オレンジ色に染まる教室。私、橘純奈は相当に焦っていた。
「手帳が……ない」
クラス中に夢女子がバレても、棚町に世界の一部を強引に引っ張り出されても、私は夢小説をしたためている手帳を誰にも見せたことはない。
単純に恥ずかしい以上の理由はないけれど、だからこそ私は厳重に管理していた。絶対に落としたり失くしたりするはずはない。私は夢世界の管理に関しては、とても自信があった。
あ、ちなみに確か前棚町に完結させたら見せるって言ったと思うんだけれど、どうせ完結しないから見せない。
しかし、今起こっている事態は何だ? まさか私が、こんなことをやらかすだなんて……。
私は必死に自分の記憶をたどる。今までどこに行っていた? どこを通っていた? そして、どこで違和感を感じた?
……そうだ。確か今日の私は、ちょっとイライラしていたんだ。それで、お昼休みに人気の少ない屋上で、冬晴れの冷たい風に当たりながら、今まで作ってきた夢の世界の思い出を思い返すことでクールダウンしようと思ったんだっけ。
そういう時間ってあっという間に過ぎるもので、気がつけば予鈴が鳴って……次が移動教室だってことに気がついて、私は大慌てで教室に戻って……。
そうだ! 屋上だ。間違いない! よく思い出せたぞ、私!
生死がかかっているんだ。結論を出したその瞬間から、私は廊下に飛び出し階段を一段飛ばしで駆け上がる。スカートが軽くめくれ、内太ももが冷たい空気に触れてぞくぞくするけれど……そんなの、構っていられない。
これは私の危機なんだ。紛うことなき、私の危機。もし、知らない人に渡っていたら……私は、喜んで死を選ぶ!
3階……4階……あった、屋上への扉! 思い切り私はドアを開放する。放課後の夕日が目に飛び込んできて眩しい。人は……いない!
間に合った! 私は屋上で手帳を探す。機能性に富んだ黒い手帳、私が小学生の時、夢の世界に目覚めた時から愛用している黒い手帳。見間違えるはずがなかった。
周囲を見渡す。あ、あれは……あった! 柵の近くに佇む、女子の手の中に!
……ん? 女子の手の中?
それはつまり……もう、見られているということで……。
バレないよう、隠れて撤退するという選択肢もあった。しかし、何年もかけて作り上げてきた私だけの夢の世界……今日みたいに、時々思い返すことで私の居場所になる、そんな世界を、私は簡単に手放せない……!
どうしようか考えていたところに、私の手帳を持った女子が私を見つけて近づいてくる。まずい。冷静になろう、私。
えっと、まずその女子の姿は……黒髪で、色白で、背は平均的、顔立ちはすごく綺麗で、まるで優等生のような清楚感のある……。
「……絢辻さん!?」
これは、不幸中の幸い……でいいんだよね。もし棚町だったら私は死んでた。
「橘さん。これ、あなたのよね?」
「うっ。……は、はい、そうですありがとうございます」
クラスのことを把握していると言っていた絢辻さんだもの。そりゃ分からないわけないし逃げ切れるわけもない。絢辻さんに私の手帳が渡った時点で、私の選択肢は素直に認めて受け取る、ただ一択に絞られていた。
私は絢辻さんの手から、手帳を半ば奪うように受け取る。そして、少し驚いた様子の絢辻さんに恐る恐る聞き出してみる。
「あ、あの……見た?」
「ごめんなさい。ちょっと興味が湧いてきちゃって……」
絢辻さんは伏し目がちに答えた。私はひどく後悔したけれど……絢辻さんで良かった、とも思った。
でも……これを見られたら、絢辻さんに嫌われるかも。それじゃあ、絢辻さんで全く良くないじゃん……!! むしろ棚町に拾われたほうが幾分かマシ……いや、どうだろう……!
「そ、そっか。幻滅した、よね……」
ただ一つ。超、落ち込んだ。
「そんなことないわよ。最初は中身を軽く確認して持ち主を割り出そうとしたんだけど……普通に続きが気になって、ついつい読み込んじゃって」
絢辻さんがこの一件で遠ざからないみたいなのは、本当に安心した。良かったんだけど……なんか、べた褒めっぽくて……もっと恥ずかしくなる……!
「そっか……そ、その、言わない?」
気恥ずかしさで絢辻さんの顔を直視できない。身体を左右に揺すっておかないと、どうにかなっちゃいそう。
「ええ。私の心の中だけにとどめておくわ」
「あ……ありがとう、絢辻さん……」
絢辻さんなら信頼できる。……私は恥ずかしさの中、起こった幸運をどうにかして抱きしめようとした。
ほっとした、という言い方はちょっと違うんだけど、でも……なんか、それに近いような感じがする。
「……その、ね。私も手帳、あるの」
「え、もしかして絢辻さんも……?」
まさか、夢の世界を創造してるの? でも、私の記憶が確かなら小説を書いたことはないって言っていたから……じゃあ、なんだろう、何の夢が……。
「そうじゃないわよ。普通にスケジュール帳だったり、今日あったことをメモしたり。自分の考えを書いたりしてるわ」
「で、ですよね……」
そんなわけなかった。別にそうじゃなくても、どんなことを書いてあるのかは気になるけれど。
「それでね。あなたも、私と同じ手帳使ってるんだなって」
「そうなの? 確かにこの手帳、色んなことに使えて役に立ってるけど」
私もこの手帳を、単に夢を展開し記憶させる媒体としてだけでなく、普通にスケジュール帳だったり、ノートを忘れたときの代わりとして運用したり、結構色々使っている。
「ええ。だから、これが落ちていたとき……私もちょっとびっくりしちゃって。私にとっても、手帳はすごく大事なものだから」
……共通点、またも発見かな。手帳を落としてないと、きっと見つからない共通点だったと思う。だとすると……いや、でも手帳を落としたということ自体は喜べないよね。
「そうなんだ……」
「ええ、私にとっての生命線と言ってもいいわ。特に最近は創設祭の仕事でスケジュールが増えているから」
そう言うと絢辻さんは振り返って、柵の近くに移動する。私も絢辻さんの隣に来て、一緒になって夕方の空を見る。夕日が私達を斜めから照らす。
橙色に照らされ、絢辻さんの綺麗な顔が浮かび上がった。光って、人の違う一面を演出するものだってつくづく思う。絢辻さんはまるで希望に満ちているような、そんな表情に見えて……すごく素敵だな、って思った。
私もそういう表情、絢辻さんに見せられたらいいのに。
「ねえ、橘さん」
絢辻さんの声と、屋上を吹き抜ける秋風の音と、木々が秋風に吹かれこすれる音と、運動部の掛け声と、吹奏楽部の練習の音と、少し遠くから聞こえる往来の音。
全部が全部混じって、空気を伝って私の鼓膜を心地よく震わせる。
「ん……?」
私の声は……絢辻さんにとって、どんな印象になっているんだろう。私は……嫌じゃなかったら、それでいいなとしか。
「あなたはこの場所、好きかしら?」
「屋上? 私は……嫌い、かも」
「へえ、どうして?」
すっと口から出た答えは、嫌い、だった。意外そうに、興味がありそうに絢辻さんは聞いてくる。
確かにここは……私は結構来るんだけど。でも。
「確かに、すごく居心地がいいの。人も少ないし、環境音が気持ちよく混ざり合って。風も気持ちいいから……気持ちを切り替えるときは、いつもここ」
「でも、嫌いなんだ」
「うん。……嫌なことがあった時しか、ここに来ないから」
だから、嫌なことと屋上がちょっと結びついちゃっているところがあったり。
「そっか……じゃあ、私もここが嫌いってことになるわね」
絢辻さんは私に微笑みかけた。つまり、絢辻さんも嫌なことがあったら……ということなのだろうか。
「絢辻さんも?」
「ええ。きっと橘さんがこの場所に来る回数より、圧倒的に多いと思う」
「そうなんだ……」
ここ最近、絢辻さんと接触する機会が増えたことで、完璧だと思っていた絢辻さんが完璧でなくなっていく。
絢辻さんだって私みたいにちゃんと悩んだりするし、行き詰まるときだってあるんだ。
……あれ? このことを知っているのってもしかして私だけ……?
「今もそうだったの。少し不安定になっちゃって……それで、あなたの手帳が落ちてたから思わず読み込んじゃって」
「うっ」
「ごめんね、人には絶対に話さないから。……でも、その手帳のおかげで、今日は立ち直りが早かったのかも」
「え……?」
私の夢小説が、絢辻さんを救った……?
「気のせいかもしれないけれどね? だけど、今の私の気分が幾分か楽なのは確かよ」
「そ、そうなんだ……あはは……」
喜ぶべき……なんだよね……? 頭でそう分かっていても、私は乾いた笑いしか出てこない。
またしても身体が熱を帯びるのを感じて、嬉しさと、恥ずかしさと、なぜか分からないけれど……なんだろう、どうたとえればいいんだろ。嬉しさと混ぜたら真っ黒になるような感情、とでも言っておこうかな……とにかくそんなよくわからない感情が、私の胸の奥で大きな糸くずのように複雑に絡み合っていて。
その感情を外にどう上手く出せばいいのか私は知らなくって、すごく曖昧な態度をとってしまう。分からないなりに、多分私の頬は赤い。
「ごめんなさい、気分悪くしたかしら」
「う、ううん。恥ずかしさがどうしても勝っちゃって……でも、一応褒めてくれるんだよね」
でも、ちゃんと絢辻さんの話は認識できて、ちゃんと答えられて。そこが、私の立ち位置をはっきりさせている、みたいな。
「もちろんよ?」
「そうだよね、絢辻さんに褒められてるんだもの。だから、喜ばなきゃいけないと思うけど……やっぱり恥ずかしいものは恥ずかしいし照れくさいものは照れくさいの!」
そうやって勢いで言葉にすると、すっと感情の混乱が解けて。よくわからない感情が消えたおかげで、恥ずかしいと照れくさいの2つだけになって。そして、それを自覚して……。
「ふふっ。橘さん可愛い」
「ふぇあぁ……」
私はあまりの熱さに顔を覆ってしゃがみこんでしまった。
「あのね、橘さん。無理を承知で頼み事があるのだけれど……」
「ふぇ……?」
絢辻さんの顔を見ることが出来ない。そのままの体勢でいると、絢辻さんがこちらにしゃがみこんできて、顔を覆う私の手を優しくはがした。
絢辻さんの手が、私に触れる。それだけで、私は力が抜けて……素直に、私の顔を絢辻さんに晒してしまう。きっと夕日に照らされ、もっとはっきり見えているはず。
というか……顔が、近い……!! もともと熱かった身体がもっと熱くなって、心臓の音が身体中に響くくらいに大きく、早くなって……思わず私は後ろに尻もちをついて、体育座りのような格好になった。
恥ずかしい、照れくさい。その感情の種類は変わっていないんだけど……その感情の原因は、夢小説を見られたことから、絢辻さんと私の物理的な距離が急接近したことに置き換わっていた。
どぎまぎして、焦点が合わなくて。そんな私に対し、絢辻さんの柔らかそうな唇が優しく言葉を発した。
「……また何かあったら、その手帳を見せてほしいなって」
「……ふぇえ?」
もはや私は言語を失ったような反応しかできない。……え? というか今……手帳を……?
「もちろん、人気のないところでしかお願いしないから。……いい、かな」
絢辻さんも絢辻さんで、結構思い切ったお願いであることを分かって言っているみたい。え……これって、つまり……気に入ってくれた……?
だとしたら。私は、断る理由なんて……たぶん、ないよね。それに……相手が、絢辻さんだし。
私は一拍おいて、深呼吸して。震える足で、震える喉で。でも、精一杯、普通を装って。
「……う、うん。絢辻さん、だけだからね」
装ったのは普通じゃなくてツンデレの方だった……! 私ってば、素直じゃないんだから……!
「いいの? ……ありがとう、嬉しいわ」
で、でも。今まで厳重管理していた夢の世界を、私は絢辻さんにだけに立ち入りを許可できたわけで。
きっと……これは、大きな一歩なんじゃないかなって。
「じゃあ……また、近い内にお願いするかもしれないから……その時は、お願いね?」
「わ、分かった。……なんか、人に見せるって決まったらちょっと気合入ったかも」
今まで自分だけで完結していた世界が、人の目に触れる。それがたった一人だとしても……なんだろう、ちょっとモチベーションが出てきたような。
恥ずかしいし、照れくさいけれども……なんか、悪くないな。
「そっか。じゃあ、楽しみにしてる。……さて、いい感じになったから仕事に戻ろうかしら」
絢辻さんは立ち上がって、ぐっと伸びをした。
「あ、私も手伝うよ。今日は何するの?」
「手伝わなくてもいい、って言ったってあなたは聞かないものね。そうね、今日は……」
夢小説を書くモチベーションは上がったけれど、絢辻さんとともにいる時間もとても大切で。私は絢辻さんのために、喜んで私の時間を捧げるんだ。
結局この日も帰りは7時くらい。絢辻さんと一緒に下校して、色々とお話をして。
「あ……このシチュエーション、いいかも」
……なんて、一人になった帰り道。今日の出来事を反芻すると、新しいアイデアが思い浮かんできて。
人に時間を捧げるのも悪くないのかも、って思った一日だったり。