ナイン・レコード   作:オルタンシア

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みらいといま

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──坂を転がっていく石は、もう壊れることでしか止まらない。

 

 

 

 

 

季節は秋の終わりから冬の始まり。木枯らしが吹き始めて、街行く人達がマフラーに顔を埋める季節になった頃だ。

肌寒い外とは無縁の屋内、机に積み上げられた書類の山を何とか片づけた太一は、同じ姿勢を保っていたせいで硬くなっている身体をほぐすようにストレッチをすると、背中からばきりという嫌な音が聞こえた気がした。

反射的に前かがみになって、音がした辺りに手を当てていててと呟いた。

 

「八神外交官、今日はもうお帰りになられた方がいいのでは……」

 

疲れた顔をしながらストレッチをしている太一に、部下たちが気を使って声をかけてきた。

 

「そうですよ。急がなきゃならない書類は特にないのに、何でそこまで根詰めちゃってるんですか?ご家族心配しますよ?」

「あ、こら!」

 

根を詰めている太一のことを心配してのセリフだったが、別の部下が慌ててそれを窘める。

は、とその場にいた全員が顔を青ざめさせて、太一の方を見やった。

窓の方に顔を向けているために、彼の表情を伺うことはできないのだが、天井に伸ばした両腕が一瞬だけ震えたのが見えた。

しかし振り返った太一の表情はいつもと変わらず、そうだな~なんて呑気な返事が返ってくる。

そのことにほっとしつつも、部下たちは余計なことを言い放った若手を睨んだり、小突いたりした。

すみません、って若手は苦笑いしながら、声に出さずに周りに謝罪をしている。

気づいているのかいないのか、太一は深く息を吐きながら帰り支度をのろのろと始めた。

 

 

 

3ヵ月前。

それは、太一の最愛の妹と、可愛がっていた後輩、それからその親友である3人が悲劇に見舞われて命を落とした日だ。

奇しくもその日は、今やデジタルワールドと現実世界の架け橋である、元祖選ばれし子ども達にとっての記念日でもあった。

かけがえのないパートナー達と出会い、苦しいことも悲しいことも、嬉しいことだって共有してきた大事な記念日が、一瞬にして厄災の日として塗り潰されてしまった。

最初の2週間は、最愛の妹がいなくなってしまったことが信じられなくて、ずっと部屋に籠っていた。

次の2週間は、足元からじわじわと燻る炎に身を焼かされていくように、妹がいなくなってしまったことを実感してきて、涙がボロボロと溢れて止まらなかった。

……しかし世界はそんな太一を置いてけぼりにして時を刻んでいく。

例え太一がヒカリの死を受け入れられずに目を背けようとも、何度も朝は巡ってくる。

何事もなかったかのように太陽は昇るし、時間が来れば地平線の向こうに沈んでいく。

世界はなんて残酷なのだろう。

どれだけ太一が時を戻してほしいと願っても、時が止まってほしいと望んでも、地球が逆回転することはないし、時間は一方的に未来へ流れていく。

デジモンが死んでもデジたまに戻るように、人間が生き返ることは決してないのだ。

妹達が死んだのがデジタルワールドだとしても、デジタルワールドの理に人間は組み込まれていないから、命が巡ることはないのだ。

分かっている。

分かっているから、悲しい。

哀しい。

 

「………………」

 

肌に小さい針がいくつも突き刺さってくるような風が吹いている。

短くなった陽はとっくに地平線の向こうに沈み切っており、吐いた息は少し白かった。

見上げた夜空は、都会の強すぎる灯りのせいで、小さな星はかき消されている。

腕時計を見れば、まだ20時にもなっていなかった。

記念日以外でこんなに早く帰るのは初めてだな、と太一はぼんやり思いながら帰宅の路につく。

 

太一が職場に復帰したのは2ヵ月前だ。

上司は『無理をするな』と太一を気遣ってくれたが、太一は曖昧に微笑むだけで返事をしなかった。

復帰してから、太一は何かにとり憑かれるように仕事に没頭した。

外交官として世界中を飛び回るだけでなく、デジタルワールドと現実世界を行き来して、寝る暇もないぐらい忙しい時だってここまでではなかった、と部下や上司が心配するほど鬼気迫っていた。

家に帰らず、職場で寝泊まりをする日々、睡眠時間だってまともにとっていたわけでもなく、深夜の3時ぐらいまで仕事をして、3時間仮眠をとって、6時に起きてまた仕事をする、という日々を繰り返していた。

時々彼の妻から電話がかかってきたり、メッセージが送られてきたりするが、太一は大丈夫だという返事しかしなかった。

妻も、太一が仕事に没頭している理由を知っているから、強く言うことが出来ずにいた。

時々着替えや弁当を持ってきてくれていたけれど、頑張ってね、お疲れ様という言葉はかけても帰ってきてとは言ってこなかった。

 

そんな日々が2ヵ月近く。

とうとう部下達からストップの声がかかった太一は、休んでいた1ヵ月の間に溜まっていた書類をほぼ終えてしまったこともあったので、素直に帰ることにした。

職場を出る前に、妻には連絡してある。

数秒後に来た返事を見て、申し訳ないことをしたなぁと苦笑した。

いや、苦笑できる立場か、と今度は自嘲する。

太一が今守らなければならないのは今の家族、妻と子供であって、妹の家族ではないのだ。

もう妹は自分の庇護を離れて、この人とならという相手を見つけていたのだ。

それなのに自分は、庇護をとうに離れた妹のことばかり考えて、守らなければならない家族を蔑ろにして、ほったらかしにして。

 

(……何やってるんだろうなぁ、俺)

 

雑多な人込みをかき分けながら、ふらふらと夜の街を歩く太一の思考は、ずぶずぶと沈んでいくばかりだ。

ここ2ヵ月の自分の行動を振り返れば、妻から三行半を突き付けられてもおかしくないようなことばかりしているが、妻は太一を労わったり心配したりする言葉ばかりかけてきてくれるから、本当に頭が上がらない。

いつも通り妻に何か手土産でも買おうかと、煌々と灯っている店の窓の向こうをぼんやりと眺めていたら、背後からポンと叩かれた。

振り返る。そこにいたのは、

 

「やっほ、太一くん」

 

一番可愛がっていた後輩の、お姉さん。

 

「え、ジュ、ジュンさん……」

 

彼と同じだった、何をしても収まらなかった爆発頭は、大人になってからあてたストレートパーマで、毛先が少しだけ跳ねた髪型になっていた。

そんな姉を、大輔はいつも嬉々としていじっていたが、その倍ぐらい姉にいじられて最後の方には口喧嘩で終わる、というパターンが恒例になっていた。

そんな彼らを、自分を含めた仲間達はよく笑いながら囃し立てたり、やんわりと宥めていたのが、今は懐かしい。

 

「ひ、久しぶり……になるのかな……」

「そうね……大輔達の葬式以来かな」

 

ピクリ、と太一の頬が一瞬だけ引きつる。

本当に一瞬だったが、ジュンは目ざとく気付いて苦笑を浮かべた。

ジュンと大輔と違って、太一とヒカリは本当に仲のいい兄妹だったから、ヒカリが亡くなった時の落ち込みようは尋常ではなかった。

通夜の時も葬儀の時も出棺の時も、太一はずっと顔を俯かせて、仲間や友人に話しかけられても何の反応も見せていなかったのだが、流石に3か月も経てば日常生活を送れるぐらいには回復したらしい、とジュンは安堵の息を吐いた。

 

「……3か月、かぁ。時が経つのは早いわねぇ」

「………………」

 

今度は目に見えて太一の肩が跳ねる。

それぞれの妹と弟が亡くなってから、まだ3か月、もう3か月。

あっという間とも思えるし、まだそれぐらいしか経っていないとも思える。

日常生活を送れるぐらいには回復できても、妹を失った傷を癒すにはまだ早い。

大人になっても顔を合わせればじゃれ合いのような喧嘩をしていたジュンでさえ、弟がこの世を去ってしまったことがとても悲しいのだから。

 

「……もう職場復帰してるんだね」

「……上司は、まだ休んでいてもいいって、言ってくれたんですけど……」

「んー、そうだよねぇ。分かるわ。私もまだしんどいんだけどさ、なんかしてないと発狂しそうでさぁ……」

 

あはは、って笑う彼女の笑顔に、いつもの豪快さは感じられない。

それでも彼女の笑顔はかつての彼女の弟を思い起こさせるには十分で、太一は更に泣きたくなった。

もしもここで京に会っていたら、太一の涙腺はたちまち決壊していたことだろう。

今も、唇を噛みしめていないと、涙をこらえることが出来ない。

 

「……3か月ってさぁ、長いようで短いよね」

「………………」

「大輔って普段はアメリカに住んでたじゃない?だからここにいないのは、大輔がアメリカに帰ったからで、どうしても死んじゃったって思えなくてさぁ……」

「………………」

「太一くん達のとこと違って、アタシと大輔って仲のいい姉弟とは言えなかったじゃん?まあ、半分ぐらいはアタシが大輔のことからかってたせいなんだけど……」

「………………」

「……こんなことになっちゃうんだったら、もっと仲良くしておけばよかったって、今更になって思うんだよね。あんな風にからかって、いじってコミュニケーション取るんじゃなくてさ、ちゃんと話せばよかったって」

「………………」

 

太一は何も言わない。

1人でべらべらと喋っているジュンの言葉に、ただ耳を傾けている。

彼女の声は、震えていた。

 

「……この3か月さぁ、家事やってても子どもの相手してても、仕事してても、ずーっと大輔のことばっか思い出すんだけどさ、それが最近の大輔ばっかりなんだよね。子どもの頃の大輔のこと、あんまり思い出せないの。びっくりしたよ。子どもの頃の大輔だったら、たぶん太一くんやヒカリちゃん達の方が知ってたんじゃないかな」

「……あの頃のジュンさん、色んなところで大輔の悪口言ってましたもんね」

 

流石にそれはどうなんだ、と思ってました、と太一は努めて普通を振舞って苦笑いを浮かべる。

うん、ってジュンは頷いた。

大輔のことを、本当に嫌っていたわけではないのだ。

ジュンの性格上、本当に嫌いなものは口にもしたくないから、大輔のことを嫌っていたら、行く先々で大輔の悪口を話題にするはずがないのである。

だが良くも悪くも真っすぐで、疑うことを知らない大輔は、姉がそう言う性格だということも忘れて姉に突っかかっていった。

姉と違って姉のことを心底嫌っていて、姉と同じように行く先々で姉の悪口を言っていた。

その人の本質を無意識に理解してしまう大輔にしては珍しく、姉の真意や本意に気づかずに姉の言っていた言葉を真に受けて、同じように返していたのである。

兄と仲のいいヒカリに叱責されてからは、姉の悪口も目に見えて減っていたが、それでもギスギスとした空気は変わらず、まともに会話を交わしたのは、たぶん大輔が高校を卒業した頃だ。

大輔達の冒険が終わった後、デジタルワールドの存在が少しずつ認知され始めて、ジュンの下にもパートナーがやってきても、長年の確執をそう簡単に払しょくできるはずもなく、ジュンがデジモンに関する知識を得たのは光子郎経由だった。

大輔達以降の選ばれし子ども達は、デジタルワールドで起こった問題を解決するために選ばれたというよりも、人間界と交流するために選ばれたという意味合いが強かったから、デジタルワールドと人間界を行ったり来たりしている大輔達と違い、ジュンは本当にパートナーとしてデジモンと一緒にいるだけであった。

せっかくデジモンという共通の話題が出来たのに、ジュンと大輔はその共通の話題で会話が弾むことはなかったのだ。

それまでの間に築いてきたものが、最悪だったせいで。

 

「アタシもパートナーとデジタルワールドを旅してたら、少しは何かが変わってたのかしら。少なくとも大輔ともう少しお話できてたのかなぁ……」

「……どう、でしょうね」

 

たら、れば、の話なんかきりがないのは分かっているが、それでも2人の心に思い浮かんでくるのは、後悔の念である。

ジュンの下にパートナーデジモンがやってきた時、ジュンはもう高校生だった。

冒険ではしゃぐ歳でも、世界を救うことに魅力を感じる歳でもなかったから、必要最低限の交流しかしなかったし、パートナーもどちらかというと干渉を嫌うタイプなので、そう言った意味では気が合っていた。

本当に気まぐれでしか、パートナーと会っていなかった。

しかし最近になって、そのパートナーが妙にくっついてきているらしい。

今日も職場についてきたがったのだが、これまでそんなことは1度だってなかった。

何かと理由をつけて現実世界にいたがって、ジュンの傍を離れようとしなかった。

しかしジュンは、そんなパートナーの心情を正確に理解していた。

それはそうだ、パートナーがそんな行動をとるようになったのは約3か月前、ジュンの弟が死んだ辺りからなのだ。

ジュンのパートナーは、思い知ったのである。

デジモンと違って、人間はいとも簡単にその命を落とすことを。

傷ついた花を手折るように、容易くその命を奪われてしまうことを。

強き者の前では無力で、虫けらのようにその命を踏みつぶされてしまうことを。

ジュンのパートナーだけではない、ジュンと同じタイミングで京の兄姉や丈の2人の兄の下にやってきたパートナー達も、そして命を落とした仲間達を目の当たりにしてしまった太一達のパートナー達も。

あの日以来パートナーにべったりなデジモンもいたし、太一のアグモンのようにべったりとまではいかなくとも、人間界で過ごす時間が多くなったデジモン達もいた。

それまでは遠く離れていたって、一緒にいなくたって、心は通じ合っていると信じていたのに。

 

……自分達の知らないところで、子ども達が手の届かないところに行ってしまうのでは、という恐怖が刻み込まれたせいであることは明確であった。

 

……そう言えば、とパートナーデジモンの話題になっていたことで思い出したのだが……。

 

「……ジュンさん、ブイモンのこと、何か聞いてますか?」

「え?ブイモンのこと?……ごめん、聞いてないわ。ブイモンのことは大輔の家族に任せちゃってるから……」

「そうですか……」

 

ブイモンは大輔のパートナーだ。

大輔が選ばれし子どもとして選ばれた時からこれまで、ずっと現実世界で暮らしていたのだが、大輔がいなくなってしまった今、現実世界に留まっている理由はない。

しかし今ブイモンが何をしているのか、全く情報が入っていないから分かっていない。

1か月廃人のように過ごし、2か月間は考える暇もなくすほどにがむしゃらに働いていたから、仲間達の近況も知らないのだ。

今日ジュンと出会ったことで、色々と目が覚めた太一は、近いうちに光子郎辺りに心配をかけたであろうことを、ショートメッセージで送ろうと決めた。

光子郎ならブイモンだけでなく、テイルモンやワームモンのことも知っているだろうし。

 

「……っと」

 

人混みが多くなっていく。

歩道はすれ違うこともできないほどの人混みで溢れかえっていて、2人で並んで歩いていた太一とジュンは1列になって駅の改札へ向かっていった。

iCカードを改札にタッチして中に入ると、ジュンは手前の階段の辺りで立ち止まった。

 

「アタシこっちなんだけど、太一くんは?」

「俺はあっちです」

 

そう言って奥の階段を指さす。

太一とジュンは、家の方向が逆だった。

 

「じゃ、ここでお別れね。……なんか久々に太一くんとお喋りしたなぁ」

「……そうですね。あの頃は歳も違ったからそもそも生活スタイルも違いましたし」

「ってゆーかアタシ、あの時君らが何していたのかも知らなかったからねぇ」

 

あはは、と笑ったジュンは、あの頃よりも少し影を落とした笑顔を浮かべながら、手をひらひらさせて階段を登っていく。

その後ろ姿に、今はもういない後輩の姿が何故か重なった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

まだ昼間だというのに、そのエリアはまるで満月のない日の夜のように暗かった。

濃い灰色の雲が空を覆い、じめじめとした空気がそのエリア一体を漂っている。

鬱蒼と生い茂った森は光を拒んで、黒と灰色だけで彩られていた。

そんなエリアのほぼ中心にあたる位置に、“それ”はあった。

そのエリアの雰囲気をぎゅっと押し固めたような建造物は、濃厚な闇の気配を漂わせており、並みのデジモンでは近づくことすら容易ではない。

何故ならそのエリアには、闇の気配が充満しているだけでなく、特定の種類のデジモンしか入れないような結界が張られていた

特定のデジモンが住み着いているエリアに、何故そのような結界が張られているのか、そのエリアに隣接しているエリアに住み着いているデジモン達には理解できなかった。

天敵が住み着いているようなエリアにわざわざ近寄るようなことはしないし、相手が何かしてこない限り、こちらが攻撃をする必要もないのだ。

だから付近のエリアに住み着いているデジモン達は、気味悪がって近づくことすらしなかった。

しかしそんな不気味なエリアに、最近になって多数のデジモンが出入りするようになっていた。

殆どがウイルス種と呼ばれる、このエリアに住み着いているのと同じ種類の、違うエリアから流れ着いたデジモンである。

ただでさえ不自然な結界が張られているせいで、近隣エリアに生息しているデジモン達は近づくことを敬遠しているというのに、外から別のデジモン達が集まっていることも手伝って、そのエリアとの境界に近づくデジモンは皆無だった。

 

そんなエリアの上空を、一体のデジモンが飛んでいる。

丸い顔に直接生えた、鳥のような脚と、悪魔を模した頭巾を被り、更にその頭巾は蝙蝠のような翼が出来ていた。

飛行能力はお世辞にも高いとは言えず、一生懸命蝙蝠の翼をはためかせながら、そのデジモンは飛び立った城から離れていった。

城の中で行うにはリスクが高すぎることを、これからしなければならないからだ。

しかしあまり離れすぎても怪しまれるので、これを行う際は主が不在の時を狙うか、それらしい理由を述べて許可を取る。

怪しまれないために今の地位まで上り詰めたのだ、ここで台無しにするわけにはいかない。

さりげなく辺りを見回して、自分に見張りや監視がついていないかをしっかり確認してから、ピコデビモンは鬱蒼とした茂みを掻き分けるように着地した。

ごそごそ、と翼を手のように器用に動かして取り出したのは、蝙蝠を模した鏡。

その鏡を覗き込んだのは、自分の姿に見とれるためではない。

 

『もしもし、ゲンナイ様?ピコデビモンです』

 

声を潜めながら、ピコデビモンは鏡にそう語りかけた。

途端に、ピコデビモンが映っていた鏡に、別の姿が映りこむ。

この世界にはいない、人間と呼ばれる生き物とそっくりな姿をした、その正体はこの世界の安定と安寧を望む、セキュリティシステムの末端エージェントであった。

 

《やあ、ピコデビモン。今は大丈夫なのかな?》

『はい、今ヴァンデモン様はお留守ですので』

 

そうか、とゲンナイはほっと息を吐いた。

 

《今はどんな様子だい?》

『以前と変わりません。各地から選りすぐりの、腕利きのデジモンを集めている最中です』

《……そうか、それは“前”と変わらないか》

 

ピコデビモンの報告を聞いて、ゲンナイは眉を顰める。

時折、ゲンナイは“前”とか“以前”とかいう言葉を使っては考え込んでいるが、いつか話してくれるだろうと思い、ピコデビモンは言及しなかった。

 

《それでは引き続き、ヴァンデモンに怪しまれない程度に強いデジモンを集めてくれ》

『承知しました。他にご用件はございますか?』

《ああ》

 

ゲンナイが続けた言葉に、ピコデビモンは目を丸くした。

 

『こちらの勢力を何名か子ども達に、ですか?』

《ああ、今すぐじゃなくていいし、他のスパイのデジモン達でもいい。何名かこちらに差し向けてほしいんだ》

『それは構いませんが、一体どうして』

 

ゲンナイの話によると、こうだ。

子ども達とパートナーデジモン達は、この世界の暗黒を取り払うために強くならなければならないのだが、少し前にちょっとしたトラブルがあって、足止めを食らっている最中である。

急かすつもりは毛頭ないのだが、それではいつまで経っても次のステップには進めない。

子ども達とデジモン達が強くなるためには、紋章の意味を理解して、成長しなければならないのだ。

 

《こちらが用意した相手では、きっと子ども達も本気を出せないだろうし、本当の意味でも強くなれない。自分達が相手をしているのは、自分達が戦わなければならないのは一体何なのか……こちらが勝手に呼び出しておいて、何て酷いことをと我ながら思うが……》

『大丈夫です、ゲンナイ様。きっと子ども達は分かってくださいます。もしも子ども達がゲンナイ様を責めるようなことがあれば、ワタクシも甘んじて一緒にその罰を受けますから……』

《……すまないね。君にも大変な重荷を背負わせてしまって……》

『いいえ、これはワタクシが望んだことですから……』

 

疲れたような笑みを浮かべるゲンナイに、ピコデビモンは微笑みかける。

仲間達が暗黒勢力によって全て消されてから、ゲンナイは仲間になってくれそうなデジモンに声をかけ、スカウトしながら、1人で走り回っていた。

それは、まるで何かにとり憑かれたようだ、とスパイ仲間が眉を顰めていたほどに、鬼気迫っていた。

 

《だが、今はまだ子ども達に少しでも休息をとってほしいんだ。色々なことがいっぺんに起こりすぎてしまったからね。だから……》

『分かっております!ヴァンデモン様のことはお任せください!ゲンナイ様は子ども達のことだけをお考えください』

《すまないね。その時が来たらまた連絡するから、他の仲間達にも伝えておいてくれ》

『はい、それでは……』

 

ブツン、と鏡の向こうのゲンナイが、ブラウン管のテレビの電源を落としたように消える。

ふぅ、と一息ついた時である。

 

 

ぬ、

 

 

と。

 

薄暗い天気でも分かるぐらいに濃い陰が差し込んで、ピコデビモンに覆いかぶさるように現れた。

 

『何をしている、ピコデビモン』

 

弱いデジモン達なら聞いただけで身動きが出来なくなるような、威厳のある重低音の声に、ピコデビモンはその場で石のように硬直してしまった。

もう何百年も聞き慣れた、今はここにいないはずの声。

頭巾を被ったピコデビモンの額から、冷や汗が1つ流れる。

いつ帰ってきた?先ほど見送った時には、数日帰ってこられないと言っていたはずだ。

 

『何をしている、と聞いておる。答えぬか、ピコデビモン』

 

冷や汗が、2つ。

いや、落ち着けピコデビモン。

ゲンナイとの会話を聞かれたから、何だというのだ。

ヴァンデモンは自分が何をしているのか知っている。

ヴァンデモンの情報をゲンナイに流しているように、ゲンナイの情報をヴァンデモンにも流しているのだ。

だからいつものように振舞えばいい。

ゲンナイから子ども達の情報を集めていましたと、言えばいいのである。

ピコデビモンは一瞬で思考し、一息ついてから“いつもの”胡散臭い笑みを浮かべながら、振り返った。

 

『これはこれは、ヴァンデモン様!随分お早いお帰りで!今ゲンナイの奴から、子ども達の情報を集めていたのですよ!』

『ほう……?……それで、ゲンナイ様は、何と?』

『……え?』

 

貼り付けていた、にこやかな笑みの仮面が剥がれ落ちる。

ぎゅっと閉じていた目が間抜けに開かれ、視界に映ったのは凛とした佇まいの、高貴な姿ではなかった。

ボロボロの帽子とマントを身にまとい、その手には先端に太陽のような飾りがついた杖を持っている。

その姿を認めた途端、ピコデビモンの表情はみるみる怒りに満ちた。

 

『ウィザーモン!貴様という奴は!』

『ははは、すまない。だが私が本物のヴァンデモンであったら、お前の命がどうなっていたか分からないぞ』

 

痛いところを突かれ、ピコデビモンはぐうと唸る。

そこにいたのは、ヴァンデモンがまとっている重苦しい雰囲気とは程遠い空気の、ウィザーモンというデータ種の成熟期デジモンであった。

ウイルス種を苦手とする者が多く、またウイルス種しか入ることを許されないこのエリアで、何故データ種のデジモンがここにいて、天敵とも呼べるウイルス種と談笑をしているのか。

 

実はピコデビモンは、ヴァンデモンに忠誠を誓いながらもゲンナイにも仕えている、所謂“ダブルスパイ”なのである。

ヴァンデモンにゲンナイや子ども達の動向を流しつつ、ヴァンデモンの動きをゲンナイに伝えるという、まさに命綱なしの綱渡りをしているような危ない役割を、ピコデビモンは熟していた。

ピコデビモンと言えば強い者に媚び諂い、弱い者にはふんぞり返って威張りくさるという、典型的なウイルス種の特徴が顕著なデジモンなのに、ダブルスパイという命の危険に晒されるような役割を果たしているのは、どういうことなのか。

それは、このピコデビモンの目的に関係していた。

 

『……なるほど、近いうちに子ども達の新たな成長のために、こちら側の勢力を嗾けてほしいと……ゲンナイ様もなかなか無茶を言いなさる』

『それはゲンナイ様も承知しておられたよ。だがこれも子ども達やこの世界……引いてはヴァンデモン様のためだ』

 

今しがたゲンナイから受けた新しい指令を伝えると、ウィザーモンは含み笑いを浮かべる。

ピコデビモンは……何かを堪えているように、唇を噛みしめながらそう言った。

ウィザーモンは、気の毒そうな眼差しでピコデビモンを見下ろし、帽子を目深に被りなおした。

 

『……とりあえず、他の仲間達には私の方から声をかけておこう。ヴァンデモンにはお前から上手く言っておいてくれよ』

 

そう言い残して、ウィザーモンは魔法使いらしく、その場から一瞬にして姿を消した。

ピコデビモンが振り返った時にはもうおらず、風が取り残されたように、ふわりとピコデビモンの頬を撫でただけだ。

沢山いるヴァンデモンの手下の中で、純粋にヴァンデモンを慕って仕えているデジモンは、実は少数派だ。

無理やり従われた者が7割、1割はお零れを狙っている者、そして1割がゲンナイに雇われたスパイだ。

どう頑張っても、世界を救う勢力は後手に回りがちであるため、ゲンナイは協力してくれそうなウイルス種に片っ端から声をかけ、ヴァンデモンの勢力を削ぐためにスパイとして送り込んでいたのだ。

ウィザーモンがその筆頭だが、主な活動内容はヴァンデモンの勢力を削ぐことで、情報をゲンナイに伝えることではない。

それはダブルスパイであるピコデビモンの役割である。

何故ならピコデビモンはウィザーモンのようにゲンナイから送り込まれたのではなく、最初からヴァンデモンに仕えていたデジモンだからだ。

言わばヴァンデモン側の勢力であるピコデビモンが、何故ヴァンデモンを裏切るような真似をしているのだろうか。

……きっと誰も信じてくれない。

信じてくれたのは、ゲンナイだけだった。

選ばれし子ども達のために、そして世界のために奔走していたゲンナイに声をかけたのは、ピコデビモンの方だった。

 

『待っていてください、ヴァンデモン様……!』

 

ワタクシめが必ず、貴方様を……。

 

 

 

 

 

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