私と絢辻さんは河原の近くまで差し掛かっていた。河原まで特別遠いわけではないのだけれど、でも、今日はやけにそこまで着くのに時間がかかった気がする。
「……」
「……」
気まずい。別に普段は2人きりの状況で無言でも全然気まずく思ったりしない私だが、今回ばかりはこうなるに至った過程が過程だから……。
まあ……原因は勝手に舞い上がって勝手に混乱して自滅した私、なんだけれど。
「……ね、ね。ちょっと、思いきって言いたいことがあるんだけど。いいかな?」
「え?」
そんな空気の中、絢辻さんが口を開く。思い切って言いたいこと? 絢辻さんの口調はほんといつもどおりの柔らかく透き通った感じで、とても怒っているようには思えないけれど……少し身体がこわばってしまう。
「結構、可愛かったわよ?」
「はい?」
「その……あなたの、下着……」
私の足が歩き方を一瞬で忘れたかのように止まった。思考停止その2。
まさか、気を……使って……? にしても、絢辻さんの口からそんな言葉が飛び出るだなんて……!
「……橘さん? その、気を悪くさせちゃったらごめんね?」
「う、ううん。平気……!」
顔に熱が帯びるのをはっきりと感じて、ぎゅうう、っと私は目を閉じてうつむく。外気は確かに寒い、のに、のにっ……熱い……!
「そ、それにね、元は私が勝手に暴走しちゃったからそうなっちゃっただけ、だからね? だから……その……ありがと……」
上ずって情けない声で私は絢辻さんを落ち込ませないように必死にフォローする。最後の『ありがと』は、多分……聞こえて、ない、よね。
「ふふっ。どういたしまして」
「ふぇあああっ!」
ばっちり聞こえてたようで……! 私はこのどうしようもない熱さを発散させようと、その場にかがみ込んで縮こまった。
「……意地悪」
「そうかも」
私は絢辻さんに完全に手玉に取られた。でも、それはそれで悪くないし、それに……。
「私、絢辻さんってもっとお堅い人だと思ってたけど、違うんだね」
「そうでしょ? だって、今はあなたしかいないから、ちょっとだけ羽目を外せるの」
私はすっと立ち上がり、絢辻さんとともに再び歩みを進める。川から伝わるひんやりとした湿った空気が、私の熱を帯びた身体を優しくクールダウンしてくれる。
「私しかいないと、変わるの?」
「うーん、なんだろう……私、橘さんのことを面白い人だなって、思ってね」
「面白い……?」
まるで夢小説のようなことを言われた。確かにいつか言われたい言葉だけれど……まさか、本当に言われるなんて、しかも、あの絢辻さんに……。
「そう。あんな量の書類を見て、手伝うって言って聞かなかったのは橘さんが初めてだし……」
「そうなの? 意外」
「ええ。手伝うって言ってくれた人は他にもいるけれど、ほんとに手伝ったのは橘さんだけなの」
「そうなんだ……」
多分、手伝っても邪魔になるから、みたいな感じで遠慮しちゃうんだと思う。私もそう思ったし、実際作業の途中は邪魔になってそうな気がしたし……。
でも、さっき助かってるって言ってくれてたから、多分私は邪魔じゃなかったんだろうな。
「それでね、橘さんって結構ドジなところあるでしょ?」
「ど、ドジ!?」
初めて言われたけどこれは言われたくない言葉だった。……でも……絢辻さんに、なら……。
「そう。今日帰るときだって、ね?」
「否定……できない……」
また思い出してきた! 顔に熱がぶり返してきた……!
「だから、さっきみたいにちょっと踏み込んで意地悪してもいいかなー、って気にさせてくれるの」
「意地悪ーっ……!」
熱をふくんだ頬を膨らませて、後ろで両手をぎゅううっと強く握り拳を作って楯突いてみる。
「くすっ。だって、意地悪してるんだもの。ごめんね?」
手を合わせて、ちょっとだけ眉をハの字にして謝る絢辻さん。絶対反省してない。
「ま、まあ……いいけど……」
でも許しちゃう。だって……
「それに……なんか、嬉しい。私、絢辻さんって遠い人だと勝手に思ってたから……」
絢辻さんを遠いと思っていた。ふと口を出てしまった本心に、私はすぐに気づいた。まずい。これは……言っちゃいけないことでは……!?
「あ、ごめんね! つい……!」
「ううん、気にしてないわ。私、クラスの雰囲気はちゃんと――」
絢辻さんが言葉を紡ごうとしたその時だった。
「あ、詞ちゃん! 今日も遅くまでお疲れ様ー!」
混じり気のない、純粋を形にしたような女の人の声に、私と絢辻さんは呼び止められた。
その時見せた絢辻さんの表情は、きっと心の奥底にはびこるように住み着いて忘れられないものになると思った。
なぜなら――いつも柔らかくて明るい絢辻さんの表情が、一瞬だけ、ほんの一瞬だけ……むっとしたような、はっきりとした嫌悪の表情になったから。
「ごめんね、橘さん。先、帰るね」
「えっ……」
「帰り道、付き合ってくれてありがとう。楽しかったわ。あ……あと、さっきのこととこれは関係ないから。ホントだから、ね。……じゃあ、またね!」
「あっ……ま、また……ね……?」
私が呼び止める間もなく、絢辻さんは言葉をまくしたてると、そのままほのかな薫りを残して行ってしまった。
「あっ、待ってよー!! せっかく迎えに来てあげたのにー!」
すたすたと早歩きで帰る絢辻さんを、追いかけるさっきの女の人……あれは、姉、なのだろうか。迎えに来た、と言っていたし、それに風貌もなんとなく似ている感じがする。今の夜空に深く溶け込みそうなほどに黒い、サラサラとした長い髪なんて絢辻さんとそっくりだ。
でも……まとっている雰囲気は全然違うような……。
とにかく、私と絢辻さんとの時間は、あの女の人の登場によって意外な形で打ち切られてしまった。
「うう……もしかして、嫌われちゃったかな……」
失言にすぐに気づいて謝れたのは、一応よかった。まあ、もっとも失言しない方が数百万倍マシではあるんだけど……でも、そこはちゃんと私をフォローしてあげないと。絢辻さんのおかげで救われた心を、そうやってわざわざ私の心を私自身で沈ませるなんてことをするのは絢辻さんに失礼だから。それに……。
「関係ない、って言ってくれてたから。大丈夫、だよね」
うん。きっとそうだ。きっと……そう。不安はあるけど、今は絢辻さんの言葉を信じるほかない。
それに……あの人が来た瞬間に、絢辻さんは帰ってしまったわけだし。つまり絢辻さんは……。
「あれ、案外私と同じ、なのかも」
こんなところで、共通点を見つけることができるなんて。私の勘違いかも、しれないのだけれど。
「でも……もうちょっと、絢辻さんのこと……知りたくなってきたかも」
絢辻さんは、遠いようで、実は近いのかもしれない。私の胸の中に、確かに浮かんだ小さな想い。その想いを確かめるように、私は胸のちょうど真ん中に両手を置いた。
コート越しでも確かに感じる、私の鼓動。心地よさそうに、いつもより少し早く打っている。仕事の充実感と、疲れと、そして絢辻さんという新たな興味と。それがちょうどよく混ざり合って、身体に染み渡って。
「明日お休みなのがちょっと残念かも。今の気持ちを忘れないうちに、絢辻さんに会いたかったのに……」
たった一日で、私は変わってしまった。変えられてしまった。でも……。
「悪くない、かな」
この先の帰り道、あの整った横顔を眺められないのは少し寂しい。あの、私を救ってくれた透き通る声を聞けないのはもっと寂しい。
けれど明日、夢の世界の知識を思い切り吸収してしまえば、きっとあっという間に時間は流れてくれるだろう。そして、あさって……。
「また、絢辻さんと仕事をして……」
……ふと、我にかえる。一体、どれくらいの独り言をこぼしてたんだろう、私……!
「ああ、もう! 私ったら、何なんだろう……!!」
これほどまでに熱が湧き上がる日なんて、そうそうない。私の足、動け、動け、早く、もっと早く、前に……!!