われても末に、逢わむとぞ   作:ろっくLWK

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1.鎧塚みぞれ

 ピピピ、と鳴り出した目覚まし時計に手をやり、アラームを切る。そのままむくりと起きあがったみぞれはまず正面に腕を突き出し、次にそれを頭上にまっすぐ掲げて大きく伸びをした。

 ゆうべは久々にぐっすりと眠れたような気がする。窓の外では薄ぼけた朝焼けの空にスズメたちが鳴き声を響かせているが、それでも普段起きる時刻よりはずっと遅かった。セミの声は、聴こえない。彼らの季節はもうすぐ終わろうとしているのだろう。

 被っているシーツからは嗅ぎ慣れたにおいがするのに、その肌触りには違和感を覚える。それもきっと、自分があっちでの生活に慣れてしまったから。そんなことを考えつつもぞもぞとベッドから這い出て、立ち上がったみぞれは己の全身を姿見に映した。いつもより自分の表情は柔らかい。それはきっと、これから楽しいことが待っているから。そんな想いに胸をさわさわとくすぐられる。寝ぐせでぼさぼさになっている髪の毛を軽く撫でつけ、それからみぞれは、自室のドアを開けた。

「おはよう、みぞれ」

 リビングに入るとすぐに台所奥から朝の一声が届けられた。おはよう、と返事をしつつみぞれは台所へと向かう。何かの焼ける「ジュウ」という音と香ばしいにおい。台所では既に朝食の用意が始まっていた。最初に目に飛び込んだのは、高い位置で結わえられた黒い髪の後ろ姿。短めのポニーテールがポンポンと跳ねるその光景を目の当たりにして、思わず唇の端から吐息が漏れてしまう。

「もしかして、そろそろ出る時間?」

「まだ大丈夫」

 戸棚からグラスを一つ取り出し、蛇口をひねって水を注ぐ。グラスを満たす透明な液体の中では、小さな泡がガラス玉のようにきらきらと淡い輝きを放っていた。その一つひとつが映し出す景色を、みぞれの視力ではうまく捉えることができない。そうしているうちに泡は一つずつ弾け、水の中へと溶け込んでいった。グラスのふちに口をつけ、くいと傾ける。渇きかけていた喉の奥にたくさんの冷たい潤いが流し込まれ、ボンヤリしていた意識がそこでようやく覚め始めるのを感じる。

「出来た。さあ、お迎えが来る前に朝ごはん済ませちゃおうか」

 目の前のポニーテールがくるりと翻る。そこにあったのは、いつも通りの穏やかな笑みを湛える母親の顔だった。

 

 

「今日は何人で出掛けるんだっけ」

「四人。希美(のぞみ)と、あと二人」

 おみそ汁のお椀をテーブルへ置き、みぞれは母に応える。支度を終えた母は髪を下ろし、ちょうど対面の席で目玉焼きの上に箸を踊らせていた。こうして母と食卓を囲むのも、大学進学と共にみぞれが一人暮らしを始めてからはすっかりご無沙汰になっていた。けれど、そのことには特になんの感慨も無い。実家には定期的に帰っているし、都度連絡も入れている。家族とはいつでもつながっている。そのことを、みぞれは改めて認識していた。

 器用に黄身を避けつつ白身を一口大に切り分けていく母と、つぶれた半球から広がる黄身に浸された白身を箸でつまむ自分。血のつながった親子なのにどうしてこうも違うのだろう。こんな母をもっとずっと小さい頃から真似していたなら、今ごろ自分はもう少し器用な人間になっていたのかも知れない。けれどそれはきっと、自分そのものじゃない。みぞれはほかほかと湯気の立つご飯を口へと運び、小さな白い粒を奥歯でよく噛み締める。

「今日迎えに来るのって、希美ちゃん?」

 ううん、とみぞれは母の問いに首を振る。

夏紀(なつき)が来てくれる」

「夏紀、ちゃん?」

 いぶかしげな反応を示した母に、あ、とみぞれは思う。母の前でその名を出すのはこれが初めてのことだった。

「高校の時に同じ吹部だった子。希美たちと同じ大学に通ってる。あと、高校の同級生で、」

「そうなんだ。その子も高校からの友達?」

「うん。三年間おなじクラス」

 改めて説明しようとすると、どうにもしどろもどろになってしまう。どうせならば「夏紀とは中学も同じ」とでも付け加えた方が母にはもっと伝わりやすかっただろう。口頭で何かを表すのは昔からあまり得意ではなく、何かを喋る度についつい言葉足らずになってしまう。けれどそのことに気付くのはいつだって、口を開いてからずっと後のことだった。そう、例えば、あの時だって。

「良かった」

 そこで母が緩やかな吐息を洩らした。どうして? とみぞれは母に尋ねる。

「みぞれが高校でたくさん友達作ってたんだなあ、って思って」

 感慨深そうに目を伏せた母は箸を置き、そのまま湯飲みに手を伸ばしてお茶をすすった。母の言わんとしていることは、何となく分からないでもない。話題にのぼるか実際に家へ来たかして母が存在を認識していたのは、希美と優子(ゆうこ)、あとは何人かの後輩たち。それだけ。だから母が他の子たちの存在を知らないのも無理の無いことだ。とはいえ今みたいに言われるのも何となく信用されていないような気がしてしまって、それはそれでちょっぴり面白くない。

「お母さんは心配し過ぎ」

「そう? ふつうだと思うけど」

 湯飲みにもう一度口をつけ、それから母親はふわりと包み込むような笑みを浮かべた。

「だって娘のことだもの。心配ぐらいするよ、どこにいたって」

 

 

 

「やー、それにしてもびっくりした。みぞれってお母さん似なんだね」

 自分へと向けられた声に、みぞれはゆるりと車窓の景色から視線を外す。

「玄関開いた時、一瞬気付かなかったわ。あれー、なんか今日のみぞれ美人過ぎない? ってさ」

 声を掛けて来たのは夏紀だ。彼女はこちらを向かぬままで会話を繰り広げている。それもそのはずだ。自分たちが乗っているこの車、それを運転しているのが夏紀なのだから。

「思わず想像しちゃったよ。みぞれがもっと大人になったらこんな風になるのかなー、って」

「そんなことない」

「いやいや、そんなことあったって。なんかこう、儚いカンジがそっくりっていうか――」

「バカなこと言ってないで、アンタは運転に集中しなさいってば。こっちが怖いから」

 夏紀の隣、つまりはみぞれの目前にある助手席からキンと響くお説教。背もたれの上からはピョコン、と良く見慣れた黄色いリボンがはみ出ている。時折前方へと視線を送りつつ背もたれから覗かせたその横顔は、言うまでもなく優子のものだ。

「免許取りたての初心者なんだってこと、忘れないでよね。話に夢中になって事故ったりしたらシャレになんないでしょ」

「私がそんなヘマするわけないって。アンタじゃあるまいし」

「どうだか。さっきだってみぞれん家に来る時、大通りでの転回でもたついてたじゃない」

「もたついたんじゃなくて安全運転してるだけですから。大体、バック駐車でポールにこすった優子サンには言われたくありませーん」

「それは教習所での話でしょ。それにこすったって言ってもホントに軽く触った程度なんだから。ちゃんと免許取った今じゃ、あんなのノーカンだし」

「おん? じゃああっちに着いたらアンタが駐車やってみる? もしぶつけたら修理代はトーゼンそっち持ちで」

「そっちこそ、駐車に自信無いからそんなこと言い出したんじゃないの? もしぶつけそうで怖いなら、しょーがないから私が代わってあげるけどぉ」

 かしましい二人の会話もいつも通りで、みぞれはこっそりと安堵する。車のサイドウインドウに映る宇治の街並みは、まだ早朝ということもあって静謐な眩さをひっそりと湛えていた。見慣れぬ街の風景をしばらく通り過ぎ、幾つかの大通りを経て入り組んだ市街地にまで至ると、前方に見えるコンビニの辺りからははっきりと土地勘があった。そこの角を曲がって緩やかな坂を少し上っていった、その先には。

「ほら、着いたよ」

 かちかち、とウインカーが一定のリズムを刻む。路肩に車を停めた夏紀は優子と二人、先んじて車を降りていった。私も行かなくちゃ。シートベルトのバックルを外すのに多少もたつき、それからゆっくりとドアを開けると、むわりと温まり始めた外気がみぞれを出迎えた。

 二階建てアパートの階段を小走りに駆け上る最中、僅かに覚えた息苦しさ。いや、それは走ったせいではない。いつだってこうだ。緊張。期待。そして、微かな不安。あの子と会う時はいつも同じ気分になる。けれどそのことを不快には思わない。今はただ彼女に会える喜びの方が、ずっと勝っているから。

 階段を上り切ったみぞれは、目指すべき部屋へとまっすぐに焦点を合わせる。玄関の前には既に夏紀たちがいて、どうやら部屋のチャイムを鳴らした後らしかった。ガチャリ、と緩やかに開いた玄関扉。そこへ向けて夏紀が挨拶を投げ込む。

「おはよ――って何だ、すっかり準備万端って感じだね」

「そりゃもう、今日が来るのをずっと楽しみにしてたからさ」

 扉の開き口はこちらから見て反対側にあった。夏紀に応えた彼女の快活な声は聞こえど、その姿は扉に遮られてここからでは見えない。

「それじゃ行こうか。って、みぞれは?」

「今こっち来てるとこ。みぞれー!」

 優子に名を呼ばれるまでもなく、みぞれはそこに向かって歩みを進めていた。ゴロゴロ、と扉の向こうから何かの転がるような音。みぞれがそこに辿り着くのと玄関の扉が閉まったのは、ほぼ同時だった。

「おはよう、みぞれ」

 耳がひとりでにぞくりとする。姿を現した希美は昔からずっとそうであった通り、目いっぱい膨らんだ蕾のような瑞々しい笑顔をみぞれに見せてくれた。

 

 

 

「それじゃ荷物は後ろに積んでよ。あ、頼んどいたアレは中の方にね」

「はいはい」

 夏紀に返事をした希美が車のバックドアを開ける。希美の荷物は自分のそれと比べて随分と多く、底に車輪のついた淡いピンク色のキャリーケースに紫紺(しこん)色のショルダーバッグ、それとどこにでもありそうなトートバッグを抱えていた。これに勝るとも劣らないのは優子の荷物だ。先に積まれていた彼女の荷物はボストンバッグ一つだけなのだけれど、中身がパンパンに詰め込まれたバッグの容量はかなり大きい。そんな彼女たちとは対照的に、みぞれと夏紀の荷物はコンパクトにまとめられていて、おおよそ優子の半分ほどのサイズしか無かった。

 そんな自分からしてみれば、希美や優子の行動原理がもう一つ分からない。これだけ手荷物が多かったら、いちいち積み下ろす際にも相当に苦労を強いられてしまうことだろう。こういう時に、あれもこれもなんて持ち出す必要は無い。みぞれ自身はそう考えていた。

「中に持っていくの、どれ?」

「うん? コレだけど。ごめんみぞれ、コレ持っててくれる?」

 希美に頷くと、それじゃお願い、と希美がこちらにトートバッグを差し出した。受け取ってみるとずしりと重たい感触。果たして中には何が入っているのやら。

「それ持って先に乗ってて。私もすぐ行くから」

「わかった」

 返事をして、それからみぞれは改めて自分たちの乗る車をしげしげと眺める。ここまで自分たちを運んでくれた夏紀のマイカー。それはどうやら中古で買ったものらしく、黒々と艶を放つボディは、よくよく見れば小さなキズや凹みがあちこちに見つかった。さして車に詳しくもないみぞれには、車種やメーカーなど詳しいことはさっぱり分からない。四人乗ったらたちまちギュウギュウになってしまうほど小型で、卵のように丸っこい形をした車。正直を言えば夏紀にはちっとも似合っていないとは思うのだけれど、その車のデザインは可愛らしくて、嫌いじゃなかった。

 ドアを開け、さっきと同じ助手席後ろの座席へと乗り込む。少し硬めな後部シートの座り心地と窮屈さは、けれど却って寛ぎを覚えるものがあった。ほどなくして希美の荷積みも終わったらしく、バタン、とバックドアが閉まる。続けてみぞれの反対側、つまり運転席後部のドアを開けた希美がみぞれの隣に腰を下ろした。彼女の肩には手のひらサイズよりは少し大きめのバッグが提がっている。

「こっちはオッケー」

「忘れ物ない?」

「ありません! みぞれ、さっきのバッグ貸して」

 言われるがまま、みぞれは大事に抱えていたトートバッグを希美に引き渡す。中身をがさごそと掻き回した希美は、そこから取り出したいくつかのペットボトルを夏紀たちへと差し出した。

「言われてたジュースもこの通り。保冷材でキンキンに冷やしてあるから、優子もみぞれも好きなの選んで」

「ありがと希美。それじゃ私はほうじ茶で」

「こっちはカフェオレちょーだい」

「はいはい。みぞれは?」

「サイダー、ある?」

「もっちろん」

 得意げに、希美の手がバッグの中からボトルを引き抜く。白を基調に濃いグリーンでアクセントされた爽快感たっぷりのラベル。それはみぞれの一番お気に入りの炭酸ジュースだ。

「ちゃんと用意しといたよ、みぞれの好きなヤツ」

 その一言に、しゅわあ、と胸の中を甘い刺激が突き抜けていく。まだジュースを飲んでもいないのに。

「飲み物も行き渡ったね? そんじゃ行くよー、出発進行!」

「おー!」

 車内に全員の鬨の声が響く。

 高校の同窓生同士、車での遠出。それは初めての、四人だけでの旅行だった。

 

 

 

 

 

 

 発端は数カ月ほど前。希美からもたらされた突然の連絡、そして彼女の看病をしに行ったみぞれが、逆に風邪に倒れてしまった時のこと。

 希美から連絡を受け駆けつけてくれた優子と夏紀は、身動きすらできなくなったみぞれを見てこんなことを口走っていた。

『こんなことになるなら、免許ぐらい持っとけば良かった』

 結局体調が持ち直すまでには更にもう一日かかり、その間希美にたっぷり看病してもらえたみぞれは大層ご満悦だったわけなのだが、その間一緒に付き添ってくれた優子と夏紀にとってはそれでは済まない話だったらしい。果たしてその思いは希美も同じだったようで、ほどなく彼女たちは近場の自動車学校へと通い始めた。三人揃って無事に免許を取った、という報せがみぞれの元に届いたのは、ちょうど先月の終わりぐらいのことだ。 

 せっかくだし、記念に四人でどこか旅行にでも行こう。そんな夏紀の提案にみぞれたちも賛同し、それぞれに予定のある中でスケジュールを合わせて出掛けることにしたのが今日、夏休みも残り数日というこのタイミングだった。ちなみにみぞれは大学以外にサークルの活動もあったし、何より元々車の免許を取るつもりも無かったので、自動車学校には行かなかった。自分には車の運転なんてできない。みぞれはそのことを確信していた。

「それにしても、今年の夏はヤバかったよねぇ。酷暑続きでダウンするかと思ったよ」

 などと言いながら、希美がその手に持つカメラを運転席へと向ける。車内に持ち込んだバッグに入っていたそれを、希美は車が動き出すと同時に取り出していた。レンズの部分が大きく隆起した、みぞれのコンデジよりもだいぶ高級そうなカメラ。それにはきっと彼女のこだわりが詰め込まれている。

「希美がそれ言うの、冗談に聞こえないからやめてよ。ところでさっきからカメラ向けっぱなしだけど、何か撮るつもりなの?」

 助手席の優子が希美へと首を巡らせる。

「ん? 何撮るっていうか、現在進行形で撮影中だよ。これ動画モードもあるヤツだから」

「はあ?! ちょっと、動画録るなら録るって言いなさいよ」

「旅の思い出録っときたくてさ。なんて言うかこう、被写体のありのままの姿を映したい、みたいな?」

「だからって勝手に録るなって言ってんの、ヘンなの映ってたらマジ最悪だし」

 ぶうぶうと文句を垂れる優子に、そんなこと無いから、と希美は軽やかに笑う。

「おやおや、優等生の優子ちゃんはそりゃー不味いですよねえ。気付かず録画されてたら全部暴露されちゃうもんね、普段ネコかぶってることとか」

「ネコなんかかぶってませんー。ってかそういう下らない問題じゃなくて、プライバシーとかそういう意味のコト言ってんだってば」

「プライバシーも何も、この四人だけで録って観るだけの動画だったら別に気にする必要なくない? 私は録られて困ることなんて何も無いし」

「あーハイハイそうですネ。アンタみたいにデリカシーのない人間なら確かに気にしないはずだわ。けど、私とかみぞれみたいに一般的な感性の持ち主は気にするもんなの。ねえみぞれ?」

 やにわに話を振られ、みぞれは口をつぐんでしまう。正直を言えば夏紀と同じく、何を撮られようが特に困ることなんて無かった。撮影をしているのが希美なら、尚更。

「えー、みぞれだって平気だよね。あ、それとももしかして、黙って撮られるのイヤだった?」

 改めて希美に問われ、みぞれの心臓がぎゅるりと短く跳ねる。

「……イヤじゃ、ない」

「ほら、みぞれもこう言ってるし」

「ちょっと希美、今のはズルい。アンタがそんな訊き方したら、みぞれだってそう答えるしかなくなるでしょうが」

 とにかくカメラ止めなさい、という声と、カメラを止めるな! という嬉々とした叫びとが、前席の間で飛び交う。流石にどうしたものかと表情を曇らせかけた希美を見て、みぞれはそっと、優子の肩に手を伸ばした。

「ほんとうにイヤじゃないから。優子もいっしょに映ってくれると、うれしい」

 優子の体がピクリと震える。ややあって、ハア、という大げさな溜め息と共に、優子のリボンがプイとそっぽを向いた。

「勝手にしなさい」

 良かったぁ、と希美が胸を撫でおろす。優子はまだ納得し切れていないのかも知れないけれど、彼女が自分の気持ちを察してくれたと感じて、みぞれもまたホッとしていた。

 こうして一行を乗せた車はやいのやいのと賑わいつつ、目的地に向け順調に進んでいく。京都の市街地から南に下ること数十分、背の高い木々に覆われた長い道へと至る。夏紀の解説によればここは『どんぐり街道』と呼ばれているらしい。どうしてどんぐりなのかを考えているうちにそこを抜け、再び建物の並ぶ街の中へ。「みぞれ、このへんが奈良だよ」と優子のナビゲートを受けつつ、見送る車窓の景色はさらに変化していく。

「こっからちょっと有料区間だけど、ここの料金は私が持つから」

 そう告げた夏紀の足元で『ポーン』と何かの機械音が鳴る。目前に迫ったゲートはタイミングを計ったようにスルリと開き、車はノンストップで料金所を通過した。エンジンの音が少し大きくなり、それと共に速度を増した車体が、魚の群れのようにひしめく他の車の流れにすんなりと混ざってゆく。

 希美の家を出発してから既に一時間あまり。この間、みぞれが夏紀の運転に恐怖を感じることは全くと言っていいほど無かった。免許を取ったばかりであるにも関わらず、夏紀の運転は相当に上手い。必要以上にスピードを上げることも決して無ければ、ふらついたり急減速を掛けることも無く安定している。友達を乗せているからというのもあるのだろうが、まるで夏紀の全神経が車体と繋がっているみたいに隅々まで気を配られている、とでも言うべき丁寧さだ。カーブを曲がるときでも体が左右に振られることはほとんど無くて、ハンドルを握る夏紀の凛々しい横顔は頼もしさすら覚えるものだった。その安心感とエアコンの利いた車内のほど良い涼しさが、みぞれの全身をゆったりと包む。

 移ろう景色を眺めていた視界が、徐々に小さくなっていく。折角の旅なのに、景色を観ないのはもったいない。そんな風に思ってはいても、じわじわと広がってくる眠気に最後まで抗うことは、できなかった。

 

 

 

 ――みぞれ。

 その呼び声に応じて、みぞれは雲の中を泳いでいた。声は方々から聞こえてくる。一体どこにいるの。こちらからの問い掛けに、彼女は答えてくれない。雲の中は夕日の如く真っ赤で、あたかも周りの全てが燃え上がっているみたいだ。熱さは感じない。けれどそれと同時に、身体の重さもまるで感じられなかった。ふよふよと漂う風船のようにそこへ浮いているばかりで、いくら手足を動かしてもちっとも前へ進まない。それでもみぞれは泳ぐ。ただ一心に、声のする方を、それだけを目指して。

 ――みぞれ。

 声が近付く。こっちだ。きっとこっちにいる。そう思った途端、ふわふわしていた身体がジェットコースターみたいに凄まじい勢いでそちらへと進み出す。いや、引っ張られているのか? どっちなのか判然としない。でもどっちでも良かった。行きたいところへ、あの声の元へ、少しでも早く辿り着けるのなら。速度はぐんぐん上がっていき、雲の壁が切り裂かれて両脇をすり抜けていく。目指す先は、あれだ。そう直感し、みぞれは顔を上げる。

 

 

「みぞれ」

 

 視界を埋め尽くす、強烈な、光。

 

 

 

 

「そろそろ着くって。起きなー、みぞれ」

 んう、と喉の奥から間の抜けた音が漏れる。ゆるゆる目を開けると、窓の外から強烈な日差しが自分の顔目掛けて突き刺さっていた。おもむろに目をこすり、それからみぞれは声の出どころを向く。

「希美、」

「起きた? みぞれ、ずっと気持ちよさそうに寝てたよ。よだれ垂らして」

 眼前の希美はカメラを構えたままの姿勢でこちらを見ていた。カメラの録画ランプは、しっかり点灯している。

「……録ってたの?」

「え、うん。あんまり気持ち良さそうな寝顔だったから、これも旅の記念に良いかなーって」

 ギョロリとこちらを覗き込む大きなレンズ。先ほど希美は「よだれ垂らして」と言っていた。ということはつまり、その光景はばっちりカメラに記録されている。ぐわり、と体の芯から湧き上がる羞恥の念。フレームに収めた希美の記憶からその模様が忘却されたとしても、デジタルの記録はいつまでも色褪せることは無い。

「――もう」

 苦悶の呻きはそんな音にしかならなかった。けらけらと笑う希美に「だから言ったじゃん!」と再び声を荒げる優子。いたたまれない気持ちに堪えかねそっぽを向いた窓の外には、文字通り一面に広がる(あお)の塊があった。

 

 

 

「海だああああ!!!」

 先陣を切って突っ走った夏紀が元気よく、水平線の彼方目掛けて第一声を上げる。待ちなさいよ、と後を追いかける優子もまた声を弾ませていた。車を降りたみぞれは希美と二人、夏紀たちの後をゆっくりとついていく。

「みぞれは海ってよく見る?」

「あんまり。希美は?」

「私もかなー、やっぱ宇治って周りに海無いしさ。一応北の方にならあるけど、(あまの)橋立(はしだて)までってそうそう行かないじゃん? なじみ薄いよね」

 うん、と頷きつつ、みぞれは希美の後ろ姿をじっと見つめる。今日の希美はいつもと同じポニーテール。彼女の歩くリズムに合わせ、その黒い毛並みが楽しげにピョコピョコと左右に跳ねている。それが嬉しくて、懐かしくて。みぞれはつい希美の後頭部を凝視してしまう。目の前できらきらと輝く美しい大海原の存在をも、すっかり忘れてしまうほどに。

「いやぁー最高じゃない? まだそんなに肌寒くもないし、その割に他のお客さん少ないしさ。やっぱ私の見立ては間違い無しだったね」

「なんか自分だけの手柄みたいに言ってるけど、アンタのアバウトな意見を絞り込んで宿まで決めたの私ですから。すっトボけないでよね」

「まあまあ、夏紀も優子もそのへんで。二人のおかげでこんなにキレイな景色見れてるわけだし、ここは一つ北宇治吹部部長と副部長のコンビネーションの勝利、ってことにしようよ。あぁみぞれ、足元気を付けて」

 そこかしこに転がるごつごつした石くれをピョンピョンとまたぎながら、希美は時折振り返ってはこちらを気遣ってくれる。大丈夫、と返事をしてから、みぞれは改めて周囲の光景をぐるりと眺め回した。スウと息を吸い込むと、潮風の香りが胸いっぱいになだれ込んでくる。海を見るのも久しぶり。そんな思いに焦がされたこの胸の疼きは喜びが半分。もう半分は、そう、感傷とでも呼ぶべきものだ。

 今回の旅行に際して、議論の焦点となったのは行き先だった。大まかに言えば山へ行くか海へ行くか。ちょうど夏と秋の中間とも言えるこの時期、連休でもないこの日なら、旅行客の混み合いに巻き込まれて宿を取れなくなる心配は少ない。けれど涼しい風の吹き始めた季節、今さら海水浴でもないし海は無いだろう……こんな会話の流れにあって、それに真っ向から逆らったのはみぞれだった。

『海がいい。海、見たくて』

『みぞれがそう言うんなら、私も海がいいかな。夏紀と優子はどう?』

 みぞれの意見に希美が賛同してくれたことで、あとの二人にもそれ以上の異論は無かったらしい。海に行くなら寒い北より暖かい南、と夏紀が提案し、それならちょうど良いところがある、と検索をかけてくれた優子によって詳細な目的地が決まり、後はとんとん拍子に話が進んでいった。

 唯一の心配はこの時期まれに訪れる台風だったのだが、本日の天気は快晴と言って良く、夏の気配を取り戻すかのように熱気漲る陽光が天空を支配している。少し汗ばむぐらいの気温に、こんなんだったら水着持ってきても良かったかな、と希美はぽつりと洩らした。

「希美、泳ぎたかった?」

「こんだけ暑かったらねー。泳がなくても、水際でばしゃばしゃやってるだけでも結構楽しいしさ。みぞれは泳ぎたくない?」

「私、泳ぐの苦手」

「そっか」

 今日の希美の表情は昨今見たことが無いと言えるほど、ずっと穏やかなものだった。そのことにみぞれは少し安心する。高校を卒業して以来、いや正しく言えばそれ以前から、希美とのやり取りにはぎこちなさを感じることも少なくなかった。けれど今日はそれが無い。ううん、本当はそれも違う。希美の物腰が柔らかくなったのはきっと、あの夜からだ。風邪に倒れた希美の看病をしに行った日。彼女と二人で過ごした、あの思い出深い月明かりの夜。そう、あの夜から希美は、そして、自分は。

「わきゃっ」

 突然奇妙な声がして、みぞれはそちらを見やる。手前の砂浜にはシンプルなデザインのスニーカーと、おしゃれなストラップミュールがごろりと転がっていた。あれは夏紀と優子のもの。そして、その少し先では。

「やったな!」

「ボーっとしてる方が悪いんでしょ。ホラホラ食らえ、ナツキのみずでっぽう!」

 水際ではジーンズの裾をまくり上げた夏紀と、フレアスカートを太ももの高さで結んだ優子とがきゃっきゃと水遊びに興じている。両手を組んだ夏紀の指の隙間から『ぴゅー』と飛び出した水の塊がシャワーとなって、優子の全身に降りかかった。おかえし! と叫びながら優子がバシャンと海水を巻き上げるも、夏紀は器用に水しぶきを躱していく。

「あーあー、あの二人ったらこんなトコではしゃいじゃって。これから宿に行くまでまた運転しなきゃなのに、あんなズブ濡れになったら車に乗れなくなっちゃうよ」

 呆れ顔を浮かべつつ、希美はそんな彼女たちへとカメラを構えた。カシャ、とシャッターの動作音。道中では録画一辺倒だったが、どうやら今は撮影設定を本来の用途たる静止画モードにしているらしい。そのまま海や砂浜の景色を何枚か撮っていた希美が、ひょいとレンズをこちらに向けてきた。

「鎧塚さん、いまの心境をお願いします」

「え、」

 みぞれは言葉に詰まる。こんな風に何か発言を求められるのは、みぞれにとって最も苦手とする領域だ。それもカメラ付きでとなると、それは尚更のことで。

「何でもいいから、率直なひと言ちょうだい。こういうのにも慣れておく必要あるでしょ?」

 慣れる、必要。みぞれは口の奥でその語句を反芻する。そんなものが本当にあるかどうかなんて、正直ピンと来なかった。でも、希美が求めている。率直なひと言。今のこの気持ちを一言で表すとするならば、それは。

「……嬉しい」

「うれしい?」

「希美と、ううん、みんなと一緒に海に来れて」

 それは本当の気持ちだった。今のみぞれにとって、大事なものは一つじゃない。自分のことを心配してくれる友達も、支えてくれる存在も、それがどんなに貴いものであるかということも。みぞれはそれをとうの昔に知っている。

「希美は?」

「私?」

「希美はいま、どう思ってるの」

 希美はその質問に間髪入れず、こう答えた。

「私も嬉しいよ、こうしてみんなと一緒に思い出作りの旅行が出来て。勿論、みぞれとも」

 良かった。そういう思いに自然と顔が綻ぶ。その瞬間をカシャ、と希美のカメラが捉えた。

「今の表情すごく良かった。あとで宿に行ってから、一緒に見よう」

「うん」

 自分を客観視するのはあまり得意じゃないし、好きでもない。けれど、希美によって見せられる自分の姿は嫌いじゃない。そんな風にみぞれは思う。

「あ、貝殻!」

 カメラを首に提げるや否や、声を張った希美があさっての方向に駆け出す。ざふざふ、と砂の上に足跡を刻みながら、みぞれもその後を追った。

「うわー、結構でかい。なんの貝だろ?」

「さあ、知らない」

 希美が拾い上げた貝殻は縞模様になっていて、白色を基調とした中にところどころ茶色と薄い青が入り混じっている。形からするに二枚貝の一種のようでもあったが、それ以上のことはあいにくみぞれにはサッパリだった。

「ちょうど二枚揃ってるよ。それにしても、超きれい」

 貝の一片を、希美は天に向かってかざした。強い既視感を覚える光景。その時みぞれはこっそりと、一枚の青い羽根を脳裏に思い描いていた。今でも大事に飾ってある思い出深いあの羽根が、希美の手にある貝殻と重なって見える。海で洗お、と水辺に寄った希美がじゃぶじゃぶと貝殻を洗い、丁寧にハンカチで拭う。そしてその片方を、おもむろにみぞれへ差し出した。

「あげるよ」

 それもいつぞやと同じ。あの時はへんてこな返事をしてしまった。でも、今は。

「ありがとう」

 滑らかにそれを受け取ることが出来た。二枚の貝が一つずつ、自分と希美の手のひらに収まる。

「みぞれ、貝合わせって知ってる?」

「なに?」

「貝ってさ、人の指紋とかと同じで、個体ごとに貝の形が全部違うんだって。だから二枚の貝殻を合わせてぴったりになるのって、それぞれ対になるものしか無いらしいんだけどさ」

 そう言われれば、そんな話をどこかで聞いたことがあったような。微かな記憶の手応えを、みぞれは必死にほじくり返す。

「前に授業で習ったかも。生物、じゃなくて、古典?」

「だと思うよ。高校の時に国語の先生から習ったヤツだから、多分同じ先生」

 希美が手に持った貝の内側をこちらへ向ける。ホラみぞれも、と急かされ、みぞれは貝の内側を希美へと向けるように持った。近付いてきた希美の貝が自分の貝に重ねられ、カシャリと乾いた感触がする。

「平安時代の貴族たちはこれで神経衰弱みたいな遊びもしてたんだって。それを貝合わせ、っていうの。正解なら貝がぴったり合わさるし、ハズレなら全然合わない。他にも貝合わせのことを短歌にしたり、この内側のとこに上の句と下の句を書いて百人一首をやってたって話もしてたかな」

「そうなんだ」

「風流だよねー、いかにも貴族ってカンジ」

 みぞれは曖昧に頷く。貴族なんてものを実際に見たことも無ければ興味も抱かぬみぞれには、その光景を想像することはもう一つ出来なかった。

「せをはやみ、いわにせかるるたきがわの」

 希美の口が何かを唱え始める。なに? とみぞれは小首を傾げた。

「百人一首だよ。下の句が『われても末に逢はむとぞ思ふ』ってやつ。聞いたことない?」

「ない」

 ふるふると首を振るみぞれに「そっか」と、希美は苦笑にも似た息をつく。

「どういう意味?」

「んー、私もうろ覚えなんだけどさ。確かこんな感じ」

 そこで希美は俯き、記憶を辿るようにぽつぽつと続きを紡ぐ。

「川の流れがとても速くて、岩にさえぎられた水が二手に分かれちゃうの。そこから流れは全然別の方向にいっちゃうんだけど、それでも永遠に離れ離れなわけじゃなくて、いつかはまた一緒になるよ……っていう、そんな意味の歌」

 何だかいまいち要領を得ない。そのときみぞれの頭に浮かんだのは何故か、ごうごうと流れる急流で川下りをしているカッパの映像だった。

「まあ平安時代の歌だからさ。何かの事情で別れなくちゃいけなくなった恋人同士が、今はそうなっちゃうけどいつかは再会してきっと添い遂げましょう、って、そういう想いを密かに込めた歌なんだと思うよ」

「そう」

 恋人。その単語はみぞれにとって全く興味の対象外で、同級生たちが恋愛話で盛り上がっていてもまるで琴線に触れることが無い。だからそのように離れ離れになる恋人たちの姿を思い描くことも難しかった。……恋人じゃないなら? そう思い当たって、次に心の中に浮かび上がったのは。

「希美もこっちおいでよー、海水ぬるくてチョー気持ちいい」

「今行くー!」

 希美の大きな返事に驚き、みぞれの身体がびくりと震える。その拍子に、くっついていた貝がするりと離れてしまった。それを持つ二人の手と共に。あ、と思わずみぞれは声を洩らす。

「宝物にしようね、旅の思い出、第一号で」

「――うん」

 こくりと頷き、みぞれは貝殻を大事にポーチへとしまい込む。希美ももう片方の貝をハンカチに包んでカメラバッグへと収め、二人は夏紀たちの待つ波打ち際へと駆けていった。

 

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