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「大輔っ!!いい加減に起きなさいっ!!」
母親の怒号。頭上でけたたましく鳴り響く目覚まし時計に、ぱっちり開いた目に飛び込んできたのは知らない天井、ではなく知っている天井。
むっくりと起き上がり、見渡せば母や姉にしつこいぐらいに片付けろと言われている、自分の部屋があった。
『おはよ~、だいしけ~』
自分の足元から、短い両手で目元をくしくしと擦っているパートナーデジモンのチビモンが、立てた膝を這い上がるように登ってきた。
「……チビ、モン?」
くぁあ、と可愛らしい欠伸をするチビモンを、大輔は目を見開きながら凝視する。
大輔の視線に気づいたチビモンが、どうしただいしけ?と大輔の脚を滑り台みたいに滑って、大輔の胸元にダイブしたのを、大輔は大袈裟なまでに受け止めた。
「チ、チビモン!目、覚ましたのか!?」
『ふぇ!?』
「もう辛いこととか、ないか?痛いところとか、哀しいこととか、もうないのか!?」
『だっ、だいしけ!?どうしたのさ、なんのこと?』
「どうしたって、そりゃ…………あれ?」
取り乱したようにチビモンに詰め寄っていた大輔だったが、チビモンに指摘されて、はた、と我に返る。
──何言ってんだ、俺は?
季節は春。新学期になったばかり、小学5年生になったばかりで、チビモンと出逢ったのだって、ほんの数日前の出来事だ。
いつも通り学校に行って、ホームルームが始まるまでクラスメートとサッカーをしていた時、見慣れない男の子が自分の頭につけているゴーグルをカッコいいと言ってくれて。
憧れの先輩の真似をしてつけていたから、まるで先輩と一緒に褒められたみたいで嬉しくて、それを先輩の妹にも共有したら、じつはその子は転校生で。
しかも憧れの先輩の妹とやたら仲が良くて距離が近くて馴れ馴れしくて、それが気に入らなくて放課後に絡んでいたら、1つ上の幼馴染が自分の憧れの妹に話しかけてきて。
そこから目まぐるしく出来事が進んでいって、異世界へと旅立って、そこで出逢ったのがこのチビモンだ。
異世界、デジタルワールドではブイモンという名前で、姿形もチビモンと全然違くて、襲い掛かってきた怪物に果敢に挑んでいった、大輔のパートナーデジモン。
その翌日には、幼馴染の京と伊織にもパートナーデジモンが現れ、更に翌日にはタケルとヒカリが新たに選定され、デジモンカイザーという侵略者を退けるべく、大輔達の冒険は始まった。
とは言っても、大輔達の下にきたデジヴァイスという機械は、太一達が持っているものと異なり、デジタルワールドと現実世界を自由に行き来できるし、大輔達にも大輔達の生活があるので、デジタルワールドに行けるのは学校終わりの放課後だけなのだが。
「……悪い、チビモン。俺、夢見てたみたいだ」
『ゆめ?どんな?』
「……忘れた」
『なんだよ、それ~』
へんなだいしけ~、とチビモンがケタケタ笑うので、大輔は何をぅ、とか言いながらチビモンをくすぐってやる。
きゃーって言いながら逃れようとするチビモンを逃がすまい、と大輔が押さえていると、
「大輔っ!!」
と、部屋の外から母親の怒鳴る声が聞こえてきたので、大輔は慌ててベッドから飛び降りてパジャマを脱ぎ捨て、私服に着替えた。
チビモンに、後でな、と言い残して部屋を出る。
リビングダイニングのテーブルには、朝食を終えてコーヒーを嗜んでいる高校生の姉がいた。
「朝っぱらから元気ねぇ、アンタは」
「うっせぇ」
心底莫迦にしたような声色の姉に悪態をつき、大輔は洗面所で適当に顔を洗う。
ものの1、2分で出てきた大輔に、ちゃんと洗ったの?ってお節介を焼く姉に返事をせず、大輔はリビングの方に向かっていき……あれ、と声を漏らす。
「何?」
小さな大輔の呟きを拾ったのは、すぐ傍にいた姉だけだった。
振り返ってくれた姉の方を見ずに、大輔は壁際にある小さな棚を見つめながら、姉に言う。
「仏壇は?」
「は?」
「ここにあった仏壇、片づけたのか?」
「……アンタ、何言ってんの?頭でも打った?それとも変なもんでも食べたわけ?」
変なことを言い出した弟を、姉は割と真剣な表情で心配する。
何だと、とやっと振り返った弟は、いつもの不細工な顔をしていたので、内心ほっと胸を撫でおろしながらも、ジュンはいつも通り莫迦にしたような表情を浮かべながら言った。
「うちに仏壇なんてないでしょ。おじいちゃん達の家ならまだしも、うちはマンションなんだから」
「………………」
田舎に住んでいる祖父母や親せきの家になら、立派な仏壇はある。
夏休みとかの長期休みになれば、どちらの祖父母の家にも遊びに行って、その立派な仏壇を何度も見たのだから、大輔だってそれを知っているはずなのに、何故そんなことを言い出したのやら。
大輔はしばらく姉を見つめた後、夢から覚めたみたいに目をパチパチさせて、バツが悪そうに頭をかいて、朝食を食べるために席に着いた。
いただきます、とぶっきらぼうに言ってから、トーストを手に取って齧る。
大輔が寝坊したせいで、少しだけ冷めてしまったトーストは硬くなっていた。
「……で?」
「あ?」
「あ?じゃないわよ。さっきの、何?いきなり仏壇何処なんて言い出して、アンタじゃなくても変って思うでしょ。何かあった?」
「……別に、何でもねぇよ。変な夢見ただけだし」
「夢?別に興味はないけど、一体どんな夢見たら仏壇があるかなんて聞くのよ。誰か死ぬ夢でも見たわけ?」
「……まあ、そんなとこかな」
「ふぅん、誰が?」
「興味ねぇとか言いながら、何でぐいぐい聞いてくるんだよっ」
「いいじゃん、減るもんじゃないし。それに嫌な夢とか怖い夢とかは、人に話すと正夢にならないって言うでしょ。優しいお姉さまが聞いてあげるから、言ってごらん?ん?」
「っだぁー!もうしつけぇな!」
「ほれほれ」
「やめろ、ひっつくな気色悪い!……ホントに聞いてくれんの?」
「そうだって言ってんでしょ。ほれ、言ってみなさい?」
「………………」
「ん?何、聞こえないわよ。もっと大きな声で」
「……姉ちゃん」
「は?」
大輔はニヤリと笑った。
「本宮ジュンよ、安らかに眠りたまへ……」
「大輔ぇーっ!!」
面白がって合掌する大輔に、ジュンは顔を真っ赤にしながら拳を振り上げた。
長年の姉弟喧嘩の経験から、ジュンが拳を振り上げると同時に椅子から飛び出すように立ち上がり、自分の部屋に逃げ込んだ。
こら大輔っ!!と姉が無理やり扉を開けようとしてきたが、少しずつ埋まってきた力の差と、台所で姉弟のやり取りを見守っていた母が、ジュンッ!と姉を叱りつけてくれた声がして、扉を開ける抵抗がなくなった。
にしし、と悪戯っ子の笑みを浮かべ、機嫌よさそうに鼻歌を歌いながらランドセルに今日の分の教科書を入れる頃には、もやもやしていた気分は吹っ飛んでいた。
チビモンもランドセルに入れ、買いだめしておいたお菓子を朝食代わりに渡してやる。
部屋を出れば、同じく学校の準備を終えて部屋から出てきた姉とばったり鉢合わせする。
さっきの続きでもするつもりなのか、大輔を見るなり目を吊り上げたジュンだったが、大輔は歯磨きしーよおっと、とわざとらしく声を出しながら洗面所に向かった。
そうすることにより、万が一ジュンが先ほどの続きをしようと仕掛ける時に、それを聞いていた母が大輔の邪魔しない!とジュンを窘めてくれるからだ。
何事も、末っ子というのは周りの人間を味方につけるのが上手いものである。
鼻歌を歌いながらゆっくり歯磨きをして、再度顔も洗い、大輔は玄関に向かった。
ブーツを履き、置いておいたランドセルを背負う。
姉は、大輔が歯磨きをしている間に出たらしい。
喧嘩を吹っ掛けられずに済んで、ほっとした大輔は行ってきます、と元気よく母に挨拶をしようとした。
───大輔
風に乗って漂うシャボン玉が、弾けたような声が大輔の背後から聞こえた。
反射的に振り返る。
母が台所で、大輔の朝食の後片付けをする音が、家中に響いていた。
『だいしけ?どうかした?』
今の声は、誰だったのだろう。
母ではないことは確かだ。聞こえてきた声は、間違いなく男性の声だった。
大輔の家にいる男性は、父しかいない。
その父も、大輔とジュンが起きる前に家を出ている。
だから男性の声がするはずがないのだ。
今の声は一体……と、ぼーっと玄関で突っ立っていたら、それに気づいたランドセルの中のチビモンが、母親に気づかれないように小さな声で大輔に声をかけてきた。
お陰で我に返り、遅刻をせずに済んだ。
「ぅ……っ、うぅ……!こんなはずじゃなかった……!!僕はこんな気持ちを思い出すために、ここに来たんじゃない……っ!!」
兵どもが夢の跡、とはよく言ったものである。
蹲り、大切なものに気づいた時には総てが遅く、そしてそれを失った者が、大輔の目の前にいた。
聞こえてくるのは、かつて天才の名をほしいままにした少年の、嗚咽だけだった。
誰も、何も言わなかった。
何も、言えなかった。
普段と同じ授業、何も変わらない生活、いつも通りの日常。
デジタルワールドという異世界や、その世界に住むデジモンという不思議な生き物のことを知っても、大輔の何かが変わったかと聞かれると是とは言えなかった。
強いて言うのなら、幽霊部員として所属していたパソコン部へ向かうことが増えたぐらいだろうか。
ついこの前までサッカー部がない日の放課後は総て、クラスメートやチームメイトとサッカーをして過ごしていたのだが、選ばれし子どもとしてデジモンカイザーからデジタルワールドを救う使命を与えられたのである。
面倒くさい、とか、何で俺が、なんて考えはちっとも思い浮かばず、それどころか選ばれたからにはきっちりとその役目を果たさんとばかりに、大輔は突っ走った。
突っ走りすぎて時々空回りして、仲間達にいじられたり、おちょくられたりしたものの、大輔は持ち前のポジティブを発揮して、仲間達と力を合わせてデジタルワールドの平和を少しずつ取り戻していった。
そして、今日。
大輔達選ばれし子ども達とデジモンカイザーの、最終決戦の幕が上がった。
色んな人達、デジモン達に助けてもらって乗り込んだデジモンカイザーの基地。
本格的にデジタルワールドの侵攻に乗り上げたデジモンカイザーが、色んなデジモンのパーツを組み合わせたデジモン・キメラモンを産み出し、デジタルワールドを蹂躙していった。
それを阻止すべく戦った子ども達の前に現れた、一筋の光。
最早産み出した張本人であるデジモンカイザーの手にすら余るほど暴走したキメラモンを止めたのは、大輔のブイモンであった。
眩いほどの黄金を放ったデジメンタルを身にまとい、強大な光の力でキメラモンを破ったのである。
そして、デジモンカイザーこと、一乗寺賢に突き付けられたのは、残酷な現実。
ブイモン、基マグナモンを助けるために自分の命をかけ、そして最期まで賢を信じたワームモンの死。
そこで賢はようやく、自分がしでかしてしまったことの重さを知った。
蹲り、ワームモンの死を嘆き悲しむ賢。
沢山の涙を流しながら、失意の中、彼は何処かへと去っていく。
やっと終わったのだ、と1番頑張った大輔を筆頭に、仲間達がそれぞれ息を吐いて気が抜けている時のこと。
───大輔
雨が止み、太陽の光を反射して煌めく水の玉が、緑の葉から滑り落ちたような声。
振り返る。そこにあるのは広大な砂漠と、デジモンカイザーの基地だった残骸。
自分達と仲間達以外の人間は、誰もいない。
聞こえてきた声は、いつだったか聞いたことのある声と同じだった。
『だいしけ……?』
辺りをキョロキョロと見回している大輔に気づいたのは、チビモンであった。
仲間達は各々座り込んでいたり、談笑しあったりしていて、大輔のことを見ていない。
だからチビモンが大輔を呼んでも、誰もこちらを振り向く様子はなかった。
『どうかした……?』
「……いや、何でもねぇよ。チビモン、お疲れ。ありがとな」
『……えへへ。うん』
どうやらチビモンには、先ほどの声は聞こえていなかったようだ。
大輔は首を振り、目をとろんとさせて眠たそうにしているチビモンの頭をそっと撫でてやれば、チビモンは嬉しそうに微笑む。
寝てていいぞ、と言ってやれば、限界だったらしいチビモンは、ゆっくりと目を閉ざした。
すぐに、すー、という小さな寝息が聞こえる。
よほど疲れていたのだろう、と大輔は再度労わるようにチビモンを撫でてやり、少し離れた位置にいる仲間達の下へと歩み寄った。
───大輔
時計の針はぐるぐる回って、突き進む。
大輔を呼ぶ声は彼方此方で、色んなタイミングで聞こえてきた。
聞こえる時はその時1度きりで、連続して呼ばれることはない。
しかし掌で頬を撫でられるように、風に乗って運ばれるタンポポの綿のように、通り過ぎた時の残り香で漂う花の匂いのように、時々思い出しては想い出に浸るみたいにして聞こえてくる。
鬱陶しいと思ったことはない。煩わしいと思ったこともない。
ただ自分を呼ぶ声を何処かで聞いたことがあるような気がして、それが誰なのか、何処で聞いたのかが思い出せなくて、そちらの方に気を取られてしまっていた。
ブイモンが初めてエクスブイモンに進化した時も、賢のパートナーと自分のパートナーが文字通り1つになった時も、賢が仲間になった時も。
何か大きな出来事がある度に声が聞こえてきていた。
───大輔
光る蝶の群れが空を覆いつくしながら飛び去っていくのを見守っている時にも、その声は聞こえた。
振り返ってもそこにいるのは大輔と同年代たち、太一のように大輔達よりも前に選ばれた少し年上の子ども達、それから伊織と同年代ぐらいの子ども達だけで、低い声を出すほどの年代の男性は何処にもいない。
総ての事件の黒幕とも言えるベリアルヴァンデモンを倒し、その黒幕に意識を乗っ取られ、身も心もボロボロになった及川は、デジタルワールドを救うために自らの身を犠牲にして、総てが終わった後にゲンナイが現れたのだが、ゲンナイの声とも違っていた。
デジタルワールドの平和を取り戻し、夢を失いかけていた子ども達共々、世界中の選ばれし子ども達が喜んでいる中、大輔は1人だけぽつんと取り残されたような気持ちになっていた。
『ダイスケー!』
総てが終わり、退化をして戻ってきたブイモンが、いつもの元気な声を出しながら走ってきた。
隣にいるのは、ブイモンのジョグレスのパートナーであるワームモン。
2体ともそれぞれのパートナーに飛びつき、褒めてもらおうと纏わりつく。
賢は苦笑しながらワームモンを抱き上げ、最後まで頑張ったワームモンを労わっていた。
それを、ぼーっとした眼差しで見つめる大輔。
───大輔っ!
『ダイスケ?』
「っ、ブイモン……」
『どうしたんだ?』
何かあったのか?って心配そうに見上げてくるから、大輔はバツが悪そうに頬をかく。
思えば不思議な声が聞こえてくると、いつもブイモンが声をかけてくれるな、と大輔は薄っすらと微笑んだ。
声が聞こえてくると、いつもその声の方へと導かれてしまいそうになるのだが、その度にブイモンが連れ戻してくれる。
何でもないよ、と返して、大輔は喜んでいる仲間達に加わるべく、賢とワームモンと、そしてブイモンと共に仲間達の下へと走っていった。
時計の針はぐるぐる回って、季節は何度も巡っていく。
子どもだった彼らは、いつしか大人と呼ばれるほどに成長していた。
この十数年間、何事もなかったとは言い難い。
しかし世界は、大輔達元選ばれし子ども達が願った通りの世界になった。
少し街を歩けば、隣り合って歩いている人間とパートナーデジモンを、彼方此方で見かける。
大切なパートナーと、大手を振って表を歩ける日を、世界中の選ばれし子ども達がどれだけ待ち望んでいたことだろうか。
大輔は怪しまれない程度に辺りを見渡し、うっすらと微笑みを浮かべる。
『ダイスケ~!早く行こうぜぇ!』
「そーんなに慌てなくても、店は逃げねぇよっ」
今日は年に1度の、集まりの日である。
大人になり、それぞれの夢を叶え、仕事で忙しくてなかなか時間を取れない中、この日だけはと決めている日がある。
8月1日。太一達がデジタルワールドに召喚され、初めてデジモンという存在を知った日。
この日だけは絶対に仕事を休んで全員で集まり、想い出を肴にしてご飯を食べたり、お酒を嗜んだりしながら過ごすのである。
話題に上がるのは、やはり初めてパートナーに逢った時や、初めて進化をした時、印象に残った出来事である。
辛かったこと、哀しかったこと、苦しかったことは沢山あった。
それと同じぐらい、嬉しかったことも楽しかったこともあった。
あの冒険がなければ、パートナー達と出逢えなければ、きっと今の自分達はここにはいない。
むしろ、今こうして集まっているメンバーと絆を深めることもなかっただろう。
あの時デジタルワールドに呼ばれなければ、デジモン達と出逢っていなかったら、自分達はどんな自分達になっていたのか。
時折そんなことを考えては、静かに首を振って、その考えを隅へと追いやる。
もしも、たられば、の話など、過ぎ去った時を思い出すのに不要なものなのだ。
───大輔
子どもの頃から寄り添ってくる声に、最早反応することもない。
時々、何かが……細い細い蜘蛛の糸のような線が記憶に引っかかって、振り返りたくなる時はあるけれど、振り返った先にあるのは足跡だけだ。
違和感を覚えたところで、どうしようもないのだから、大輔はもう振り返らない。
「や、大輔」
1人ちびちびと酒を啜っていたら、いけ好かない親友が、グラスを片手にやってきた。
許可を出していないのに、いけ好かない親友……タケルはニコニコしながら大輔の隣に座り込んだ。
げ、と不快な表情を隠すことなくタケルを睨むも、タケルは全く意に介さず手に持ったグラスを弄ぶようにゆらゆらと揺らす。
グラスの中の溶けかけた氷が、グラスが揺らされる度にカラカラと音を立てる。
「楽しんでる?」
「おめーが来るまでは楽しんでたよ」
「酷いなー。いい加減素直にならない?」
「お生憎様だな、俺ぁいつだって素直だよ」
「あー言えば、こー言うんだからぁ……」
テーブルに肘をつくという、お行儀の悪い体勢を取りながら、大輔は酒を呷る。
「……色々あったな」
「……そうだね」
騒いでいる仲間達を眺めながら、何となしに呟けば、タケルが返してくれる。
そう、色々あったのだ。
順風満帆の人生、とは言い難かった。
夢にも思っていなかった異世界の存在、異世界の生き物達。
訳も分からぬままデジタルワールドに呼ばれ、右も左も分からぬ中、ただ上級生について行くだけの冒険。
時に力を合わせ、時に喧嘩をして、離れ離れになったり、絆を深めたり……。
「丈さんは頼りないし、光子郎さんはパソコンに夢中になると、こっちのこと全然見ないし、太一さんは俺達のことなんか放って、どんどん先に行っちまうし……ついて行くのが大変だったよなぁ」
ぽつぽつと語っていたら、先ほどまで賛同の声を出していたはずのタケルから、何も聞こえなくなった。
不思議に思ってタケルの方を見ると、タケルは怪訝な表情を浮かべて大輔を見ていたので、何だよ、とぶっきらぼうに返すと、
「……大輔、酔ってる?」
と返された。
自分でもらしくないほどにセンチメンタルになっているのは自覚していたので、悪かったな、と再度ぶっきらぼうに返事をしたが、タケルは首を横に振った。
「そうじゃなくて……何か、僕らの……1999年の冒険のことを語ってるみたいだったから、どうしたのかなって……」
酔ってる?と再度聞かれ、大輔ははたと気づく。
確かに昔話をしていたが、大輔がデジタルワールドを冒険したのは、2002年のことである。
大輔が小学5年生の時だ。
しかし今しがた大輔の口から語られたのは、1999年の冒険のことである。
丈も光子郎も太一も学校や冒険の先輩ではあるが、共に冒険はしていない。
なのに、どうして……。
『ダイスケッ!』
ぼふん、と背中に衝撃が走る。
おわっ!?と悲鳴を上げて、ひっくり返りそうになったが、何とか踏ん張って、きっと睨みつけながら背後を振り返る。
「あにすんだ、ブイモンッ!」
『へへーん、ダイスケがぼーっとしてるのが悪いんだよっ!』
にやにやと悪戯っ子の笑みを浮かべながら、ブイモンは大輔の背中にしがみ付いてくる。
止めろ鬱陶しい、とブイモンの頭部を軽く叩きながらも、大輔は不思議に思った。
──こいつ、こんなにべたべたしてきてたっけか?
ぎゅー、と大輔の首にしがみ付いて、頬まで押し付けてくるブイモンに、大輔は違和感を覚えた。
大輔とブイモンは喧嘩をしながらも大変仲がいい、と仲間内から称されているが、確かに仲はいいもののこうしてべたべたとくっつきあう仲ではない。
淡泊でもないが、こうやって引っ付いてくるのは、大変珍しいことであった。
……まるで、大輔が何処かへ行ってしまうのを阻止しようとしているような。
『何の話してるのー?』
デジモン達の輪の中から飛び出してきたのは、パタモンである。
ばさ、ばさ、ばさ、と耳の翼を上下に動かし、歩いた方が早いと揶揄されるスピードで飛んできたパタモンの頬は、少し赤らんでいる。
タケルに抱き着くように着地したパタモンの顔を見て、まさか酒飲んだんじゃないだろうね!?とタケルは慌てて抱き上げた。
───大輔
声が聞こえる。
もう声が聞こえてくるぐらいでは狼狽えたり、反応したりしない。
しかし今回に限って、大輔は妙に胸騒ぎのようなものを覚えた。
顔を上げて、辺りを見渡す。
『ダイスケ?どうした?』
背後からおんぶの形で抱き着いているブイモンが、キョロキョロしている大輔に尋ねてきた。
ブイモンの声で、大輔は見渡すのを止め、ゆっくりとそちらに目を向ける。
……思えば、声が聞こえる度にブイモンは、大輔を呼び止めていた。
まるで見計らったかのように、タイミングよく声をかけてきていた。
声が聞こえる度にぼーっとしていたから、という言い訳が苦しくなるほどに。
『ダイスケ?』
何も言わず、ただじっとブイモンを見つめる大輔に、ブイモンは再度声をかける。
わいわい、がやがやと騒がしい居酒屋の店内の喧噪が、少しずつ遠ざかっていくような感覚に陥る。
『ダイスケ?ダイスケってば!』
「……何焦ってんだよ、ブイモン」
『っ、あ、せってる、わけじゃないよ……ただ、様子が、変、だった、から……』
しがみ付いた大輔の首をぐいぐいと引っ張るように揺らして、大声を出すブイモンに、大輔が確信めいたことを尋ねれば、途端にしどろもどろになる。
ぎゅ、と更に首にしがみ付いてくる力が強くなった。
「大輔?ブイモンも、どうしたの?」
『大丈夫~?』
問答を終えたらしいタケルとパタモンが、様子のおかしい大輔とブイモンに話しかけてきた。
そちらを向く大輔。
何も言わず、じ、と見つめ……唐突に思ってしまった。
──パタモンのパートナーって、タケルだったっけ?
───大輔っ!!
バリンッ!!
大きくて薄いガラスの板が、粉々に割れる音がした。
音が彼方此方に反射して、余韻のようなものが耳の奥に残る。
周りの背景は、割れたガラスの板に描き込まれていたかのように、一緒に砕け散った。
弾け飛ぶように壊れたガラスの板の向こうから現れたのは、漆黒の闇。
ほぼ同時に、大輔の身体が大人から子どもへと逆戻りした。
初めてデジタルワールドを冒険した、小学5年生の姿ではない。
初めてデジモンを“目撃した”、小学2年生の姿。
いや、違う。自分が初めてデジタルワールドを冒険したのは、小学2年生、今だ。
今、正に、この時だ。
……違う、今じゃない。自分は、未来の記憶を持って過去に遡ってきたのだ。
あれ、そうだったっけ?どうだったっけ?
『……どうして』
暗闇の中に響いた、哀し気な声。
弾けるようにそちらに顔を向ける。
“ブイモンがいた”。
暗闇の中、小学2年生の大輔と身長があまり変わらない、大輔の大切なパートナーが、そこに“立っていた”。
目を、心を閉ざし、ずっとずっと眠り続けていたチビモンが目を覚ましたのかと思った。
逢いたかった。逢って、話がしたかった。
チビモンの、ブイモンの心の悲鳴を、叫びを、全部受け止めてやりたかった。
何もできない自分がふがいなくて、抗って、抗って、抗って、辿り着いたここで、大輔はやっとブイモンに“逢えた”と思って、1歩踏み出し……。
「………誰だ?」
ぴたり、と立ち止まる。
“ブイモン”を抱きしめようと上げた両手が、中途半端なところで止まった。
目の前にいるのは、間違いなく“ブイモン”だ。
大輔のパートナーの“ブイモン”のはずなのに、どうしてか大輔は違和感を拭えなかった。
『…………………』
誰だ、と大輔に言われた“ブイモン”は、ぐっと拳を握り、俯いてしまう。
握った拳は見るからに震えていた。
その姿がまるで泣いているように見えて、途端に大輔は罪悪感に駆られる。
中途半端に上げていた両腕を、胸の前で組みながら、じっと“ブイモン”を見つめること、数秒程。
『……酷いよ、ダイスケ』
握っていた拳をそっと解き、振り絞るように呟かれたのは、大輔を責める言葉。
俯かれていた顔がゆっくりと上げられる。
その表情には、自嘲が広がっていた。
『……俺のこと、忘れちゃった──?』
大輔を見つめる“ブイモン”の赤い眼に浮かんだ、大粒の涙が一筋だけ、ほろりと零れる。
その涙を、言葉を聞いた大輔は、唐突に理解した。
目の前にいる“ブイモン”が、一体誰なのか。
「お……ま、え……まさか……!」
『……やっと分かったんだ』
「……………ブイモン、なのか?」
“ブイモン”は、《ブイモン》だ。
“大輔”のパートナーのブイモンじゃなくて、“前の大輔”が置いて行ってしまった《ブイモン》だ。
大輔は混乱した。
“前の大輔”が置いて行った《ブイモン》が、何故ここにいるのか。
“今の大輔”のブイモンは、何処にいるのか。
そもそも先ほどの出来事は何だったのか。
困惑した眼差しを《ブイモン》に向ければ、《ブイモン》は口元を歪ませ、無理やり笑おうとして失敗してしまったような表情を浮かべながら口を開く。
『……あれは夢だよ』
「……夢?」
『うん……俺が見せた夢』
「……何で」
『………………』
1歩、大輔は《ブイモン》に近づく。
『…………あれさえ』
「え?」
『あれさえなければ……っ!俺達は今でも……!』
拳を握り、感情を堪えたような声を出しながら、ブイモンは言う。
あれは、ブイモンが望んだ世界。ブイモンが過ごしたかった未来。
あの出来事さえなければ……謎のデジモンが次元の壁をぶち破ってこなければ、謎のデジモンが自爆なんかしなければ、何事もなく平和が訪れたはずの日常。
夢の中に閉じ込めてしまえば、ずっと大輔と一緒にいられると思ったと、ブイモンは言った。
「……何で、そんな」
『……何で?そんなこと、聞くの……?ここの“俺”を知ってるのに……っ!そんなこと、聞くのっ!?』
ダンッ!と、叩きつけるように、ブイモンは足を踏み鳴らす。
『俺は……っ!ダイスケが死んじゃってから……っ!ずっと、ずっと、独りぼっちだった……っ!!』
自分と同じように、ワームモンもテイルモンも、それぞれのパートナーを失った。
失った哀しみも苦しみも、分かち合えたはずだった。
でも《ブイモン》は、一人だった。独りだった。
テイルモンにも、ワームモンにも、同族の仲間達はいたから、パートナーを亡くしてからは2体ともそれぞれの群れに入れてもらっていた。
パートナーデジモンとして選定された個体なので、群れの中にいても違和感のようなものはあるらしく、時折一緒に冒険をした仲間達や、それぞれのパートナーの家族と過ごすこともあったが、ブイモンは少々特殊だった。
大輔と初めて出逢ったのは、とある薄暗い洞窟の中。
デジメンタルという、古代に主流だった進化のアイテムの中に、封印される形で眠っていた。
古代種という、大昔に生きていたデジモンであるためなのか、ブイモンの同族は既に絶滅している。
ブイモンの居場所など、とっくの昔になくなっていたのだ。
ブイモンにとって、大輔だけが全てだった。
仲間も居場所もなかったブイモンにとって、大輔だけが帰ってくる場所だったのに、その大輔は謎のデジモンが起こした爆発に巻き込まれ、その命を落とした。
ブイモンは、大輔を護れなかったのだ。
だから、だから……。
『逢いたかった……っ!』
もう1度、大輔に逢いたかった。
逢いたくて、逢いたくて、その想いが、願いが強すぎて、ブイモンは闇に囚われてしまった。
「……闇に囚われたって……どういうことだよ」
『……俺も、よく覚えてないんだ……気づいた時には、ダイスケと出逢う前に眠ってた、あの洞窟みたいに真っ暗なところにいて……』
強すぎた願いは、やがてブイモン自身の心を蝕み、闇を呼び寄せた。
その闇の正体が何だったのか、ブイモンは未だに思い出せないでいる。
ただその闇に囚われた時、ブイモンはデジタルワールドに害をなす危険分子と成り果ててしまった。
「危険……分子……?」
『……デジモンカイザーだったケンとか……アルケニモンやマミーモンや……ベリアルヴァンデモンみたいな、そういう奴だよ』
どさり、と大輔はへたり込む。
はくはく、と金魚みたいに口を開けたり閉めたりさせながら、言葉にならない空気を吐き出し、ブイモンを見つめる目は分かりやすいほどに泳いでいる。
デジタルワールドに選ばれ、2つの世界を護るために仲間達とともに奔走したブイモンが、デジタルワールドのために頑張ったブイモンが、同族達のいない世界に放り出されながらも、それでも世界のために奮闘したブイモンが、ただ大輔に逢いたいと強く願いすぎただけだったのに、それなのに今まで大輔達が屠ってきた敵と同じように危険分子と見做されてしまったなんて、そんなの、あんまりだ。
真っ暗闇で見えない地面についた両手の間に、ぽたりぽたりと落ちる数粒の雫。
何で、どうして、そんな文字がずっと大輔の脳内をぐるぐると回っていた。
『……ねぇ、ダイスケ。俺はね、別にタイチ達のこと、恨んでないんだ』
四つん這いになって、俯いている大輔を見下ろしながら、ブイモンはぽつりと語る。
がば、と顔を上げた大輔が見たのは、絶望の色に染まった、ブイモンの微笑み。
『しょうがないんだ。だってデジタルワールドは、そうやって敵や害を排除してきた。例え俺がデジタルワールドを救った、選ばれし子どものパートナーデジモンだって、そんなの関係ないよ。ケンだってそうだったじゃん。選ばれし子どもだったのに、デジタルワールドを支配しようとしたから、だから大輔達が選ばれた』
だから恨んでいない、とブイモンは言う。
今までだってそうしてきた。
デジタルワールドを救うために、そのデジタルワールドに仇をなす者は誰であろうとも排除してきた。
自分達がしてきたことが、自分に返ってきただけの話だ。
デジモンは基本的に弱肉強食。
強い者に敗れても食われることはないものの、弱い者が淘汰されるのは世の常。
だから太一達に倒されたこと自体は、ブイモンは恨んでいない。
それよりも……。
『……ダイスケに、逢いたかった』
太一達によって倒された自分が、どうしてここにいるのか、ブイモンには分からないし覚えていない。
気が付いた時にはこの暗闇の中にいて……“今の大輔のパートナーである、自分の同族がいた”。
その同族は、かつての自分のように大輔を護るパートナーデジモンの身でありながら、古傷を抉られてずっとめそめそ泣いているだけで、立ち上がろうともしない。
自分が何者なのかも忘れ、自分の役割すら忘れてしまった同族が、大輔を護れるはずがない。
だったら……。
『ねえ、ダイスケ。もう1度、俺のパートナーになってよ』
「……っ」
黙り込んでしまったと思ったら、とんでもないことを言い出したブイモンに、大輔はぎょっとなる。
『もう、あいつはダメだよ。ダイスケを護らなきゃいけないのに、あれじゃあダイスケを護れないじゃないか』
「………………」
『俺、もう1度ダイスケのパートナーになりたい……っ!今度こそ、ダイスケを護りたいんだよっ!もうっ、もう2度と……っ!失くしたくない……っ!!』
両手を地面についていた大輔の前でへたり込み、恐る恐ると言った様子で大輔にしがみ付くブイモン。
その両手は強張っており、声も涙が含まれて震えていた。
もう2度と離すまいと言わんばかりに籠っている腕の力に、大輔は言葉に詰まってしまう。
罪悪感や脱力感のようなものが、真っ黒いペンキになって大輔の心を塗りつぶしていく。
──どうしたら、いいんだ……っ!
“前”のことに関して、思うところがなかったわけではない。
むしろ思い出してから、ずっとずっと心の隅に引っかかっていたと思う。
あの謎のデジモンはどうなったのだろう。
太一達は?デジタルワールドは?自分達の家族は?
……置いて行ってしまったパートナー達は、どうなったのか。
かつてのことと、今のことで板挟みになってしまった結果、大輔達は今足踏みをしている状態になってしまっている。
──俺だって……っ!
ブイモンだけではない。大輔だって、逢いたかった。
ブイモンに逢って、ごめんなって言いたかった。
それは出来ないと、出来るはずがないと分かっていたから、諦めていたのに、なのに、こんな風に逢えて、逢いたかったなんて言われたら……!
──受け入れる、べきなのかな……
迷って、悩んで、大輔の腕がやがてゆっくりと持ち上げられる。
そろり、そろり、時間をかけて持ち上げられた大輔の腕が、ブイモンの背に回されようとしている。
ブイモンも、大輔も、互いに逢いたかった。
気持ちが同じなら、ブイモンがもう1度パートナーになりたいと願っているなら……。
───……………大輔
ピタリ、と、あと少しでブイモンの背に触れる、というところで大輔の手が止まる。
声が、聞こえたのだ。
夢の中で何度も聞いた、あの声が。
そう言えば、あの声の主は誰だったのだろうか。
ブイモンではないのは確かだ。
ブイモンは大輔を夢の中に閉じ込めようとしていたのだから、大輔を夢から目覚めさせようとするようなことはしない。
太一のものとも、ヤマトのものとも違う。
勿論、賢のものでもなかった。
もっと身近の、身内ぐらい近いような……。
ポゥ……
大輔の目の前に、突如現れたのはほんのりと光る青い玉。
ブイモンは気づいていないようで、未だに大輔にしがみ付いている。
微かに身体が震え、大輔の肩口も少し濡れたような感覚があるので、もしかしたら泣いているのかもしれない。
しかし青い光の玉が蠢き、徐々に作られていく形を見て、大輔は目を見開いた。
───…………大輔
縦に伸び、人の形となった光の玉から、夢で聞いた声が響いた。
完全な人の形となり、光が収束されるように治まる。
そこに立っていたのは……。
──……お、れ…………?
ぼさぼさの髪、青を基調とした服装、日に焼けて少し浅黒い肌、そして……憧れの人から受け継いだ、少しだけ古びたゴーグル。
それは、かつての自分であり、いずれ訪れる未来の自分だった。
これまでの旅の合間でも、時折夢の中に現れていた大人の自分が、目の前にいる。
硬直して思考が停止してしまった大輔に、大人の自分は……“大輔”はゆっくりと首を横に振った。
《────────》
そして、ゆっくりと口を開く。
その口から言葉が音として吐き出されることはなかった。
「………………」
それにも関わらず、大輔は“大輔”が何と言ったのか理解した。
ブイモンの背に回っていた手を再び動かす。
その手は背に置かれず、ブイモンの両肩に置かれた。
ぐい、と引き離す。
思ってもみなかった反応に、ブイモンは両目から涙を零しながら、キョトンと大輔を見つめた。
引き離したと同時に大輔は顔を俯かせてしまったため、大輔が今どんな表情を浮かべているのかなんて、ブイモンは分からなかった。
「………………………………………………………………ごめん」
ブイモンの肩に置かれた両手は、震えていた。
無理やり掴まれているわけではない。ブイモンがそれを振りほどこうとして、それを抑えるために力を込めているわけでもない。
そっと添えられているだけで、全く力なんてかかっていないのに、大輔の両手は見るからに震え、それが腕から全身に伝わって身体まで小刻みに揺れていた。
そうして、振り絞るように紡がれたのは、謝罪の言葉。
「ごめん、ごめんな、ブイモン……!独りにしちまって、ホントに、ごめん……っ!」
ぼたぼたと零れる涙が、見えない地面に滴り落ちて、ぴちょんと跳ねてブイモンの膝を濡らす。
「俺も、逢いたかったよ……!ごめんて、置いてってごめんって、言いたかった……!」
『……ダイ、』
「でも、ごめん……っ!出来ないんだよ……っ!」
『………………』
「もう1回、パートナーになってほしいって、その願い、叶えてやりてぇけど……っ!でも、もう、出来ねぇんだ……っ!!」
そう、もう出来ないのだ。
大輔とブイモンがもう1度、パートナーになることなど、2度と出来ないのである。
何故なら大輔は、ここにいる大輔は確かに前世の記憶を持っているけれど、前世と同じ“本宮大輔”という生を歩んでいるけれど、もう《本宮大輔》ではないのだ。
ブイモンが知っている、ブイモンのパートナーだった大輔ではないのである。
2002年にデジタルワールドを冒険した小学5年生の本宮大輔ではなく、1999年に冒険をしている本宮大輔という、別の人間なのだ。
幾ら|2002年にデジタルワールドを冒険した小学5年生の本宮大輔《前世》の記憶を持っていたって、大輔がここにいる時点で、別のブイモンのパートナーがいる時点で、もう《ブイモン》のパートナーには成りえないのである。
ブイモンが《ブイモン》だと瞬時に見抜けなかった時点で、もう大輔は《ブイモン》のパートナーだった“大輔”ではない。
分かっていたはずだ。分かっていたはずなのに、もう1度ブイモンに逢えたという喜びで、それが吹っ飛んでいた。
でも、出来ない。
もう2度と、2人は一緒にいられない。
何て、残酷な真実。
『………分かってたよ』
俯いて、涙をボロボロ流しながら、残酷なことを告げなければならない罪悪感で押し潰されそうになっている元パートナーを見ながら、ブイモンは言った。
顔を上げる。
諦めたような笑みを浮かべたブイモンがいた。
『分かってたよ、そんなの。ダイスケが俺に気づいてくれなかった時点で、そんなの、分かってた……』
「……ブイモン」
『それでも、一緒にいたいって、願ったんだ。思ったんだ。想ったんだ……それって、いけないことなの……?』
「………………」
『一緒にいたい、逢いたいって願っただけだったのに……それだけだったのに、でも、そのせいで俺、闇に囚われて、デジタルワールドから追い出されちゃった……逢いたいって思うのは、いけないことだったの……?』
「……そんなわけ、ねぇだろっ!」
今度こそ、大輔はブイモンを抱きしめた。
「逢いたいっていう気持ちがダメなことだなんて、そんなわけねぇだろっ!!俺だって逢いたかったよっ!!嬉しかったよっ!!この気持ちは嘘じゃねぇっ!!」
『……ダイスケェッ!』
逢いたい気持ちを抱くことがダメなら、アグモンやガブモン達はどうなるのだろう。
アグモン達だって、太一に逢いたいと願っていた。
それが例え世界を救うための、仕組まれた出逢いなのだとしても、逢いたいという気持ちは本物だったはずだ。
何年も何年も、待って待って待ち続けて、ようやく逢えた最愛の子ども達。
ブイモンの逢いたいという気持ちを否定するのなら、アグモン達の気持ちだって否定しなければならない。
そんなこと、神が許したって大輔は許さない。
『………ダイスケのブイモンなら、あっちにいるよ』
どれぐらいそうしていただろうか。
10分のようにも思えたし、1時間ぐらい経ったような感覚でもあった。
大好きなかつてのパートナーに抱きしめられていたブイモンは、名残惜しそうにしながらゆっくりと大輔から離れ、自分の後ろの方を指さす。
“大輔”は、いつの間にか消えていた。
「そっか」
ブイモンが指さす方向を見やりながら、大輔は腕で乱暴に涙を拭う。
泣きすぎて真っ赤になった目尻がじんじんと痛むが、そんなもの何の弊害にもならない。
これから大輔は、大切なパートナーを迎えに行くのだから。
『……ダイスケ』
歩き出した大輔の背中をじっと見やりながら、ブイモンはそっと声をかける。
振り返る大輔。
何かを堪えているような、喚きたいのを必死で抑えているような表情を浮かべた後、唇をぎゅっと真一文字に結んで、ぐっと飲み込む。
強張っていた肩から力を抜き、握りしめていた拳もゆっくりと解き、口の端を吊り上げた。
泣きたいのを必死で我慢している笑みだった。
『…………………………………………また、な』
もっと言いたいことはあった。
ずっと一緒にいたかった。
隣を歩いていたかった。
でも、もうそれは出来ない。
「…………ああっ!」
全部飲み込んで、大輔との別れを決めたブイモンに、大輔も決意する。
喉の奥から何かがせり上がってきて、鼻がつんとして、視界がじわりと滲んできたけれど、大輔は大きく息を吸い込んで、それらを全部心の奥へと仕舞った。
ニカリ、といつもの、歯を見せる精一杯の笑みを浮かべ、手を振る。
何度か手を振った後、くるりと背中を向けて、大輔は総てを振りほどくように走り出した。
サラァ………
細かい砂が風に巻き上げられるように、ブイモンの足元がデータの粒子へと分解される。
『………………』
消えたくない。死にたくない。
やっと大輔に逢えたのに、結局大輔は自分の下からいなくなってしまった。
でも出来ない。逢いたい気持ちが強すぎて、強く願いすぎてデジタルワールドを壊しそうになってしまった自分は、間違いなく咎人なのだ。
最期に逢えただけでも、運がよかったのだ。
遠ざかっていく大輔の背中。
闇に包まれた空間の向こうへ、大輔が飲まれたと同時に、ブイモンの姿もそこから消えた。
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