数学は嫌いだ。結果も過程も、たった一つが答えだから。
これはこう解いて、こういう答えになる。そこに私の心とか、世界とか、夢とかが入る余地なんて、まったくない。
世界の法則なんて、私の考え一つで変わればいいのに。
……さっきのはさすがに冗談だけど。でも、やっぱり一つに括り付けられるのは苦手。
「じゃあこの問題。絢辻、前に出て解いてもらえないか?」
まだ若い数学の男の先生に促され、完璧な美少女は透き通るような黒い髪をたなびかせ、黒板に向かう。
絢辻詞。私の、憧れ。
先週の土曜日に一緒に委員の仕事を手伝ってから、私は絢辻さんのことを憧れの対象として、はっきりと自覚するようになった。その前までは、信じられないくらいに避けていたのに。
絢辻さんは数学のノートを手に持ち、そこに書かれているであろう自分の回答を見ながら、黒板に、流麗で、華奢で、繊細な筆跡を残していく。
もしあの文字を指でつついたらすぐに崩れてしまう、そう思ってしまうほどに絢辻さんの文字は美しかった。先生の字が無骨な字だから、絢辻さんの字がより儚さを強調させる。
絢辻さんが残す黒板の文字にさえ、私は惚れ込んでしまっているのかもしれない――。
そう、私の脳裏によぎった直後。異変は起こった。
黒板にチョークをこすりつける音が少しずつ弱まっていく。文字を書くスピードが少しずつ遅くなっていく。嫌な予感を察知し、不穏にざわめき出す教室。
そして、絢辻さんの新雪のように白い手が、2という文字を黒板に記す最中。ぴたり、と手が止まったと思えば、まるで芯を突然失ったかのように、絢辻さんの身体がふらりと――。
「えっ……」
絢辻さんが、教壇で倒れた。
--※--
「ごめんね、橘さん。授業中なのに……」
「ううん。気にしないで」
保健室のベッドの上で申し訳なさそうに口を開く絢辻さんを、私は制する。息混じりで、少し辛そうな声色。あんなに完璧だと思っていた絢辻さんが、今私の目の前で弱り、無防備になっている。私はそんな絢辻さんを……
「守ってあげたいから……」
「えっ?」
「な、なんでもないなんでもない!!」
自分の顔の前でワイパーフル稼働。棚町の前でやらかすよりまだましだけど……。
「くすっ。ありがと」
「うっ……なんでもないんだって……」
でも……絢辻さんの笑う顔が見れるのなら、私の変な癖も嫌いじゃない……かな。けれど、恥ずかしいものは恥ずかしいから、話題は逸らす。
「それよりそれより! 具合はどう、かな?」
「大丈夫よ、大したこと……」
言葉を続けようとするも辛そうなせきに遮られる絢辻さん。これは保健室で少し寝たくらいじゃ治らなさそう……それに。
「大したことあるじゃん。目にくまも出来てるし……ちゃんと寝れているの?」
「え……ええ。それは大丈夫、だから……」
ちょっと、表情が曇った? ……気のせいかな。
でも、何度も大丈夫という絢辻さんは、なんだか……私のことを、避けているような……そんな、気がしてきちゃって。
避けてるんじゃないんだろうけど、ほんとは私のことを気遣ってくれているんだろうけど。でも。……そう、思ってしまう私がいた。
昔の私なら、それが好都合だった。
でも、今の――絢辻さんのことをもっと知りたい、今の私は、そんなこと……!
だから。
「私を、見て」
「えっ。……ど、どうしたの? 突然……」
「あっ……」
気持ちが高ぶりすぎたのかも。私は身体を乗り出していて……気がつけば、私の目の前に絢辻さんの顔があった。
「ご、ごめんね絢辻さん。急に、近づいちゃって」
「う、ううん。気にしてないわ」
でも、今は……この気持ち、素直に伝えたい。
けれど、少し距離を取って冷静になってから。私は溢れ出した想いをそのまま口にした。
「でも、何でもかんでも大丈夫って、言ってほしくない」
「え?」
「うん。だって……私も、いるから。絢辻さんの完全な代わりにはなれないし、多分頼りないけど。……でも、私も頼って欲しい」
私は絢辻さんの目をしっかり見た。絢辻さんも何かを感じ取ってくれたのだろう、私の想いを真剣な顔で聞いてくれた。
「……そこまで言われたのは、初めてよ」
「絢辻さん……」
「でも」
私ははっとした。その言葉の続きを、聞きたくなかった。
「……ほんとに、大丈夫だから。心配しないで」
そう言った絢辻さんの顔は、すごく優しく微笑んでいた。なぜだろう、私のお腹の辺りに、何か冷たくて、鋭いものが刺さったような、そんな苦しさを覚えた。
「橘ー、そろそろ授業に戻れって先生が」
「あ、棚町……」
どうやら、授業をサボるのも時間切れみたいだ。保健室のドアから、棚町が呼んでいる。
「ごめんね、絢辻さん」
「ううん。むしろ、ありがとう」
「……元気になってね、それじゃあ」
絢辻さんに精一杯の明るさと笑顔を伝えて、私は保健室を出た。
……私にしては、いい演技が出来たと思う。
「橘、絢辻さんの様子どうだった?」
「えっと……重くはないけど軽くもないって感じだと思う。……多分早退になりそうかな」
2-Aの教室に戻る途中、棚町から絢辻さんの様子について聞かれた。
「なーるほどね。で……なんでアンタが元気ないのよ」
……さすがに、棚町の前では私は演技が出来ないみたい。
「もしかしてもう風邪がうつった? としたら絢辻さんの病気、もしかしてパンデミックを引き起こすかも……」
「違う、違う。それにもしそうだとしたら棚町も危険でしょ」
「あ……うー! げほっげほっ! 急に具合がぁー。これはもしかすると、超危険な病気かもしれないぞー」
「……あはは」
私……なんだかんだ救われてるんだよなぁ、棚町に。