「……はぁ、時間の無駄遣いじゃんほんと……」
ある日。私は致命的なミスをやらかした。
何よりも自分の時間を確保することに全力な私が、あろうことか課題をすっぽかして見事に補習を食らったのだ。
それも、運悪くすっぽかしたのが補習が超長いと有名な先生の教科。すっかり外の日も落ち、普段私がいるのには絶対ありえないような時間になっていた。
そんな地獄の補習が終わり、私は気持ちが地の底まで沈んでいた。周りの教室の電気はすべて落とされ、昼の喧騒が嘘のように廊下は静か。どこにいるのだろう、秋の虫の音が冷たく澄んだ空気を伝って聞こえるのみ。がらんとした学校の廊下でその音を聞くのは……心底虚しいものなんだと、私は感じた。
そんな中、ある一つの部屋だけは電気がついていた。2-A、つまり私達の教室。普段の私なら間違いなくスルーする。でも、今日は誰が残っているのか、なぜだか気になってしまった。
そっと教室のドアを開く。窓際のみ電気がついている教室。
「えっ? あ……」
そこにいた人物を認識した瞬間、私の思考は止まって身体は硬直した。最悪だった。
なぜなら、その蛍光灯に照らされた女子は私の苦手な――。
「橘さん? 珍しいじゃない、あなたがこの時間までいるの」
絢辻詞。怖いくらいに完璧な、まるで機械のような優等生。そんな完璧な絢辻さんと私が、2人きり。
……今日の占い、最下位じゃないよね。沈みきっていた心にさらに追い打ちをかけるように、絢辻詞という人物が放つ空気感が私を追い詰めて動けなくする。そんな沈んだ心をなんとかして、私は繕って……お世辞にも綺麗にとはとても言えない、突貫工事でほんとになんとかして繕って。普段どおりという仮面をどうにかしてでっち上げて、会話する。
「私、今日課題忘れちゃったの知ってるでしょ。それで、あの先生の補習を食らっちゃって……」
「そういえばそうだったわね。お疲れ様」
絢辻さんが清楚な微笑みを私に向けながら、ねぎらいの言葉をかけてくる。
アニメをよく見るからなのだろうか、私は声フェチだ。私は声色によってキュンときたり、癒やされたりという経験がかなりある。
……そして、彼女の柔和な声質でかけられたその言葉は、不覚にも私の沈んだ心に染み渡って。私の粗末な付け焼き刃の仮面は、絢辻さんのたった一言、それも何の変哲もない言葉で……たやすく割れてしまった。
「ありがとう。ちょっと、救われたかも……」
「救われた?」
「あ……ううん、気にしないで」
こんなことが思わず口からこぼれたのは、多分心の底からそう思ったから。……なんでだろう。普段意識的にあんなに避けていたのに……。
ふと、何かほのかな、掴みどころのないものが心の中に浮かぶ。これってなんだろう……私は少し、考える。
絢辻さんに甘えたい? ……この? ……私が?
でも、自覚した瞬間、それは急激に形を成し、またたく間に私の身体のすべてを支配した。
この沈みに沈みきった私を助けてくれるのは、絢辻さんしか、いない。そう信じて、私は狂って。……甘えたいという熱情が、劣等感を消し去ったのだ。
絢辻さんは教室の机を4つほどまとめてくっつけて、膨大な書類の山を築いていた。もしかして……いや、まさか。
「……これ、全部絢辻さんが?」
「ええ」
なんてヤツだ。たった一人で、こんな量の書類をこなすなんて。私はまだ高校生だからあんまりわからないけれど、でもこんなのは並の大人でも引くレベルの量じゃないだろうか。
「もしかして、毎日?」
「毎日書類作業をしてるわけじゃないし、仕事の量も変わるけれど……でも、創設祭実行委員になってからは、いつもこんな感じかな」
恐ろしい。なんでこんな仕事量を毎日こなして疲れているに違いないだろうに、普段通りの柔らかい絢辻さんのままでいられるんだ。もし私なら四方八方に愚痴を乱射するに違いない。
「うっわ……大変だね」
「でも、特に今年の創設祭は絶対に成功させたいから」
「特に……?」
「ほら、高橋先生も言ってたでしょ? 今年は市の協力があるから規模も大きくなるし、当然来てくれる方も増えると思うのよ。だからそれに相応しい……ううん、来てくれる方々も驚くようなそれ以上のクオリティにして、みんなの思い出に残るような、そんな創設祭にしたいの」
何なんだこの模範解答。本心にしては出来すぎている。でも……あんな完璧な絢辻さんなんだから、本心なんだろうなきっと……。
「すごいね、絢辻さんって」
「そう?」
外でなんとか繕っても、膨らみ続ける劣等感。なんで絢辻さんに甘えたいなんて思ってしまったのだろう。沈んだ心の救いを求めた結果、結局正しさの刃に傷つけられているじゃん……。
「私、他の人のために、なんて考えたことないから……」
思わず、こんな弱音を吐いてしまった。傷ついた私の心は、傷つけた張本人でもいいから助けを求めているようだった。
「他の人に喜んでもらうのって、達成感があるし気持ちいいわよ。やらなきゃ分からないこと、かもしれないけれど」
「やらなきゃ分からない……か」
なんだろう。胸の奥底に、すっとおさまるような。
私は絢辻さんの言うことを、今は信じようと思った。あと、そのまま絢辻さんを置いて帰るのは、沈んでいたところを助けてくれた私の心が許さなかった……というのもあるのかもしれない。それに……どうせ今帰ったところで大した時間は残されてないんだ、ならいっそ限界まで削ってしまおうというやけくそじみた気持ちもあった。
普段の、自分の時間を最優先に考える私は、こんな行動を取るはずがなかった。
「絢辻さん。仕事、手伝おうか?」
「えっ?」
面食らったかのような表情をする絢辻さん。
「そんな、橘さんも長い補習が終わったばかりで疲れてるでしょ? 慣れないことしないで、帰って身体を休めたほうがいいわよ」
しかし、すぐに『いつもの』顔に戻って私のことを気遣う絢辻さん。けれど、こういうときは変に頑固になる私に、絢辻さんの言うとおりにするという選択肢など今更なかった。
「どうせ今帰ったって自分の時間はそんなにないから。それに……『やらなきゃ分からない』、でしょ?」
「え……?」
今、私は絢辻さんを手玉に取っている。なんだか、優越感。
「手伝うの……迷惑?」
「そ、そんなことないわ。嬉しいわよ」
「じゃあ、手伝わせて。私、絢辻さんみたいには出来ないけど……やれるだけやってみる」
絢辻さんを押し切って、私は絢辻さんの手伝いをすることになった。自分の時間を思い切り犠牲にするバカみたいな行動なのに、なぜだか私の心は満足感の入浴剤がたっぷり溶け込んだお風呂の中でくつろいでいた。
理由は分かる。変な言い方かもしれないけれど、私は絢辻さんに……
「……初めて勝てた、かも」
「勝てた……?」
「な、なんでもない。忘れて」
……独り言がこぼれる癖、治ってくれないかな……。