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──冷たいなぁ
身体に纏わりつく冷たいものを鬱陶しく思いながら、ブイモンは息を吐いた。
重たい身体は腕を持ち上げる力も残っていないはずなのに、空に手を伸ばすように揺れながら伸びていた。
見上げれば揺らめく空に歪む白い光。
遠ざかっていくごとに、白い光を包んでいる濃紺が真っ黒に塗りつぶされる範囲が広がっている。
薄らと開けている目から上に向かっていく水分は、纏わりついている冷たいものと混じり合って出ていったことにすら気づかない。
ごぼり、
口から洩れる空気が、不確かな丸を描きながら昇っていった。
「へい、いらっしゃい!何名様っすか!」
『お席はこちらでーす!』
がらり、と開かれた引き戸は古き良き昭和の香りを漂わせる、平屋のガラス戸。
部活帰りの高校生と思しき制服姿の男子が5、6人、賑やかにお喋りをしながら入ってきた。
男子だけでなく、そのパートナーらしきデジモン達も一緒だった。
このラーメン屋の店長兼オーナー兼社長である大輔は、従業員と一緒に忙しなく厨房を駆け回っており、ブイモンが接客係の中心となって店を切り盛りしている。
最初は、アメリカで始めたラーメン屋台で、従業員は2人だけだった。
その従業員というのは、もちろん大輔とブイモンのことである。
自由の国と言われているが、実際は日本よりもかなり厳しいアメリカでラーメン屋の屋台を営業するのは、かなり大変だった。
それこそ、アメリカのトップと真面目に議論したり、乱闘寸前にまで行ったりしたが、紆余曲折を経て何とか屋台を引くことを許されたのである。
その時のことは割愛するが、大輔が大人になる頃には既に寿司に次ぐ有名で健康的な日本食としてラーメンはアメリカでも広まっていたものの、昔ながらのジャパニーズスタイルの屋台はアメリカ人の注目を浴びて、あっという間に大輔は一流企業の仲間入りを果たした。
アメリカで成功した大輔は今、日本に帰国して社長自ら従業員として厨房に立っている。
社長として会社の社長室に籠っていたこともあったが、それも数年で飽きてしまったのだ。
考える前にまずは行動するタイプの大輔が、社長室でじっとしていられるはずがないのである。
それを聞いた仲間達は、大輔らしいなぁなんて苦笑しつつも、彼の作ったラーメンが食べられることを喜んでいた。
有名ラーメン店の社長がいる店として、今日も今日とて彼の店は大繁盛している。
「いらっしゃ……あ、ヒカリちゃん!」
「こんにちは、大輔くん」
『相変わらず忙しそうね』
『テイルモンも!来てくれたのか!』
がらり、引き戸が再び開かれ、大輔と従業員は一斉に挨拶を交わしたが、相手を見て大輔の目が輝く。
それは、大輔が幼い頃から憧れてやまない、大切な仲間で尊敬する先輩の妹の八神ヒカリとそのパートナーであるテイルモンだった。
ブイモンは2人を調理場前のカウンターテーブルに案内する。
大輔がヒカリとお喋りをするために、ブイモンがさり気なく気を利かせたのだ。
ぐ、と親指を立てて生暖かい微笑みを見せたブイモンに、後でぶちのめそうと大輔が真顔で決意したのを、ブイモンは知らない。
「大輔くん?」
『どうした?』
「っ、いや、何でもない……ははは……」
大輔がこの子に恋をしていたのは、遥か昔だ。
そりゃ憧れていることに変わりはないが、それ以上の気持ちはもう持っていない。
と言うか自分もヒカリもとっくに結婚しているし、何なら子どももいる。
その子ども達は、ついこの前初めての冒険に出かけたばかりだ。
日帰りではあったが、それでも子ども達は楽しかったようで、大輔の息子は大興奮しながらその冒険で何があったのかを教えてくれた。
他の仲間達も似たようなものだったらしく、SNSのグループメッセージはそのことが話題になっていた。
「珍しいね、ヒカリちゃんがこの時間帯に来るの」
従業員達も気を遣ってくれて、大輔がやっていた作業を変わってくれた。
余計なことを、と思いつつも、みんなで集まる時ぐらいしかお喋りしなくなってしまった大切な女の子が来てくれたことが嬉しくて、一旦そのことについては頭の隅に追いやりながらヒカリに話しかける。
大輔が昔からの夢を叶えたように、彼女も自らの夢である幼稚園の先生になるという夢を叶えたのだ。
毎日元気が有り余る子ども達を相手にするのは大変だが、それでも夢を叶えたヒカリはとても生き生きしていた。
ヒカリだけではない、大輔の仲間達は全員それぞれの夢を叶えて、今はその先の夢を追いかけている最中だ。
そのために昔のように集まることは少なくなってしまったが、それでも8月1日の記念日だけは、どれだけ忙しくても時間を作って集まるようにしていた。
その集まりがあと1ヵ月まで迫っている、という平日の昼間に、ヒカリとテイルモンはやってきた。
これまでも仲間達がちょくちょく大輔のラーメン屋に来ることはあったが、大体来るメンバーは決まっている。
専業主婦の京や、料理研究家のミミ、小説家のタケルはしょっちゅう来ているのだが、ヒカリが来るのはとても珍しかった。
別にヒカリが大輔を避けている、とかそう言う理由ではなく、ただ単に時間の都合がつかないだけであることは、大輔もちゃんと分かっている。
分かっていて、大輔は敢えてそのことを話題した。
ただ何となくよ、っていう返答が返ってくるとばかり思っていたのだが……。
水が入ったグラスを両手で包むように掴み、何故かそっと顔を俯かせる。
『……ヒカリ?』
「……大輔くんに逢いたくなった、じゃダメかな?」
かと思うとぱっと顔を上げて、笑みを浮かべながら彼女はそう言った。
きっとその言葉は普通の男ならドキリとするものだろうし、昔の大輔なら舞い上がっていただろう。
しかし今はもう彼女を1人の仲間として見ている大輔を知っているブイモンは、そんな彼女の言葉にはてなと首を傾げた。
あと1ヵ月もすれば昔の仲間で集まる日が来るのだから、その言い分は何となくおかしいように思えたのである。
それはテイルモンも同じだったようで、心配そうに彼女を隣の席から見上げていた。
ただ1人、大輔だけは分かっているとでも言いたげに、曖昧な微笑みを浮かべている。
『ヒカリ……』
「いらっしゃいませ……ああ、社長!」
何か言わなければと思ったブイモンは彼女の名を呼び掛けたが、同時に引き戸が開く音がした。
従業員が社長の代わりに挨拶をしようとしたが、入ってきた人物に見覚えがあったので大輔を呼ぶ。
大輔とヒカリが入り口の方を見ると、これまた珍しい客がいた。
「やあ、大輔。あれ、ヒカリさんもいたんだ」
『来たよ~』
「賢!?」
「賢くん!」
『『ワームモン!』』
それは、大輔の親友で刑事をやっている、元天才少年の一乗寺賢とそのパートナーであるワームモンだった。
パートナーデジモンを持つ人間として初の刑事である賢は、元選ばれし子どもとして人間界で悪さをするデジモンが起こした事件を解決したり、人間界に迷い込んだデジモンを悪用する人間を取り締まったりする課を作り、その課長として日夜奔走している。
課を纏める1番偉い立場であるために、恐らく仲間内で1、2を争うほどに忙しい彼が、大輔の店に来ることは大変珍しかった。
「何だ、何だ?今日は珍しい客万来だな!」
「ははは、大輔も相変わらずで安心したよ。ヒカリさん、隣いいかな?」
「勿論!」
接客をしていたブイモンが、ワームモン用の椅子を持ってきてくれたので、カウンターテーブルに備え付けて座らせる。
接客担当の従業員達が、自分達は気にしないで旧友たちと交流を深めてください、と言ってくれたので、ブイモンも会話に参加した。
『ケンもヒカリも珍しいな!いつもは来いって言っても時間がないって来れないのに』
「ははは、それに関しては申し訳ないと思ってるよ」
『でも今日は何となくダイスケのラーメン食べたくなったんだよね、ケンちゃん』
『あら、ケンもなの?ヒカリもそう言って今日ここに来たのよ』
「……そうだったんだ?」
「……うん」
「……ヒカリちゃん」
曖昧に微笑むヒカリに、大輔はいつもの太陽のような表情は鳴りを潜め、ぽつりと落とすように彼女の名前を呼ぶ。
昔から、このヒカリという子は本当のことほど隠したがる子だった。
何があったのか、しつこくしつこく聞いても大丈夫だからとしか言わず、その癖隠していることがすぐにばれるような振る舞いをする。
タケルはヒカリのそう言うところに少々腹を立てていた。
気づいてほしいって、どうしたって聞いてほしいって言いたげな表情を浮かべているくせに、尋ねると何でもないようなふりをする。
その癖だけは許容できない、と愚痴っていたタケルに、お前も似たようなもんだよって大輔が指摘してやったのは、中学生の時だった。
こういう時は、言ってくれるまで待っていた方がいいのは、ブイモンもよく分かっていた。
だから、指摘しようと口を開きかけて、やめた。
それに……。
ブイモンはちらりと大輔を見やる。
ここ最近、パートナーである大輔の様子もおかしかった。
あまり過去を振り返ることをしない大輔が、ここ半年ほどアルバムを引っ張り出しては1人で眺めていたり、冒険の後に撮ったビデオを深夜に流していたり……。
そう言うのは仲間内で集まった時にしか見ないのに、ましてや大人になってからはみんなそれぞれの事情で忙しく、記念日以外では年に数回集まれればいい方だったから、思い出を振り返る機会だって少なかった。
そんな大輔が、ブイモンを誘ったり仲間の誰かと一緒に見たりするわけでもないのに、アルバムやビデオを眺めているのは、ブイモンから見てもおかしいと疑う行動ではあった。
しかし、ブイモンはそのことについて指摘したり尋ねたりすることは、終ぞなかった。
あれで大輔は頑固なところがあり、聞いたり尋ねたりしなければ何も言わないし、話さないと決めたら絶対に話さない。
ブイモンにも言わず、仲間も誘わず1人で思い出に耽っているということは、何か仲間には言えないことでも抱えているのだろう、ということだけは何となく分かったから、指摘しなかったのである。
──今なら、喧嘩をしてでも無理やり聞き出せばよかったと、後悔ばかりが胸を締め付ける。
「……俺も今日は何となく、2人が来るんじゃないかと思ってたよ」
ヒカリと賢の前で肘をつき、手のひらに顎を乗せながら、無理やり笑みを浮かべているような表情を見せる。
ブイモンもテイルモンもワームモンも、そんな大輔が珍しくて目を丸くしたのだが、賢とヒカリはそっかとだけ言って、笑った。
……その笑みが、目の前にいる大輔と同じような笑みで、ブイモンは寒気を覚えた。
「……2人とも、ご注文はいかがなさいますか?」
お店は心地いい喧噪に包まれているはずなのに、その一角だけが妙に静かな気がして、パートナー達は思わず互いの顔を見合わせる。
そんなパートナー達の気持ちなんか知ってか知らずか、大輔は先ほどまで浮かべていた神妙な笑みを消して、営業用の笑みを浮かべながら注文を取った。
2人と2体も、大輔の丁寧な言葉遣いで思い出したらしく、気恥ずかしそうにメニュー表を取って眺めた。
大輔の店は老若男女問わず、連日沢山のお客さんが来るためにメニューも豊富なので、来るたびに迷うのだとヒカリの親友であり、賢の奥さんである京が言っていたのを思い出しながら、2人は注文をする。
「私、野菜ラーメン。お野菜マシマシで細麺ね」
『ワタシはワンタン麺で』
「僕はチャーシュー麺にしようかな。麺は太麺で」
『僕、あんかけラーメンがいい!』
「あいよ!」
『毎度ありぃ!』
大輔とブイモンの元気な声が、厨房に響き渡る。
従業員たちがそれに負けじと、大きく返事をした。
『……ここにいたのね』
嗅ぎ慣れない新緑の匂いが漂っている。
緩やかな風が吹いて周りの木々を揺らしているから、カサカサという心地いい自然のメロディーが聞こえてきた。
目の前には太陽の光を反射して、眩く煌めく湖の水面。
太一達初代の選ばれし子ども達が、初めてデジタルワールドでキャンプをした場所であり、全てを終えた後でパートナー達とお別れをした場所でもある。
そんな場所に、ブイモンはいた。
8月1日の記念日で何度かキャンプをした場所だから、ブイモンも知っていた。
俺達の思い出の場所なんだ、と楽しそうに語っていた太一を、羨ましそうにしていた大輔の顔も鮮明に思い出せる。
……どれだけ見上げても、最愛のパートナーは何処にもいない。
『……テイルモン、何でここに』
『あんたがいないってんで、探しに来たのよ』
レオモン、心配してたわよ、と言うとテイルモンはブイモンの隣に座った。
そう言われても申し訳ない気持ちが全く湧いてこなかったから、自分の心はすっかり死んでしまったのだなぁ、とブイモンは光を失った紅い目を湖に戻す。
大輔が、死んだ。
半年前のことだ。
その日は年に1度の記念日だった。
どんなに忙しくとも、その日だけは絶対にみんなで集まろうと決めていた、子ども達にとってとても大事な日だ。
そんな日に襲い掛かった、悲劇。
空間をぶち破って現れた、正体不明のデジモン。
大輔達はゲンナイに頼まれ、遅刻していた太一達よりも先に現場に駆け付け、謎のデジモンと対峙した。
太一とヤマトのパートナーが、チンロンモンから力を借りて、オメガモンへと至って駆け付けてくれるまでの、いわば時間稼ぎであった。
オメガモンは、歴代の選ばれし子ども達の中でも、屈指の実力を誇る強者だ。
1度だけ敗北を許してしまった戦いはあったものの、それでも最後の切り札として常に君臨していた。
ブイモンとワームモンもチンロンモンの力を借りれば、オメガモンと同等の、あるいはそれ以上の強者となれるが、そこに至るまでの進化に障害がある。
純正古代種であるブイモンは、パートナーの力を借りても完全体に進化するのに、他のデジモンと比べるともの凄い負担と負荷がかかる。
だからこそ、ジョグレス進化というデジコアのデータが近いデジモン同士で、融合進化をするという方法があった。
しかしそのジョグレス進化はアーマー進化同様、失われた古代の進化方であり、どのようなきっかけや方法でジョグレスをするのかという資料が残されていなかったために、ゲンナイがテイルモンのホーリーリングを使ってジョグレスに必要なエネルギーを補っていた。
そのホーリーリングも持ち主であるテイルモンに返してしまったし、世界の平和を取り戻した今、強大な力は必要ない。
それが、仇となった形になってしまった。
大輔は死んだ。
駆けつけたオメガモンのオメガソードにより、水晶を砕かれた謎のデジモンは、最後の足掻きと言わんばかりに悍ましいエネルギーを急速に収集して、辺り一帯を吹っ飛ばすような大爆発を起こした。
その爆発に巻き込まれて、大輔は死んだ。
大輔だけじゃない、隣に座っているテイルモンのパートナーであるヒカリも、今ここにはいないワームモンのパートナーである賢も。
パートナーの子どもを守るために命を落としたデジモンはたくさんいたが、パートナーを失ったデジモンはまだいなかったために、デジタルワールド側の管理者達や、現実世界の方もこれには慌てた。
今や世界中の人間、赤ちゃんや老人、貧困層、富裕層など年齢や家庭など関係なく平等にパートナーデジモンが与えられている。
しかしその中でも未だパートナーの人間を亡くしたデジモンは現れていなかったために、その際のデジモン達の処遇を決めていなかったのだ。
おまけに様々な理由があって、今エージェントのオリジナルであるゲンナイも不在だ。
今デジタルワールドの管理の代表はゲンナイのコピーが務めており、パートナーを亡くしたデジモンの処遇について、今早急に話し合いを進めている最中である。
なのでパートナーを失ったブイモン達は、レオモンの保護の下、デジタルワールドにて待機だ。
パートナーの人間がいないデジモンが現実世界に留まる理由はないし、そもそも人間とデジモンの絆を繋ぐデジヴァイスがあるからこそ、現実世界は電波障害による被害を免れている。
デジヴァイスがないデジモンは、現実世界にとって脅威でしかないのだ。
『……大丈夫?』
『……平気、だよ』
『そんな今にも死にそうな目ぇしているのに?』
『だったら聞かないでよ』
『こうやって聞きでもしないと、あんた一生誰にも言わないでしょう』
昔から遠慮のないデジモンではあったけれど、今は輪をかけて遠慮がない。
テイルモンだってブイモンと同じように、パートナーを亡くしているのに。
そうオブラートに包んで尋ねてみると、テイルモンは眉をひそめた。
『……平気なわけ、大丈夫なわけないでしょう。まだ半年よ?半年しか経っていないのよ?たった半年で立ち直れるわけないじゃないっ!!』
テイルモンが喚いた。
その青い目にいつもの意志の強い輝きはなく、悔しそうに歪められていた。
テイルモンは他のデジモン達と違い、1体だけはぐれて、他の仲間よりも遅れてヒカリと出会った。
デジタルワールドを救うための切り札として、ゲンナイ達エージェントによって、デジたまから用意されていたアグモン達パートナーデジモンだったが、ダークマスターズ最強のデジモン・ピエモンの襲撃にあい、ゲンナイによって連れ出された際に、1つだけデジたまを落としてしまった。
それが、テイルモンのデジたまだ。
デジたまから孵ったテイルモンは、自分が何者なのか分からないまま、ただ誰かを待つ日々を過ごしながら生きていた。
そのうち、待っているだけでは何も始まらないと思い始め、プロットモンに進化した時に旅に出た。
何を待っているのか、何を求めているのかも分からないまま旅に出たプロットモンを待ち受けていたのは、嘲笑う深い闇。
子ども達を抹殺し、デジタルワールドと現実世界、両方の支配を企む闇の帝王・ヴァンデモン。
プロットモンが持っていたデジヴァイスと紋章から、選ばれし子どもとともに世界を救うデジモンだと分かったヴァンデモンは、プロットモンを捕らえ、心が折れるほど痛めつけてやれば、プロットモンの心は簡単に折れてしまった。
自分の役目も使命も、長い年月の間に忘れてしまったプロットモンは、やがてテイルモンへと進化し、いつしかヴァンデモンの忠実な下僕と成り下がってしまった。
ヴァンデモンに対する怒りや憎しみは忘れなくとも、もうそれ以外の生き方が分からなかったテイルモンが、現実世界に侵攻したヴァンデモンについていった先で出会ったのが、パートナーのヒカリだ。
本当ならアグモン達と同じように、ゲンナイが連れて行ってくれたファイル島で、パートナーの子どもと出会って、一緒に冒険をするはずだったが、そんな経緯があって遅れてしまった。
それだけに、ヒカリを失ってしまったショックは大きい。
『……ごめんなさい、言い過ぎたわ』
『……別に』
興奮していたテイルモンははっと我に返り、ばつが悪そうに謝罪の言葉を口にしたが、ブイモンの返事は素っ気ないものだった。
元気いっぱい、今日を生きることに全力投球していたブイモンが、大輔を失ってからその面影がまるでない。
テイルモンは目を細める。
『……皮肉なものね』
『………………』
『……ワタシ達はパートナーが全てだわ。パートナーを中心に全てが回っている。ヒカリが戦ってって言えばワタシは戦うし、護ってって言えば護る。ワタシ達は何処までも、パートナーありきなのよ』
『………………』
『それなのに世界は、闇に覆われて蝕まれる世界は、ワタシ達に助けを求めておきながら、ワタシ達が助けを求めても知らんぷりだわ。世界を救うために奔走したヒカリ達が死んでも、世界は何事もなかったかみたいに巡り続けてる。朝が来て、夜が来て、朝日が昇って、月が昇って……。こんなことってある?こんなことがあって、いいと思う?』
『………………』
『ヴァンデモンの下にいた時と同じぐらい、今はこの世界が憎くてたまらないわ』
でも、それでも、憎くてたまらなくとも、完全に嫌いになることはできない。
だってこの世界は自分の故郷で、パートナーのヒカリが命をかけて護ってくれた大切な世界だから。
世界がヒカリを奪ったのではない、悪いのは、ヒカリを奪ったのは、あの謎のデジモンだ。
世界を恨むのはお門違いというものだ。
……例えパートナーと一緒に笑い合っているデジモン達を見る度に、喉を掻き毟りたくなるほどの悲鳴をあげたくなるのだとしても。
『………………』
『……変なこと言ったわね、忘れてちょうだい。もう夕暮れだし、そろそろ帰りましょう?』
『……もう少し、ここにいる』
立ち上がり、手を差し伸べてくるテイルモンに、しかしブイモンは顔を逸らしながらそう告げた。
そう、とテイルモンはそれ以上追及せず、ただ暗くなる前に帰ってきなさいね、とだけ言って、背を向けた。
風が吹く。
見上げれば、現実世界とは違う茜色の空模様だった。
『………………』
デジタルワールドに帰ってきて、半年。
半年も経ったと言うべきか、半年しか経っていないと言うべきか。
月日が流れたことに変わりはないが、未だにデジタルワールドの空気に慣れない。
眠りから目覚めてすぐに大輔と一緒に現実世界に渡って、ずっと現実世界で過ごしてきたブイモンは、今や世界でも少数しかいない“古代種”と呼ばれている、太古に生きていたデジモンである。
今とは全く環境が異なる時代だった上に、眠りにつく前の記憶は全くと言っていいほど残っていなかったため、ここが故郷だと言われても違和感しかなかった。
どれだけ時間が過ぎても、日にちが経っても、“ここ”が自分の居場所とはどうしても思えなかった。
テイルモンとワームモンのように割り切ることが出来ず、デジタルワールドに帰ってきたその日からずっと、ゲンナイの隠れ家に引き籠っていた。
時々冒険していた時の仲間達や、先輩デジモン達が心配して様子を見に来てくれたが、どんな言葉をかけられたのか、それに対してどう返答したのかも覚えていない。
そのうち慣れるよ、と言ってくれたゲンナイはもういない。
事情は知らない。ただここ数か月、隠れ家に帰らないという日々が続いて、何やらこそこそしていたことだけは知っている。
それを問いただす気力もなくて、ただぼんやりとした日々を過ごしていたら、いつの間にかいなくなってしまっていた。
何処に行ったの、とテイルモンに尋ねたが、テイルモンも知らないと首を振った。
それ以上は興味が持てなかったので、ふーんとだけ返して、それっきりだった。
もう、どうでもよかったのだ。
この半年間、ブイモンは抜け殻だった。
パートナーのいない世界は、まさに灰色の景色だった。
目が覚める前のことは何も覚えておらず、気が付いた時には自分以外の同胞はこの世界から消えており、現代種の楽園となっていた故郷を色づけてくれていたのは、他でもないパートナーだ。
あの頃は前しか見ていなかった。
自分を目覚めさせてくれたパートナーや、自分と同じように眠りから覚めた仲間と一緒に、この世界を救うために駆け回った。
デジタルワールド側の勝手な都合で、何年、何十年、何百年、何千年もの間眠っていて、いざ危機が訪れると助けてくれなんて言って勝手に目覚めさせられたけれど、そんなものすら気にならないぐらい必死だった。
冒険が終わり、危機が去り、世界が平和になってからも、自分のパートナーは夢を叶えるために走り続けていた。
大人になってからは幾分か落ち着いたけれど、こうと決めたら突っ走るのは相変わらずで、そんなパートナーについていけるのは自分だけだと、信じていた。
でもそんな大輔は、もういない。
『………………』
ブイモンにとっても、大輔はブイモンの全てだった。
命そのものだった。
長い眠りについていた間に、同胞達はみんな抗えぬ時代の波に流され、ブイモンは文字通り1人ぼっちだった。
大輔といた時はそんなこと考える暇もなかったのに、大輔が死んでしまい、現実世界に留まる理由がなくなり、デジタルワールドに戻ってきて初めて、ブイモンは自身が置かれている立場を思い知った。
ワームモンとテイルモンもアーマー進化とジョグレス進化が可能な古代種デジモンだが、ブイモンと違い古代種そのものではなく、古代種のデータを受け継いだデジモンである。
変わりゆく時代の波についていくことが出来ずに、絶滅してしまった純正の古代種であるブイモン、ホークモン、アルマジモンと違い、パタモン、テイルモン、ワームモンはうまくその波に乗って、現代に生きることに特化することが出来た。
それぞれの種族の中でも、アーマー進化が出来る個体と出来ない個体があり、タケルのパタモンとヒカリのテイルモンはアーマー進化が可能な個体だったが故に、再度選ばれたのである。
しかしパタモンとテイルモンは飽くまでも、“古代種のデータがDNAに刻まれている現代種”であるので、パタモン系やテイルモン系それぞれの集落が存在していた。
パートナーに会えなかった間、パタモン達は冒険した仲間達だけでなく、そう言った同種族の集落で過ごしていたらしい。
ワームモンも同じだ。
パタモンとテイルモンと比べると古代種のデータが強く出ているものの、どちらかと言えば現代種寄りの種族である。
数は少ないがワームモンだけの集落もちゃんと存在しており、賢のワームモンはその集落に身を寄せている。
ブイモンは、違う。
大輔のブイモンは、この世で大輔のブイモンだけだ。
集落なんて当然ないので、デジタルワールドに帰ってきた時は、ゲンナイの下で世話になっていた。
そのゲンナイも、今はもういない。
代わりにはじまりの町を守護しているレオモンやエレキモンの下にいて、時々赤ちゃんデジモンの世話を手伝っているのだが……虚しさは晴れないし、心の穴も埋まることはない。
『……ダイスケ』
ぽつりと呟かれる、最愛のパートナーの名前。
それに答える者は、もういない。
1人ぼっちだったブイモンの心の隙間を埋めてくれていた者は、何処にもいない。
淋しさと恋しさで何度名前を呼んでも、どうしたんだよって苦笑しながら声をかけてくれる者は、もういないのだ。
世界にたった1人ぼっちで放り出された、可哀想な青い龍の子どもに、手を差し伸べてくれる者は誰もいないのだ。
ああ、本当に、人生というのは本当に、かくもままならないものである。
助けてくれと手を伸ばして縋ってきた世界は、平和を守った龍の子どもが1人ぼっちで泣いていても、見向きもしない。
世界が平和になったのなら、英雄もヒーローも必要ないのだ。
用済みなのだ。
2つの世界は以前よりも近づいているものの、デジタルワールド側の“そう言った理”は太一達の代から問題になっており、度々議論になっているのだが、どれだけ話し合いを重ねても溝はなかなか埋まらないらしい。
でももう、どうでもいい。
そんなもの、どうでもいい。
パートナーがいない自分には、もう関係ないのだ。
1人ぼっちになった自分を、そして死んでしまったパートナーを助けてくれなかった世界など、もう知ったことではないのだ。
『ダイスケ』
もう1度、呟く。
ひょお、と背後から冷たい風が吹いた。
は、と見上げると、茜色だった空はいつの間にか濃紺に染まっており、白い光を放つ満月が浮かんでいた。
『………………』
命は生まれる。命は死ぬ。
それはまるで地平線の向こうから太陽が昇り、朝が巡るように。
それはまるで散りばめられた星空に月が浮かび、夜が廻るように。
変わりゆく世界に不要だと切り捨てられた同胞達みたいに、大輔の命は呆気なく散ってしまった。
自分は一体、何のために頑張ってきたのだろうか。
大輔は一体、何のために世界を救ってきたのだろうか。
色んなものを失ったブイモンにとって、大輔だけが全てだったのに。
それをおくびにも出さずに、ただ前だけを見てひたすら頑張ってきたというのに、助けを求めてきた世界を死に物狂いで救った結果がこれだというのなら。
《ブイモン!》
不意に、聞こえてきたのは懐かしいパートナーの声。
たった半年、もう半年。
鮮明に届いたのは、現実か幻か。
《どうしたんだよ、そんな顔して。らしくねぇぞ?》
『……おれ、らしく、ない』
そんなことあるはずないのに、そんなわけないのに、底抜けに明るい大輔の声と言葉が聞こえてくる。
《ほら》
声がする方向に目を向ける。
広がる湖はとても静かで、波しぶきの音すら聞こえてこない。
白い光を放つ満月が、湖に浮かんでいる。
ぽう、と。
湖に反射している満月の中に、懐かしい姿が浮かんだ。
一緒に冒険していた時の、大輔の姿だ。
首元にファーがついた、炎の模様が描かれたジャケット。
頭部には尊敬してやまない先輩から譲り受けた、少し古いゴーグル。
ああ、懐かしいなぁ、なんて光を失った紅い瞳で、ぼんやりと月の中の幻影を見つめる。
事あるごとに誇らしげに自慢してきたあのゴーグルは、彼の子どもの頃に瓜二つな彼の息子が引き継いだ。
もう一緒に冒険はできなくなってしまったけれど、彼にそっくりな息子がデジタルワールドを駆け巡っている。
また冒険したいなぁ、って子どもの頃から変わらない笑顔を浮かべて自分を見下ろしていたのが、今は懐かしい。
『……ダイスケェ……!』
目の前が滲む。みるみる表情が歪んでいく。
ぼろり、と大粒の涙が次から次へと溢れて、ぼたぼたと流れていく。
抱えた膝に涙が落ちる。
大輔がこの世を去ってしまってから、ブイモンの心も一緒に死んでしまった。
何を言われても、何を聞いても、もうブイモンの心が動くことはなかった。
ただずっと、月日が流れていく世界に“居た”だけだった。
時間は振り返ることなく、世界は止まることなく、ブイモンを容赦なく置き去りにしていく。
『……会いたいよぉ……!』
もう1度、大輔に会いたい。
恋しくてたまらない、世界でたった1人だけのブイモンのパートナー。
あまりにも突然なサヨナラだった。
歳を重ねて、大輔の子どもが大人になって、結婚して、子どもを産んで、大輔はお祖父ちゃんになって、だんだん昔のように動き回ることが出来なくなって、そしていずれはベッドや畳の上で静かに息を引き取るものだと信じていた。
人間はそういうものだと、大輔も太一も、他の子ども達もそう言っていた。
丈と光子郎だけは、人生何があるか分からないから、一概にはそう言えないよと苦笑していたけれど。
《ブイモン》
声が、聞こえる。
止まらない涙を拭うことも忘れて、ブイモンは顔を上げた。
湖に浮かぶ月の中の大輔が、いつもとは違う柔らかい笑みを浮かべながら、手を差し伸べてきた。
──ああ、
『……おれも、そっちにいきたい』
涙でぐしゃぐしゃになった顔に、ぎこちない笑みが浮かぶ。
手を伸ばす。一歩足を踏み出す。
ぱしゃん、と足元に冷たい感触が伝わった。
『つれてって』
どうして置いていったの。
世界で1人ぼっちの自分には、もう何も残っていないのに。
どうせなら一緒に連れて行ってほしかった。
『おれも……』
ぱしゃん、ぱしゃん、と1歩踏み出すごとに、冷たい水の感触がせり上がってきている。
水面が揺れる。月の中の大輔は、優しく微笑みながら手を差し伸べていた。
ぱしゃん、ぱしゃん
あと少しで、手が届く。
ああ、もう、早く、
『………………………………………………………………………………………死にたい』
ばしゃんっ!
水が跳ねる。
《いらないなら、その器我らに寄越せ》
その口から発せられた言葉は、大輔の声とは似ても似つかないものだった。
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