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まだ鼻の奥と目の周りが痛い、と大輔は鼻と目を擦る。
ずび、と鼻をすすりながら、真っ暗闇に包まれた空間の中、デジヴァイスが導く光の先を目指して歩いていた。
デジヴァイスが光ったのは、“ブイモン”と別れてすぐ後だ。
背中を向けた背後で、“ブイモン”の存在が薄れていくのを感じていた大輔は、そのことで再び涙を零した。
もう2度と逢えない、2度と触れ合えない、振り返ることはもう許されないから、大輔は“ブイモン”に駆け寄りたいのを必死で抑えて、振り払うように走り出す。
ぼろぼろ零れる涙が置いてけぼりにされるように宙を舞った。
走り出してどれだけ経ったのか、泣きすぎてひ、ひ、としゃくりあげてきた頃、心臓がバクバクと激しく脈打ち、じんわりと額に汗が滲みだす。
徐々にスピードが下がり、そこから数メートルほど走った所で、大輔は足を止めた。
ぜえぜえ、と喉を擦るような息遣いで呼吸をしながら、両膝に両手をつく。
「はあっ、はあっ、はあっ……っ、は、っ、ぅ、っく……!」
汗と一緒に、涙が暗闇で染まった地面にぼたりぼたりと落ちていく。
闇はその雫を吸い込み、土の地面のように染みになることはなかった。
出来ることなら泣き喚きたい。
大声を出して、腹の底から叫んで、喉が枯れるぐらい咽び泣きたい。
泣いて、泣いて、泣き喚いて、悔しさとか哀しさとか、心の中に生まれた真っ黒い感情を全部流しだしたい。
でも、それは出来ない。今することではないからだ。
今大輔がしなければならないのは、大輔のパートナーであるブイモンを探すことである。
“ブイモン”の願いを、想いを拒絶してまで、ここまで来たのだ。
何が何でも大輔はブイモンを探さなければならない。
探して、逢って、もう大丈夫だって言ってやらないといけないのだ。
ブイモンは未だに深い哀しみに囚われて、動けないでいる。
癒したいとは思っていない。治したいとは思っていない。
ただ知りたい、理解りたい。
ブイモンを苦しめているものが何なのか、自分に何ができるのか。
ブイモンと話がしたい。
治まらない涙が更に溢れ出てきそうになった時である。
ぽう……
大輔の腰辺りに、淡い光が浮かんだ。
大輔は涙を拭うことも忘れて、光っている腰に手を伸ばす。
つっかけていたデジヴァイスから、その光は漏れていた。
デジモンと子ども達を繋ぐ、目に見える絆。
パートナーが進化をするために、子ども達の強い願いや想いをデータに変換させて、パートナーへと送り込んだり、デジヴァイスを持った仲間達を探知したり、何かと便利な機能がついている、現実世界には存在しない材料で作られたオーパーツが、何かを訴えかけてくるように強弱をつけて光っている。
熱さや冷たさ等はない。
ただ大輔を慰めるように光っているような、そんな気がした大輔は、縋るようにデジヴァイスを両手で握りしめた。
すう…………
海の凪のように、宙に浮かんだ綿が舞うように、デジヴァイスから漏れた光が一筋の線を描く。
真っすぐ伸びた光の筋を、ぽかんと見つめていた大輔だったが、ふとした考えが過った。
──この光の先に、ブイモンがいる
何故そう思ったのかは分からない。
ただ光が導く先と、“ブイモン”が指し示してくれた道が同じだった。
ぐ、と唇を噛みしめた後、零れる涙を拭い、大輔は暗闇の中を渡る細い糸のような光の先を目指して、歩き出した。
そして、冒頭に至る。
どれぐらい歩いたのかも、その間に零れた涙も、分からない。
歩きすぎて足の裏にジンジンとした痛みも生まれてきた。
歩くたびにその痛みが足の裏から脚を通って、全身を駆け上がってくるが、大輔は歩みを止めようとはしなかった。
未だ止まらない涙を拭いながら、切れ始めている息を無視しながら、行き先を指し示しているデジヴァイスを握りしめ、歩き続けていた矢先。
大輔の努力は、唐突に終わりを告げる。
「…………あっ」
どれだけ泣いても、全身が疲れたと訴えてきても、歩みを止めようとしなかった大輔の足が、ピタリと止まる。
デジヴァイスの光が導く先に、“”其れ“はいた。
「ブイモン……っ!」
へにょりとした2つの角と、蒼い身体。
綺麗な赤い眼は固く閉ざされた瞼で見えなかったが、間違いない。
ずっとずっと探していた、大輔の“今”のパートナーが、数メートル先にいた。
身体を丸めて横たわっているところをみると、ここに来る前と変わらず、眠っているようだった。
居ても立ってもいられず、大輔は走り出す。
歩き続けたせいで足はがくがくの棒みたいになっていたし、そのせいで足元ももつれにもつれ、何度も転びそうになった。
よろけるせいで視界がブレる。
それでも、大輔は走った。
すぐそこに、目の前にいる、大切なパートナー。
手を伸ばす。あと少し、あと少しでブイモンに手が届く……。
ぞ、
突如、大輔の足が止まった。
あと少しで手が届く、というところで、言いようのない寒気が大輔の背筋を走ったのだ。
何か、好くないものが、ここにいる。
デジヴァイスをお守りみたいに握りしめながら、忙しなく辺りを見回し……ゆっくりとブイモンの方を見やる。
刹那、
ドゴォッ!!
空との境目がない暗闇の大地がボコリと盛り上がったかと思うと、蜘蛛の巣のような亀裂が走り、何かが突き出てきた。
突き出てきた何かは、眠っていたブイモンを巻き込み、ぐんぐん伸びていく。
それは、太い茨の蔦だった。
糸車の針に指を刺され、100年の眠りについてしまった美しいお姫様を護る、御伽噺に出てくるような茨。
無数の棘が蔦から生えており、まるで近づくものを拒絶しているような鋭さだった。
絡み合うように生えた幾つもの茨が、ブイモンを捉えている。
「っ、ブイモン……!」
好くない気配を感じ取って動きを止めていた大輔は、ほぼ反射的に走り出す。
茨が絡み合って1つの大樹のようになっているせいで、根本が盛り上がっており、小学2年生で前から数えた方が早いほど小さな大輔の身体の行く手を阻む。
「っ、いって……!」
それでも構わず、大輔は小さな身体を懸命に動かして盛り上がった個所を登るが、茨の根本にも鋭い棘が生えており、大輔の右腕に痛みが走った。
咄嗟に腕を引く。手首から前腕にかけて、1本の赤い線が引かれていた。
足の痛みとは違う、どくどくと脈打つような、何かが傷口から生まれてこようとしているような痛みが、赤い線から広がっていく。
左手で右の前腕を、痛みが広がらないように掴んだ。
「っ、はあ……っ、こん、なの……!」
サッカークラブでスライディングして、膝を擦りむいた時以上、いや、それと同じぐらいの痛みだ。
これぐらい、どうということはない。
腕を抑えながら、大輔は目を閉じ2、3回深呼吸をする。
「……行くぜ!」
棘に気を付け、手や足を乗せながら、大輔は慎重に茨の根本をよじ登り始めた。
痛みを抱えながら、ブイモンは眠り続けている。
水の中に身を任せるように、固く目を閉ざしたブイモンの身体は揺蕩っていた。
何も見たくなかった、何も聞きたくなかった。
自分は何者なのか、今まで何をしていたのかも、分からなかった。
どうでもよかった。
このまま闇の中に溶けて、消えてなくなってしまえば、苦しさとか哀しさとかで黒く重く塗りつぶされた心が楽になるんじゃないか。
そんなことを考えることさえ、今のブイモンには億劫だった。
──自分がいなくなったって、誰も哀しまない
『……………本当に、そう思ってる?』
そうだよ、だって自分の居場所も、仲間も、生きる意味だって、もうないのだから。
『………………』
自分を待ってくれる存在なんかあるはずがない。
『………………』
誰も、自分に気づいてくれるわけがない。
『………………』
あの時、仲間達と一緒に消えていれば、どれだけよかったことか……。
『……お前、本当に、最低だな』
低く唸るような声がした。
何も見たくなかった、何も聞きたくなかったブイモンは、その声に反応することも返事をすることもなかった。
そんなブイモンに、声の主はイライラしながら再度声をかけてきた。
『そうやって目を閉じて、耳も塞いでいるから、何も分からないんじゃないか。お前の傍にはちゃんと、お前のこと見て、手を繋いでくれる人がいるのに…………俺には、もうそんな人、いないのに』
すう、と。
自分を護るように身体を丸めて眠り続けているブイモンの前に現れたのは、蒼い影。
ブイモンが眠っているのも構わず、影はブイモンの腕を掴み、無理やり引き起こす。
だらん、と弛緩しきっているブイモンの身体を難なく引き起こした影は、ぐい、とブイモンの顔を掴み、無理やりある方を向かせる。
光を失った赤い眼で“見た”のは。
「うわっ!?」
ずる、と棘に乗せた足が滑って、身体がずり落ちそうになった。
咄嗟に棘を掴んでいた手に力を入れ、身体を支えたので落下は免れたものの、足が滑った際に棘でひっかけてしまい、左の向こう脛に右腕とお揃いの赤い線が引かれてしまった。
電流が走ったような痛みに襲われ、大輔は変な声を出しながらも、ぎりっと歯を食いしばって痛みを堪える。
ずき、ずき、ずき、としばらくの間疼くような痛みがあったが、ゆっくりと深呼吸をすれば少しずつ痛みが治まっていく。
冷や汗が額から沢山流れたが、棘から両手を離さずに腕を器用に動かして、半袖で汗を何度も拭う。
登り始めてどれぐらい経ったのだろうか。
まだ半分も超えていないのに、慎重に登っていたせいか、息は既に切れ始めている。
時々息を整えるために止まって身体を休めているが、棘が畝っているせいか体勢も不安定になり、気休めにもならなかった。
更に、気を付けてはいるものの、時々意識が上空にいるブイモンに囚われているせいで、無数に生えている棘のことを忘れてしまい、身体は彼方此方切り傷だらけ、服も少し綻びができてしまっている。
母さんが見たら、一体何があったのかと問い詰めてくるだろうな、と“大輔”の記憶に引っ張られて、大嫌いになっている母親の慌てふためく顔を思い浮かべて、眉を顰めた。
しかし、すぐに頭を乱暴に振って、その考えを追い出す。
何度か小さく深呼吸をして、きりっとした表情を浮かべて、黒で塗りつぶされた空を見上げた。
ブイモンがいるところはまだまだ遠く、遥か先である。
──………………
『あれを見ても、お前はまだ自分は必要ないって思うの?』
──………………
『あんなに一生懸命、お前のこと助けようとしてくれてるのに』
──………………
『……まさか、“あいつ”が誰なのかも、忘れたの……?』
──………………
『…………ふざけんなよっ!!』
声が怒りだした。
ブイモンは、ぼんやりとその光景を眺めているだけだ。
頭に靄がかかったみたいに、今までのことが思い出せない。
それを何故と疑問に思うことすらも、今のブイモンには出来なかった。
それでも、声は、訴え続ける。
『ずっとずっと、待ってたじゃん……っ!みんなと一緒に待ってたじゃんか……っ!俺は独りだったけど、そこから動けなくて待つことしか出来なかったけどっ、お前は“みんな”が一緒だったじゃないかっ!なのに、何で……っ!何で、自分は独りだなんて、そんなこと……っ!』
声の主の言葉が、そこで止まる。
詰まったような息遣いが断続的に聞こえてきた。
そこでようやく、ブイモンは反応を見せた。
と言っても、力なくだらんとしているブイモンの腕、その右手の指がほんの僅か、ぴくりと痙攣するように動いただけなのだが、声の主はそれを見逃さなかった。
『……なあ、ちゃんと見ろよ。ちゃんと聞けよ。目も耳も塞いでたら、お前のこと心配してくれる奴に気づけないだろ』
──………………
『“あれ”は、誰だ?』
──……………あ、れ……?
『そうだよ、お前を助けようとしてくれてる、あの人間だよ。“あれ”は、お前の、何なんだ?』
──…………………
『知らないなんて言わせないからな。お前は、忘れてるだけだ』
──…………………
『思い出せよ。待ってたんだろ?ずっとずっと、逢いたかったんだろ?』
ぽわん、と白い光がブイモンの目の前に浮かび上がる。
そこには、自分を助けるためにボロボロになりながらも歩みを止めない、男の子が驚いたような表情を浮かべて映っていた。
ぽわん、白い光が新たに浮かぶ。
男の子の背中が見えた。歩いているのか、男の子の身体が僅かに上下に動いている。
男の子の左腕が後ろに向けられているのは、自分の手と繋いで引いてくれているからだ。
ぽわん、白い光が浮かぶ。
男の子が2人と、女の子が1人。
それから、黄土色と白いデジモン。
みんな笑顔だった。そうだ、この時男の子が何か面白いことを言って、皆でケラケラ笑ったんだっけ。
ぽわん、白い光が浮かぶ。
目の前に身体が紐みたいに長いデジモンがいた。
確か自分は男の子を護るために、進化をしたのだ。
触れられるのはやはり怖かったけれど、男の子が頑張れって言ってくれたから、ブイモンは頑張れたんだ。
ぽわん、ぽわん、ぽわん、ぽわん。
白い光が幾つも浮かび上がって、暗闇を優しい光で照らす。
その光の中には、男の子が必ず映っていた。
男の子を中心に、女の子ともう1人の男の子、それから男の子が来るまでずっと傍にいてくれた、黄土色と白いデジモン。
その幾つかの白い光が、ブイモンの周りに集まってきた。
ブイモンの目の前で横並びになった5つの光。
ぼんやりとした赤い眼で、それをぼーっと見ていると、白い光が少しずつ大きく、何かの形になっていく。
両端の光は、黄土色と白いデジモン……ずっとずっと、傍にいてくれたパタモンとテイルモン。
その隣の光は、焦げ茶色の髪の女の子と黒い髪の男の子……パタモンとテイルモンのパートナーの、ケンとヒカリだ。
誰かに触れられるのがダメだった自分が、パタモンとテイルモン以外で触れられた、数少ない人間の子ども。
子ども達と出逢って最初の夜、自分の弱点を言えずにいたせいで子ども達に沢山迷惑をかけたのに、2人は大丈夫だよって優しく微笑んでくれた。
酷く安堵したのを、今でも覚えている。
最後の光、真ん中の光がすっと前に出る。
ぼさぼさの赤茶色の髪に、日焼けをした浅黒い肌、意志の強そうな眼差しは、ずっとずっと、待ち焦がれていたもの。
す、と伸ばされた手。
その手を見て、それからゆっくりと顔を上げる。
に、と太陽みたいに笑った男の子の手に、ブイモンはそっと手を伸ばし……。
がっ!
強く、その手を取ったと同時に、上に引っ張られたような気がした。
ぐるりと景色が一変する。
ばち、とこれまで頑なに閉ざされ、開かれることがなかった赤い眼が、今開かれた。
は、は、は、と浅く短い呼吸を繰り返し、開かれた赤い眼は小刻みに泳いでいた。
ぱち、ぱち、と何度も瞬きをしていたら、左手に温もりを感じた。
視線を向ける。
自分の手を、誰かが掴んでいた。
その手を辿るように視線を移すと、そこにいたのは。
『……………だ、い……すけ……』
ずっとずっと逢いたくて、待ち焦がれていた、大切な存在。
長い間声を出していなかったせいか、喉の奥がカラカラで、1つ1つ言葉を発する度に奥から乾いた空気が吐き出されて、ブイモンは嘔吐くように咳き込む。
ブイモンが発した言葉と咳き込みで、息切れを起こしながら蔦にしがみ付いていた大輔は、弾かれるように顔を上げた。
「はあっ、はあっ、っ……は、っ、ブ、イモン……?」
肩を上下させ、胸も膨らませたり萎ませたりして、何度も息を取り込んでは吐き出していた大輔は、ようやっとその目を開いて大輔を見つめているブイモンを見て、口元にみるみる笑みが広がっていく。
引きつったような笑みと、じわじわと滲み出てきた涙が零れ、大輔は何とか身体を動かしてブイモンの首に、しがみ付くように抱き着いた。
一瞬、ブイモンは何が起こったのか理解できないでいたが、瞬時に記憶が蘇り、ひゅっと息を呑んだ。
昔のことと、これまでのこと、膨大な記憶が脳内を駆け巡り、どんどん青ざめていく。
それに気づいた大輔が、ブイモンを宥めるように更にぎゅっと抱きしめた。
「大丈夫だ、大丈夫だよ、ブイモン。俺がいるって言っただろ?」
『……っ』
「何があったって、俺が傍にいるから、だから、ここから出ようぜ?」
そう言うと、大輔は一旦ブイモンを離し、よじ登る。
蔦がブイモンに絡みついているお陰か、上手く足を引っかければ足場になりそうだった。
足をしっかりと置けるように何度か置き直して、しっかりと固定されたことを確認したらしがみ付くように蔦に掴まり、後ろに倒れ込むように全身で蔦を引っ張った。
更に足で蔦を押して、引きはがすために踏ん張った。
みちみち、ぎちぎち、という植物にあるまじき音がする。
密接に絡み合っているせいで、踏ん張っている大輔の顔は真っ赤だ。
『だ、ダイスケ……』
「んぐぐぐぐ……!」
戸惑うブイモンを他所に、大輔は蔦にしがみ付いて仰け反るように引きはがす。
僅かにできた隙間は、ブイモンがそこから抜け出すには十分だった。
恐る恐る、と言った様子で、ブイモンは絡み合う蔦から這い出る。
思っていたよりも高い位置に囚われていたから、ブイモンは慎重に蔦にしがみ付いた。
「ブイモ……ッ!?」
ブイモンが脱出したのを見て、大輔は気が緩んでしまったらしい。
全身で引っ張って、足で押していた力がふっと抜けて、ずるりと大輔の身体が後ろに下がった。
宙に放り投げられた、大輔の小さな身体を見て、ブイモンは咄嗟に手を伸ばす。
上手く力をかけられなくて、大輔に引っ張られるようにブイモンの身体も傾いたが、蔦に生えている沢山ある棘の1つを掴んで、何とか落ちずに済んだ。
落ちそうになったことでギュッと目を閉じていた大輔だったが、浮遊感はあっても落下している感じはなかったので、徐に目を開ける。
顔を上に向ければ、ブイモンが戸惑った表情を浮かべながら、大輔の手と蔦の棘を掴んでいた。
『っ、だ、いすけ』
「……ブイモン!」
ああ、やっと、逢えた。
とん、と暗闇で染まった地面に、大輔のスニーカーが音を立てて着地する。
やっと人心地がついた、とばかりに大輔はぺたんと座り込んだ。
遅れて蔦から降りたブイモンは、そんな大輔をぼんやりと見下ろす。
「……お前が無事で、よかったよ」
『………………』
にかり、といつもの太陽みたいな笑みを浮かべて言った言葉は、ブイモンの無事を喜んだもの。
少しもブイモンを責めるような気配を感じさせないような言葉に、ブイモンは気まずくてそっと目を逸らした。
自分は、自分のことしか考えられなかったのに、大輔はずっとずっと、ブイモンのことを想っていてくれていた。
自分にはもう何もない、何処にも行けない、居場所もない。
……自分がいなくなったって、誰も哀しまないって、本気で思っていた。
こんなに近くに、自分を想ってくれている人がいたのに。
1度思い出せば、芋づる式に想い出が蘇ってくる。
大輔だけじゃない、賢もヒカリも、パタモンやテイルモンだって、ずっとずっとブイモンのことを心配してくれていたのに。
「……ブイモンは、さ。これからどうしたい?」
ぐるぐると出口と答えの見つからない考えで脳内が占められ、ぼうっとしていたら不意にかけられた言葉。
びくり、と肩を震わせてから大輔を見やると、大輔は両手を後ろ手について、その手に身を預けるような体勢で座り込んでいた。
顔は、何処を見ているわけでもなく、ただぼーっと前を見つめているだけ。
『……どう、って』
「このままじゃいられないことぐらい、ブイモンだって分かるだろ」
ここにいたって、ブイモンは救われない。
もう傷つくことはないかもしれないが、前に進むことも出来ないのである。
苦しくとも哀しくとも、生きている限り立ち止まることは許されないのである。
“生きる”ということは、そういうことなのだ。
……そんなの、ブイモンだって分かっている。
ここで立ち止まっていた所で、ブイモンの傷ついた心を癒してくれるわけではないことぐらい。
でも、それでも、ブイモンはどうしても考えてしまうのだ。
自分は、何のためにここにいるのか。
何故自分だけ生き残ってしまったのか。
何のために生きて、何をすべきなのか……。
ぱちん、と両頬に軽い衝撃が走って、視界がちかちかとしたのは、その時だ。
「ブイモン、またごちゃごちゃと変なこと考えてんだろ」
『………………』
「……しょうがない、よな。目の前で色んなもん、なくしちまったし、奪われちまったもんな。俺、そういう経験ないから、想像もできねぇし、気にすんなよとか、そんな無責任なこと言える立場じゃねぇんだけど……」
でも、と大輔は言う。
「迷うなとは言わねぇ。悩むななんて、言えねぇ。ブイモンの傷は、ブイモンだけが一生をかけて付き合って、折り合いつけていくしかねぇんだから……でも、さ」
ほんの少しでいいから、ほんの僅かでもいいから、そんな時に自分のことを思い出してはくれないだろうか。
『……ダイスケ、を、思い出す……?』
「うん……俺は人間で、ブイモンはデジモンだから、どうしたって同じにはなれねぇ。でもさ、一緒にいることは、出来るだろ?」
『………………』
「俺と出逢う前だって、アグモンやガブモンや……パタモンやテイルモン達が、一緒にいてくれたんだろ?そん時は、淋しいって思ったことあったか?」
ブイモンは首を横に振る。
大輔達と出逢う前、まだチビモンで、ファイル島で大輔達を待っていた間は、早く逢いたいと何度も思ったことはあっても、淋しいと感じたことはほとんどなかったと思う。
過去の悍ましい記憶を忘れていたあの時と今とでは状況が全く違うが、それでもアグモン達と一緒に大輔達を待っていた時は、淋しさよりも楽しみの方が勝っていた。
大輔は、泣きそうになっているブイモンを、ぐいっと引き寄せて優しく抱きしめてやる。
「また昔のこと思い出しちまったら、こうやってぎゅってしてやるよ。……何があったって、ブイモンは俺のパートナーなんだから」
『…………っ!』
ずっと独りだと思っていた。
自分がいなくなったって、誰も哀しまないと思っていた。
ずっとずっと、皆が傍にいてくれたのに、それも忘れて1人でめそめそ泣いて。
乗り越えたわけじゃない、吹っ切れたわけじゃない。
心には未だ重たいものが伸し掛かっているし、傷ついたままだ。
ブイモンの過去の問題はかなり根深いから、この傷が癒されるのに時間はかかるだろう。
それでも……傍にいてくれる存在を思い出した今、傷から目を逸らして歩き出すことは出来る。
ポロポロと零れる涙を両手で拭いながら、ブイモンは引きつった声で謝罪をした。
『ごめ、ん……っ、だい、すけ、おれ、おれっ、じぶんのこと、ばっか、かんがえて……!』
「俺だってそうだよ。自分のことしか考えてなかった…………だから、あいつのことも……」
『?ダイスケ……?』
「……いや、何でもねぇ」
大輔の脳内に過った青い影。
ブイモンによく似た、いや、ブイモンと全く同じ青い後ろ姿は、もう遠い過去のものだ。
自分がもっとしっかりしていれば、“あいつ”を哀しませることはなかっただろうに。
……傷つけることは、なかっただろうに。
ふわり
不意に、眩さを感じて大輔とブイモンは反射的にそちらに顔を向ける。
頭上の遥か向こう、ブイモンを捉えていた蔦よりも、ずっとずっと上の方に、大きな白い光が浮かんでいた。
白い光から放射線状に伸びる光の筋がゆらゆらと揺らめき、呼吸をするように大きくなったり小さくなったりを繰り返している。
……試練が終わった合図なのだと、大輔は本能的に悟った。
「……ブイモン」
『………………』
手を伸ばす。
その手と、大輔の顔を何度も往復し、恐る恐ると言った様子でその手を取った。
ふわり、と大輔とブイモンの身体が、光に引き上げられるように浮かび上がる。
「……帰ろうぜ。みんな、待ってる」
『………………』
誰もいないと思っていた。
独りだと思っていた。
自分には何もないと、生きている意味なんてないと思っていた。
こうして手を繋いで、傍にいてくれる存在がすぐ傍にいることに気づかなかったなんて、本当に自分勝手だ。
まだ1人で立つのは怖いけれど、でもこうしてダイスケが傍にいて、手を繋いでくれるのなら……。
ぞわり、
何かが足首を掴んだ感触がした。
同時に悪寒が背筋を走ったのは、いつものように知らない誰かに触れられた時のトラウマが蘇ったのだけが理由ではない。
ぐい、と引っ張られたので、ブイモンは足元を見やる。
ひゅ、とブイモンが息を呑んだのが聞こえ、更に繋いでいたブイモンの手に引っ張られたような感覚を覚えた大輔は、そこでようやく異変に気付いた。
下を向くと、同じように下を向いているブイモンの頭頂部が見えた。
更にその下に、輪郭が闇に溶けている沢山の
ぎらついた沢山の赤い眼と、大輔の目が合う。
瞬間、大輔の脳内に響き渡った、
ズルイ
カナシイ
サミシイ
ツライ
ニクイ
ナンデ
ドウシテ
大きな音楽ホールで音が反射しているような声だった。
男の子のような、女の子のような、大人のような、老人のような、様々な声色が絶えず訴えてくる。
ぐわんぐわんぐわん、と反響する脳内の声のせいで、脳みそを直接掴まれて、揺さぶられているような感覚に陥った。
頭を抱えそうになったが、ここでブイモンの手を離したら、あの黒いのに連れていかれる、と本能的に悟った大輔は、強靭な精神でそれを堪えた。
右手でブイモンの手を掴み、左手でこめかみの辺りを抑え、ぎゅっと瞑った目を何とかこじ開けてブイモンを見やれば、ブイモンも似たような体勢を取っていた。
どうやらブイモンにも、この声が聞こえているようだ。
がちがちがち、と大輔の手を掴んでいるブイモンの手が、震えている。
いや、手だけではない。
肩が、頭が、全身が小刻みに震えていた。
大輔は、悟った。
もしかして、この声は、あいつらは……。
ぎゅ、と唇を引き締めると、大輔はブイモンを伝って下の方へと移動した。
『っ、ダイスケ……?』
声に怯えてがくがくと震えていたブイモンは、大輔が下に移動してきたことに驚く。
光に吸い込まれるように浮かんでいるせいで、若干抵抗はあったものの、その抵抗は水の中で浮かぼうとする身体を無理やり沈みこませるのと同じだ。
息ができる分だけ、今の状況の方が楽だ。
ぐいぐい、とブイモンの身体を伝って下へと潜る。
ブイモンの手から自分の手を離し、身体へ、足へと移動し、ブイモンの足を掴んでいるモノへと、手を伸ばした。
『っ、ダイスケ!?』
突然のことにギョッとなったブイモンが焦ったように大輔を制したが、大輔は止まらなかった。
手を伸ばし、ブイモンの足を掴んでいるモノに、そっと手を添えた。
そして……
「………………」
何を思ったのか、大輔は“其れ”をぎゅっと抱きしめた。
輪郭がドロドロに溶けて、闇に紛れそうなほどに黒く染まった“其れ”を、躊躇することなく、大輔は抱きしめたのである。
ブイモンも、そしてブイモンに縋りついて、恨み言を吐き散らかしていた“其れ”も、大輔の突然の行動に一切の動きを止める。
「………………」
大輔は、何も言わない。
何も言わずに、ただぎゅっと、大切なものをその腕の中に仕舞い込むように優しく、強く。
恨みや辛み、憎しみが浮かんでいた沢山の紅い眼が見開かれる。
ゆっくりと、その目が閉ざされていくごとに、ブイモンに纏わりついていたモノが霧散していくのが見えた。
足を引っ張られた感覚もなくなり、大輔とブイモンの身体が再度浮遊していく。
光に導かれる大輔とブイモン、闇へ誘(いざな)われていくモノ。
大輔はブイモンと手を繋いだまま、闇の底へ沈んでいくモノから目を逸らさなかった。
……あれは、きっとブイモンの心に巣食っていたモノだ。
自分を責めるあまりに、ブイモンが作り出してしまった、仲間達の幻覚。
どうしてそう思ったのかは、自分でも分からない。
ただ、怨嗟の声の中に、助けを求めるような声も、微かに聞こえていた。
この声は多分、大輔や賢、ヒカリでなければきっと聞こえなかっただろう。
結局のところ、大輔には捨てられないのだ。
見捨てられないのである。
そこに救える命があるのなら、助けを求めて手を伸ばしているのなら、大輔はそれを振り払って背中を向けるなんて、出来ないのである。
“──────”
声が、聞こえた。
海の底から空気の泡が浮かび上がるように、音のない声だった。
大輔とブイモンは、目をパチパチさせながら、闇の奥底を見つめた。
きゅ、とどちらともなく唇を引き締め、噛みしめる。
振り払うように、大輔は勢いよく光の方を振り向いた。
眩い光に照らされた大輔のまろい頬に、きらり、と光るものが零れたのを、ブイモンは見逃さなかった。
「………帰るぞ」
『……………うん』
光源から伸びてくる放射線状の光の筋が、まるで意思を持ったかのように、大輔とブイモンに伸びてきた。
薄い絹のヴェールみたいに柔らかく2人を受け止め、光の中へと運んでいく。
乗り越えたわけじゃない、吹っ切れたわけじゃない。
でも、1歩踏み出す勇気を見つけた。
きっとまた、心の弱さに打ちのめされて、立ち止まって泣いてしまうことはあるかもしれないけれど、その時はきっと、大輔が手を繋いでくれるはずだ。
何のために生きているのか、何で自分だけここにいるのか、答えは見つからないままであっても、大輔が傍にいてくれるなら……。
白い光に身を委ねるように、ブイモンはそっと目を閉じた。
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