたか?

もしもそうなら、旦那をとっちめてやらなければ、とシスコン丸出しなことを考えていると、ヒカリは蚊の鳴くようなか細い声でううんと言った。

 

《何でもないよ。ただ、本当に声が聴きたかっただけ》

「……そうか?」

《うん……本当は、逢いに行きたかったんだけど……こんな時間だったし》

「今から来るか?」

《あはは、それもいいかもね……でもやめとく》

 

昔のヒカリなら、兄にそう言われたら素直に来ていただろう。

例え8時を過ぎている時間帯だとしても。

太一の妻もヒカリがブラコンで、太一がシスコンであることは重々承知しているから、夜分遅くにヒカリが訪ねてきても、あらあらいらっしゃいって穏やかな笑みを浮かべながら招き入れてくれただろうけれど、流石にそれは悪いと思ったのか、ヒカリはそう言って遠慮した。

 

「……本当に何でもないのか?何かあるんだったら、兄ちゃんが相談に乗るぞ?」

《……ううん、いいの。もう……いいんだ》

 

いつだって兄の後ろに隠れていた妹。

自分には見えない“何か”を、聞こえない“何か”を、感じない“何か”を理解していたヒカリ。

そのせいなのか自分の気持ちを全面的に出さずに、いつも心の中に仕舞っていた。

兄だから分かる、今回も本当は“何か”あったはずなのに、妹は兄に迷惑がかかるかもしれないと思って言わないのだ。

太一に助けてほしくて電話をしてきただろうに、太一に迷惑をかけるかもしれないから言えないなんて、気づいてほしい、聞いてほしいと言いたげなのはお見通しだった。

何度も何度も根気よく、しつこく尋ねなければ自分の心情を吐露できない妹が、何だか可哀想で……とても愛おしかった。

 

「……ヒカリ?」

《ありがとう、お兄ちゃん。こんな時間にホントにごめんね?》

 

だから今回もヒカリが観念するまで尋ねてやろうと思ったのだが、ヒカリもそんな太一の心情などお見通しだったようで、会話を終了させようとする。

太一は呆れたが、どうせ明日逢うのだからその時に問いただせばいいか、と思って敢えてヒカリに乗ることにした。

 

それが、間違いだったと気づかずに。

 

「お休み、ヒカリ。また明日な」

《………………お休みなさい》

 

ガチャリ、と電話の向こうで通話が切れる音がする。

 

ヒカリは、また明日とは言わなかった。

 

 

 

 

 

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