迷宮演義   作:AD

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太師、降り立つ。

 

 

 

 「何が、起こった?」

 

 後一歩、足を後ろへと踏み出すだけで時代が変わるという刹那の時だった。

 世界が震えたと感じた瞬間、彼は先ほどまで己が立っていた崑崙山と金鰲島の成れの果てなど何処にも見えぬ、見渡す限りの茶色い荒野に立ち尽くしていた。

 霞んだ目ですらそうとわかる程の、ありえない光景に対する違和感に困惑する心を抑える事ができなかった。

 

「……新手の宝貝か? 今更私を捕えたところで何ができるとも思わないが」

 

 元より満身創痍もいい所だ。

 十二仙や元始天尊……飛虎に、太公望。各々並の相手ではなかった。

 立っているのがやっと、むしろ立てているのがおかしい程の疲労感が全身を包み込んで、今にも私を押しつぶそうとしている。

 それぞれの戦いに際して、万全の状態であればなどと言い訳をするつもりなどなかった。

 そう、負けたのだというその結果にだけ、意味がある。

 

「…………ここで立っていた所で、何があるわけでもない、か」

 

 最早歩く事すら困難を極めるが、何もせずに死に行くのはそれ以上に耐え難い。

 己が信じた道のために、数多の者を手にかけた自分がそのような最期を迎えてしまえば……その者達に対して申し訳が立たない。

 何があるのかは分からぬが、何もせずに封神されるよりは遥かに良い。

 

「うむ……?」

 

 無意識に頷いて動いた視界の端。

 今にも崩れ落ちそうな足の傍には、黒い……布? いや、人……女、か?

 

「この至近距離で気づくのが遅れるとは、これはいよいよだ」

 

 …………ふむ。

 息はあるが意識はなし、か。

 最期となるだろう荒野に放り出され、傍に行き倒れとは、何とも。

 そうか――――最期、最期か。

 最期くらい、人助けというのも悪くはなかろう。

 このような荒野で、なおかつ今の私にできる事なぞ、精々がこの女を日陰に連れて行く程度だろうが。

 

「く、おっ……!? ふ、ふふふ、はは……!」

 

 女を一人背負うだけで手一杯とは。

 漏れ出した苦悶の声に、自嘲。

 幸いにして、霞んだ目でもわかるそびえ立った岩の陰まではそう遠くなさそうだ。

 とは言え、これは厳しい道のりとなる。

 しかし…・・・決めたのだ。あの岩まで辿り着く、と。

 最早悠長に選択肢を選んでいるような余裕など無いのだから。

 ならば動くのみ。

 力の限りを尽くしても足を引き摺ってしまうとはいえ、まだ動く。感覚も有る。

 かつて体が壊死する程に肉体を鍛え抜いた事を思えば、できぬはずが、無い。

 

「あぁ、お前、私を助けるのかね?」

「!?」

「いやぁ、そりゃあありがたい事だ。全く以ってありがたい事だ」

「……残念ながら、こちらはそう長くもたないだろう」

「あぁ、そうか、そうだ、このにおいは血か。なんだお前、死ぬのかい?」

 

 一歩踏み出した瞬間、担いだ女から漏れた小さな声。

 あっさりと心の内をさらけ出すような言葉だったせいか、私の心へ警鐘を鳴り響かせる事なく、するりと『そういうもの』だと納得させる不思議な声だった。

 ……仮に悪意があった所で、最早それに対して私が何かできる状況でもない。

 一つ歩みを進めるだけで体中から力が抜け落ちていく感覚からして、日陰まで辿り着くのがやっとだろうから。

 

「これまで天界からそれなりに『人』を見てきたつもりだったけどね、いやはや、お前はその中でも飛び切りだ」

 

 ざくり、ざくりと荒野を踏みしめるようにして歩くだけで、今にも膝が崩れ落ちそうになっている。

 言葉を返す余裕などなかった。

 

「体は文字通りの死に体だと言うのに、魂はこちらの『目』が潰れそうな程に輝き続けている」

 

 まるで耳元で囁くかのようなその声が、するりと耳に滑り込んでくる。

 遠い昔、穏やかであれた昔日を想起させる声だ。

 

「最早私が何を言った所で、お前には最早関係の無い事柄として受け取られるのだろうか…………さぁ、日陰まで、もう少しだぞ?」

「わかった上で、声を掛け続けるか。中々にいい性格をしている」

「おや、まだ喋れたのかい? お褒めに預かり恐悦至極。じゃあ、もう少しだけ頑張れるように目標を明確にしようじゃないか」

 

 背中から何かを探している気配がする。

 何が出てこようと、今さらだ。

 斃れ、封神されるという結果は覆せない。

 

「そう、影へ向かえ。ひたすらに、ただひたすらに。あの影に入るまでが遠足だよ? そうさなぁ……そこからを、私の領分としよう」

「いいだろう。……ああ、いいだろう! そこが私の終着点だ」

「相も変わらず、人の子の最期はまるで蝋燭の炎のようだ。いやはや、こちらの目を焼き潰すつもりかな?」

 

 後十歩。

 もはや無駄口を叩く余裕すらも無くなってきた。

 

「そうさなぁ、ここらで一つ、断っておこうか。私は『人の子』じゃあない」

 

 後五歩。

 ごそり、と背負った女が何かを取り出したのを感じる。

 宝貝か、さもなくばただの短剣か。

 どちらにせよこの私を封神するには余りある。

 

「当然、魔物でもない。見方によっちゃあ魔物の方がよっぽど上等かもしれんがね」

 

 後一歩。

 

「皆は私に言うよ。――――死にたくない、助けてくれと。精一杯の願いを込めて、そう私に言うんだ」

 

 ざり、と

 

「そして私は私の力の及ぶ限り、それを成してきた。そんな私の前で死に体を晒したんだ。お前さん、そう簡単に死ねると思うなよ?」

 

 最早黒と白しかわからぬような目で、岩陰へ踏み入ったのだとかろうじて理解できたのは幸いだ。

 我を通して逝けるとは、中々どうしてやるものだろう?

 あぁ、そうだ、最期の自己満足だったが、どうだっただろうか?

 飛虎、お前は、どう思う?

 

「さぁさ御覧じろ、あのクソ爺から続く医の神髄。なぁに、こちらへ持ち込めた薬と私の技にかかれば……あ、ちょっ、待っ……ヤバくね?」

 

 …………

 

「ええいここまで根性を見せたんだ、生き抜いてみせろよ人の子よ!」

 

 ――――はは、死に際の相手を叩いて起こそうとは、何とも。騒がしい最後だ。

 

 

 

 

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