男女が向かい合って座っている。 決して色気のある雰囲気ではない。
場所は公共施設であり、見た目や年齢もバラバラな人々が行き交う。
濃い緑色の床には黄色や赤、白の線があり、線の途中にはそれぞれ『○○課』と書かれている。
男女の間にある白いカウンターの両側には磨硝子性の板があり、となりから二人の姿は見えないようになっていた。
「必要な書類はお持ちですか?」
白いブラウスの上に紺色のノーカラーコート、黒縁メガネをかけた長髪の女性がカウンター越しの男に尋ねた。
「確認、お願いします。」
男は椅子の横に置いていた黒い鞄からクリアファイルを取り出し、中身のA4サイズ10枚程の紙を提出する。
「どちらからのご紹介ですか?」
「ええと、書類に書いてあるはずなんですけど」
「あー… また福祉課の室長さんですか」
男は『また』という言葉を聞いて眉を顰めたが、唇を軽く噛みながら思ったことを口には出さずただ職員が確認していくのを、女性の胸元にある名札を眺めながら待った。
「ここに日付とサインをお願いします。 あと…」
いくつかの記入漏れを指摘されながら、書類確認を終え、話は次の段階に進む。
「ではいくつかの注意事項をご説明いたします。」
女性はカウンターの下から細かい文字でビッシリ書かれた用紙を取り出し、男の目の前に置き、手の平を相手に向けてよく見るように促した。
「先ず食事ですが、ご希望先は入手困難が予想されますので、最低1週間は持つ食料と4リットル程の飲料水を推奨いたします。 ここからが重要でして、先方で入手されたものを摂取された場合、こちらに帰ってくることはできなくなります。 つまり、向こう側のものを食べなければ、手続きは必要ですが帰還することは可能です。」
「…はい。」
男は表情を変えることなく返事をした。
その言葉を確認した女性は説明を続ける。
「言語に関しては、明日から2ヶ月間のスクーリングで『統一言語』を学んで頂いておりますが、研修の終了証明書をお持ちなので、免除となります。
次に…」
説明は淡々と進んでいく。
●
●
●
「 …ご本人確認と、注意事項の説明は以上となりますが、訂正や他にお聞きになりたいことはございますか?」
「いえ、ありません。」
「では来月の… …にまたこちらにお越し下さい。 転出する日の14日前から転出する日までに、転出届を市役所市民課に提出してください。 転出証明書を交付いたします。」
「むこうで転居届は出さなくて良いんでしょうか?」
「転出先で担当者から必要な書類を提示されますので、そこに必要事項をご記入いただくことになります。」
「はぁ… わかりました」
「では、また来月お待ちしております。」
「はい。 よろしくおねがいします。」
―――三十日後、男は転出の手続きをした建物に来ていた。 受付で事情を話すと人気のない奥まった場所にある待合室に案内されてから四十分はまたされている。 パイプ椅子に座り続けるにはなかなかの時間だった、二度は屈伸運動の為に椅子から立ち上がっていた。 男が三度目の屈伸運動をしようと考えていた時、待合室のドアがノックされる。
「どうぞ」
男は一応の嗜みとして、待っていた間にズレたズボンの裾を直しながら入室の許可を言葉にする。
ひと月前に窓口で会った女性が待合室に現れる。 女はバインダーを脇に挟みながら、片手には紙コップを持っていた。
「大変お待たせいたしました。 先ずこちらをお持ち頂けますか?」
女性は水の入った紙コップを男に手渡し、胸のポケットから白い錠剤の入ったナイロン製に見える透明な薬包を出して見せる。
「こちらはただの睡眠薬です。 もし転出直後に気が変わり、こちらの世界に戻られた際に秘密が漏れないようにする為に、飲んでいただく必要があります。 不安とは思いますが…」
「飲みますよ。 その為にこの半年間準備してきたんですから。 身の回りもちゃんと整理しましたから、今更未練はありませんよ… まったくゼロかと聞かれれば…そうでもありませんが」
「お察しいたいます」
男は薬方を受け取り、取り出した錠剤を手の平の上で数秒眺めた後、水で一気に胃へ流し込んだ。 効果はすぐに現れ、認識する間も無く瞳を閉じ、意識は暗い沼底に沈んだ。
○
○
○
どれくらい眠っていたのか、閉じられている筈の瞼ごしに強い光を感じ、男は目を覚ました。
辺りを見回せば真っ白な空間。特殊な光が壁や天井、床から発されているのか影も見当たらない。 壁と天井の境目も見えず、今自分がいる空間がどれくらいの広さなのかもわからず、心臓の鼓動はどんどん強く、早くなっていった。
「先ずは深呼吸をしましょう」
見回すことに夢中で目の前に居た女性に気がつかなかった。 その声の聴き心地の良さから想像した以上の美女、艶のある黄金の長髪、吸い込まれそうな碧い瞳、透明感のある白い肌、絶世の美女とは彼女のことを言うのだろうか。 男はそんな事を考えながら、自分の動悸がおさまっていることに気づく。
「はい… あ、ありがとうございます」
いつの間にか座っていた白い木製の椅子に座り直し、美女を真正面に見据えた。
女性の潤いを湛えた光沢ある唇が開く。
「はじめまして、私は貴方様が転出される世界の管理者代行を務めさせていただいております、カルボと申します。 私達の世界へ転出されるにあたり、こちらで体質転換を行っていただきます」
「体質…てんかん?」
「私達の世界と、貴方様が生きてこられた世界とでは、空気や食べ物の成分から一部の物理法則が異なり、このまま転出された場合、貴方様の肉体は一週間程で壊死してしまいます。 ですので、世界と世界の狭間にあたるこの空間で、時間を掛けて体質を変えていただく必要があるのです」
「へぇ… あ、ああ、はい。 それって、どれくらいかかるものなんですか?」
「三百時間程度です」
「三百時間!? …ええと、二十四時間で割ると… 二週間も? この場所で?」
「はい。 ですので、その時間を使って貴方様には私達の世界の歴史と一般常識を学んでいただきます。」
「一般常識… あなたはとても位の高い人に見える。そんな人物の語る一般常識とは… それに、ここで見聞きした内容を流布する可能性とか…」
「ご安心ください。 貴方様が転出する先、アイテール大陸中央部、フルクァト聖王国で生活し、依頼を遂行していただく上で必要最低限の情報をお伝えいたいますので」
「はぁ… …ん、依頼?」
「聞いておられませんでしたか? もちろん、こちらも時間と労力を使っての転出なので、それなりの見返りは要求いたします。 決して慈善事業ではありません。」
「あ~… まぁ、それもそうですよね…」
「…貴方様に馬車馬のように働いて頂く…とは申しません。 ある人物に関する情報を得られた際に私達にご連絡頂く、これが依頼です」
「ん? …まあ、それくらいなら良いですけど。 でも、あなたや、上司の… 上位者…さんでしたっけ、あなた方の世界を管理されているんですよね? なら人探しくらい」
「その人は、私達から隠れる術を見つけてしまったようなのです。 私達が探している人物… 魔女と読んでいるのですが、魔女は世界の均衡を崩してしまう禁じられた技術、『禁術』を使います…」
女性はゆっくりと、上品な佇まいで椅子から立ち、手を身体の前で重ねながら男から向かって右側へ歩き始める。 進行方向に黒い点が浮かんだと思えば、それが幅四メートル、縦二メートル程の板状に広がった。
カルボが黒板に手をかざすと白い線が文字や絵を描き始める。
「魔女が使う『禁術』は… 伝えられる表現を用いるなら『人の命を代償に行使する強力な魔術のようなもの』と言えるでしょう。 正確には異なりますが、とりあえずそう思っておいてください。」
黒板に描かれた大きな帽子を被った女性とその周りの人間にバツが書かれる。
「私達の世界で言う『魔術』とは、空気中の『魔素』を使い、任意の現象を起こす技術です」
魔術の話を聞いた男に疑問が浮かび、無意識に手を上げていた。
「あの、先生…」
「先生ではありませんが、どうぞ」
「禁術は… 強力な魔術と先程言っておられましたけど…」
「禁術に関する情報は先程お伝えしたことが一般常識の限界です。 これ以上はお伝えできませんし、転出後も必要以上に調べることはなるべく避けた方が良いでしょう。 魔女に関しても、探そうとすればする程遠ざかっていくものです。 貴方様は私達の世界で生きたいように生き、その中で得られた情報を私達に提供してくださるだけで良いのです。」
男は上げていた手をゆっくり下ろし「ノーコメントってことか」と、美しくも恐ろしい笑顔の女性を見て、聞いてはいけないことを聞こうとしていたと背筋に嫌な寒気を感じた。
カルボは微笑みを賢者のそれに戻し、わざとらしく胸の前で手鳴らす。
「そうそう、一度お食事にしましょう。 体質転換を行いながら…ですからね」
「食事… ですか」
「そうですよ。体質転換は食事で行っていただきます。 私達の『魔法』を使って体質を変えては魔女との因果が離れてしまいかねませんから。 原始的な方法で転換していただきます」
男は「食事で体質改善と似たものか」そう自分を納得させながら地面からせり上がってくる机には、もう驚くこともなかったが、視線を女性の方へ戻した時にはその手の上、乗せられていた木製のサラダボウルと、その中身の果物と野菜のサラダに少し吃驚していた。
サラダとナプキンに包まった金属製のフォークが男の目の前、数秒前に現れた机の上に置かれる。
「りんごと…キャベツ?」
「はい、最初ですので、主な食材は貴方様の世界のものを、ドレッシングに少し私達の世界のものを混ぜています。」
男はサラダにかかっている白い液体を匂いからチーズ系のシーザードレッシングのようなものか…と思いながらフォークを使って食材になじませる。 自分の知らないものが混ざっている物体を口にする勇気をじっくりお腹の下当たりで沸き立たせる時間を稼ぐため、思い浮かんだ世間話のような言葉を口にする。
「あの… カルボさんはとてもお忙しいようなのですが、二週間も…その、世界から離れるのは大丈夫なんですか?」
男の問いにカルボは瞳を大きく開きながら逡巡した後、表情を微笑みに作り直してから語り始める。
「問題ありません。 この空間は外の世界と切り離されています。 私と貴方様がアイテール大陸に入るのは、私があの世界を離れてから数秒後程度です。 上位者様がこの空間をそのようにお作りになられましたので」
「へぇ… それなら、ここで身体を鍛えたり、物を作ったりして、時間が足りない作業を間に合わせたりできそうですね」
男の妙案に美女はまるで「その考えを聞くのは初めてではありませんよ」と目が語っているような笑みを浮かべながら返答する。
「…貴方様の世界にも、目的をもって作られた道具がありますよね?」
「え、あ… はい。」
「目的のものを壊すために作られた道具もあれば… 作りたいものを創造するために作られた道具、例えば成形用のカタとか。 もしくはもっと精密なプログラムを持たされたキカイのようなものとか。 それらで目的以外の使い方をした場合、どうなるでしょう?」
「ん~… 、わかりません」
「はい。 ではお聞きします。 この部屋を体質転換と一般常識の勉強以外の方法で使ってみますか?」
「あ、あ~… …ごめんなさい」
男は美しい賢者の大袈裟な上半身を斜めに傾けながらの問いに、この部屋を作った『上位者』とやらへ彼女が向ける親愛と、その部屋に対して失礼な事を言ってしまった自分への怒りのようなものに恐怖を感じ、素直に頭を下げることにした。
「ご理解いただけたようでなによりです。 では、イタんでしまう前にお召し上がりください」
「…はい」
サラダは普通のシーザーサラダのような味と食感だった。
○
○
○
男は三百時間で自分が転出する世界について、ある程度の知識を得ることができた。 この間、ずっと座学、食事、睡眠くらいしかしていなかったが、体力の衰えは感じない。 食事にそういう成分が入っていたのか、『上位者』の作った空間がそういう性質を持っているのかはわからなかったが、青年と呼ばれる年齢になってから暫く経過した脳にとって詰め込まれた情報量は膨大なものだった為、本番を前にしてその整理に意識を集中させていた。
二千年以上前に大陸を一度統一した王様がいて、その王様が死んだ後沢山の国ができたけど今は六大国といくつかの小国でおさまっている。 大陸の西端には強力な魔物が生まれる大穴があって、その周辺が魔界と呼ばれ人が住めない土地である。 魔物は大穴以外でも発生することはあるが、大穴から発生するものほどの強い魔物は生まれにくい。 魔素を利用して任意の現象を起こす魔術と魔素を用いずに欲しい結果をたぐり寄せる医術や錬金術が存在する。 猫の頭を持つ人やドラゴンの肌と精神力を持つ亜人と呼ばれる存在等。土地や組織、有名人の話といったの内容を広く浅く教えられた。
男の目の前には錆止めに緑色のペンキを塗られたような金属製の扉に見える物体がある。 扉にはL字型の取手がついていた。
「もう貴方様の身体は新しい世界に対応できるものになっています。 何も心配することはありませんよ。 ただ、空気中の魔素を吸い込んだ時に若干の違和感はあるかもしれませんが」
魔術に関する才能を持つ者には空気中の魔素が目に見える人もいるようだが、その概念のない世界で生まれた男には『違和感』程度にしか感じられないし、見えることなないらしい。 そんな『よくわからないもの』をいやがおうにも体内に取り込んでしまうことに若干の不安を感じながら、力を込めて扉を開く。
「ようこそ、私達の世界、オルファスへ!」
気がつけば男は地平線を見渡せる小高い丘の上に立っていた。 後ろを振り向くと、そこには何もない。 自分が開けたはずの扉さえ。
「んんっ? く…」
呼吸をしよとすると、空気以外の何かを一緒に吸い込んだ感覚を覚える。 それは目に見えない程細かな粒子のようであり、肺に溜まるわけではなく、そのまま胸から体外に排出されるような感覚。
息を吐けば、その空気と一緒に排出され切らなかった粒子が口から出ていく感覚。
自分の身体に起こっている未知の症状に脳が混乱し、吐き気をもよおしながら膝をつき、短い呼吸を繰り返してしまう。
過呼吸に陥る中、ふと背中に温かく柔らかなものを感じた。
「大丈夫ですよ。 それが魔素、この場所にあるソレは害のあるものではありません。 落ち着いて、ゆっくりと呼吸をしてみてください」
女性の言葉で徐々に落ち着きを取り戻し、呼吸を落ち着かせる。
声をする方向に視線を向けると黄金の絹糸のような髪を丘の風に靡かせる女性が優しい表情で自分の背中を摩ってくれていることに気付いく。
「ありがとう…ございます…カルボさん。 だんだん、目眩もマシになってきました…」
「立てそうですか?」
「いえ… ちょっと難しいです。 足を伸ばさせてもらっても良いですか」
「どうぞ、気を楽になさってください」
カルボの許可を得て、丘の上、芝の生えた地面に腰を下ろし足を伸ばして遠くを見る。 乗り物酔いで気分が悪くなった時のように。
女賢者は立ったまま男に話しかける。
「この世界で貴方様は『アスター』と名乗ってください。 本名のままでは、この世界の住人にとって聞き取りづらいことと、苗字をもつのは王族や貴族くらいなので。 私達から特権をお渡しすることは、過度の干渉につながってしまいますから。 ただし、貴方様が異世界の住人ということで迫害を受けないよう、その身元は聖王国国王バイエル・ボード・フルクァトが保証してくださいます。 」
「何から何まで、ありがとうございます。」
「アスターがこの世界で何を考え、どのように生きるかは特に制限はいたしません。 もちろん、ルールを逸脱しない限り…ですが。 では、そろそろ体勢は直せそうですか? 迎の者が着く頃合いですので」
「あ、はい。 迎…ですか」
アスターは立ち上がり、背筋を伸ばして両手を腰の前で重ねる。
しばらくして、遠くに動く影が見えた。
影はだんだんと大きくなり、その正体を把握できるようになってきた。真上から降り注ぐ陽光を反射する鋼色の全身甲冑に身を包んだ騎士が馬に乗っている。一人や二人ではない、数えれば十名もの騎士と、鎧を身につける二頭の馬が繋がった豪華な馬車。
より近づけば、自分が知っている馬や馬車との違いに気づく。 馬はタテガミに当たる部分が薄緑色の炎が揺らめいているように見え、馬車には車輪がついておらず、地面から浮いていた。 自分が既知していたものと見えているものとの差に混乱していると、その一団は丘の下で止まり、馬車の中からは女性が、そして騎士団ほぼ全員が馬から降り、兜を脱いでから片膝をついた。 一等立派な鎧とトリコロールカラーの帯をタスキ掛けしている男が急ぎ足でアスター達のいる丘の上まで駆け上がってくる。
丘の上に辿りついた騎士は片膝をついてから名乗る。
「賢者カルボ様!お初にお目にかかります! 私聖王国騎士団副団長エミール・ドヴァノアと申します! 御命に従い、転出者のお迎えに上がりました!」
エミールと名乗る男は外見三〇代後半、丁寧に切り揃えられた栗色の短髪で、立派な口ひげを湛えたナイスミドルといった外見だった。 見つめられれば同性でも胸が高鳴る流星のような碧色の瞳を向けられたアスターは自分の頭の位置が本来あるべき場所よりも高いのだと思い、エミールと同様に片膝をつく。
カルボは先程までと口調を変え、上位者として振る舞い始めた。
「ご苦労、エミール。 ではこの者…アスターのこと、よろしく頼みましたよ」
「ハッ! お任せ下さい!」
エミールの返事を聞いたカルボはアスターに優しい微笑みを向ける。
「アスター、あなたの生きたいように生きてみなさい。 人生に『遅すぎる』ということはないのですから」
「はい、カルボさ…様」
「では、ごきげんよう」
賢者が視線を正面に向け、その後方の空間が揺らいでいるように見えた。 アスターはカルボがこの場からいなくなる予感がして、つい先刻疑問に思った口調の変化について聞こうと口を開いた瞬間。 絶世の美女がその艶やかな唇に人差し指を当て、片目を瞑って見せた。 その時、アスターは今まで美人過ぎて異性として意識できなかったカルボに対して、親近感が沸くと同時に一人の女性として認識してしまう。 美女と三百時間もの間、同じ空間にいたことに対し、男として何もしなかった自分自身を心の中で褒めながら叱咤している間に、カルボの姿は霞の様に消えていた。
「往かれたか…」
近くから聞こえた渋い男の声に我に返ったアスターだったが、エミールの次に放った言葉に驚愕する。
「賢者様は天界へと戻られた! もどるぞ!ただし、転出者はここに置いていく!」
「ええっ!?」
アスターは自分より年齢も腕力も地位も上であろう人物の言葉に今まで自分が出したことのないような声を上げて、目を見開くことしかできかった。
副団長は片膝をついっていた状態から中年の男性らしいゆっくりとした動きで立ち上がり、丘の下にいる騎士団員達に目を向けてから、まるで意地悪な少年のような笑顔で口を開く、
「…冗談だ。」
「え? …あ、あ~」
「貴殿が心ここにあらず、といった様子だったのでな。 おおかた、賢者様の美しさに心を奪われていたのだろう。 無理もないが、我々も暇ではない。 早めに立ち直ってもらえるとありがたいんだが」
「すいません。 …つい」
「さあ、行こうか。 日が沈む前に国王陛下と会ってもらわなければならない」
「はい! よ、よろしくお願いします」
アスターは副団長の後に続き、坂を下る。 馬に跨り帰路への準備を始めていた騎士団員達に頭を下げながら馬車に近づくと、その隣に黒髪を後頭部でまとめ、眼鏡をかけた女性と目が合う。 女性はアスターに一礼した後、口を開く。
「車中でのお世話をさせていただく、ラニと申します。よろしくお願いいたします」
「あ、はい。 こちらこそ、よろしくお願いします」
「どうぞこちらへ」
導かれるまま馬車の中へ入ったアスターは驚愕する。 車中は長さ三メートル、幅二メートルはあり、広々とした空間にソファとティーセットが置かれている。 立ち上がっても天井に頭が当たらない程度の高さもあり、窮屈さは全く感じなかった。 こんなものが浮いているのを思いだし、乗る前に底を確認しておくのを忘れていたことを後悔しながら、降りる際に見るのを忘れまいと心に刻みこむ。
[アスター、出発するので席に座ってもらえるか]
社内を見回しているとどこからともなく副団長の声が聞こえた。 隅に目を向けると、拳程度の黒い球体が見えた。
[その馬車ならそれほど揺れたりしないが、動き始める時は少し不安定になる]
「はい、今座ります」
球体から声が聞こえていた。 「座れ」と言っていた為、おそらく球体がスピーカーとカメラ両方の機能を持っているのだと気づく。 問題はモニターが何処にあるかだが、兜型ヘルメットに内蔵されているのか、馬に取り付けられているのか、知識欲を刺激されながらソファに腰を降ろすと、その隣にラニも座る。 普段女性慣れしていない男性には緊張を強いる距離だ。
[出発!]
「お、おぉ… おお~」
エミールの号令の後、徐々に身体が後ろへ引っ張られるような感覚を覚える。 それも徐々に収まると、隣に座っていたラニがアスターに声をかける。
「アスターさん、何か飲まれますか?」
「あー… じゃあ、気分落ち着くきそうなハーブティーとかあります?」
「ご用意いたします」
車内は微妙に揺れ続いていたが、ラニは態勢を崩すことなく淡々とハーブティーを入れてみせる。 若く見えるが、何年もこの仕事を続けているのだろう。
「アスターさん、右の壁にある板の留め具を外してもらえますか?」
アスターが右に目を向けると板が壁に留められており、上部に留め具、下部に蝶番がついていた。構造上留め具を外したら九〇度に倒れてテーブルになるものと理解、言われるままに留め具を外して自分でテーブルを用意する。
数分でアスターの目の前にハーブティーと焼き菓子が置かれた。
「お待たせいたしました」
「ああ、ありがとうございます」
ラニが飲み物を置いたあと、奥の椅子に腰を掛けて窓越しに外を眺めているように見えたので、つられてアスターも外を眺めてみると、景色が恐ろしい速度で動いているのが見えた。 棚の食器や飲み物があまり揺れておらず、自分自身もそれほど不安定さを感じなかった為に気づかなかったが、景色の動きを見るに少なくとも時速一〇〇キロは出ている。
この時アスターは理解した。この世界が科学ではなく、魔術によって別の発展を遂げた世界なのだと。
窓の外で並走する騎士達も、だんだん国賓車に併走するバイクに跨る警備員に見えてきた。 兜はそのままヘルメットであり、その内部に通信機器までついているとくれば、男の好奇心が刺激されないはずはなかった。 …が、アスターが今考えていることは、同じ空間に男女が一人ずつ、会話もなくて良いのか、という気まずさだった。
「あ、あの…ラニさん」
「はい?」
「えっと… エミール・ドヴァノアさんって…貴族…ですよね」
[ああ、自分は歴史は浅いが貴族の出身だ]
「お! あ、すいません、本人がいないところで名前を出してしまって」
女性と二人だけということに緊張し過ぎてエミールと音声や映像が繋がっていることを忘れてしまっていた。
[いや、構わない。 すまないが、運転と警備に集中したいので、ラニ…彼の話し相手になってもらえるか? 皆が知っていることであれば、話してもらって構わないから]
「はい、ドヴァノア様、かしこまりました」
「あ~、なんかすいません」
ラニは椅子に座ったままアスターの方向へ向き直り、エミールの事について語り始める。
「エミール・ドヴァノア様は三代続く騎士の家系であられます。 先の戦争に一兵卒として参加された先々代様が武勲を上げられ、その際に国王陛下から騎士の称号を与えられたのです」
「先の戦争…というと、東の帝国との間に起こったっていう…戦争ですか」
「ええ、聖国と帝国の国境にあたるガガラ山で純度の高い魔鋼の鉱脈が発見され、その所有権を双方が主張したことから起こった…と聞いております」
「なんか、決着のつかなそうな話ですね」
「…そう…ですね…」
アスターの目にラニの表情が曇ったように見えた。 聖国と帝国との戦争は一〇〇年も前に起こった事で、ラニは当然生まれていないものだろうから、この話題を続けても大丈夫だろうと思っていたから意外に感じたが、よくよく考えれば分かることだった。 戦争の爪痕というのは時の流れ程度で完治するものじゃない。 土地や人に見えない傷を残す、関係者が死んでも受け継がれるものはあったろう。 アスターは視線をキョロキョロ動かして、必死に話題を探す。
「あ、あー… この馬車すごいですね! すごく早いのに全然揺れないし!」
「え? ええ、聖国騎士団の公用車ですが、整備や内装は主に副団長が手がけられています」
「…え? 副団長が? 管理職なのに? え、なんで?」
「ご趣味…だそうです。 なので、他の公用車はもっと揺れたり、質素なものですよ」
「へぇ…じゃあ、何故今日はこれを?」
「それはですね…」
[ラニ! …アスター、そろそろ王都に着く、速度を落とすから揺れるぞ]
ラニが何かを話そうとしたが、副団長の声に止められた。 世の中には知らなくて良いこと、知らない方が良いことがあるのだと、アスターは自分に言い聞かせながら「きっと賢者様に会うのに見栄をはろうとしたんだろうな」と自分なりの考察に落ち着く。
少しの揺れとともに景色の動きが緩やかになり、馬車の速度が落ちていくのが分かる。 窓の外へ目を向ければ、自分達意外にも馬車や、馬を繋げず浮いている箱や板に直接人が乗り、移動している姿が見えた。
「異世界…というより、SFに近いのかな…」
アスターの呟きは徐々に聞こえ始めた生活音より小さく、ラニの耳に届くことはなかった。
○
馬車の中に入ったまま、王都の門を抜ける。 道順が異なる為、王都の民家や市場を見ることはできなかったが、その分すぐに王城に辿りついた。
「お待たせいたしました、アスターさん」
馬車が止まり、床が少し左右に揺れた後ラニが先に馬車を降り、アスターもそのあとに続く。 地面に足をつけた瞬間、馬車の底が気になっていたのを思い出して、車体の底面を確認する。 長方形の底面、その四隅に一辺五〇センチ程の四角い、半透明の板が張り付いていた。板にはコードが付いており底面の中央に半球形のタンクのようなものに繋がっていた。 アスターが浮遊する馬車の構造を理解しようと底面を眺めているとラニの焦ったような声が聞こえる。
「アスターさん! お迎えの方が来られましたよ!」
「へ? …あっ」
ラニの言葉に慌てて頭を上げようとして、車体の角に強かに後頭部をぶつけてしまう。 固いモノ同士が衝突する鈍い音が響き、アスターは鈍痛とともに数秒間蹲る。
「大丈夫か? ええと、アスター…だったか」
アスターの耳にラニではない、少し低くしゃがれた女性の声が聞こえた。 痛みに耐えながら顔を上げると目の前に重厚な全身鎧を身に纏う人物が立っていた。気づけば周りの人が皆背筋を整え、手を後ろで組んで静止している。 自分もそうするべきなのか、と察して背筋を伸ばす。
それを見た女性騎士は口元に手を当てクツクツと笑いをこらえていた。
「フフッ… いや、結構。 皆、姿勢を崩せ」
「「「ハッ!」」」
女性の言葉にラニや騎士達が少し力を抜きながらも、真面目な顔つきのまま立ち続けている。
鎧を着た女性は亜麻色のベリーショートヘアと顎から右耳の上まである刃物によるものと思われる傷痕が印象的で、圧倒されそうな力強さを感じずにはいられない紅色の瞳は真っ直ぐにアスターを見据えていた。
「聖国将軍、オーレンス・カチヤノだ。 陛下より貴殿の謁見に同行するよう仰せつかった。 ついてこい」
「はい。 よろしくお願いします」
カチヤノ将軍の身長は成人男性の平均に近いアスターより少し低いくらいだが、背筋が伸び、頭の位置が揺れないところや、その気迫から実際よりも高身長に錯覚してしまう。
「騎士団の皆、転出者の迎えご苦労だった。 以降は私が引き継ぐ、解散!」
「「「ハッ!」」」
将軍は騎士団の敬礼を確認した後、赤いマントを翻しながら反転、金属製の靴底を規則的に鳴らして城の中へと歩を進める。
アスター状況の目まぐるしい変化に白の外観を見ることも忘れ、緊張した面持ちで将軍の後をついて歩く。 馬車の中で同じ時間を過ごしたラニが一緒に来る様子はなく、若干の寂しさを感じながら―――
○
○
○
「…太ったかな…」
首と二の腕、背中と方、太もも部分に礼服を着てからずっと窮屈さ、締めつけを感じながらアスターは呟いた。
フルクァト聖国王城内、第二謁見室扉前。 団体が国王に会う為に広く作られた第一謁見室とは異なる、個人と国王が謁見する用途で作られた第二謁見室。 部屋は狭く、客人と国王との物理的な距離も必然的に近くなるため、信頼を置く人物しか入れない部屋でもある。 その扉の前にアスターとカチヤノ将軍が立っていた。
「この扉の向こう側におられるのが、現聖国国王、バイエル・ボード・フルクァト陛下だ。 くれぐれも失礼の無いように」
「はい。 気をつけま…」
アスターはカチヤノの忠告に返事をしていると、背筋に酷い寒気を感じた。 手は震え、嫌な汗が額から滲み出る。 頭の中心に氷を突っ込まれたように思考がまとまらない。 目の前にある扉の置く、謁見の間とよばれる部屋の中に『大勢の人でないナニカ』が詰め込まれ、その全てがアスター一人を壁越しに睨みつけているような感覚。
自分の生殺与奪権を掴んだ獣を目の前にしてしまったかのような圧力に、呼吸も忘れただただ震えること以外の行動を奪われていた。
「…陛下、転出者アスターをお連れいたしました。 謁見許可を願います」
「…入れ」
将軍が部屋の中にいる筈の人物に入室の許可を得ると、アスターの心身に掛けられた重苦しい束縛が解ける。 強大すぎる恐怖から解放されて膝から崩れそうになるが、カチヤノに脇を支えらえ、何とか倒れずに済んだ。
「あ、ありがとうございます… この部屋の中って、何人いるんですか?」
「…陛下お一人だ」
「そんなはずはッ… いえ、何でもありません…」
「アスターは良い勘をしているな。 長生きしそうだ」
「それって、どういう…」
「オーレンス・カチヤノ将軍、転出者アスター、入室いたします!!」
アスターの質問を遮るように将軍が大きな声を出し、扉を開ける。
カチヤノの言う通り、部屋の中には男性一人だけだった。 重厚かつ煌びやかな白金の鎧、紺色で光沢あるケープ、長くボリュームのある白髪と立派な髭、歴史を感じさせる褐色の肌、目力が強すぎて数秒も目を合わせられない蒼い瞳。 そして数え切れない程の宝石で飾られた黄金の王冠。 正に王の中の王が部屋の奥、大理石のような素材で作られた玉座に座っていた。 しばらくその姿に目を奪われていたが、我に返ったあと部屋の中を見てみれば『謁見の間』というワードからは想像出来ないほど質素で、装飾や調度品の類は無く、鍵付きの棚やテーブル、おそらく会議用に使うと思われる白い板が壁に掛かっている程度。 謁見の間というよりは会議室と言われた方がしっくりくる、そんな部屋だった。
アスターはボッとしていると、隣にいたはずの将軍の背中が見え、自分もそのあとに続き、将軍が片膝をつけば、己もそれにならってカチヤノの少し後ろで片膝をつき、頭を下げる。 ふと地面を見ながら心の中で「扉を閉めるのを忘れていた!」と後悔していると、背後でバタン!と扉が閉まる音が聞こえた。 誰かが閉めてくれたのか、自動で閉まる仕組みになっていたのか、そんなことを考えていると、アスターの耳に低く、そして重い力を持った、それでいていつまでも聞いていたくなるような、王たる声が聞こえる。
「面を上げよ」
先にカチヤノが頭を上げ、アスターがそれに続く。
国王は真っ直ぐにアスターを見つめていた。 部屋の外で感じた沢山の「意思」のようなものの正体は間違いなく、国王一人が発していたものだった。 ただし、それが何代も続く国の首長とはそういうもの…という理由だったのかは、アスターの中で答えがでることはなかった。
「将軍、書簡をこれへ」
「ハッ!」
アスターは事前に教えられた通り、隣で膝をついている将軍に『転居届』を渡し、それを将軍が国王へ渡す。
王は書類に目を通した後、その場で国璽を押した。
印璽をされた転居届を将軍が受け取り、再びアスターの横で片膝をつく。
「アスターはフルクァト聖国の国民として、このバイエル・ボード・フルクァトが保証する。 以降、聖国民として相応しい振る舞いと言動を心がけるように」
「はいッ! あ、あり… がとうございま…す!」
あまりの緊張に吃ってしまいながらの返事だった。
「うむ。 では次の者を待たせているでな、下がるが良い」
「「ハッ!」」
最後に国王から優しい微笑みを向けられ「この人の下で働いてみたい」と一瞬思いながら、謁見の間を後にする。
廊下に出ると、深い黒と紺糸のローブ姿三名と擦れ違う。 三人の人物は第二謁見室の扉に向かい「宮廷魔術師のベスタにございます。入室の許可を」と言い、アスター達と同様に謁見室に入っていった。
隣に立っている女性の方へ視線を向けると、カチヤノも魔術師達の方へ視線を向けていた。 その表情は複雑過ぎて、何を考えているのかは読み取れなかったが、決して好意的なものではないと感じられた。
「将軍…どうされました?」
「あ、いや… なんでもない。 さ、出口まで送ろう」
「はい、よろしくお願いします」
カチヤノは一つ呼吸を整えた後、表情を直してから出口へ向かって歩を進め始める。 その足音は律儀で、自分自身を型に嵌めて規則正しく生きようとする人間の生き方を表しているように感じられた。
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「これが貴殿の身分証だ」
王城正門前、アスターは将軍から手の平大の硬質な札を手渡された。
「身分証…ですか」
「そうだ。 紛失しても再発行できるが、お金がかかる上、即日発行できるわけではない。 その身分証を使って支払いもできるから、無いといろいろ不便だぞ。 聖国国立中央金庫に貴殿の名義で講座が作ってある。 そこに一年は遊んで暮らせるだけのお金が入っているから、当面の活動資金にするといい」
「…そんなに! 賢者様から、特権はないとか、干渉し過ぎるのは良くないとか言われてましたけど…」
「一年なんてあっという間だぞ。 そのお金は賢者様絡みということで、祭事費から予算が出ている。 王都の一等地でもなければ、店を開くこともできるだろう。 賢者様から何かを依頼されているのだろう、最終的にその目的を果たしてくれれば問題ない」
「至れり尽せりで、恐縮です…」
「今日宿泊する宿には連絡してある。 これが王都の地図、赤い丸をつけているところが、その宿。 わかりそうか?」
「今ここで… はい、大丈夫だと思います」
「それと、大陸全体の地図も渡しておく。 賢者様からどんなことを依頼されているのか、その詳細は教えられていないが、この世界に関わることなのだろう。大陸の地図も持っていて損はなかろう」
「何から何まで… ご親切にありがとうございます。厚意に報いることができるよう、頑張ります」
「ん、それで良い。 では、私はまだ仕事を残しているのでな、ここで失礼する。 また、何か困ったことがあれば、私か騎士団を尋ねると良い、出来る範囲で力を… いや、あまり干渉し過ぎるのも良くないと陛下から言われている。 …なるべく自分で頑張ってくれ。 だが、どうしても… ど~~しても、という時には我々を頼ると良い。 貴殿の判断に任せる」
「はい。 その時はお願いします。 ではこれで、将軍もご無理のないように」
「ん、達者で」
おそらく世話好きな将軍に見送られて、傾きかけた日の光を浴びながら異世界転出後最初の自由行動となった。
アスターは真っ直ぐに宿泊先へ向かわず、少し市場を見てから宿に向かおうと考えながら、新しいものばかりの世界に胸躍らせて、大事な一歩を踏み出した。
迷った…