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その森の名前を知る者は、誰もいない。
いつからそこにあったのかも、何のためにあるのかも、誰も知らなかった。
ただ1つ分かっているのは、その森には不思議な力がある、ということだ。
それがどう不思議なのかは、デジモンによって印象はまちまちである。
何故ならその森に入るのは、ごく一部の限られた者だけだからだ。
その森があるエリアは、年中分厚い灰色の雲で空が覆われており、森も鬱蒼と生い茂った、重厚で、闇を吸ったような緑が延々と続いている。
大輔と賢は、そんな森の出入り口にいた。
いや、森の出入り口、というよりはそのエリアの境目、と言った方がいいか。
ここに連れてきてくれた獣人曰く、そのエリアは森で構成されているため、隣接しているエリアの総てがそのエリアへの出入り口になるそうだ。
じ、と大輔と賢は森を睨みつけるように見つめる。
生き物の気配が、全くない。
陰鬱とはしているものの、これだけ緑が生い茂っている森に、命の気配を全く感じないのだ。
ここに来るまでの間も、何なら目の前の森と隣接している、自分達が今いるエリアにも、デジモン達が沢山いて、たまに襲ってきていたのに、この森に近づくにつれ、頻度がどんどん減っていった。
まるでこの森が発する陰鬱なオーラに圧倒されているかのように。
現に、大輔と賢とパタモンが無防備に突っ立って、目の前の森を見つめているのに、野生のデジモン達が襲ってくる気配がない。
大輔達のすぐ傍に佇んでいる存在も、それを後押ししているだろう。
鍛え上げられた美しい肉体は人間のものとよく似ているが、その肉体に乗っている首は人間とは似ても似つかない、凛々しい獅子の頭部を持った獣人。
自身の膝丈にも満たないほどの小さな子どもを見つめる青い目は、とても優しい色をしていた。
大輔達がその獣人と出会ったのは、今から2週間ほど前になる。
闇に呑まれたエテモンを倒し、ナノモンを救うために飛び出していった太一とアグモンが、強大な力と力がぶつかって生まれた歪に引き込まれ、現実世界へと行方不明になったのが3週間前。
その後を追うように、治とガブモンが修行の旅に出たのが、その翌日。
残った子ども達も、治達に触発されるかのように修行の旅に出ることになったのだが、1つ問題が浮上した。
それは、最年少の3人をどうするか、ということである。
皆で一緒に修行の旅に出てもよかったのだが、ゲンナイさん曰く、紋章はそれぞれの個性だ。
それなら全員で同じことをしてもきっと意味はないだろうし、修行をしている間、最年少の3人はただただ時間を持て余すだけになるだろう。
ブイモンのパートナーである大輔は言わずもがな、大輔とブイモンと1番仲良しのヒカリとテイルモン、賢とパタモンは、ブイモンの過去を見たショックから未だ抜け出せていないようで、今でも1日中暗い顔をしている。
そもそもブイモンは、過去の悍ましい記憶を引きずり出されたせいで、深い眠りについてしまっている状態だ。
戦力は十分あるとはいえ、パートナーに護ってもらえない大輔は、真っ先に狙われる対象である。
今回対峙するべき敵がどんな相手なのか分からない以上、迂闊に大輔を連れ回すのは憚られるというものだった。
そんな時に現れたのが、このレオモンである。
最初は、敵だった。
正義の心を持ったレオモンは、悪意をばら撒いてデジモン達に恐怖を植え付けるデビモンの愚行を許せず、子ども達を差し置いてデビモンを退治しようとしたのだが、それが間違いだった。
デビモンは、レオモンが想定していたよりも強かったのだ。
凶悪な程に強い闇の力と悪の心を植え付けられたレオモンは、幾度となく子ども達に立ちはだかる壁となって、子ども達と敵対してしまった。
色々あって闇の力と悪の心を退けることに成功し、正義の心を取り戻したレオモンは、最終決戦の場にて子ども達と再会することとなった。
闇の力と悪の心を退けた際、デジヴァイスの浄化の光の恩恵を受け、究極体の力を手に入れたレオモンだったが、子ども達を護るためにその命を散らせてしまった。
結果的に、争いに対して消極的になっていたミミを再起させるに至ったが、ミミにとっては心が引き裂かれるような思いだっただろう。
しかし初めての出会いになるはずのファイル島で、子ども達はレオモンに出会うことはなかった。
本当なら子ども達がファイル島についた際に、道案内やデジタルワールドについて色々と教えようと思っていたようなのだが、その前にゲンナイと共にサーバ大陸に渡ることになったと、レオモンは教えてくれた。
だから会えて嬉しいよ、と微笑まれた時、そう言えばって思い出した。
そうだ、太一さん達がレオモンと初めて会ったのは、ファイル島だったはずだ。
いけ好かない親友の小説にも書いてあったが、大輔達はファイル島でレオモンには会っていない。
それどころか、レオモンをライバル視していた、あの緑色のデジモンも見ていない。
ファイル島にいた時は、前世の記憶なんて覚えていなかったから、レオモンと出会わなかったことすら、何の疑問も抱かなかった。
そもそも大輔と賢は愚か、ヒカリもファイル島での冒険には参加をしていなかったから、ここでこうしてレオモンと出会わなかったら、思い出すこともなかっただろう。
だがこのレオモンは、間違いなく太一達がファイル島で出会った個体のレオモンだろうと、大輔達は確信した。
何故なら他の子ども達の目を盗んで、ゲンナイがウインクを送って来たからだ。
恐らくレオモンの悲劇を防ぐべく、ゲンナイが画策したのだろう。
レオモンは正義感の強いデジモンだ。
異世界からやってくる選ばれし子どもが、世界を救ってくれると言い伝えられていても、世界を侵食していく闇を放置できないはずである。
それもレオモンの運命ならば、と受け入れることも出来たであろうが、ここはもう既にゲンナイや大輔達の知る世界とは違う歴史を歩んでいる世界だ。
避けられるのなら、避けるに越したことはない。
世界を救うための犠牲なんて、ゲンナイだって望んでいないのだから。
そんなレオモンが、タイミングよくピラミッドにやって来た。
どうやら治が修行の旅に出る、と言った時から、他の子ども達もそれにつられて修行の旅に出ることを見越して、呼び出していたらしい。
そう言うことなら、と上級生達は安心してピラミッドから旅立っていった。
しかしだからと言って、何かが変わったわけではない。
ブイモンは相変わらず目を覚まさないし、ゲンナイもなっちゃんもロップモンも、太一達が帰ってきた時のために、敵の情報を少しでも集めようと東奔西走していて、大輔達はそれを見ているだけだ。
何か手伝おうとしても、ゲンナイさんは大丈夫だよ、今はゆっくり休んでいなさい、と言って大輔達をなるべく戦いから遠ざけようとしている。
本来なら、それは許されないことだ。
この世界を救う救世主として呼ばれた以上、年上も年下も関係ない。
パートナーデジモンに自身の心の力を与え、この世界に巣食う闇を払わなければならないのだ。
しかし今の大輔には、それが出来ない。
力を与えるべきパートナーは、過去に打ちのめされて眠り続けたままなのだ。
大輔だけではない。
賢とヒカリも、彼ら自身にもパートナー達にも、何の異変もないのに大輔と同じように足踏みをしてしまっている。
大切な友達の、忌まわしい過去を覗き見たせいというのもあるが、それ以上にどうしても割り切れないのだ。
前世のことを思い出してから、どうやってパートナー達と会話をしていたのか、覚えていないのだ。
前世のことなんて、朧げにしか思い出せないはずなのに、それなのに今の自分のパートナーを見ると、口を開いても言葉が出てこない。
喉の奥に張り付いて、はくはくと息だけが吐き出されて、結局口を閉ざす。
どうしたの?って澄んだ青い目で見つめてくるパートナー達に、何でもないって言葉しか言えなくなる。
言えるわけがないのだ、言えるはずがないのだ。
自分達には前世の記憶があって、前世でパートナーを置いてきてしまったなんて、口が裂けても言えないのである。
真っすぐ、パートナーの子どもに全面的な信頼を置いて、大切で大好きという感情を隠さないその瞳に、堪えられないのだ。
特に賢は、それが顕著だった。
賢の前世のパートナーは、パタモンではない。
ワームモンという芋虫型のデジモンで、大輔とはジョグレス進化をする唯一無二の相棒だったのだ。
でも今は、そうではない。
どう足掻いても賢のパートナーは天使に進化するデジモンで、この冒険を乗り越えた3年後に向かったとしても、唯一無二の相棒になることは、もう永遠にない。
ずっと、それこそ死ぬまで、ブイモンとは違う意味の相棒だったはずの親友とは、もう一心同体になることはないだろう。
パタモンは悪くない。勿論大輔もブイモンだって悪くない。
誰も悪くないのだ。
誰も悪くないからこそ、その怒りも哀しみも、ぶつける相手がいない。
どうしてこうなっちゃったのって泣き喚くことすら、賢にはできなかった。
ヒカリだってそうだ。
最初から最後までこの世界を冒険できた、異性の親友を羨ましいと思ったことは何度もあった。
私だってお兄ちゃんと一緒に、沢山冒険したかったのになって、八つ当たりにも似た愚痴を、大輔達がいない時に、タケルにぶつけたことだってあった。
僕に言わないでよ、って苦笑しながらも慰めてくれた親友は、ここにはいない。
それぞれがそれぞれの苦悩を抱え込むのに必死で、余裕なんてなかった。
デジモンは人の想いで進化し、強くなる。
こんな状態では、例えブイモンが目を覚ましていたとしても、ブイモンに力を与えて進化を促すなど、到底出来ないだろう。
上級生達のように、修行の旅に出さなかったのは正解だったな、とゲンナイが思っていたことを、大輔達は知る由もない。
だが事態は急展開を迎える。
上級生達が修行の旅に出て、1週間が過ぎた頃だ。
またいつも通りの1日が始まる、はずだった。
窓がない寝室は薄暗いため、寝る時も最小限のオレンジ色の灯りが点いている。
その灯りが明るい白色になったら、朝になった合図だ。
ナノモンの手伝いのために早起きしているなっちゃんや、ロップモンに毎日おはよーって大輔達は叩き起こされている。
のっそりと起き上がり、まだ覚醒しきらない頭のまま、もそもそと着替える。
何度も欠伸をしながら洗面所に行って、顔を洗う。
そしてぞろぞろと連れ立って、メインルームに行って、みんなで朝食を食べる。
その後は何をするでもなく、お昼ご飯までぼんやりと過ごす。
お昼ご飯を食べた後も、夜ご飯まで同じように過ごして、夜ご飯を食べる。
また時間が過ぎるのを待ち、その後は歯磨きをして寝支度をしたら、寝室に向かってベッドに入る。
毎日、これの繰り返しだった。
まるで自堕落な生活そのままで、とてもこの世界を救う救世主とは思えないが、それも今日までの話となるだろう。
今日もいつもと同じ日になると思っていた大輔は、隣で眠り続けているブイモンの身体に手を置こうとする。
が、そこにあるはずの膨らみがなかった。
ブイモンは眠ったままで、何処にも行けるはずがないのに、そこで眠っているブイモンの存在が感じられないのである。
さあ、と顔を真っ青にさせながら、大輔は慌てて布団を捲る。
大輔の悲鳴が響き渡り、覚醒しつつあった賢とパタモン、ヒカリとテイルモンは飛び起きた。
辺りをキョロキョロと見渡し、悲鳴の出処が大輔と気づいて、2人と2体は大輔の方を見やる。
大輔は、腕に何かを抱えていた。
目を見開き、はくはくと息を吐き出しながら、自分を見つめてくる友人達を見つめ返す大輔の顔に浮かんでいるのは、絶望の色。
賢とヒカリ、パタモンとテイルモンはそれぞれの顔を見やり、大輔がいるベッドへと移動する。
移動したことによって、大輔が抱えているものに気付き……2人と2体は息を飲んだ。
そこにいたのは、ブイモンではなかったのである。
ブイモンと同じく青い身体ではあるのだが、一回りも二回りも小さく、大輔が両腕で抱えても余裕な、二頭身程の大きさしかなかった。
へにょりとした2本の角も同じなのだが、口元だけだった白は顔周りにまで広がっている。
ファイル島で見て以来、ご無沙汰だったその姿。
大輔達はパジャマから着替えるのも忘れて、慌てて寝室から出て、ゲンナイの名を呼びながらメインルームへと走った。
メインルームの出入り口付近で、なっちゃんとぶつかりそうになったが、謝罪もそこそこに、ナノモンの手伝いをしてコンピュータのパネルを操作しているゲンナイに駆け寄り、大輔は腕の中で眠る幼い竜……チビモンを見せる。
ギョッと目を見開いてチビモンを見下ろしてきたゲンナイに、やはりただ事ではないことが起きているのだ、と大輔はチビモンを抱きしめる腕の力を強める。
通常、デジモンは余程のことがなければ退化をしない。
様々なデジモンと戦いながら経験を積み、長い時間をかけながら次の世代へと進化を果たす。
選ばれし子どものパートナーデジモンは、デジタルワールドを巣食っている闇を払うため、急激な進化を可能としている代償に、姿を保つことが出来ずに成長期に退化をしてしまうのだが、それでも成長期どまりだ。
完全体や究極体ぐらいにまでならなければ、幼年期以下になることはない。
前世でのブイモンは、現実世界に来ると何故か退化していたが、それでも滅多な理由がない限り退化はしないはずだ。
それなのに大輔のブイモンは、チビモンに退化をしてしまった。
ファイル島で初めて進化をした時も、深い眠りについてしまったが、退化まではしなかったのに。
それでも尚、ブイモンは、基チビモンは目を覚まさない。
……理由は、単純で簡単だろう。
チビモンが眠り続けて2週間が過ぎている。
その間チビモンは何も食べていない、何も口にしていない。
エネルギーを摂取する機会がないのだから、エネルギーは消費するばかり。
となれば、ブイモンが退化してしまうのは、当然の結果だろう。
……このままチビモンが目を覚まさなければ、どうなるか。
エネルギーを摂取出来ないまま、眠り続けていたら、どんどん衰弱していき、最後に行きつくのは……。
──“死”……!
そのたった一文字が、大輔達の脳内を過った。
目前にまで死が迫ったような恐ろしい目に合ったのに、死にたくないって必死で祈って恐怖に耐えていたのに、目を覚まさないチビモンは死に向かって歩いている。
ど、と大輔の額から、背中から、嫌な汗が流れ出した。
チビモンを抱きしめる腕に、更に力が入る。
賢もヒカリも、パタモンもテイルモンも、ゲンナイやなっちゃん、ロップモン、ナノモンも、何と言ったらいいのか分からず、全員の息が詰まっていた。
そんな時に差し伸べられた、救いの手。
1も2もなく、大輔がその手に縋ったのは当然と言えよう。
曰く、ここから離れたエリアに、不思議な森がある。
その不思議な森に名前はなく、殆どのデジモン達も滅多に近づかない、深い深い森。
エリアとエリアの境目には見えない壁でもあるかのように、くっきりと、晴れ渡る空と分厚い雲が共存しているらしく、空を飛べるデジモンはその森があるエリアをわざわざ迂回して通り過ぎていくのだそうだ。
広さとしてはファイル島程の大きさしかないはずなのに、それでもファイル島に住んでいるデジモンよりも強い個体がいるサーバ大陸のデジモン達でさえ、余程のことがなければ近づかないとのことだった。
しかしその森の不思議たる所以は、そこではない。
その森は一たび足を踏み入れると、簡単には出てこられないのだそうだ。
例えば真っすぐ前だけを見て森に入ったとして、森から出る際も同じように真っすぐ進めば、理屈としては森から出られるはずなのだが、幾ら進んでも歩いても、森の出口に辿り着かないのだという。
並みのデジモンは、その森の不思議な力を恐れて近寄らないのだが、極稀に、その森にわざわざ足を踏み入れるデジモンもいるらしい。
それが、レオモンのように強くなることに余念がないデジモン達だ。
己の肉体を、精神を鍛えるためなら、あらゆる手段も辞さないようなデジモン達にとって、その森は何の邪魔も入らない恰好の修行場なのだそうだ。
レオモンも、ゲンナイに呼ばれるまでは、その森をしていたらしい。
救世主とは言え、この世界を救うために連れてこられたのは、異世界に住む存在だ。
自分達の世界の問題を押し付けるだけなのは申し訳ないから、少しでも力になれるように、と暇さえあればその森でずっと鍛錬していたのだそうだ。
レオモンは言う。
その森は、強くなりたい者達が足を踏み入れる場所。
己と向き合い、己の弱さを認める場所。
あるデジモンは、強き者にただ嬲られていただけだった時の、弱かった自分と出会ったという。
またある者は、自分から総てを奪った者と死闘を繰り広げたという。
レオモン自身も、時に不甲斐ない自分と、敗けたくないライバルと戦って、何度も自分自身を見つめ直したそうだ。
だからその森に行けば、ブイモンが目を覚まさず眠り続けている理由が分かるかもしれない、と。
戸惑いがなかったわけではない。葛藤がなかったわけではない。
かもしれない、なんて不確定な話だ。
しかし大輔は、例え命を落として人生をやり直しているとしても、今の状態に心を痛め、沈んでいるとしても、大輔は大輔だった。
ほんの僅かでも可能性があるのなら、手繰り寄せた命綱が蜘蛛の糸ほどの細さとか弱さしかなくとも、諦めずに前に進みたい。
その先に待っているのが希望であれ、絶望であれ、1歩踏み出さなければ、何も変わらないと分かっているから。
ただ、賢とパタモンがついてくるのは、想定外であった。
最初は、レオモンとだけで行くつもりだった。
ただでさえパートナーが戦闘不能に陥っていて、上級生達に迷惑をかけているのに、賢とヒカリは戦う術を持たない大輔を護るために、上級生達の修行の旅にはついて行かずに残ることになったのだ。
それなら、自分はレオモンと一緒に例の森に赴いて、賢達はその間に上級生の下へと行って、今からでも一緒に修行をしても遅くはないだろう。
しかし賢もヒカリも、パタモンもテイルモンも、それを良しとしなかった。
彼らだけではなく、ゲンナイもなっちゃんもロップモンも、果てはナノモンまで。
不確かな要素でしかないその森の不思議な力に頼るのは、納得できないというのが理由だ。
かと言って現状、ゲンナイもナノモンも、ブイモンを目覚めさせる方法は知らない。
こればかりはブイモンの心の持ちように賭けるしかないのだ。
心の傷は、身体の傷のように特効薬がない。
ゆっくりと、時間をかけて傷を癒していくしかない。
その塞いだ傷も、完全に治るわけではないのだ。
何かのきっかけで、塞いだはずの傷がパックリと開くことなんて、ざらにあるのである。
でも大輔は言った。
治そうなんて思ってない。治してやりたいなんて言うつもりもない。
ただ目覚めない理由が知りたい。
そう言い放った大輔の目を、賢もヒカリも知っていた。
大輔はそう言う子だ。
よく太一に似ているなんて言われているけれど、確かに実直で突っ走り気味なところはよく似ているけれど、それでもやっぱり太一と大輔は似ていない。
大輔は寄り添える子だ。そっと隣に座って、傍にいてくれる子だ。
その子が抱えているものに気付いて、一緒に背負ってやろうとする子だ。
どれだけ重いものを押し付けられても、突き放せない子なのだ。
太一はそこら辺がシビアだから、見放すとなったらあっさりと見放すのである。
情けない姿をさらけ出した丈をさっさと切り捨てたところからも、見て取れるだろう。
……賢が救われたのだって、大輔が賢と向き合うことを諦めなかったからだ。
伸ばした手を何度振り払われても、仲間達から何を言われても、大輔は賢に手を差し伸べることを止めなかった。
こっちに来い、一緒に歩こう、そう言いながら伸ばしてきた手の暖かさを、賢は覚えている。
ヒカリもそうだ。
恐ろしい闇に押し潰されそうになった時に添えられた大輔の暖かい手も、心も、全部覚えている。
兄とはまた違った安心感があったことも。
ブイモンの心を蝕み続ける恐怖と闇を垣間見たせいで、見ていられないぐらい落ち込んでいた大輔だったが、レオモンからもたらされた希望の光で自分達の知っている大輔に戻りつつある。
哀しみに染まっていた目に、再び
大輔は諦めていない。だったら自分達だって、前に進みたい。
治が旅に出る前に、何かあったら大輔達を護ると約束したのだから。
そう言いながら見上げてくる3人の真剣な眼差しを前に、これ以上ダメだとゲンナイは到底言えなかった。
すったもんだの話し合いの結果、賢とパタモンが同行することで許可が出た、というわけだ。
ヒカリとテイルモンも行きたそうにしていたが、2ヵ月の期限付きとは言え、何か不確定の事情があって上級生達が戻ってこないとは限らないため、ヒカリ達はゲンナイ達と一緒にお留守番、ということになった。
だから、大輔は右手の小指を差し出した。
指切り、約束の印。
今度はちゃんと覚えてるから、と笑いながらおどける大輔に、ヒカリは寂しそうにしながらも、口元に薄らと笑みを浮かべ、自分の小指を絡ませた。
賢も、あの時のことを思い出しながら、ヒカリと指切りをして、レオモンに連れられて大輔達はピラミッドを後にした。
そして冒頭に至り、大輔はレオモンが言っていた森へと辿り着く。
レオモンから聞いてはいたが、実際に目で見て、改めてその森の異質さを、大輔と賢はひしひしと感じた。
闇の力が充満しているわけではないが、光の力も感じない。
何の変哲もない、ただの森のエリアのはずなのに、からっとした青空と分厚い灰色の雲が、エリアの境界ではっきりと分かれているのである。
人間界の常識が一切通用しないデジタルワールドと言えど、他の隣接したエリア同士の天気や空模様にここまではっきりと違いが出るところはない。
やはりこの森のエリアだけが異質なのだ、と大輔は唇をきゅっと結びながら、森を睨みつける。
『……どうする?案内しておいて何だが、やはり止めるか?』
その様子を見て、大輔達のすぐ後ろに佇んでいたレオモンが、大輔達にそう声をかける。
唇を真一文字に結んで、眼前の森を見つめていた大輔は、声をかけられたことで我に返った。
ぶんぶん、と首を横に何度も振り、そしてキッと森を睨みつける。
「……止めるなんて、逃げるなんて、したくねぇ。少しでもここに希望があるってんなら、俺は行く!」
「大輔くん……うん、僕達も行くよ。今更引き返せないもの」
『うん!頑張ろうね、ケン、ダイスケ!』
本当のことを言えば、今すぐにでも帰りたい。
足は分かりやすい程震えているし、両手も上手く力が入らない。
噛みしめた唇は少しでも緩めたら、情けない悲鳴が飛び出てきそうだった。
……それでも、大輔達は帰れない。帰るわけにはいかない。
『……そうか』
そう言って、レオモンは目を伏せる。
最初、ここのことを話した時、レオモンは少しだけ後悔した。
救世主とは言え、デジモンで言えば幼年期ぐらいの異世界の子どもに、酷な試練を与えようとしているのではないかと。
成熟期のレオモンでさえ音を上げそうになったことがあったのに、選ばれし子どもを護るパートナーデジモンを助けるために、自分は何もせずに小さな子どもに押し付けようとしているのではないかと。
しかしそんな後悔も一瞬で吹っ飛んだ。
その森の話をした時の、大輔の目。
あれは、“諦めない者の目”だ。
“希望を捨てない者の目”だ。
絶望のどん底に突き落とされたはずの者が、這い上がるための細い糸を見つけた目。
その糸が途中で切れてしまうかもしれないと分かっていて、その糸に手を伸ばしてきた、まさに“
──……きっと、この子なら乗り越えられる。
だから大輔は、ここにいる。
『この森に入れば、その後はどうなるのかは分からない。この前述べたように、デジモンによって印象が異なる。ただ1つはっきりと言えるのは、この森は己の弱さを映す森、己の未熟さを見せる森だ。だから私が一緒に入ることは出来ない。自分自身の力で乗り越えなければならないのだ』
すまない、と申し訳なさそうに言うレオモンに、大輔達は首を横に振る。
その人に課せられた試練は、その人が乗り越えなければならないのだ。
幾らレオモンが大輔達のボディーガードとしてここにいるのだとしても、こればかりはレオモンに手伝ってもらう訳にはいかない。
大輔はそっと、腕の中で眠り続けるチビモンを見やる。
頑なに閉ざされた目は、開く気配はない。
辛うじて小さく、か細い寝息が聞こえてくるが、それもここに来るまでに少しずつ弱ってきている。
──……ホントは、チビモンは……。
一瞬浮かんできた嫌な考えを、大輔は強く頭を振って追い払う。
──ちゃんと、話がしたい
ブイモンが過去のことを思い出してしまってから、大輔はブイモンと何も話していない。
自分には前世の記憶があることも、前世でも同じように世界を救ったことも……前世の、パートナーのことも。
全部全部、ちゃんと話したいのだ。
ブイモンのことも知りたいし、自分のことも知ってほしいのだ。
話せないままサヨナラなんて、絶対に嫌だ。
「…………ふぅー」
ゆっくりと、大輔は息を吐く。
チビモンを見下ろしていた目を、森の方に向ける。
……強い意志が宿った目だ。
「……行くぜ」
「うん……」
『行ってきます!』
弱気な心を叱咤し、大輔達は歩き出す。
『……健闘を祈る』
背後から聞こえてきた、無事を祈るレオモンの言葉。
同時に、森に足を踏み入れ……ふ、と真っ暗闇に包まれた。
「え?」
思わず、と言った様子で声を上げた大輔は、辺りを見渡して異変に気付いた。
賢とパタモンがいない。
確かに一緒にいたはずなのに、一緒に森の中に入って、隣にいたはずなのに、賢とパタモンの気配が何処にも感じられなかった。
「け、賢?パタモン?」
呼びかけても、返ってくる声はない。
あるのは、闇だけ。友人が過剰に反応し、恐れていた黒い空間だけ。
足を踏み入れたはずの森など、何処にもなかった。
「───っ」
声が出ない。息が止まる。額から冷たい汗が流れていく。
目を覚まさない相棒を抱える腕が、小刻みに震える。
闇が怖いわけではない。1人が怖いわけではない。
ただ一緒に来てくれたはずの友人の姿が見えないだけなのに、どうしてこんなにも不安になるのだろう。
とにかく探さなければ、と大輔が再び足を1歩、前に進めた時。
ズル、
「え、」
右足が踏みしめようとしたはずの地面が、なかった。
真っ暗な風景の中、道らしい道など見当たらず、ただ靴を通して足の裏から感じられる地面の感触だけが頼りだったのに、その地面を右足が踏みしめることはなかった。
「わあああああああああああああああああああ………!!?」
呆気なく前へと倒れる身体。置いてけぼりにされる悲鳴。
転んだ身体を支える地面など当然あるはずもなく、大輔の身体は浮遊するように投げ出され、暗闇の中へと堕ちて行った。
「大輔!大輔、何処!?」
『ダイスケェー!チビモォーン!』
賢とパタモンは声を張り上げて友人の名を叫ぶ。
しかし辺りをどれだけ見渡しても、友人の姿は何処にもない。
それどころか、辺りは真っ暗で何も見えない。
闇……真っ暗……。
トラウマとも呼ぶべき前世での出来事が一瞬だけ、賢の脳裏を過る。
ぞ、と言いようのない悪寒が、賢の背筋を撫でた。
息が詰まる、息が止まる。
『どうしよう、ケン……』
希望の光にも似た声がかけられ、賢はハッと我に返る。
振り返る。そこには、同じく途方に暮れたように辺りを見渡しているパートナーがいた。
耳の羽をパタパタと羽ばたかせて、空中に浮いて姿の見えない友人を探すべく、暗闇を忙しなく見回している姿を見て、酷く安堵した。
……辺りは光すら飲み込まんとするほどの漆黒に包まれているのに、自分の輪郭と相棒の姿がはっきりと見えることに、何の疑問も抱かないまま。
「とにかく、大輔くん達を探さなきゃ……」
自分達が足を踏み入れたはずの森が何処へいったのか、ここは何処なのか、疑問に思うことは沢山あるが、それは後で考えればいい。
今は、突然姿が見えなくなってしまった友人を探すのが先だ。
しかし何処に行けばいいのだろう。
辺りは真っ暗、光も何もない。
ぎゅ、と胸の位置まで持ち上げた両手に力が入る。
ぽう……
賢の腰の辺りから光が漏れる。
突如漏れた光にキョトンとしながら、腰に手を回すと、こつりとした感触。
パートナーとの目に見える絆、デジヴァイスだ。
最初に手にしたのは前世の時。
兄のパソコンから飛び出してきたそれは、兄が手にしても何の反応も見せなかった。
それを当然のように自身の机に仕舞った兄の目を盗んで、こっそりと手にした時、彼は誰にも言えない秘密の大冒険を繰り広げた。
あの時一緒に冒険をした人のことは、もう思い出すことも出来ない。
冒険を終えて家に帰った時、それが原因で兄との間に亀裂や溝が出来てしまった。
デジヴァイスは取り上げられ、兄の冷たい声と言葉で詰め寄られ、それまでもあまり仲が良かったとは言えない兄弟の中は拗れてしまったのだ。
その後、兄が亡くなるまで、賢はデジヴァイスに触れることはなかった。
2度目に触れた時も、賢の心情が不安定になっていた時である。
敵の策略で聖なるデバイスを闇に染めてしまったこともあり、デジヴァイスに関してあまりいい思い出はない。
そんなデジヴァイスから、蝋燭の灯のように柔らかい明かりが燈されている。
「あ……」
ディスプレイから漏れる光、そこには太一のものとよく似た太陽と、それを支える台座のような紋章が描かれていた。
元々は別の友人の象徴で、心で、個性だったもの。
今は賢のものとして、その手中に収められたもの。
暗闇の中で輝く星、“希望”。
す、と一筋の光が暗闇の中を走るように伸びる。
それはまるで、賢を導く流れ星のようだった。
「………………」
賢はデジヴァイスを両手で握るように持ち、じっとそれを見下ろす。
『ケン?』
デジヴァイスからもたらされた光を見つめて、何も言わなくなった賢にパタモンが声をかけると、賢はデジヴァイスから目を離してパタモンを見上げる。
しかし何を言うでもなく、ただじっと見つめてくるから、パタモンは訝しんだ。
『どうしたの、ケン?』
「……ううん、何でもない。ごめんね、急に」
目を閉じ、伏せる。
ほのかに光るデジヴァイスを胸に抱き、すう、と深呼吸を1つ。
「行こう、パタモン」
『……何処に?』
「この光が差す方向に」
この光が導く方向に、大輔がいるとは限らない。
デジヴァイスが持ち主を護るべく、安全な場所を差しているだけかもしれない。
でも賢は、大輔の相棒で、親友だった。
ゲンナイの反対を押し切ってここまで来たのだって、うじうじ悩むためではない。
──前に進むって、決めたんだ。何もしなかったら、何も始まらないんだから。だから、だから……。
賢は光が差す方に向かって歩き始める。
真っすぐ前を見据える賢に、パタモンは一瞬唖然としたが、慌てて追いかけて隣に並んだ。
──ごめんね、タケルくん。少しだけ、君の紋章とパートナーの力を、貸してね。
本来ここに居るべきは、自分ではない。
前世で自分の所業を怒ってくれた、友人のものなのだ。
居場所も使命も、それを成し遂げるためのパートナーや力も、総て彼の物。
自分は所詮、“彼の代わり”に過ぎない。
それでもやるべきことがあるから、賢は前に進むと決めた。
『ケン!あれ!』
「……うん」
デジヴァイスから伸びた光の先に、更に大きな光の塊が見える。
「……行くよ、パタモン」
『うん!』
この先にあるのは、希望か絶望か。