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武ノ内空のお母さんは、華道の家元である。
若い頃に家元としての資格を取って以来、渋谷の貸しオフィスの一角を借りて、華道の教室を週3で開いている。
生徒やお弟子さんが沢山いて、2カ月に1回の頻度で生徒やお弟子さんが活けた花の展覧会を行っていた。
その展覧会に何度か連れてこられたことがあった空は、小さい頃こそその美しさに目を奪われて、すごいすごいって言いながらお母さんが咎めるのも聞かずにウロウロしながら沢山の作品を眺めていたが、ここ最近は何かと理由をつけて行っていない。
元々男勝りだった空は、小学校低学年の頃から仲が良かった太一に引っ張られて、サッカーをやっていた。
まだ女子がサッカーをするのが珍しかった頃、お台場小学校の先生は空がサッカー部に入ることに全然抵抗なんかなくって、それどころか上級生でも1人2人女子のメンバーがいたから、先輩達が新しく入った女の子の後輩である空を沢山可愛がってくれて、楽しくって夕方までボールを追いかけていた。
空は、帰りの時間が嫌いだった。
そろそろ帰ろうぜ、って太一に言われるといつもむすりとして、太一に手を引かれながら自分のマンションへと帰るのが毎日の日課になってしまっていた。
太一はいつも帰るのを渋る空を、彼女のマンションまで送り届けてくれてから、自分のマンションに帰る。
また明日なぁって言いながら手を振る太一を見送り、空はマンションのエントランスに入る。
エレベーターのボタンを押して、待つこと数秒。
チーン、というベルの音がしてエレベーターの扉が開く。
重い足取りでエレベーターに乗り、背伸びをして自分の階のボタンを押した。
ウィーン、と若干上から押さえつけられるような感覚を覚えながら、空は壁にもたれかかり自分の階に着くのを手持ち無沙汰に待った。
チーン、とまたベルの音がして、扉が開く。
エレベーターを出て右に曲がると、手前から4つ目のドア。
ランドセルを下ろして、脇のポケットから鍵を取り出す。
鍵穴に差し込んで、回す。
ガチャリ、と鍵が開いた音がしたので、引き抜いてもう1つの鍵穴に差し込んで、同じように回した。
ドアレバーを下に引いて、開ける。
ただいまという言葉はないし、お帰りという言葉も帰ってこない。
お父さんは京都の大学で助教授をしているから、ずっと単身赴任でお家にいないし、お母さんはお花のお稽古で遅くなる。
だから空は、今日は1人だ。
今日だけじゃない、お母さんは渋谷で週3日もお花のお稽古があるから、空は1週間のうち3日間も1人で過ごさなければならない日がある。
沈む太陽で赤やオレンジが斑に染まっている夕焼け色を背負いながら、空はがらんどうの部屋に入る。
ドアを閉め、2つの鍵をしっかりと閉めて、靴を脱ぐ。
自室に鞄を放り投げてから、洗面所に向かった。
背伸びをしてもまだ届かない洗面台に踏み台を置いて、そこに乗ってからレバーを上にあげて水を出し、置いてある固形の石鹸を手に取って手と一緒に水で濡らしながら擦りつける。
徐々にぬめり気を帯びていき、泡立ち始める。
八つ当たりをするようにがしがしと石鹸を擦り、十分泡立たせてからぽいっと放って、がしがしと手のひらを擦り合わせる。
出しっぱなしになっている水に手を突っ込んで、泡を洗い流す。
十分洗い流してからレバーを下に下げて水を止める。
昨日お母さんが変えたタオルで水気を取ってから、踏み台から降りて、太一と遊んでいたせいで泥だらけになった服を脱ぎ、バスルームに入って大きな盥に服を入れる。
お湯と水の蛇口のハンドルを回して、丁度いい温度にしてから盥に張って、泥だらけの服をガシガシと洗った。
ドロドロになっている服をそのまま洗濯機に放り込むと、他の服にその泥がついてしまって余計に汚れてしまうから、お母さんに怒られるのだ。
洗濯はちゃんとやってあげるから、泥だけは自分で落としなさいと言うお母さんの言いつけをちゃんと守って、身体を洗う次いでに服も一緒に洗う。
乾いた地面にスライディングをしたり、すっ転んだりしただけだったから、汚れていると言っても水洗いで十分汚れは落ちた。
いつだったか、前日が雨で地面がぬかるんでいたから、お母さんに何度も注意されていたのに、それをついうっかり忘れてしまって太一と遊んだ結果、お母さんの雷が落ちてきたことがあった。
それを思い出して表情を顰めた空は、乱暴に服をはたいて、ぎゅーっと絞った。
洗濯籠に湿った服を放り込んでから、空は本格的にシャワーを浴びた。
時間にして、大体20分ぐらい。
お湯を張るのを忘れていたのと、もうシャワーを浴びている最中で面倒臭かったから、リンスを落としたら空はお風呂を出た。
用意されているバスタオルを取って身体の水気を拭いたら、パジャマや下着を持ってこなかったことに気づいて、空は溜息を吐いた。
まだ水が滴っている髪の毛にフェイスタオルと、胸と下半身を隠すようにタオルを巻いて、脱衣所を出る。
自分の部屋に行って、新しい下着とパジャマを取り出し、さっさと着替えた。
頭に巻いたタオルを解いて、髪の毛を拭きながら部屋を出る。
もう1度脱衣所に向かって、身体を拭いたタオルを籠に放る。
わしゃわしゃ、と乱暴に髪の毛を拭きながらリビングに向かった。
時間は6時少し前。お夕飯は7時と決めているから、まだ1時間ちょっとある。
赤みがかったオレンジから、濃紺のグラデーションに彩られている窓の向こうを背景に、空はテレビをつけた。
不気味なほどに静まり返っていた空間に、場違いなぐらいに明るいリポーターの声が響いた。
今の時間帯だと報道番組しかやっておらず、まだ小学低学年の空では日本や世界の情勢は難しくて理解できないから、報道番組なんか見てもつまらないのだが、今この時間帯だとどの局もニュースしかやっていない。
それでも、静まり返っている空間に独りぼっちなのはとても寂しいし怖いので、テレビをつけているしかない。
クラスで流行っているアニメのビデオを見る気にもなれず、空はテレビの前にあるソファーに座った。
中継が終わり、ニュースキャスターの明るかった声が鳴りを潜めて、今度は淡々とした声色に代わる。
空はそれをつまらなそうに眺めた。
右から左へと流れていくニュースキャスターの言葉の羅列を子守歌に、いつの間にかうとうとしていた空がはっと気づいた時には、もう報道番組は終わっていて、バラエティが始まっていた。
お母さんがいる時は絶対に見ることが出来ない、お母さん曰く《下品な笑い声が響く番組》。
お母さんがいない日はこっそり見て、翌日お友達や太一とその話題で盛り上がっているのだけれど、今日はどういう訳かそれを見る気になれなくて、空はテレビをつけっぱなしにして夕飯の準備をした。
と言っても、お母さんが家を出る前に用意して、冷蔵庫に入れておいてくれたものをレンジで温めるだけなのだけれど。
ガス台に置きっぱなしになっていた鍋には、お味噌汁が入っていた。
空は換気扇のスイッチを入れて点火ダイヤルを回し、火をつけて鍋を温める。
そこで、思い出した。
慌てて炊飯器を開けて、中を覗き込んで、頭を抱えた。
ご飯を炊くのをすっかり忘れていた。
お米を洗って、水を入れて、スイッチを押すだけだから、それだけなら小学低学年の空でも出来るでしょうって最近教えてもらったのだ。
今日が初めて、そのお米を炊く日だったから、すっかり忘れていた。
仕方がない、と空はお釜を取り出してお米を1合入れる。
やり忘れた自分が悪いのだ、お母さんの分だけ炊いておいて、自分はご飯なしにしよう。
今から炊くとご飯にありつけるのが8時頃になってしまう。
まだ台所のシンクで洗い物をするには背が少し届かない空は、洗面所に行って踏み台を持ってくる。
踏み台に乗り、お米を入れたお釜をシンクに入れて、蛇口から出した水でガシガシと洗った。
まだ、水が透明になるまでお米を洗えと言われていた時代だ。
空は八つ当たり気味に、一心不乱にお米を研ぐ。
お米をお釜から零さないように、手で受け口を作って水を流す。
それを何度か繰り返して、水が透明になった頃に空は1合炊く分の水を入れ、お釜の外についている水気を取り、炊飯器にセットし、ボタンを押した。
音楽が流れる。
空は顔を逸らして冷蔵庫からおかずを取り出した。
肉じゃがとサバの煮物、お味噌汁はお米を洗っていた間に、いい具合に温まっていたので、火を消した。
食器棚からお味噌汁用のお椀を取り出し、お玉で掬ってお味噌汁を入れる。
チーン、とレンジが音を立てた。
お味噌汁をリビングのテーブルに持って行ってから、レンジから肉じゃがを取り出して、入れ替わりでサバの煮物を温める。
パタパタパタ、と小さい足が忙しなく動き回る。
外はすっかり暗くなっていた。
「いただきます」
空以外誰もいない、聞こえてくるのはテレビのバラエティ番組の笑い声だけで、空の挨拶に返事をしてくれる人は誰もいない。
それでも、しっかりと染みついているその挨拶は、今よりももっと小さい頃から、お母さんにさんざん躾けられた産物だ。
いただきますを言わなかったら、お父さんにも容赦しない。
カチャカチャ、とお箸がお皿やお椀を掠った音や、テレビのバラエティ番組の芸人達の豪快な笑い声だけが響くリビング。
空はツンとした鼻の奥の痛みを誤魔化すように、息を吸うのと一緒に鼻をすすった。
お母さんが帰ってきたのは、空が夢の中に足を踏み入れるか入れないか、意識が水の中で揺らぐような感覚で目を閉じていた頃だった。
分かっていた。
お母さんが自分を“お母さんの娘”じゃなくて、“家元の娘”として接していたことぐらい。
大切な挨拶の躾を怠らなかったのは、空にちゃんとした人間になってほしいからじゃなくて、家元の娘として恥ずかしくないようにするためであることぐらい。
でも今回のはあんまりだ。
酷い、酷い、酷い。
嫌い、嫌い、お母さんなんか大っ嫌い!
いつもいつも、お家でも着物を着てお花を活けて、空のことなんか全然見ていませんっていう態度を取っているくせに、お家でも“お母さん”じゃなくて“家元の武ノ内淑子”として振る舞っているくせに、どうして“あんなこと”を言ったのか、空には全然理解できない。
空は次から次へと溢れてくる涙を拭いながら、しゃくりあげていた。
何処か行く当てがあるわけでもなく、さ迷い歩いていた。
水と草の匂いが混じっている。
今日は女子サッカーの試合があった。
まだ女子サッカーが珍しかった頃の試合だったので、1試合1試合がどれも大切なものだった。
しかしその数日前、空はサッカー選手の命である足に怪我を負ってしまった。
走るどころか、歩いたり座ったりするのにも支障をきたすレベルで、そんな足でサッカーの試合なんかしてしまえば、確実に入院してしまうことは目に見えている。
それは分かっていた。
分かっていたけれど、空はそれよりにも試合に出ることの方が大事だった。
空は女子サッカーの主力で、チームにとっても貴重な戦力だったのだ。
明日の試合、期待しているぞってチームからも監督からも言われていたから、空はどうしても試合に出たかった。
でもお母さんは、それを許さなかった。
出かけようとする空を呼び止め、いつものように空に背を向けて、花を生けながらこんこんと説教をしてきた。
座れと言われて、渋々ながらも座った時、怪我をした足に痛みが走った。
お母さんは、その時の空の呻き声を聞き逃さなかった。
「何が大事な試合ですか!正座も出来なくなるようなサッカーなんか、止めてしまいなさい!」
それでも試合に行くと言いはる空に、お母さんは声を荒げながらそう言い放った。
その時の空の心情は、きっと誰も想像できない。
最初こそ太一に引っ張られる形で始めたサッカーだったけれど、次第に楽しくなって、女子サッカーチームのエースストライカーに抜擢されるぐらい、たっくさん練習したから、毎日泥だらけ、怪我だらけになってお家に帰ってきた。
その度にお母さんは、女の子なのにこんな男の子みたいに、って呆れながらも泥まみれのお洋服を洗濯してくれたし、たっくさん動き回るせいで他の女子の2倍は食べる娘のために栄養とスタミナ満点の食事を作ってくれたし、試合の日には空の大好きなものがいっぱい詰まったお弁当だって持たせてくれた。
試合に勝てばお祝いもしてくれたし、負ければ次頑張れって外食に連れてってくれた。
お花のお稽古の合間を縫って、空がサッカーしていることを応援してくれていたのに、それなのに、どうして!
「私はお花よりサッカーの方が好きなの!」
「空!それでも貴女はこの私の子どもなんですか!」
──ああ、やっぱり。
「お母さんの莫迦!どうしてわかってくれないのよ!!」
空は目に涙を浮かばせながら、母を罵倒して出て行った。
背後からお母さんが空を呼ぶ声が聞こえてきたけれど、それを無視して試合の場所まで向かった。
でも試合には間に合わなかった。
駆けつけた頃には、試合は終わっていた。
ぼろ負けという、無残な試合結果で。
顔を俯かせて歩いてきたチームメイト達に、空は言葉を失った。
泣いている子もいた。
空とすれ違う時、誰も何も言わなかった。
気づいていなかったのか、それとも言葉すらかけられないほど空に対して怒りを抱いていたのか……。
今となっては分からない。
それ以来そのチームに居辛くなってやめてしまったから。
監督からは、怪我をしていたことに気づけなかった謝罪と、次があるという励ましの言葉をもらったけれど、空の心は晴れなかった。
でも空が女子サッカーチームを止めたのは、それだけが原因ではなかった。
「空ちゃん?何してんの?」
試合があったあの日、お母さんが分かってくれなかったあの日、泣きじゃくりながらとぼとぼ歩いていた空に声をかけたのは、空が尊敬してやまない人だった。
「……ジュン、さん?」
小学校のサッカー部の後輩である、本宮大輔の4つ上のお姉さん、本宮ジュン。
太一の妹のヒカリちゃんと一緒に、いつも大輔のサッカーを見て、応援している人。
小学生にしてパンクファッションを好み、学校中の男子をひれ伏させた伝説を作った、空が今一番憧れている人だ。
何処かへ出かける途中だったのか、それともその帰り道か、いつも学校で着ているものよりも、もう少し派手めなパンクファッションを身に着けていた。
「え、ちょ、どうしたのよ、何で泣いてるの、空ちゃん?」
空が泣いていることに気づいたジュンは、慌てて空に駆け寄り、ハンカチを取り出した。
泣きすぎてぼーっとしていた空は、差し出されたハンカチを受け取ることも出来ず、ジュンはあーもうとか言いながら自分で拭ってやる。
しかし拭っても拭っても、次から次へと出てくる涙に、ジュンはただ事ではないと悟った。
とりあえず座ろうと言って、新緑が眩しい河原の土手に腰をかける。
ぐすんぐすんってしゃくりあげる空を、ジュンは隣に座って優しく背中を擦ってくれた。
ゆっくりと、時間をかけて落ち着いてきた空は、やがてぽつりぽつりとジュンに漏らす。
今日は大事な試合があったのだが、足を怪我してしまったこと。
それを母に見咎められ、説教され、母と喧嘩をしてしまったこと。
「………………」
「……ジュン、さん?」
それまでうんうんって聞いてくれていたジュンが、話が進んでいくにつれて黙り込んでいった。
不思議に思った空がジュンを見やると……困ったような、怒っているような、複雑な表情を浮かべながら空を見つめていた。
「ジュンさ、」
「あのねぇ、空ちゃん」
はぁ、と軽く溜息を吐いたジュンの次の言葉で、空はひゅっと息を飲んだ。
「私が貴女のお母さんでも、きっと同じこと言ったわよ」
その後の記憶は全くない。気が付いたら家に帰っていた。
お母さんはいなかった。
心ここに在らずと言った様子だった空は、いつの間にか電気がついていない自室の真ん中に座り込んでいた。
「……う、あ……ぁああああああああああああああ……!!」
止まっていたはずの涙が、またボロボロと流れた。
今度はしゃくりあげるのではなく、流れた涙を拭うことなく、子どもみたいに声を出して泣いた。
誰も、私の味方なんていない。
「……分からないよ、ジュンさん」
鬱蒼と生い茂った森の中。上空を見上げてみれば、そこだけぽっかりと円が描かれるように開かれており、煌めく星空が彼女を見下ろしている。
しかしそんな美しい星空観賞に浸る余裕など、彼女にはなかった。
パチパチという薪が弾ける音をBGMに、空は独り言ちた。
視線の先にあるのは、デジヴァイスに収められた自身の紋章。
それは愛情だと、誰かが言った。
「私には、分からないよ……」
だって空は、あの日から独りぼっちだ。
お母さんとまともに会話をしたのは、いつだったか。
思春期と反抗期も相俟って、空はお母さんと事務的な会話しかしていない。
お互いの顔を見て、会話を交わしていない。
華道の教室も評判が評判を呼び、最近では週3日が5日に増えてしまい、すれ違い生活が加速していった。
休日も、お母さんと同じ空間に居辛くて、部活がある日は朝から夕方まで練習し、ない日は太一と治を誘って公園でサッカーをして、時間を潰していた。
お父さんは相変わらずいない。
たまに電話をかけてきてくれるけれど、共通の話題など何もないから、こちらも会話が弾まない。
元気か、とか学校では何してる、とか聞いてくるけれど、別に、という返事しか返せていないのが現状だ。
ただでさえ、父親という立場の人達は仕事やら何やらで、自分の子どもと触れ合う時間が少ないのに、空のお父さんは今京都に単身赴任をしているせいで、ますます娘との溝が広がっている一方だ。
娘ということもあり、まともに会話をしてくれない空との距離を考えあぐねているようで、最近では娘の近況は母親から聞いているらしい。
しかしその母親も、娘との間に出来てしまった溝のせいで、近況が分からない。
そのせいでますます武之内家の雰囲気は暗くなっていく。
まさに悪循環。
「空さん?」
背後から呼びかけられた声で、空は我に返る。
慌てて振り返れば、そこにはパジャマ姿のミミが、テントの入り口から顔を覗かせていた。
「ミ、ミミちゃん……どうしたの?」
「こっちの台詞ですよぅ。まだ12時ですよ、12時!起きたら空さんいないから、もう朝なのかなって思ったら、まだ暗いし!もしかして空さん、ずっと起きてたんですか?」
駄目ですよぅ、なんて可愛らしく怒るミミに、空は曖昧に微笑んで謝罪した。
そう、もう深夜を回っている時間帯だ。確かミミとパルモンとピヨモンがおやすみなさーい、ってベッドに入っていったのが9時ぐらいだったから、3時間ほど薪の前に当たっていたことになる。
流石に考えこみ過ぎたか、と空は立ち上がろうとしたのだが、その前にミミが空から見て3時の位置に座り込んだ。
「ミミちゃん、寝ないの?修行は明日もやるんでしょ?」
空達がいるのは、ナノモンの縄張りである砂漠のピラミッドではない。
何故なら彼女らの周りには、空を覆いつくさんばかりの木々が生えて、深い森を作り出しているからだ。
ナノモンのピラミッドから、バードラモンで1時間程移動するところにある森のエリアに、彼女達はいた。
何故彼女達はそんなとこにいるのか、話は2週間ほど前まで遡る。
「ミ、ミミちゃん、今、何て……」
え、と言ったのは誰だっただろう。
治とガブモンが修行の旅に出てからもう1週間経とうとしているピラミッド。
この数日で慣れてしまった、停滞した空間の中で、その声は響いた。
「だぁからぁ、私も修行の旅に出ますって言ったんですぅ!」
治とガブモンが出て行ってから1週間程経った日、ミミとパルモンも修行の旅に出ると宣言したのは、皆で朝食を食べていた時だった。
あまりにも突然の宣言だったため、丈は咽てしまい、もう少しで口に入れていたものが喉に詰まるところだった。
光子郎は食べようとしていた目玉焼きを皿に落とし、空もパンを食べる体勢で硬直した。
そんな仲間達の様子なんか全く気にしないで、ミミは朝食を美味しそうに頬張っている。
「うーん、目玉焼き美味しい!」
『お茶ってやつもイケるわね!葉っぱが飲み物になるなら、デジタルワールドも探せばお茶になる葉っぱがあるかも!』
「あ、いいわね!修行の間に探してみましょっか!」
「ミ、ミミちゃん、修行の旅って、どういうこと?」
その日の朝食は、ミミのリクエストでイングリッシュブレイクファースト風であった。
トーストされた食パンをそれぞれ2枚ずつ、カリカリに焼いたベーコンと目玉焼き、日本では売っていないサイズのソーセージと、甘めのソースを絡めたベイクドビーンズが、ワンプレートに収まっている。
鼻歌でも歌いだしそうなぐらい、いつも通りのミミとパルモンの会話を聞いて、真っ先に我に返ったのは、空だった。
「え?そのままの意味ですよ?」
『アタシ達もオサムやガブモンみたいに、修行の旅に出るのよ!』
ねー!ってミミとパルモンは笑顔で顔を見合わせる。
この先に待ち受けているものを考えれば、場違いなぐらいに明るい笑顔のミミとパルモンに、仲間達はますます混乱するばかりだ。
タケルがまとめた冒険譚でも、ミミはどちらかと言うと戦いには消極的で、やらなくていいのならやらないし、誰かがやればいい、というスタンスを取っていた。
それが如実に表れていたのが最終決戦直前で、それまでは周りに流されるがままに冒険をしたり、デジモンを進化させたりしていただけで、明確な戦意などは持っていなかった。
あの冒険では、沢山のデジモンが死んだ。子ども達を、デジタルワールドを護るために、その命を散らした。
犠牲になっていったデジモン達を目の当たりにし、自分達が立ち向かっていく敵の強さや悍ましさ、殺意等を受けてしまったミミは、その時ようやく気付いたのだ。
自分達がしているのは、“殺し合い”なのである。
“奪い合い”なのである。
ゲームの出来事なんかではない、パソコンの中の世界でも、現実に起こっていることなのだ。
ここで死んでしまえば、本当に終わってしまうのだ。
最初からやり直し、というのが出来ないのだ。
データの粒子になって、風に運ばれていくデジモン達の命の欠片を認識して、ミミはやっと気づいたのである。
せっかく光を抱いた彼女の個性は、蝋燭の火が消えたように光を失ってしまった。
皆と一緒に戻ったデジタルワールドを彷徨いながら、ひたすら戦いから逃げ、目を背けた。
自分達が戦わなければ、敵も諦めてくれるのではないか、なんて叶いもしない希望を抱きながら彷徨い続けた彼女を襲ったのは、残酷な別離。
戦うことから逃れられないと悟ったミミがみんなと合流したのは、本当に最後の決戦時である。
「……アタシ、早くお家に帰りたかった。ここにはパパもママもいないし、ママが作ってくれる美味しいご飯も、ふかふかのベッドもない。ちょっと歩けばコンビニも自販機もあるアタシ達の世界と違って、食べ物とか飲み物も見つけるの大変だった。ゲンナイさんのお陰で大丈夫になったけど、でも、でも、早く帰りたい!もうイヤ!って何度も思った。今だって帰りたい。帰りたいけど、怖いけど……」
ブイモンの過去に誰より心を痛めていたのは、恐らくミミである。
喉を潰すほどの声量で悲鳴をあげ、髪を振り乱しながら首を振り、取り乱しながら喚いていた。
空に支えられなければ歩けないぐらいに、消耗していた彼女に、一体どういう心境の変化があったと言うのだろう。
そう丈が訊ねると、ミミは飲んでいた紅茶のカップをソーサーに乗せ、そっとテーブルに置き、ゆらゆらと揺らめく紅茶の波に視線を落としながら、ミミはぽつりぽつりと秘めた気持ちを吐露していった。
上記の言葉を紡ぎながら、ミミの脳裏に浮かんだのは、ほんの1週間程前に見た、あの悍ましい記録。
「……それじゃ、駄目って思ったの。アタシ達がもうイヤって思ったら、戦いたくないって思っちゃったら、また“ああ”なるんだって。ブイモンみたいに、次はパルモン達が怖い思いをするかもしれないんだって……太一さんも、そう言ってたもん」
始まりは、決して望んでいたことではなかった。
自分達の意志は置いてけぼりで、目を閉じても耳を塞いでも、戦いから逃れることは出来なかった。
帰りたい、逃げ出したい、もう何もしたくないと心は何度も叫んでいたかもしれない。
見せつけられた、この世界の恐ろしい歴史は、間違いなく子ども達の心を抉り、深い深い傷をつけた。
でも、それでも、ミミは。
「……だから、アタシ決めたの。傷つけるのも、傷つくのも嫌。でも傷ついた誰かを見捨てるなんて、もっと嫌。だから、頑張ることにしたの」
今も何処かで、抵抗も出来ずにその命を散らしてしまっているデジモンがいるかもしれない。
ゲンナイもナノモンも、子ども達の心情を理解して何も言わないでくれているけれど、デジタルワールドを覆いつくそうとしている闇は、子ども達やデジモン達の敵は、子ども達の心が治るまで待ってくれない。
……戻れないのなら、帰れないのなら、前に進むしか残されていないのだ。
「……先、越されちゃったな」
吐露されたミミの気持ちに聞き入って、静まり返った空間に零れたのは、少しだけ悔しそうな言葉。
反射的に顔を向ければ、先程まで咽ていた丈だった。
喉に引っかかっていたソーセージを何とか飲みこみ、ゴマモンから手渡されたコップの水を飲み干して、一息吐いていた丈は、苦笑いを浮かべていた。
「丈先輩……?」
「いや、実は僕も同じことを考えてたんだ……」
照れくさそうに頬を掻きながら、丈は告げる。
「僕は今まで年上だからって、最年長だからって、みんなを導こうとしていたけれど、いつも空回りしていたよね。上手くやろうとすればするほど、どんどんから回っていって、最終的にどうしたいのか自分でも分からなくなってさ……。やらなきゃいけないことが沢山あると、何を最優先すべきなのか分からなくなって、こんがらがって、結局何もできなくなっちゃうのが僕の悪い癖なんだ」
丈が“丈”としてその気質や性質を発揮させるのは、冒険の終盤だった。
現実世界に一時的に帰国するまで、否、一時帰国から再びデジタルワールドに赴くまで、丈は末っ子気質が何処か抜けていなくて、何をするにもいつも空回りしていた。
それは、“覚悟”が出来ていなかったからだ。
小学6年生、来年は中学生になる丈は、真面目な性格も手伝って自分の常識から外れたものを受け入れるのにとても時間がかかる。
だからこそ冒険の序盤、丈は何も出来ずにただただみんなの後をついて行くことしか出来なかった。
リーダーらしく振舞おうとすればするほど、小学5年生の3人が前に出て行く。
目立つことが苦手だった丈は、口では自分が年上なのに、なんて言っていても内心はほっとしていた。
自分にはリーダーシップなんてないし、みんなを引っ張っていく力もない。
真面目で堅物であるが故に、現実的なことを口にして、しばしばみんなを不安にさせてしまう。
でも“覚悟”さえ決めてしまえば、丈のその意志の強さは子ども達随一だ。
自分の中で折り合いさえつけてしまえば、丈は誰よりも強いのである。
「最初に何をやらなきゃいけないのかを明確にしたお陰で、頭の中がすっきりしたよ。みんなに相談せずに、勝手に決めたことは悪かったと思ってるけど、まあ、ミミくんも修行に出るって言うしね。僕は、僕達は前に進むために、まず目の前にある問題から片付けないと……」
「……そう、ですよね」
そんな丈に触発されるように、声をあげた者がいた。
「なら、僕も行きます」
光子郎である。
顔を俯かせてはいたが、その目には決意が込められているのが、見て取れた。
「僕達に残されている時間がどれだけあるのか分かりませんが、うかうかしていられる余裕がないのは確かです。だったら僕達も……前に進むべきです」
そう言いながら光子郎は、デジヴァイスを手に取り、ボタンを数回押す。。
ディスプレイに表示された、眼鏡のような模様は“知識”の紋章。
それが何の意味をもたらしているのか、ここでじっとしていてもきっと答えは見つからないだろう。
「僕達は何も知りません。ゲンナイさんや他のサポートしてくれるデジモン達が僕達のために、色々と調べてくれてはいますが……僕はそれを待っているだけなのは、嫌です。自分の足で向かって、目で見て確かめたい」
「そっか!丈先輩も、光子郎くんも修行するのね!頑張りましょっ!」
──……置いて、いかれる。
咄嗟に、空はそう思った。思ってしまった。
みんな前に進もうとしている。
1人ぼっちになってしまったブイモンの記憶を見せつけられて、立ち止まりかけていた子ども達は、太一の行動と治の言葉に揺り動かされて、1歩踏み出そうとしている。
だから空はミミとの同行を持ち掛けた。
すると、やはり1人では思うところがあったのか、ミミはあからさまに喜んでいたので、少々脱力したものだ。
修行と言ってもどのようにデジモン達を強くすればいいのか分からず、2人で考えたのは“お互いを修行相手として、経験値をあげていくこと”であった。
流石にそこら辺の野良デジモンとは言え、何もしていない相手に喧嘩を吹っ掛けるのは良心が痛んだからだ。
時折襲い掛かってくるデジモンはいたものの、次なる敵とは全く関係なく、強い相手の気配を感じ取ったデジモンだったので、普通に追い返しながらそれも経験値としていた。
そうやって修行を繰り返し、今日で2週間目に突入する。
「何か目ぇ冴えちゃって!空さん、まだ眠くないなら、ミミとお喋りしてください!」
えへへーって可愛く笑うミミに、まるで甘えてくる妹のような感覚に陥った空は、仕方ないわねぇって苦笑する。
やった、とミミは両手をあげて喜び、早速と言わんばかりに話し出した。
彼女の口から飛び出てくるのは、学校のお友達のこと、今興味あることや、来たいお洋服、アクセサリー。
帰ったら何がしたいとか、何処に行きたいとか、9割ほどが自分のことだった。
時々、空さんはどうしたいですか、とか何が好きですか、って尋ねてきて、それに空が答える形で会話をしているが、殆どミミが喋っていた。
普段は1つに纏められている髪が下ろされ、ヘアゴムの跡がついて少しふんわりとしている髪が、ミミが身振り手振りをする度に揺れる。
ピンク色のパジャマは所謂ネグリジェと呼ばれるような、ワンピース型のパジャマで、襟の部分はレースのようになっていた。
可愛くて、お洒落に余念がなくて、コロコロと表情を変えながらお喋りに興じているミミに、妹のような愛しさを感じながら……空の口元から少しずつ笑顔が消えていく。
「……ミミちゃんは、お花とか好き?」
マシンガンのように繰り広げられるトークの隙間を見つけた空は、ほぼ初めてのような質問をミミに投げかけた。
先ほどまで聞き役に徹していた、お姉さんのように思っている人の質問に、ミミは目を丸くしながらもすぐに花のような笑顔を浮かべて頷く。
「どんな花が好き?」
「んー、タンポポとかスズランみたいに小さい花も好きだけど、やっぱり私はチューリップとかコスモスとか可愛いのがいいなぁ!フラワーアレンジメント、でしたっけ?ああいうのも可愛くて好きです!空さんは?」
「……私は」
訊ねられて、空は俯く。
あれ、とミミが思った時には、遅かった。
「……好きじゃないの、お花。お母さんを思い出しちゃうから」
ミミの話を聞いて、空は思ってしまうのだ。
お母さんが欲しかったのは、私みたいに外で走り回って泥だらけになる、お母さんの言うことなんか聞かないお転婆娘じゃなくて、ミミちゃんみたいな娘だったんじゃないかって。
ミミのようにお洒落で、女の子らしくて、お花が好きな女の子なんて、まさしく華道家の娘に相応しいではないか。
少々我儘なところはあるものの、基本的には素直なミミなら、きっとお母さんも指導のしがいがあるというものだろう。
流石武之内さんの娘さんだ、と言われても疎ましく思うことなく、えっへんと胸を張るに違いない。
父親との会話だって、聞いてもいないのに今日は何があった、とかこんなことをした、とお喋りをして、父親は口を挟む隙も無く、それでも楽しそうにうんうんと相槌を打ってくれる。
ミミを中心とした、笑顔の絶えない武之内家となっていただろうに……。
「私のお母さんね、華道の家元ってやつなの。自分で教室も持っててね。ほぼ毎日教室で先生やってるの」
どうしてこうなってしまったのだろう。
小さい頃は確かに、母に憧れていたはずなのに。
「私がサッカーをするの嫌がってて、私に無理やりお花をやらせようとするの。私はお花よりサッカーの方が好きって言ってるのに」
誰にも言うつもりはなかった。
あの日、憧れのジュンにまで母の方が正しいと言われてから、誰も自分の気持ちなんか分かってくれないって、ずっと押し殺していたのに。
「………………」
ミミはただ黙って聞いている。
じ、と俯いて、抱えた膝で隠すように座っている空を、ミミはどういう気持ちで見ているのだろうか。
「……この紋章」
膝で隠していた顔を少し上げながら、空は手に持っていたデジヴァイスを見下ろす。
“愛情”と称された、その名に相応しいハートの形をした紋章が、ディスプレイに浮かんでいた。
「……ゲンナイさん、言ってたわよね。紋章は私達の想いが、それぞれ形になってるって。太一のは勇気、治くんのは友情、光子郎くんは知識、丈先輩は誠実、ミミちゃんは純真……大輔達のは聞きそびれちゃったけど、でもきっとあの3人も相応しい想いを持ってると思うの」
「それは……空さんもそうでしょ?」
「そんなことない!」
いつもと様子の違う、お姉さんのように思っている人にミミはそう言うと、空は大きな声でそれを否定した。
バサバサ、と何処かで鳥が飛び去ったような音が聞こえてきた。
「そんなの全然、私らしくなんかないっ!」
「そ、空さん?」
「何よ、愛情なんて!まるで私に愛情があるみたいに……っ!私はお母さんに愛されていないのにっ!」
だってお母さんは空がしたいことを応援してくれなくなった。
脚を怪我するような危険なスポーツだと決めつけて、空のことなんか見てくれなかった。
お母さんが必要なのは空ではなく、“華道家・武之内淑子の娘”なのだ。
そんな自分の“想い”が、愛情?
母にも父にも愛されなかった自分が?
母の望む娘になれなかった、自分が?
まるで笑えない喜劇ではないか。
「……でも、空さん。いつも私達のこと、考えてくれるじゃないですか」
静まり返った空間に、パチパチという薪の弾ける音が響く。
静寂を引き裂いたのは、一滴の雫であった。
「みんなのことなんて、どうでもいいの!ホントの……っ!ホントの私のことなんか何にも知らないくせに、勝手に決めつけないでよっ!!」
「それは嘘です」
「っ、ミミちゃん……?」
爆発寸前にまで膨れ上がり、喚き出した空に対して、ミミは静かにそう言い放った。
目を閉じ、今にも泣き出しそうになっていた空は、自分の言葉を否定したミミの方に顔を向ける。
いつも可愛らしい笑顔を咲かせているミミの表情は、真顔だった。
じ、と真っすぐ空を見つめて逸らさない。
「みんなのことなんかどうでもいいなんて、嘘です。嘘つかないで、空さん。私、いつもの空さんが好き。嘘つきの空さんは嫌いです」
「っ、嘘なんかじゃないっ!だって私は……!」
「じゃあどうして私が修行の旅に出るって言ったら、心配してくれたんですか?」
「……え?」
「一緒に来てください、って言ったら、空さん来てくれましたよね?何でですか?」
「……それ、は……」
空はそれ以上何も言わなかったが、後に続く言葉は容易に想像できた。
ミミはにっこりと笑う。
「ねえ、空さん。本当にみんなのことどうでもいいんなら、私が修行するって言った時についてきてくれたりしないですよ」
「………………」
「本当にどうでもいいって思ってる人はね、空さん。私がついてきてほしいって言ったら、やだとか、何でって言って、私のこと放っておく人なんです。光子郎くんみたいに!」
「……え?」
「だって聞いて下さいよ、空さん!ファイル島でみんなバラバラになっちゃった時、光子郎くんたら酷かったんですよー!」
先ほどまで笑っていた顔が、一瞬で怒り顔になる。
プンプン、という効果音が付きそうなほどに怒っているミミは、デビモンにより子ども達が引き離された時のことを愚痴り出した。
太一とアグモンは治とガブモンと、空とピヨモンは丈とゴマモンと、そしてヒカリとプロットモンは大輔とブイモンとそれぞれ合流していた頃。
みんなとはぐれて心細い思いをしていたミミとパルモンが、千切れた島を歩き回ってようやく見つけたのが光子郎とテントモンだ。
しかし再会を喜ぶミミとパルモンとは違い、目の前の謎に夢中になっていた光子郎は、ミミへの扱いがおざなりになってしまった。
その時のことを思いだして、ミミは両手の拳を肩の位置で握りしめて、歯を食いしばりながら怒りを隠さない。
「……ってぇ、ことがあって!酷いと思いません!?」
「そ、そうね……」
「だから、空さんは自分勝手なんかじゃないです!」
「……え」
「みんなのことなんかどうだっていいって言うのは、つまり自分のことしか考えてない、自分勝手ってことですよね?でも空さん、空さんは今まで一度だって我儘言いました!?もう帰りたいとか、休みたいとか、お腹空いたとか、コーラ飲みたいとか!言ってないですよね!?」
「………………」
「太一さんみたいにさっさと行っちゃったり、光子郎くんみたいに何かに夢中になって他のこと忘れちゃったり、丈先輩みたいに情けないこと言ったりとか!全っ然してないじゃないですか!」
ちゃっかり自分のことを言わない辺りがミミらしいと言えよう。
治に関しては欠点らしい欠点が見当たらなかったので、言及することはなかった。
いや、ミミが言いたいのはそこではない。
自分達が今何処にいるのかも忘れたミミは、力説をやめなかった。
「……私、空さんのお家の事情とか、よく分かんないです。今回のことがなかったら、こんな風にお話することはなかったと思うし、5年生の人とか、サッカーの人っていう印象しかなかったかも。でもね、空さん。そんな私でも、空さんって優しい人なんだなぁって思えました。お姉さんがいたら、こんな感じなのかなって。だから……」
ミミは一旦言葉を切ると、膝を抱えていた空の両手をそっと取る。
ミミの手が重ねられた手を見て、それから再びミミの方を見やると、苦しそうな、哀しそうな表情を浮かべていた。
「……愛されてないなんて、そんな淋しいこと言わないでください。空さんみたいに優しい人が、愛されてないなんてこと、絶対にあるはずない」
「………………」
真っすぐ自分を見つめてくるミミに、しかし空は目を逸らしてしまった。
俯く。そこに笑顔はない。
断言してくるミミに、何と返したらいいのか、分からなかった。
この子は、ちゃんと愛されて育ったのだろうなというのが、言葉の節々から感じられる。
……だからこそ、空の気持ちは更に沈んでいく。
「……ありがとう、ミミちゃん。でもそろそろ寝ましょうか。明日起きられなくなっちゃうから」
「ふぇ?あれ、そう言えば今何時……」
「もう1時過ぎちゃったわね」
「うわわ、ちょっと調子乗りすぎちゃった!」
「そうね。明日も修行しなきゃだし、寝ましょ」
「はぁ~い」
曖昧に微笑みながら話をすり替えれば、それにつられたミミは慌ててテントへと戻っていく。
このテントは修行の旅に出る際に、治と同じようにゲンナイさんが用意してくれたものだ。
みんなで使っていたテントのように、見かけは1人用の小さなテントだが、中に入れば2人と2体が大の字で寝転がっても、まだ余裕で使える程に広く、簡易だがキッチンもついており、更にトイレやシャワーもついている一級品だ。
女の子らしく、ピンク系でまとめられた内部は、しかし自分には合わないものばかりだな、と空は少々及び腰になっていた。
ずっと男の子に混じって、サッカーボールを追いかけて走り回って、泥だらけになりながらお母さんを困らせていた女の子は、今更女の子らしさを求められても、どうすればいいのか分からない。
「おやすみなさい、空さん」
「おやすみ、ミミちゃん」
既にパジャマに着替えているミミは、そのままベッドに入る。
昼間の修行で疲れ果てていたパルモンとピヨモンは、先ほどまで空とミミがお外でお喋りしていたことにも気づかないほど、ぐっすりと眠りこけていた。
シャワーを浴びる気になれなかった空は、タンスからパジャマを取り出し、さっさと着替えてベッドに入る。
ベッドの真ん中を陣取っていたピヨモンを起こさないように、奥へと押し、横になった。
目を閉じる。眠れるのか分からないが、先ほども言ったように明日も修行をしなければならない。
この世界を救うために、自分達の世界に帰るために……。
──帰る……私達の世界に……お母さんのところに?
あの家に居場所なんかないのに、帰れるのだろうか。
娘が大変な思いをしながら異世界を冒険しているなんて、夢にも思っていないお母さんは、空が帰ってくることを歓迎してくれるのだろうか。
今回のキャンプに行くのだって、お母さんは表情を1つも変えなかった。
キャンプに行く、とお母さんの了承も得ず、殆ど事後報告に近い形だったのに、お母さんは、そう、とだけしか返してくれなかった。
《愛されてないなんて、そんな淋しいこと言わないでください。空さんみたいに優しい人が、愛されてないなんてこと、絶対にあるはずない》
寝る直前の、ミミの言葉が何度も何度も再生される。
それでも、幾ら思い出しても、空はお母さんに愛された思い出を見つけることは出来なかった。
「…………やっぱり、私には分からないよ」
放り出された空の独り言を、受け止めてくれる者は誰もいない。
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