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外から絶えず聞こえてくる打撃音、爆音、衝突音。
暗闇の向こう、粗末な岩の蓋で閉ざされただけの隔たりの向こうで、自分の命を狙っていた者が派手な戦闘を繰り広げている。
ブイモンは必死に目と耳を塞いで、時が早く過ぎるのを待った。
ボロボロと涙を零して、心が壊れそうになるのを必死で耐える。
しかしそれも時間の問題だ。
助けてくれたデジモンが負けてしまったら、次は間違いなく自分達の番である。
どうして、どうして、どうして。
そればっかりが頭の中を駆け巡って、その度に粉々に砕けかけて、それでも必死で保とうとしている心が悲鳴を上げている。
耳を塞いでいるせいで使えない両手の代わりに、身体を小さく丸めてしゃくりあげる声を膝で押さえつけるように、飲み込んだ。
どうして、どうして、どうして。
外から音が叩きつけてくるたびに、ブイモンの脳裏には目の前であっさりと死んでしまった仲間の姿が浮かび上がってくる。
“見つかったら、殺される”
助けてくれたデジモンの言葉通り、見つかったら仲間達みたいにきっと潰されてしまうんだ。
成す術も抵抗すら許されずに、惨めに死んでいくんだ。
だからブイモンは祈る。
死にたくない、見つかりませんように。
助けてくれたデジモンが、勝てますように。
そしたらきっと助けてくれたデジモンは、いつ見つかるか分からない脆弱な岩の蓋を開けて、自分達をもっと安全なところまで連れて行ってくれる。
そこにはきっと、助けてくれたデジモンが助けた、他の仲間もいる。
怖かったねって、助かってよかったねってみんなで無事を確認し合って、それで思いっきり泣くことが出来る。
だから今は耐えよう、仲間達と再会する時まで、そこら辺に転がっている石ころみたいに。
それだけがブイモンの希望だった。
でもその希望は、あっさりと崩される。
《死ねぇっ!!》
しっかりと閉じていたはずの目はいつの間にか開かれており、自分達を覆い隠していたはずの岩の盾は何処にもなかった。
白く光る背景と、黒い陰。
引き裂かれた黄金色。
足元がガラガラと崩れ落ちていく錯覚の中、黒い陰はゆっくりとこちらを振り向く。
──……ミ ツ ケ タ
何処かで闇が嗤った気がした。
海の底の貝のように閉じていたブイモンは、深淵の空虚から引き上げられる。
高い天井は自然物ではなく、誰かの手が加えられた美しい長方形が並んでいた。
震える四肢に何とか力を入れて、ゆっくりと起き上がる。
全身が怠さを訴えていて、座っているのも億劫だった。
──ここ、どこ?
頭の中がぐちゃぐちゃになっており、自分が何処にいるのかも分からない。
目の前で大きな四角が発光しているが、ブイモンは気にも留めずに寝かされていた台を降りた。
脚に上手く力が入らず、降りた際にガクンと膝から崩れ落ち、受け身も取れずに倒れ込んだ。
『………っ……』
全身に走った痛みに、呻き声すら出てこない。
ぽろ、枯れたはずの涙が一筋零れる。
発光している四角のお陰で、闇の中でも辛うじて何が何処にあるのかが判別できた。
目の前の少し離れたところに、上に続く階段が見える。
ブイモンは震える手足を何とか動かし、時間をかけて階段まで這っていった。
その度に目尻に溜まった涙が零れた。
次第にしゃくりあげられていく吐息を、唇を噛みしめて押さえながら、何とか階段に辿り着いたブイモンは、更に両手を使って這って上がる。
かなりの時間をかけて踊り場まで登ったが、体力も気力もかなり消費したことで肩を上下させるほど息を切らしていた。
それでも、ブイモンは震えて力の入らない足に何とか力を入れて、壁に身体を預けるようにもたれかかり、壁伝いで歩き出す。
煉瓦が積み上げられた薄暗い廊下に、ブイモンのしゃくりあげる声だけが響き渡っていた。
ボロボロ零れてくる涙は、何度拭っても次から次へと頬を伝う。
だって思い出してしまったのだ。
心の奥底、小さな箱の中に押しやってきつく蓋を閉じてしまっておいたはずなのに、それが突然内側から弾けるようにぶわーっと溢れ出てきたのである。
助けてくれた黄金色も、あの日一緒にいた仲間も、みんな死んじゃった。
仲間が踏み躙られたあの瞬間も、助けてくれた黄金色が無残にも引き裂かれたあの時も、全てを思い出してしまった今、鮮明に再生される。
喉の奥から空気の泡が沸き上がってきて、吐き気と共に吐き出された。
口元を手で覆いながらその吐き気を何とか抑えようとして、更にしゃくりあげる声が大きくなる。
ずっとずっと、箱の中にしまって目を背けていたものが、目の前にばらまかれたのだ。
心を粉々に砕かれたことすら忘れており、今の心は表面だけが磨かれて綺麗になっていただけだった。
助けてくれた黄金色も、あの日一緒にいた仲間達も、目の前で理不尽に蹂躙され、その命を散らせた。
今だって気を抜いたらその時の情景がありありと脳内に再生されそうになる。
その度に表面だけが磨かれたボロボロの心に、ぴし、ぴし、ぴし、という音を立てて罅が入って、欠けていく。
何処も怪我をしていないのに、鈍い痛みが胸の奥に走る。
ぼた、ぼた、と大粒の真珠みたいな涙が、煉瓦が敷き詰められた廊下に零れる音が、やけに響いた。
しゃくりあげながら、零れる涙をぬぐい、長い長い廊下を歩く。
右へ、左へ、自分が今何処にいるのかも分からないまま、ブイモンは歩く。
過去の悍ましい記憶を思い出したブイモンは、代わりに自分が今何処にいるのも忘れてしまっていた。
選ばれし子ども達がいるのは、ナノモンが守護しているピラミッドで、大輔とヒカリと賢の紋章を保護していた場所なのだ。
ナノモンがこの場所に来る以前から存在しており、その頃から既に様々なトラップが仕掛けられており、後にこのピラミッドの守護を任された時に更に改良が加えられた。
このピラミッドに招待された時も、ロップモンという案内デジモンがいなければ無事にピラミッド内部を通過することはできなかった。
しかしそんなトラップだらけのはずのピラミッド内部で、ブイモンたった1体、無防備に歩き回っているはずなのに、そのトラップが発動する様子は全く見受けられなかった。
というのも、マシーン型のナノモンとピラミッドのシステムは同期しており、エテモンによってスクラップ直前まで壊されてしまったナノモンの負担にならないように、今はピラミッドの全てのシステムを切っている状態なのだ。
しかしそんなこと知る由もないブイモンは、ただ今自分がいる場所から逃げたくてただ道なりに歩いている。
全てを思い出したブイモンは、代わりに自分の役割を忘れてしまっていた。
何故助けてくれた黄金色が隠してくれた洞窟じゃなくてここにいるのか、分からない。
ホークモンは何処にいるんだろう。アルマジモンは?
一緒に助けられたあの2体は、種族の域を超えて仲の良かったあの2体は、何処にいるんだろう。
『……っ、っ……』
喉の奥に音が張り付いて、しゃくりあげる声すら出てこない。
両手で零れる涙をぬぐいながら、ブイモンは暗く長い廊下を1人ぼっちでとぼとぼと歩いた。
「っ!」
言い知れぬ不安に駆られて、大輔は飛び起きた。
ナノモンが用意してくれた寝室は地下にあるせいで、外の様子を伺う窓はなく、今がどの時間帯なのか、明るいのか暗いのかも分からなかったが、そんなことを気にしている場合ではなかった。
ばく、ばく、ばく、と心臓が激しく鼓動して、今にも口から飛び出してきそうだった。
胸のあたりのパジャマをきつく握りしめる。
は、は、と何度も短く息を吐いた。
まるで学校のグラウンドを全力疾走したみたいな疲労感を覚えて、大輔は深呼吸をして息を整えようとした。
しかし心臓は静まることなく、それどころか更に激しさを増した気がした。
何故だろう、すごく嫌な予感がする。
そう思った途端に、脳裏に浮かんだのは相棒の後ろ姿。
いても立ってもいられなくなった大輔は、弾かれるようにベッドから飛び降りて、寝室を飛び出した。
バン、とみんなが眠っているのも構わず思いっきり寝室の扉を開けたから、子ども達は何事だと飛び起きたが知ったことではなかった。
ペタペタペタ、とカーペットも敷かれていない冷たい煉瓦の廊下に、大輔の小さな足が踏みしめる音がする。
すぐ傍のメインコンピュータールームは、ゲンナイがナノモンの代わりに動かしていたので、電源がつきっぱなしだった。
青白い光が、電気が消されて真っ暗になっている部屋を照らしている。
その部屋に、元は太一の頭の怪我を完治させるために運ばれた、今はブイモンが寝かされている診察台があった。
寝る前と、何も変わっていないはずだ。
それなのにこの言い知れぬ不安は何なのだろう。
心臓がバクバクと、大輔を責めるように波打っている。
「大輔くん、どうしたの……?」
「ブイモン……!」
「大輔……?」
大輔によって強制的に叩き起こされた子ども達も、少し遅れてやってきた。
ヒカリと賢が声をかけたが、大輔の耳にはまるで届いていないようで、ブイモンの名前を呟きながら走り出す。
反射的にヒカリと賢も大輔の後を追う。
そして、
「お兄ちゃん!ブイモンがいない!」
「何っ!?」
賢の一言により、子ども達は賢のデジたま以来のパニックに陥る。
眠気も吹っ飛んでしまった子ども達とデジモン達は、総出でブイモンを探しに行く。
ナノモンの代わりに作業をして、今は休憩に入っていたゲンナイとなっちゃんも騒ぎに気づいて部屋から出てきた。
治から事情を聴き、2人とも顔を真っ青にして一緒に捜索に加わってくれた。
過去にあった出来事を思い出してしまったブイモンは、ゲンナイの見立てでも当分は目を覚まさないはずだった。
子ども達ですらショックを受けたあの悍ましい記憶を、そのまま体験したブイモンの心の傷は計り知れない。
その心の負荷を考えると、少なくともあと数日は目を覚まさないだろうと言われていた。
それなのに、ブイモンはいない。
大輔はあの時の賢のように半狂乱に陥り、ブイモンの名を何度も呼びながらブイモンを探す。
今はナノモンが治療中であるために、セキュリティシステムも全てダウンしているので、トラップが作動することもない。
だから子ども達はピラミッド中を彼方此方探し回った。
でもブイモンはいない。
「……まさか!」
ゲンナイはそう呟くと、急いでメインコンピュータールームに戻って行く。
一緒に探していたなっちゃんは、突然走り出したゲンナイに驚いて、反射的に追いかけた。
途中で何人かの子ども達とすれ違い、何事かとゲンナイを追いかけてきたがゲンナイは構うことはなかった。
電源がつきっぱなしになっているモニターの前に立つと、パネル型のキーボードを急いで操作する。
「ゲンナイさん」
『どうかしはったんですか?』
「ピラミッドのシステムとナノモンは同期しているから、今は殆どのシステムが休止している状態だが、監視カメラだけは動かしているんだ。だから……」
ポン、と不思議な電子音を立ててエンターキーを押すと、監視カメラの画像が巻き戻しされた。
しばらくすると、誰もいなくなったメインコンピュータールームの端っこに何かが映った。
ブイモンだ。
巻き戻っているから、後ずさりしているように見える。
もう少し巻き戻すと、ベッドで眠っているブイモンが映し出されたので、ゲンナイはそこで巻き戻すのを止めた。
動画が再生される横になっていたブイモンがむっくりと起き上がって、しばらくぼんやりとしていたが、やがて診察台から落ちるように降りると、床を這いずりながら移動していった。
時間をかけて移動し、やがて監視カメラの画像から消える。
ピラミッドの内部を探し回っていた子ども達が、何処を探してもブイモンが見つからなかったので、一旦メインコンピュータールームに戻ってきたのはその時だった。
ゲンナイは監視カメラの画像を切り替える。
階段が映り、ブイモンがそこでも時間をかけて這って上がっていくのが映る。
大輔の顔色は真っ青から真紫、そして真っ白に変わっていった。
今にも倒れそうなぐらい足元がフラフラしており、ヒカリと賢となっちゃんが気づかわしげに大輔に寄り添う。
階段の踊り場に何とか辿り着いたブイモンは、暫く壁にもたれかかった後、何とか壁を伝って立ち上がり、目元に両手を当てながら長い廊下を歩きだした。
何度も監視カメラを切り替えながら、廊下を歩くブイモンを追っていく。
何処に向かっているのか、目指している場所があるわけでもないのか、突き当たりに着く度に迷うことなく左右どちらかの道を進んでいく。
そしてブイモンを追っていくうちに……監視カメラの端に仄かな明かりが映った。
ゲンナイの顔色がさっと変わる。
ブイモンが向かった先は、
「まずい、どうやらブイモンは外に出たようだ……!」
「っ!!」
「あ、大輔くん!!」
「ま、待って!」
ゲンナイの言葉を聞いた大輔は我に返り、上級生達を押しのけて走って部屋を出て行った。
丈とミミが慌てて呼び止めるが、大輔は聞いていない。
走って部屋を出て行った大輔の後を追って、ヒカリとテイルモン、賢とパタモン、少し遅れてなっちゃんとロップモンが走る。
上級生達は一瞬どうしようという表情を浮かべて互いの顔を見合わせるが、最初に治とガブモンが動いたことで、他の子ども達も我に返ることが出来た。
ゲンナイは一瞬迷ったが、エテモンが倒された後の展開を思い出して、暫くは大丈夫だろうと判断し、子ども達の後を追うことにした。
どのぐらい歩いたか分からないぐらい、ブイモンは歩いている。
くすんくすんとしゃくりあげながら、次々と溢れてくる涙を拭い、時々柔らかい砂の地面に足を取られながら広大な砂漠を彷徨っていた。
砂漠には危険なデジモンが住みついているはずなのだが、昨日の戦闘の余波が残っているのだろうか、1体でとぼとぼ歩いているブイモンに襲い掛かってくる気配が全くない。
地平線の向こうから白い太陽が少しずつ顔を覗かせている。
ずる、
『っ!』
べしゃ、とブイモンは思いっきり砂に顔を打ち付けながら前のめりに転んだ。
足元をふらつかせていたから、当然だろう。
しかしブイモンはそのまま倒れ伏せ、起き上がろうとしない。
握りしめた拳に、震えるほど力を込めた。
『ひっ……う……』
ゆっくりと仰け反るように顔を上げる。
砂が張り付いて涙と混ざって顔はぐちゃぐちゃになっており、涙の水分を吸った地面も色が変わっていた。
震える両手を何とか地面につけて起き上がった。
ひっく、ひっく、というしゃくりあげる声だけが聞こえてくる。
『……みんな』
何で、どうして。
そんな思いだけが込み上げてくる。
『何処ぉ……』
涙が更に溢れてきた。
しゃくりあげる声も大きくなっていく。
『みんなぁ……!』
広大な砂漠に、たった1体。
知らない世界に放り出され、見捨てられた可哀そうな独りぼっちの小さな青い龍の子ども。
──もう何処にも仲間はいない。
『置いてか、ないでぇ……!』
今なら分かる。自分達がいた時と、今では環境が全く違うのだ。
もしもあの時、自分のように辛うじて助かった仲間がいたとしても……生き残っている保証などない。
世界の何処を探しても、きっと自分の仲間は何処にもいない。
『置いて、行かないでぇ……!』
魂の叫び。心の悲鳴。
聞いてくれる者は、もう何処にもいない。
パジャマ姿であることも忘れて、大輔はピラミッドを飛び出していく。
外に出るまでの道が分からなくて、最初の丁字路でどちらに行けばいいのか分からず迷っていたら、途中で追いついたロップモンが出口までの近道を案内してくれた。
一緒に追いついたヒカリとテイルモン、賢とパタモン、それからなっちゃんも一緒に、ピラミッドを出て行けば、そのまま真っ直ぐ、登り始めた太陽に向かって等間隔に並んだ点が続いている。
ブイモンの足跡だとすぐに気づいて、大輔はまた走り出した。
ヒカリ達も後を追う。
遅れてきた上級生と、ゲンナイも。
体力も精神力も気力も、全てが限界を迎えているブイモンではそう遠くへは行けない。
案の定、ピラミッドから500メートルも離れていないところに、ブイモンはいた。
どうして、とか、何で、とかそんな疑問よりも、見つかってよかったという安堵が子ども達に広がる。
しかし、それは間違いだった。
『置いて、行かないでぇ……!』
魂の叫びが、心の悲鳴が、背を向けているブイモンから聞こえてきた。
子ども達は、ヒカリとテイルモンは、賢とパタモンは、ロップモンとなっちゃんは、そして大輔はそれを聞いて硬直した。
子ども達だけじゃない。
“今”を生きている子ども達のパートナーデジモン達も、びくりと肩を震わせる。
古代デジタルワールドという、気が遠くなるぐらい大昔に生きていたデジモン、それがブイモンだ。
でもブイモンの種族は、あの映像に映っていたもう2体のデジモンの種族は、踏み躙られるようにみんな死んでしまった。
ゲンナイが知る本来の歴史とは違う、時代の波に抗えず、ついて行けず、緩やかにその姿を消したのではない。
謎のデジモンが過去へ飛んだ影響で因果律が歪められ、正史とは外れた新たな歴史として書き記されて。
この世界はゲンナイが、そして大輔達が知る世界ではない。
新しい歴史を歩んでいる、新しい世界なのだ。
だから今の、目の前にいるブイモンはブイモンであって“ブイモン”ではない。
大輔が知っている、“大輔”のパートナーだった“ブイモン”じゃない。
“大輔”が置いて行ってしまった“ブイモン”じゃない。
「………っ!!」
孤独に震えている小さな青い龍の子どもの背中を見た大輔は、衝動に駆られて走り出した。
「ブイモン!」
砂に足を取られ、縺れさせながらブイモンの横にスライディングしながら膝をついた。
いつもサッカー部で、硬いグランドですっ転んだりスライディングをして膝を擦りむいているから、柔らかい砂の上でスライディングなんて全然怖くない。
今大輔が怖いのは……今にも死にそうなぐらい心が堕ちているブイモンのことだ。
「ブイモン、俺が、俺がいるよ!絶対お前のこと、置いて行ったりしない!独りぼっちにしない!ずっと、ずっと一緒だよ!ずっとそばにいるから!俺が……護るから!!」
そんなブイモンの心を“こちら側”に何とか引き留めようと、大輔は必死になって叫ぶ。
感極まってブイモンと同じようにボロボロと涙を零し、拭うことを忘れて、独りぼっちが悲しくて泣いている可哀想な龍の子どもをぎゅうぎゅう抱きしめる。
しかし心が壊れかけてしまっているブイモンは、大好きな大輔が抱きしめてくれていることにも気づいていない。
壊れたガラス玉のように曇ってしまった紅い目は、何も映し出していなかった。
それでも大輔はブイモンを抱きしめるその腕を緩めない。
「………………」
『………………』
そんな大輔を見たテイルモンとヒカリも、フラフラとした足取りでブイモンと大輔に向かって行く。
「大輔くん、私も……ブイモンの傍にいてもいい……?」
「……ヒカリ、ちゃん」
『ワタシも……傍に、いるって、約束、したの……!ワタシも、ずっと……!』
賢とパタモンも。
「……仲間がみんないなくなっちゃった苦しみも、悲しみも……僕達には分かんない。でも……」
『うん、そうだね、ケン。ボク達は何があっても傍にいるよ』
そして、なっちゃんとロップモンも。
「……私、も……私も、一緒にいる」
『僕達はそのためにここにいるんだもん。当然だよ』
最年少の3人と天使だった3体、それから大輔に逢うために生まれ変わった女の子は、その目に涙を滲ませながらブイモンを囲むように座り込み、その心を包むように抱きしめてやる。
それでも、ブイモンは気づかない。
「………………」
『……オサム?どうしたの?』
太陽が地平線から飛び立っていく。
白んでいた空は徐々に水色へと彩られ、陽の光が砂漠に佇む暗い雰囲気を纏った子ども達を場違いなほどに照らしていた。
最年少達の啜り泣く姿を見ていた治は、やがて決心したような表情を浮かべた。
それに気づいたガブモンが声をかけると、治は目を閉じる。
「……決めたよ、ガブモン」
『何を?』
治は、ガブモンに耳打ちをする。
告げられた言葉に、驚きのあまり目を見開いて治を見つめた。
優しく微笑む治に、治の決意の強さを見たガブモンも、決心する。
「みんな、聞いてくれ」
心痛む光景を呆然と見ていることしか出来ない上級生達は、治の声を聞いて振り返る。
「僕とガブモンは、今日ここを離れる」
「………え?」
「お、治、君、何を言って……」
「みんな、太一がいなくなる前に言っていたことを、覚えてるかい?」
動揺する子ども達を尻目に、治は話を続ける。
「太一がいなくなる前……?エテモンと、戦っていた時のこと?」
「正確にはエテモンと戦う前だね……。あいつ、こう言っていたよね。“このままエテモンと戦わずに、次の進化もできずに負けてしまったら、ブイモンみたいな犠牲者が出るんだろう?”って」
は、と子ども達は息を飲んだ。
忘れるはずがない、たった1日前、昨日の出来事だ。
確かに、太一はそう言っていた。
暗黒の力に飲まれ、凶悪化してしまったエテモンに怖気づいてしまった子ども達に、太一はそう言い放ってアグモンと一緒にエテモンの下へ行った。
「きっと、太一は気づいたんだ。“順番が逆だった”って」
「……順番?」
『逆って、どういうこと?』
「僕達の目的は飽くまでも、“元の世界に帰ること”だった。自分達の世界に帰るために、この世界の平和を取り戻す。この世界を支配しようと企んでいる悪いデジモンから、この世界を救う。でも違うんだ。逆だったんだよ。“この世界を救って、元の世界に帰る”んだ」
「……何が違うの?」
「全然違うよ。元の世界に帰るために世界を救うのと、世界を救って元の世界に帰るんじゃ、目指すものが違ってくる。前者だと仕方なく戦ってる風に思わないか?」
「……言われてみれば、そうかもしれませんが」
『うーん、何や訳分からんくなってきた……』
「……それで、治くんとガブモンがここを離れるのと、何の関係があるの?」
「あるさ。言ったろ、太一は僕達の目的の順序が逆だと気づいた。“だから進化できた”んだ」
「え!?」
治は言う。自分達の世界に帰るために世界を救うのと、世界を救って自分達の家に帰るのでは、心の持ちようがまた違ってくると。
太一はそのことに気づけたから、アグモンを次に段階に進化させることが出来たのだ。
自分の世界に帰りたいという気持ちよりも、この世界を救いたいという気持ちの方が強くなったから。
「きっとブイモンのあの記憶を見たからこそ、太一も決心したんだろうね。だから僕も決めたよ。僕もあんな……ブイモンみたいなデジモンを、これ以上増やしたくない」
「………………」
「だからガブモンと武者修行の旅にでも出ようと思ってね」
「武者修行の旅?」
「ああ。強くなるために、この世界を救うために。それに……」
一旦言葉を切った治はいたずらっ子のような笑みを浮かべた。
「それに、何?」
「太一が帰ってきた時に、驚かせてやりたいからな。置いてけぼりになんてさせないぞって」
子ども達は目をぱちくりさせて治を見やった。
その言葉にも表情にも、迷いとか戸惑いのようなものは一切見られない。
ただ真っ直ぐ前を見つめているその目に宿っているのは、自信だった。
信じているのだ、ちゃんと太一がここに戻ってくるって。
幼馴染の空でさえ、太一がいない今とても不安で揺らいでいるのに。
「っ、だ、だったら、僕達も……!」
「……丈先輩、今のご自分の顔、鏡で見た方がいいです……酷い顔だ」
「………………」
最年長として、治とガブモンだけで行動するのはどうかと丈は同行を申し出たが、治にはお見通しだった。
今だブイモンの記憶の映像からショックが抜け切れていない他の子ども達の表情は、とても晴れやかとは言い難い。
そんな状態で武者修行の旅に出たとして、果たして何人の子ども達がデジモンを次の段階に進化させることが出来るだろうか。
それに、と治は再度最年少達の方に目を向ける。
上級生達も、つられてそちらに目を向けた。
最年少達は、まだブイモンを抱きしめてその場に座り込んでいた。
「……ブイモンがあの状態じゃあ、旅は続けられないと思う。あれじゃあ進化するどころじゃない。大輔を護れない」
「………………」
「テイルモンとパタモンがいるけれど……やっぱりあの2体が最優先すべきはヒカリちゃんや賢だろうし、だったらここでじっとしていた方が安全だろう?」
「……そう、ね」
そこまで理路整然と言われてしまうと、反論することすら憚られた。
だがそれでも1人で行くのは……と子ども達が難色を示していたら、思わぬ助っ人が割り込んできた。
「2カ月」
「え?」
「期限を設けてみたらどうだい?今から2カ月だけ、武者修行の旅に出るんだ。結果が出ても出なくても、2カ月後には必ず戻ってくる。どうかな?」
そう提案したのは、ゲンナイだった。
予め期限を設けておくことで、治とガブモンは強くなるために集中できるし、子ども達もちゃんと帰ってくると分かっていれば安心できるだろう。
そう言ってやれば、子ども達は顔を見合わせ、そういうことならと納得してくれた。
ちなみにこの2カ月という期間は、太一が現実世界からデジタルワールドに帰ってくるまでの月日である。
「その間に君達の心の整理もついているだろう。どうだい、治?他のみんなは私の提案に乗ってくれたが……」
「構いませんよ。がむしゃらに修行するよりも、期限付きの方が集中できそうですし」
「よし、決まりだ。1人旅に必要なものを揃えてあげるから、少し待ってくれるかい?」
ありがとうございます、と頭を下げる治に、ゲンナイはこっそりと息を吐いた。
自分が知っている正史の流れとはだいぶ違うが、それでも子ども達が仲違いをしてバラバラになってしまうという最悪のシナリオは避けられたようだ。
あれはあれで正史の流れとして組まれている出来事ではあるが、“この世界”を救うためには少しでも障害は取り除いておきたいものだ。
……やはりイレギュラーがいると、こうも違ってくるのかともこっそり思う。
「まずはピラミッドに戻ろうか」
疲れている子ども達にそう促してやると、子ども達は小さく頷いて元来た道へ戻る。
丈と空が、まだブイモンを抱きしめて啜り泣いている最年少達の下へ歩み寄り、声をかけてやった。
4人と2体の目元は涙で張れており、ロップモンがそれを見て苦笑している。
──4人の心が揺れた気がした。
そして数時間後、必要なものを全て用意してもらった治はガブモンを伴い、ピラミッドから旅立っていった。
その頃にはナノモンの修理も済んでおり、子ども達と一緒に治を見送ってくれた。
『無茶はするなよ』
「太一じゃないから、大丈夫ですよ」
『オサムのことは俺がしっかり見てるから、安心して!』
「ええ、ガブモン、お願いね……治くん」
「空、後は頼んだよ。じゃあ、行こうかガブモン」
『うん!』
「……お兄ちゃん」
仲間達に背中を向けようとしたら、か細い声で呼び止められた。
自分をそう形容するのは、ここではたった1人しかいない。
治は今にも泣きそうになっている弟の下に歩み寄って、目線を合わせるように膝をついた。
「ごめんな、賢。勝手に決めちゃって。でも分かってほしい。決して賢のことがどうでもよくなったから置いていくんじゃないって」
「……大丈夫、分かってるよ。お兄ちゃんはそんな人じゃないもん。ブイモンを放っておけなかったんでしょう?」
「そっか、ならいいんだ。……なあ、賢。お兄ちゃんと約束してほしいことがあるんだ」
「……約束?」
「うん」
治は賢の両肩に手を添えると、そっと額同士をくっつけた。
「お兄ちゃんがいない間は、空達がお前達を護ってくれる……でも、もし空達に何かあったり、空達も僕のように修行の旅に出ることになったら、お前が大輔とブイモンを護るんだ」
「………………」
「今ブイモンは深い悲しみに沈んでしまっているね。だから大輔を護るために戦うことが出来ない。パタモンと、ヒカリちゃんとテイルモンと一緒に、大輔とブイモンを護ってやってほしい」
「……うん。約束する。僕とパタモンと、ヒカリちゃん達で絶対に大輔くんとブイモンを護るって」
「それでこそ、僕の弟だ」
賢の額から離れ、治は優しく微笑んだ。
賢は、泣きたいのをぐっと堪えて自分の両肩に添えられている兄の手を取る。
隣にいたパタモンも、自身の小さい手を治の手に重ねた。
『任せて、オサム。ケンもダイスケもブイモンも、ボクが必ず護るよ』
『アンタだけにいいカッコさせないわよ』
「治さん、私も約束します」
2人の会話を聞いていたヒカリとテイルモンも割って入り、治の手に自分達の手を重ねた。
ブイモンは今、子ども達の寝室で眠っており、大輔はその付き添いでここにはいない。
見送りをしようとは思っていたが、治がブイモンの傍にいてあげてと言って見送りを断ったのだ。
ほっとしたような表情を浮かべていたから、やっぱりブイモンが心配なのだろう。
眠っていて意識のないブイモンにも一応別れの挨拶はしたが、返事があるはずもなく。
たた眠りながらも両目から涙を流している姿はとても痛々しく、それを見て治はますます決心を強めたのだ。
「……それじゃ、今度こそ行ってきます、だ」
「うん。ガブモン、お兄ちゃんのことよろしくね」
『任せて!』
仲間達に別れを告げ、治はゲンナイからもらったリュックを背負い直し、地平線に向かって歩き出した。
その歩みに迷いなどなく、治の決心の強さが伺える。
遠ざかっていく副リーダーの背中を見て、子ども達は何を思うのか。
それはきっと子ども達にしか分からない。
それでも、
──きっと彼らなら、自分達の力で乗り越えられる。
例え世界が違っても、歴史が違っても、彼らは自分が知っている救世主達と同じ性質を持っている。
人間達はそれを魂と呼んでいる。
あの世界の正史では、自分は敵の罠に嵌められたために子ども達にまともな支援が出来なかったが、それでも子ども達は自分達の力で世界の平和を掴み取ってくれた。
だからこの世界でも、きっと大丈夫。
時間はかかってもいい。その間に世界を覆う闇の侵食が広がったとしても、子ども達自身が迷ったままでは闇を振り払うことはできないのだ。
自分達が何をすべきなのか、どうするべきなのか、治が言っていたことの意味が何なのか、じっくりと考えて自分達なりの答えを出してほしい。
そうすれば子ども達の想いは何倍もの力となって、デジモン達に勇気を与えてくれるだろうから。
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