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国境の長いトンネルを抜けるとそこは、という一節から始まる小説があるが、賢の目の前に広がる光景はその小説を彷彿とさせるものだった。
まず、視界が眩しかった。
つい先ほどまでいた真っ暗闇の空間から、明るいところへ出たと思ったら、見慣れた空の青ではなく、若々しい新緑で彩られた樹々でもなく、どっしり構えた茶色の地面でもなく、透明な水晶の世界なのだ。
鋭く尖っていたり、岩のように大きな塊だったりと形状は様々だが、それを構成しているものは全て透明の水晶なのである。
見下ろした大地も賢とパタモンを反射して映し出すほどに磨き上げられた、見事な水晶となっていた。
「……ここは、一体」
水晶の地面から生えている水晶の柱を見つめながら、賢は言った。
自分達がレオモンに連れられて、足を踏み入れた光も差さない森の中とは正反対の景色に、戸惑っているのである。
確かにレオモンは、あの森には不思議な力があると言っていた。
眠り続けて、幼年期に退化してしまったチビモンを助けるために、この森に来たのだ。
しかしこの森に用があったのは大輔であり、賢とパタモンは戦う術を持たない大輔の護衛である。
上級生達が修行の旅に出ている今、大輔を護れるのは賢とパタモン、ヒカリとテイルモンだけだ。
ヒカリ達は修行をしている上級生達を待つため、今回は留守番をしてもらっている。
その彼女の分まで、賢とパタモンは頑張って大輔達を護ろうと思っていたのに、森に一歩足を踏み入れた瞬間に大輔達とはぐれてしまった。
真っ暗闇の世界の中、デジヴァイスの光に導かれて、ぽっかりと浮かんでいた光の塊に飛び込んで出てきたのが、この水晶の世界なのである。
その真っ暗闇の世界も、光の塊も、賢がこの世界に足を踏み入れた途端になくなっているし、これがレオモンの言っていた試練、という奴なのだろうか。
『……ここって』
ぽそり、と隣にいる賢にも聞こえないほどの声量で、パタモンは呟く。
その表情は、どこか冴えない。
ここは、この景色は、この気配は……。
『助けてぇー!!』
これが試練だとしたら早く大輔を探さなければ、と賢がパタモンを促そうとした時である。
切羽詰まったような悲鳴と共に、何かがぶつかって爆発したような音が、そう遠くない場所から聞こえてきた。
は、と賢とパタモンはそちらの方に顔を向ける。
どぉん、どぉん、という爆発音とともに、ガシャーンと硬いガラスが割れるような音がして、黒煙が彼方此方から立ち上っている。
急いで駆けつけると、そこには幼年期のデジモン達がいて、小さな身体をぴょこぴょこ一生懸命動かしながら、大きな黒い陰から逃げまどっていた。
いや、大きな黒い陰と思っていたものは、沢山の小さなものが1つの塊になっているだけのものだった。
賢は、その塊を、目を凝らしてよく見てみた。
蝙蝠のような翼、毛むくじゃらの身体と大きな口に鋭い牙が並んでいる。
『イビルモンだ!』
パタモンが言った。
暗黒系デジモンの源と呼ばれている、小悪魔型デジモンのイビルモン。
ニタニタと卑しい笑みを浮かべながら、黒い集団は幼年期のデジモン達を追いかけ回している。
口から吐き出される音波は、覚めない悪夢を見続けさせる“ナイトメアショック”という技だ。
その技を直接幼年期に当てることなく、逃げまどう幼年期たちの周りに放っていた。
水晶の地面に当たって爆発する度に、悲鳴を上げたり怯えて震え上がったりする幼年期達の様子を見て、更にニタニタと嫌な笑みを浮かべているところを見ると、態と攻撃を外しているのだろう。
なんてことを、と賢は憤り、デジヴァイスを手に取る。
「パタモン!」
『うん!』
あの子達を、助けなければ。
あのイビルモン達が、今度の敵の手下であっても、そうでなくとも、放ってはおけない。
最優先は大輔ではあるが、きっと大輔だって許してくれるはずだ。
否、大輔を探すために幼年期達を放っておいたなんて大輔が知ったら、間違いなく賢とパタモンは怒られるだろう。
──タケルくん、力を貸して……!
デジヴァイスを祈るように、両手で握る。
パタモンのパートナーとなるはずだった者の名を心の中で呼びながら、デジヴァイスに想いの力を込めた。
進化の光がデジヴァイスから放たれ、パタモンを包み込む。
黒い3対の羽を背負った天使が、光を突き破って飛び出していった。
……それは、ほんの少しの違和感。
『ヘブンズ、ナックル!』
右手に収束した聖なる光の拳を、イビルモンの塊に向かって放つ。
轟っ!と光の筋が伸びて、塊になっていたイビルモン達は、慌てて散り散りになった。
闇の属性であるイビルモンに取って、聖なる光は己の存在を消滅させる危険な物だ。
イビルモン達は先ほどまで浮かべていた卑しい笑みを消し、苦々しい表情を浮かべながら、聖なる光が飛んできた方向を振り向く。
拳を振りかぶった際、エンジェモンはヘルメットの奥に隠れた眉を顰めたが、それもほんの一瞬のことで、威厳ある声を張り上げながら言った。
『ここから去れ、悪魔ども!それ以上の愚行は、私が許さん!』
幼年期達を護るように、イビルモン達に立ちはだかるように、間に割って入ったエンジェモンに一瞬たじろいだイビルモン達だったが、すぐにその様子は引っ込んだ。
引きつっていた目元は戻り、まじまじとエンジェモンを見つめる。
『ギ?』
『ぎぎぃ?』
言葉は持っていないようだったが、互いに顔を見合わせて、何か会話を交わしているようだった。
エンジェモンは油断せず、ロッドを両手で持ち、いつでも攻撃に入れるように構える。
言葉になっていない鳴き声を躱しながら、会話をしていたイビルモンは、やがてじれったくなったのか、一層酷いノイズのような鳴き声を上げて、一斉に襲い掛かってきた。
『ちぃっ……!』
エンジェモンは歯を食いしばると、ロッドを振り回して襲い掛かってきたイビルモン達をぶっ飛ばしながら対処していく。
相手が小悪魔型の、自分にとって天敵のデジモンとは言え、無駄な殺生はしたくない。
何故なら、自分が護るべき幼子が、それを望んでいない。
初めて進化を果たした、あの小さな島での、最後の戦い。
選ばれし子ども達を抹殺しようとした、あの悪魔が相手であっても、賢は殺すことを良しとしなかった。
最後の最後まで、共存の道を、手を取り合う道を模索しようとしていた。
相手はその手を振り払い、自分は護るべき幼子の想いを踏みにじってしまい、賢に取り返しのつかないほどの大きな傷を負わせてしまったけれど。
『ゴッドタイフーン!』
エンジェモンは勢いよく身体を回転させる。
するとエンジェモンを中心に竜巻が発生し、翼で押し出すように竜巻を放った。
通常のゴッドタイフーンは、聖なる力が込められた竜巻で、弱いウイルス種ならば当たればひとたまりもない威力を持つ。
しかしエンジェモンは、相手が誰であっても殺生を好まないパートナーのために、竜巻の威力を弱めていた。
それでも身体の小さなイビルモンにとっては脅威だったようで、竜巻に巻き込まれたイビルモン達は聞くに堪えない鳴き声を上げながら、竜巻ごと何処かへと吹っ飛ばされていく。
数匹が竜巻に巻き込まれずに取り残されたが、数匹では何もできないイビルモンは、悔しそうにしながら吹っ飛ばされた仲間達を追って飛び去って行った。
それを見送り、エンジェモンは小さく息を吐くと、イビルモンに意地悪されて縮こまっていた幼年期達の下へと舞い降りる。
『君達、怪我はないかい?』
幼年期は、トコモンが2体と、ニャロモンが1体、背中に小さな羽が生えた白いデジモンが1体、それからエンジェモンを小さくデフォルメしたようなデジモンが1体。
前者のデジモンはキュピモン、後者は幼年期ではなく、成長期のルクスモンだ。
キュピモンとルクスモンを見て、疑惑が確信に変わったエンジェモンは、しかし今はそれどころではないため、口にはしないでおいた。
それよりも優先すべきは、怯えている幼年期達のケアである。
なるべく怖がらせないように、微笑みを浮かべながら努めて優しい声色で、幼年期達に訊ねた。
しかし、
『ぴぃっ!!』
膝をついて目線を合わせながら訊ねたのだが、幼年期達は大袈裟な程にその身体を震わせて、可愛い悲鳴を上げながら猛ダッシュでその場から走り去ってしまった。
ポカン、とエンジェモンは手を伸ばしたままのポーズで硬直し、賢も目をパチパチさせながら走り去っていった幼年期達を見送ることしか出来なかった。
「……どうしたのかな?」
『……まあ、怖い目にあったからな』
逃げられたことは少しショックではあったが、先程まで大量のイビルモンに追いかけられていたのだ。
態と攻撃を外しながら甚振っていたようだし、助けてもらったとは言え、幼年期のデジモン達にとっては恐怖でしかなかったはずだ。
怪我もなかったようだし、一先ずは安心してもいいだろう。
『………………』
エンジェモンは右手を見下ろす。
ぐ、ぱ、と何度も握ったり開いたりして、何かを確かめていた。
──気のせい、だったのか……?
先程覚えた違和感。
ほんの一瞬だったから、エンジェモンはいまいち確信が持てなかった。
『きゃああああっ!!』
再び悲鳴が聞こえる。
先程幼年期達が逃げて行った方角とは違う、反対側の方からだ。
エンジェモンは賢と顔を見合わせ頷き、賢を抱えて悲鳴が聞こえた方角へと飛ぶ。
「……いた!あそこ!」
『……あれは、デビドラモン!』
異様に長い手足に、馬面の長い顔、全身を覆う闇の色。
何処かデビモンに似た、しかしデビモンよりも獣じみたその風貌のデジモンは、複眼の悪魔という異名を持つデビドラモン。
デビモンがダークエリアから召喚したとされるデジモンで、これほど邪悪なデジモンはいないと言われるほど、慈悲の心など持ち合わせていない。
現に、デビドラモンは獣の咆哮を上げながら、血に染まった長い爪を、泣き喚きながら逃げる幼年期に向かって振り下ろそうとしている。
させるかとばかりに、エンジェモンは手に持っていたロッドを投げ槍のようにぶん投げた。
デビドラモンの行く手を遮るように、水晶の地面にロッドが突き刺さり、亀裂が入った。
キョトン、という言葉が似合わない首が、傾げられる。
『ヘブンズナックル!!』
賢を下ろし、聖なる拳をデビドラモンに叩きこむ。
イビルモン達に放ったものより威力は強めだが、デビドラモンを消滅させるほどの強さではない。
バキ、と肉を殴りつける音がして、デビドラモンは吹っ飛んだ。
グルル、と苛立たし気にエンジェモンを睨みつけ、ターゲットをエンジェモンに変えると、鋭く紅い爪をエンジェモンに伸ばす。
地上スレスレに飛んだまま、地面に突き刺したロッドを手に取り、デビドラモンの爪を弾いた。
10分ほど、攻防は続く。
『ゴッドタイフーン!』
イビルモンを退けたものと同じ、聖なる力を含んだ竜巻を生み出し、デビドラモンを竜巻に閉じ込めた。
『グギャアアアアアアアッ!!』
悍ましい鳴き声を上げ、デビドラモンは長い手足をジタバタさせながら竜巻を振りほどく。
闇を纏った身体が、聖なる力で火傷を負ったように爛れていた。
ボロボロになった翼を何とか羽ばたかせ、デビドラモンは何処かへと去っていく。
デビドラモンは所謂使役獣であるため、自分で考えて行動するよりも、何者かに命令されて動くことが多い。
“この場”にいるのだって、恐らく自分達の敵が召喚して、ここのデジモンを襲うように命令されたのだろう。
だから召喚したデジモンか、デビドラモンそのものを叩かなければ、デビドラモンは何度でも幼年期をつけ狙うだろう。
しかしエンジェモンは、それをしなかった。
イビルモンの時と同じく、飛び去って行ったデビドラモンの後を追うことはせず、ただ見送った。
ふう、と一息つき、追いかけられていた幼年期達に話しかけようとしたが、幼年期達はまたもや怯えながら走り去っていった。
伸ばした手の行き場を失い、立ち尽くしていたエンジェモンと賢の耳にまた悲鳴が届く。
駆けつければ別の悪魔型のデジモンに襲われている幼年期達。
追い返し、また幼年期達に逃げられては、聞こえてくる悲鳴。
エンジェモンも賢も、鬱陶しがったりうんざりしたりせず、律儀に悲鳴が聞こえた方へ向かい、襲われている幼年期達を助けては逃げられる、を繰り返していた。
「……あ、あれ何だろう?」
何度目かの救出の後。
助けた幼年期達はエンジェモンを見て怯え、ダッシュでその場から逃げてしまう。
最初は襲われたことが怖くて、混乱して逃げてしまっていたのかと思っていたのだが、助ける度に逃げられるせいか、エンジェモンの口数が目に見えて少なくなっていく。
助けてあげたのに、なんて上から目線な考えを2人は持ち合わせていないし、礼を言ってほしくて助けているわけではないのだが、賢はエンジェモンが傷ついていないかと心配になった。
居場所も役目も、総てがタケルからの借り物なのに、タケルに申し訳なくなってきた賢が、自分を抱き上げて空中を彷徨うエンジェモンに訊ねようとした時、ふと視界に何かが映る。
予定していた言葉とは違う言葉が口から出て行き、それを拾ったエンジェモンは賢の視線の先を辿った。
『っ、あれは……!』
エンジェモンは小さく息を飲む。
余りに小さすぎて、その腕に抱いていた賢にも聞こえなかったほどだ。
2人の視線の先に会ったのは、扉だった。
雪のように真っ白で、左右対称の、所謂両開きの扉。
長方形の形をしており、扉の上部にはステンドグラスの窓がはめ込まれていた。
それ以外の装飾はなく、見た目はとても質素なのだが何処か荘厳な気配を漂わせている。
しかし特筆すべき特徴は、何と言ってもその大きさである。
インペリアルドラモンを遥かに凌ぐ大きさで、選ばれし子ども達とそのパートナー達が力を合わせてもびくともしなさそうな、重厚な扉だった。
その扉の周りには、縁取るように沢山の水晶が纏わりついている。
大自然の営みが作り出した、美しく煌めく水晶の世界に、場違いな人工物が置かれていることについては、最早何も言わない。
これまでの冒険でも、理不尽な光景は見慣れている。
茶色の地面も緑の樹々もない、全てが水晶でできた空間にポツンと佇む扉、というのはこれまで見かけた理不尽を差し置いても違和感が凄まじいが。
『………………』
「エンジェモン?」
その扉に、エンジェモンは何も言わずに吸い込まれるように、フラフラと近づいていく。
腕に抱かれたままの賢は、見慣れた理不尽を何とも思っていなかったのだが、様子がおかしくなったエンジェモンに気付き声をかけるが、エンジェモンは答えない。
ヘルメットの奥に隠されているせいで、エンジェモンの表情は全く分からないが、何か懐かしいものを見たような、二度と見ることはないと思っていたものを見たような、そんな雰囲気をエンジェモンから感じた賢は、思わず、と言った様子で息を飲む。
喉の奥に言葉が張り付いて、吐き出すことが出来なかった。
急にエンジェモンが遠い存在のように感じて、エンジェモンを見上げる賢の瞳が揺れる。
エンジェモンは気づかない。
賢を抱えていた両腕は片腕になり、もう片方の腕は扉に向かって伸ばされる。
その指先は、微かに震えていた。
『ファイヤーフェザー!!』
その時である。
エンジェモンの背後から聞こえた声と共に察知した、凄まじい殺気。
我に返ったエンジェモンは伸ばした手を引っ込め、賢を抱え直しながら上昇する。
直後に、エンジェモンがいた個所に炎の塊が幾つも振ってきて、生えている柱状の水晶が砕け、地面の水晶には罅が入ったり、穴が開いたりした。
『今のは……!』
『ピッドスピード!』
次いで、すぐ後ろから聞こえる、空気を裂く音。
驚いている暇さえなく、エンジェモンがはっと振り向くと、そこには今まさに手に持ったものを振り下ろさんとしている、“エンジェモン”がいた。
「えっ!?」
『っ!!』
エンジェモンに抱かれていた賢が、エンジェモンの肩越しに見えたそれに、驚愕の声を上げる。
まずい、とエンジェモンは“エンジェモン”が振り下ろしたものに、賢が当たらないように庇いながら、その場を避ける。
ぶぉん、とエンジェモンがいたところに、細長い棒のようなものが思いっきり振り下ろされた音がして、相手は本気でエンジェモンを傷つけようとしていたことが伺えた。
ばさり、
エンジェモンの黒い羽根が、ひらりと落ちる。
賢を抱きかかえたまま、エンジェモンは“エンジェモン”と向かい合った。
が、何かがおかしかった。
目の前にいるのは、確かに“エンジェモン”のはずだが、違和感があった。
賢のエンジェモンは、十字が刻まれたヘルメットで顔を覆い、青い腰布を腰に、同じ青い布を左腕と右脚に巻き、背中には3対の“黒い翼”が生えている。
対する“エンジェモン”は、ヘルメットを被っているところは同じだが、十字ではなく一文字になっている。
腰布と、左腕と右脚に巻かれている布は紅く、背中に生えている翼は1対しかない。
そして、その翼は“白かった”。
『お前は……ピッドモン……』
その正体は、エンジェモンの亜種と言われている、ピッドモン。
完全なる善の存在で、悪や闇を一切許さず、滅ぼすことを使命としているデジモンである。
つまり、今の賢とエンジェモンにとって、ピッドモンは“同志”であるはずだ。
この世界の平和を取り戻すため、この世界を脅かす闇を退けるための仲間であるはずなのだ。
しかし目の前のピッドモンからは、そう言ったものを感じない。
それどころか、まるで敵対している者と対峙しているような、嫌悪の感情を隠そうともしないのである。
何か気に障ることをしてしまったのだろうか、と思い、賢はピッドモンに話しかけようとしたが、ピッドモンの方が早かった。
『邪悪なる手で、その神聖な扉に触れるな!闇の存在め!』
息を飲む音が聞こえるほどの、静寂に包まれた。
『……何を、言っている?』
「エンジェモンが、闇……?ピッドモン、何の」
『黙れっ!!』
問答無用、とばかりにピッドモンは再度ロッドを振り上げ、エンジェモンに襲い掛かる。
ピッドモンの言っている意味が分からず、しかし話を聞いてくれる態度ではないと察したエンジェモンは、賢を抱きかかえたまま急いでその場から離れた。
地面から、壁から生えている無数の水晶が、エンジェモンの行く手を阻む。
しかし、ぶぉん、と背後から空気を裂く音と、待てと制止の声を張り上げながら、ピッドモンが追いかけてくる気配を感じるため、エンジェモンは何とか狭い空間を飛び回って、ピッドモンから逃げる。
『待て、ピッドモン!何を勘違いしているのかは知らないが、私達は争うつもりは……!』
『黙れ、闇の存在め!騙そうとしたって、そうはいかん!』
ピッドモンと対話を試みるも、ピッドモンは聞く耳を持たない。
逃げるから追ってくるのだろうが、止まったところで手に持ったロッドを振り下ろしてくるだけなのは、目に見えていたので、止まることもできない。
だからと言って、反撃をするという選択肢も、エンジェモンは取りたくなかった。
その腕には、護るべきパートナーがいる。
争うことを極端に恐れ、ただ平和を望む幼子がいるのだ。
無闇な殺生も、無駄な争いも、エンジェモンは望まない。
ならば逃げる、という選択肢しか、エンジェモンには残されていなかった。
しかしピッドモンは執拗に、そして無慈悲に、逃げるエンジェモンを追う。
『ファイヤーフェザー!!』
『くっ……!ぐあっ!!』
幾つもの炎の塊が、エンジェモンに襲い掛かる。
縦横無尽に飛び回るが、壁から大きく飛び出すように生えている水晶を避けた先に、炎の塊が落下してきた。
背中に辺り、バランスを崩す。
その際、賢を抱えていた腕が、広がってしまった。
「うわあああっ!!」
『ケンッ!!』
『逃さんっ!!』
遠ざかっていく賢の悲鳴。
このまま落下すれば、硬い水晶の地面に叩きつけられる。
いや、その前にその切っ先を空へと突き上げている水晶に串刺しにされるだろう。
このまま落ちる賢の未来が一瞬で脳内を過り、ゾッとしたエンジェモンは気を付けの姿勢をとり、賢の下へと急降下する。
ピッドモンは、しつこかった。
『逃さんと言っただろう!ファイヤー……』
『っ、ゴッドタイフーン!!』
『ぐぁっ!?』
賢のことしか考えられなくなってしまったエンジェモンは、しかし何とか理性を総動員させ、発生させた神の竜巻の威力を弱めてピッドモンに放った。
ヘルメットを被っているとはいえ、賢が落ちた悲鳴は聞こえていたはずなのに、そしてエンジェモンが賢の後を追おうとしていることにも気づいているはずなのに、それにも構わず技を放とうとした相手に、遠慮などする必要はない。
太一とアグモンなら間違いなく、容赦なく技を浴びせていただろう。
しかし今エンジェモンが優先すべきはピッドモンでも、ピッドモンを排除することでもない。
賢を救出する時間さえ作れればいいのだ、ピッドモンを傷つける必要はない。
ピッドモンがどうなったのかも確認せず、エンジェモンは竜巻を放つと一目散に賢の下へと降下する。
エンジェモンはロッドを片手で振り回すと、鋭い水晶の切っ先に向かって投げつける。
ガシャーン!!と水晶が砕け散ったおかげで、賢は串刺しにならずに、水晶の切っ先があった個所を通り過ぎて落ちていく。
エンジェモンが伸ばした手は賢の手を掴み、そのまま急上昇した。
『っ、ケン……!すまなかった、手を離してしまって……!怪我は……!』
「う、うん、だい、じょうぶ、だよ、えんじぇもん」
辛うじてそう答える賢だったが、落下した時の恐怖はまだ残っているのだろう。
エンジェモンを見上げる目は小刻みだが揺れており、声も震えていた。
激しく鼓動を打っている心臓が、全身に伝わってくる。
ほ、とエンジェモンは胸を撫で下ろしたが、まだ安心はできない。
すぅ、と音もなくピッドモンがエンジェモンと目線を合わせる位置で留まる。
エンジェモンは、今度は賢を落とすまいと、しっかりと賢を抱きしめて、ピッドモンと対峙した。
『……ピッドモン、どうか落ち着いてくれ。何か失礼なことをしたのなら、謝ろう』
敵意と殺気は、相変わらずピッドモンから漏れている。
ロッドを両手で持ち、今にも攻撃してきそうな雰囲気だったが、エンジェモンとしてはピッドモンと戦うのは本意ではないのだ。
何故ピッドモンが自分のことを闇の存在と
『私達に戦う意思はない。ただ仲間を探しているだけだ。用が済んだら出て行こう』
『ふん、そうやって私を油断させるつもりなのだろう。私は騙されんぞ!』
「ちょ、ちょっと、待って!ピッドモン、話を聞いて……」
『闇の存在の話など、聞く価値もない!ピッドモンの名において、貴様ら闇をこの世界から滅ぼす!』
勇ましい掛け声を上げながら、ピッドモンは再びロッドを振り上げてきた。
ダメだ、全く話を聞いてくれる様子はない。
エンジェモンは賢を抱きしめたまま、再び逃走を始めた。
『逃げるな、卑怯者!』
『生憎、私達には成すべきことがある!無駄な戦いをしている時間はない!』
『この世を闇で覆いつくす気だな!?そうはさせん!』
「ピッドモン!!ねえ、止めてってば!お願いだから話を聞いて!」
賢は必死に制止を願ったが、ピッドモンは攻撃の手を緩めない。
ロッドを振り回し、炎の塊を幾つも飛ばし、賢とエンジェモンを追い回すのを止めなかった。
エンジェモンと賢を、本気で殺すつもりなのが、攻撃の勢いからもよく分かった。
──どうして……!
賢はエンジェモンの肩越しに、ピッドモンを見ながら歯を食いしばる。
脳裏に過ったのは、数週間前の出来事。
丈の紋章を探して足を踏み入れた、砂漠のコロシアムにて、突然襲い掛かってきた野生のグレイモン。
仲間を護るために、太一のアグモンが進化をして、同じグレイモンになって戦っていた姿は、とても痛々しいものだった。
前世で読んだタケルの本によれば、あのグレイモンはエテモンが操り、遣わした刺客だった。
今世ではエテモンではなく、あのピンク色のデジモンが連れてきていたようだったから、展開は違えどもあのグレイモンも同じように操られていたのだろう。
前世の記憶を取り戻した今、同じ種類の生き物が争い合うことは仕方のないことだ、ということは分かっている。
縄張り争い、メスを巡る戦い、餌の奪い合い、様々な理由で生き物は争い合うものだ。
分かっている、分かっているけれど……“これ”は違う。
ピッドモンが攻撃しているのは、エンジェモンが自分の縄張りに入ったからでも、メスや餌を奪うためでもない。
ピッドモンがエンジェモンにしようとしているのは、“排除”と言うより“殲滅”だ。
エンジェモンの存在を、完全に消滅させようとしている。
エンジェモンは、賢のパートナーだ。
この世界の救世主たる、“選ばれし子ども”と共に戦うデジモンである。
そのエンジェモンを消す、という行為は、敵に対抗する力を失くすということに他ならない。
ただでさえ賢達は今後手に回っている状況だ。
敵の主な勢力である闇に対抗するために、エンジェモンの力は欠かせない。
ここでエンジェモンを失う訳にはいかないのだ。
ピッドモンの台詞の節々や、姿形から見るに、間違いなくエンジェモンと同じ属性だろう。
同じ種族同士が争えば、敵に突かれる隙を与えることになる。
何とか話を聞いてもらえる体勢を取れないだろうか、と逃げるエンジェモンに変わり、賢はピッドモンを注意深く観察するが、ピッドモンは攻撃の手を緩めない。
──どうしよう……!
たらり、と冷や汗が流れる。
びゅうびゅうと耳元を掠める空気に、流れた汗が攫われる。
──……タケルくんなら、どうするだろう?
ピッドモンから目を離し、手に持ったデジヴァイスを見ながら、賢の脳裏にそんな考えが過った。
デジヴァイスに収められた、エンジェモンの力を更に増幅させることが出来る紋章、“希望”。
深い闇の中でも、細い糸を手繰り寄せるように、僅かな光を見逃さない心。
タケルはこの“希望”を、どうやって見つけ出したのだろうか。
“希望”の子ではない自分に、“希望”を見出すことなど、出来るのだろうか。
『ファイヤーフェザー!!』
「っ!?」
思考に没頭していた賢は、聞こえてきた声に、はっと我に返った。
轟、と沢山の炎の塊がエンジェモンと賢に襲い掛かる。
エンジェモンは行く手を阻む水晶を何とか避けながら、縦横無尽に飛び回って、炎の塊を避ける。
その時だ。
エンジェモンの肩越しにピッドモンを見ていた賢は、仮面の奥に隠れているはずの、ピッドモンの目と合った気がした。
ぞくり、と寒気がしたのは、きっと気のせいではない。
何故なら口元を歪ませたピッドモンは、打ち出した炎の塊を明確に、賢に向かって放ったのだから。
「うわあっ!!」
『ケン!?』
賢の悲鳴に気付いたエンジェモンが、咄嗟に自分の身体に隠すように抱き留め、避けたお陰で攻撃は当たらなかった。
が、そのせいでエンジェモンの闘争心に、とうとう火がついてしまった。
賢のためにピッドモンとの戦闘を避けていたエンジェモンだったが、あまりにもピッドモンがしつこく、尚且つ護るべき己のパートナーに向かって攻撃を放ったのだ。
人間はか弱く、脆い。
弱肉強食のこの世界を生き抜くために、デジモンがパートナーとして宛がわれるのだ。
ずっとずっと、幼年期の頃から仲間達と身を寄り添って待っていた、大切なパートナー。
例え相手が同じ聖属性のデジモンでも、パートナーを傷つけるのなら容赦はしない。
『ゴッドタイフーン!!』
威力を弱めた聖なる竜巻を放つ。
降り注がれた炎の塊は竜巻に巻き込まれ、そのままピッドモンへと返っていった。
『ぐあああああああああああっ!!』
ピッドモンの攻撃を巻き込んだ竜巻は、そのまま炎の渦となり、ピッドモンを吞むように閉じ込める。
熱い炎の渦がピッドモンの身体を、純白の翼を焼き、悲鳴さえも飲みこむ。
ギョッとなったのは、賢の方だ。
「ピッドモン!?エンジェモン、ピッドモンを……!」
『大丈夫だ、ケン』
例え自分達を、敵意と殺意を持って追いかけてきたのだとしても、相手は自分達が退ける敵ではない。
エンジェモンにとっても、賢にとっても、他のデジモン達と同じ、護るべき存在だ。
焦る賢に、エンジェモンは分かっていると言いたげに宥める。
炎の渦は、数秒もしないうちに掻き消えた。
渦に呑まれていたピッドモンは、重力に絡めとられたように水晶の地面へと墜ちていく。
『ぐぅ……!』
どさり、と全身を打ち付けたピッドモンは、忌々し気に呻いた。
すー、と音もなく降り、地面に足がつくかつかないかぐらいの位置で、エンジェモンは停止した。
『……済まない。手荒なことはしたくなかったのだが……私のパートナーに悪意を向けられて、黙っていられるほど大人しくはないのでな』
『っ……パートナー、だと……?ふざけたこと、を……!』
「ピッドモン、怪我してるからあんまり動かない方が……」
『黙れっ!!』
所々煤けて、一部火傷も負っているピッドモンは、しかし震える身体を叱咤してなんとか起き上がろうとする。
それを心配した賢が、労わるように言葉をかけたが、ピッドモンはそれを踏みにじるように突っぱねた。
ヘルメットの奥のエンジェモンの表情が歪む。
『……お前がその態度を頑なに崩さないというのなら、そのままでいればいい。こちらはお前と争うつもりは一切ない』
しかし、それでも解せない。
『何故そうまでして私達を拒絶する?先ほども言ったように、何か気に障ったことをしたのなら、謝ろう。だが理由も分からないまま襲われる謂れはない。理由を話してくれないか?』
『……理由、だと?』
何とか上半身を起こしたピッドモンは、下から睨むようにエンジェモンと賢を“見た”。
エンジェモンの言葉が油のように、ピッドモンの怒りに火をつけてしまった。
『何をふざけたことを!!最もらしいことを言って、私をたばかる気か!?』
「ピ、ピッドモン、落ち着いて……」
『黙れっ!!闇の存在め、私に気安く話しかけるなっ!!穢らわしいっ!!』
『……いい加減にしろ、ピッドモン!』
右手を横に広げると、異空間に仕舞っていたロッドが現れた。
それを掴み、ぶん、と振り下ろすようにピッドモンに突きつける。
エンジェモン!と賢が焦ったような声を出したが、これだけは譲れない。
『先ほども言っていたようだが、ケンが闇の存在だと!?ケンはこの世界の救世主、“選ばれし子ども”で、私のパートナーだ!敬えとは言わん、だがその言葉は訂正しろっ!』
『……そいつが、“選ばれし子ども”?それこそ冗談だろう!“選ばれし子ども”は光の存在!尊い存在だ!闇であるそいつが、“選ばれし子ども”なわけがなかろう!!』
飽くまでも、ピッドモンは賢を“闇”と言い切り、否定する。
こうなると、もう売り言葉に買い言葉だ。
『だから何故そう言い切れる!?ケンは間違いなく“選ばれし子ども”だ!私は、この私が!他の仲間とともに何百年も待ち続けて、ようやく会えたのがこのケンだ!私のかけがえのないパートナーだ!』
ずっとずっと待っていた。
途方もない昔から、ファイル島に生えている大樹が種だった頃から、本当かどうかも分からないパートナーを、友達と一緒に待ち続けていた。
時に周りのデジモンに助けてもらいながら、時に大きなデジモンに虐められながら、力のない幼年期の時代を友達と力を合わせて生き抜きながら、エンジェモンは賢を待っていたのだ。
やっと会えたのが、約3ヵ月前。
それがどれだけ嬉しかったかなんて、ピッドモンにはきっと一生分からないだろう。
朝目が覚める度に賢の姿を見て、これは夢ではないのだってくすぐったくなって、だからアグモンやガブモン達が進化していく中、自分とブイモンとプロットモンだけがなかなか進化できなかったことなんて、あんまり気にしていなかった。
ずっとずっと待っていたから、何で待っていたのかも分からないぐらいずーっと待ち続けていたから、どうでもよかったのだ。
自分の総ては賢のため。
賢が望むのなら何だってしたかった。
進化してほしくなかったのなら、別にそれでもよかった。
それでは駄目なのだと思い知らされた、ファイル島での最終決戦。
自分はデジモンで、賢は人間だ。
頑張っても足掻いても、デジモンの自分と人間の賢は“同じ”にはなれない。
それが哀しくないかと聞かれたら嘘になるが、それでも変わらない想いがある。
賢は、エンジェモンの大切なパートナーだ。
…………だからエンジェモンは、気づかない。
『……ならば、その羽はどう説明する』
低く唸るように、ピッドモンは言う。
「……羽?」
エンジェモンに抱かれた賢は、ピッドモンの言葉を繰り返し、それからエンジェモンが背負っている3対の翼を見やる。
夜のような漆黒の翼を見るのは、3度目だ。
他の仲間達は、この旅の中で自分の身を護るために、この世界を護るために割り切って、もう何度も自分のパートナーを進化させているが、ファイル島での最終決戦がほぼトラウマになっていた賢は、最近までパタモンを進化させることが出来なかった。
そもそもファイル島を出てからピラミッドに着くまで、ずっとデジたまのまま生まれてこられなかったのだから、進化をさせる以前の問題だったのだが。
だから、賢は気づかなかった。
おかしいという疑問すら、賢は持たなかった。
だって普通のエンジェモンの翼は白だ。
ピッドモンと同じ、真雪のような白なのだ。
最初と2度目の時は、前世のことを忘れていたので、考えたこともなかった。
記憶を取り戻してからも、何故かそういうものだと疑わなかった。
現実の天使だって、純白の翼が生えているのに、仲間は誰も、博識の治や可愛いものが好きなミミも、同じく天使系のデジモンを進化系統に持つヒカリでさえ、エンジェモンの翼に関して誰も言及しなかったのである。
ピッドモンに指摘され、賢とエンジェモンは初めて漆黒の翼を認識した。
『黒く染まったその羽から、何故闇の力を感じるのだ!!』
ピッドモンは、言った。
『その羽だけではない!!貴様自身からも、貴様の放った技からも、光の力を感じない!!貴様が放っているのは、闇の力だ!!その子どもが持っている力も、闇のものだ!!その子どもが“選ばれし子ども”なら、何故貴様らは闇の力を纏っているのだ!!』
時が、止まった気がした。
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