「はー、いや気持ちかったぁ」
のれんをくぐった夏紀は開口一番、感嘆の声を上げる。昼間に海辺でたっぷり遊んだ後、潮水でべたべたになってしまった体を宿の風呂で洗い流したことで、ようやくサッパリすることができた。館内は軽く冷房が効いていて、ほかほかと湯気を立てる体にこの涼しさがまた心地良い。首に提げたフェイスタオルでごしごしと髪の毛の湿り気を拭いつつ、浴衣姿の夏紀はついさっき出てきた浴場ののれんを振り返った。
「いいお風呂だったねー。露天風呂になってるなんて思わなかったよ。さすがは優子、お目が高い」
「でしょう? 宿泊サイト見て最初にピンと来たのよ、ここしかないって」
続けてのれんの奥から姿を現したのは希美と優子だ。二人とも自分と同様、宿が用意してくれた浴衣に身を包んでいる。湯上がりで髪をアップに留めた希美のうなじはいつもと違う色気が匂い立っているみたいで、みぞれじゃあるまいし、などと思いつつも夏紀の視線はそこに釘付けになってしまう。
「なにボーっとしてんのよ。もしかして湯あたりでもした?」
「何でもないよ。いい湯だったなーって、そう思ってただけ」
「その割には見てた方向がお風呂じゃなくて、希美だったと思うんですけど」
「まさかー。夏紀が私なんか見てどうするの」
「優子が勝手にカン違いしてるだけだから、無視して無視」
「何よ、しらばっくれちゃって。……まあそういう事にしといたげるか。これから美味しい夕食が待ってるっていうのに、ここでアンタとやり合ってたら折角のご飯もまずくなっちゃうもんね」
「さっすが優子サンは大人でちゅねー、えらいえらい」
「人が目を瞑ってやろうって言ってんのに、この上ケンカ売る気?」
「まあまあ、二人とも」
そんなやり取りをしているところに、さらにもう一人がのれんをくぐって出てきた。長い深黒の髪を束ねて肩へと流したそのたおやかな姿に、夏紀はおろか優子たちも思わず息を呑む。お風呂上がりのみぞれは浴衣の上に薄手の紺羽織をまとい、入浴後の火照りと心地良さに白い頬をいくぶん上気させていた。
「おお……」
「どうしたの?」
「いやみぞれ、しばらく見ないうちに何て言うか、こう」
「ねえ」
どぎまぎする希美と優子を見て、みぞれは困惑したように小首を傾げる。夏紀はその時、優子たちとは別の印象を抱いていた。肩にかかる黒く長い髪。それはまるであの人みたいで。唐突に湧き上がった過去の記憶が、夏紀の胸をチクリとくすぐる。
「でもほんとにいいお宿だよね、ココ」
「だね。優子にしては良くやったってカンジ」
気を紛らわせたかった夏紀が希美の述べた感想に乗じると、優子は照れ隠しのつもりなのか「フン」とそっぽを向いた。優子の見繕ったこのお宿。区分としては民宿なのだが、多少くたびれた外観に反して内装は実に綺麗で掃除の手も隅々まで行き届いている。座卓やテレビといった部屋の設備はそこそこ新しいものが揃えられているし、琥珀色のゆったりとした色調を灯すランプや風情を感じる黒木目の床からは『ちょっとした高級旅館』と形容しても良さそうな気配すら感じられた。恐らくは割と近年リフォームを施したに違いない。大部屋こそ無かったため部屋は二人ずつで、という条件こそあれど、それに不満を覚える一分の隙も無いほどに、ここは良質な宿泊体験を提供してくれそうな上宿だった。
『これで料金は飲食含めてバッチリ予算内。みんな、私に感謝しなさいよ』
ここに来る車中の会話にて、手柄顔の優子に希美とみぞれはぱちぱちと賛美の拍手を注いでいた。それに辟易と溜め息をついてみせた夏紀だったが、まあ今回ばかりは優子にしては良い仕事をした、と内心では思っている――
湯上がり姿の夏紀たち一行は二階の客室には戻らず、いくつもの生け花や絵画で飾られた廊下を抜けて一階奥にある大座敷へと向かう。四人連れということもあって部屋で食事をするのは多少窮屈になってしまう為、お食事は共用のお座敷でどうぞ、と来館時に女将から伝えられていた。
「うわー、すっごい!」
座敷に上がってまず最初に優子が感嘆の声を上げた。その横では希美が、後を見越して更衣室まで持ち込んでいたカメラでパシャパシャと、卓上の光景をシャッターで切り取っている。古びた木目の和卓、その卓上には、複数の大皿を占める山海の幸がこれでもかとばかり並べられていた。
「昼間からずいぶん撮ってるけど、メモリとかバッテリーとか大丈夫?」
「ご心配なさらず。どっちも替えのヤツ、たっぷり持ってきてるから」
ぱん、と気前よくカメラバックをはたく希美はいささか得意げだった。さすが希美、と夏紀は苦笑を堪え切れない。カメラ好きを自称する希美は今回の旅行に際して自ら撮影係を買って出ており、その為の準備も抜かりはないみたいだった。道中の車窓。浜での戯れ。それらの光景を希美は余さず残しておいてくれるだろう。四人で過ごすこの時間、その中で浮かべた幾つもの笑顔もいっしょに。彼女の後ろ姿を眺めながら夏紀はうっそりと笑む。
「こちらが本日の夕食の会場になります。どうぞごゆっくり」
ともあれ今は夕餉を楽しむ時間だ。女将に案内されて、夏紀たちは卓に着く。美味しそうな魚の刺身の盛り方はいわゆる尾頭つきというやつで、これだけでも四人で食べきれないのではと思える量があった。その隣では小さなかまどに載せられた鉄皿の上で、ぶ厚い牛肉がジュウジュウと胃袋に突き刺さる音を立てている。他にも小鉢によそわれた煮物や漬け物など沢山の小料理、こんがりと焼き上げられた魚の開き。そして数本の瓶ビールが、そこにはあった。
「まずは最初の乾杯からだね。あ、希美はまだダメだっけ」
「誕生日が十二月だからねー。私に構わず、みんなジャンジャンやっちゃって」
「ではお言葉に甘えまして」
栓抜きを手に取り、夏紀はそれを瓶ビールへとあてがう。シュポン。景気の良い音を立ててバッジのような形の栓が抜け、夏紀はまず最初にみぞれへと瓶を向けた。
「私も希美と同じのでいい」
「まあそう言いなさんなって。折角の機会なんだし、最初の一杯ぐらいは挨拶のつもりで」
「そうだよみぞれ、これからはいろんな場所で飲む機会もあるだろうしさ。今は練習だと思って、夏紀たちと飲んどけば?」
このご時世だし本気で嫌がるならやめるつもりだったのだけれど、「分かった」とみぞれは思いのほかスムーズに首肯した。それも或いは希美の勧めがあったからなのかも知れない。差し出されたみぞれのグラスに、夏紀は泡立つ黄金色の液体をいっぱいの高さまでトクトクと注ぐ。続いてウーロン茶のボトルを手に取り、希美のグラスにも丁寧にお酌をした。
「じゃーあとは各自、好きなものを好きに飲むってことで」
「ちょっと夏紀! 二人に注いで私には注がない、ってなんなのよ」
「そのぐらい自分でできるでしょ、子供じゃあるまいし」
「絶対分かっててやってんなコイツ」
「しょうがないなぁ。ホラ、注いであげるからとっととグラス出しな」
二人の時とはうって変わってぞんざいに、夏紀はビールをドボドボと優子のグラスにそそぎ入れた。
「うわーへったくそ。泡まみれじゃんコレ」
「あれぇ、優子サン知らないんですかぁ? 注がれるときにグラス傾けてないとこうなっちゃうんですよぉ」
「よっぽどビール瓶で殴られたいみたいね、アンタは」
「おー怖っ。これだから困るわ、手の早い人は」
ぎゃあぎゃあとかしましくしながらも、最終的には夏紀も優子のお酌でビールに満たされたグラスを手にした。
「じゃあここは希美、アンタが音頭取って」
「ええ? なんで私なの。優子がやったらいいじゃん、北宇治吹部の元部長なんだし」
「それ以前に私にとっちゃ、希美は南中吹部の部長なの。この四人だったら取り仕切りするのにいちばん適任でしょ。もういいから、泡が引けちゃう前に早く」
「何それー。中学なんてもう五年も前の話だし、とっくに時効だってば」
などとおどけつつも、希美は一段高くグラスを掲げる。みぞれ達も胸の前にグラスを構え、各々顔を見合わせた。
「えー、それでは不肖わたくし傘木希美めが、乾杯の音頭を取らせていただきます。この四人の友情と、楽しい旅行のひと時に、乾杯!」
「乾杯!」
カシャン、とグラスの交わる音。料理を楽しみ、会話を楽しみ、四人の宴はどんどん盛り上がっていった。
『うぎゃー! 服にかけないでって言ってるでしょ!』
絶叫する優子の声がスピーカーから飛び出す。食事のあと、部屋へと戻った四人は希美のカメラに収まった動画を宿のモニタに映して鑑賞会、としゃれ込んでいた。
「優子、とっても楽しそう」
そう呟いたみぞれはさっきからフワフワしている。それも無理は無い。結局のところ、夕食に供されたビールを一番多くいただいていたのはみぞれだった。夏紀も優子もほど良く酔いの回ったところで酒からお茶に移行していたのだが、その場に残っていたビールをみぞれが一人で全て空け切ってしまったことは驚嘆に値する。当のみぞれは大して顔色が変わるでもなく平気そうに見えたのだけれど、こうして部屋に戻ってゆっくり過ごすうちに酔いを感じ始めたのだろう。昼間の疲れも手伝ってか、やがてみぞれの瞳は少しずつ、とろんとゆるみ出した。
「みぞれ、もう眠い?」
「だいじょうぶ」
優子の問い掛けにみぞれがぼそりと答える。本人はまだ起きていたがっているようだが、とは言え本人の姿勢は今にも船漕ぎを始めそうなほどに縮こまっていた。それに夜もだいぶ深まってきた。頃合いだろう、と夏紀は優子にそっと目配せをする。
「それじゃ今夜はそろそろお開き。明日に備えてもう寝ましょ」
「だね。まだまだ楽しみは盛りだくさんなことだし」
優子に賛同して動画を止めた希美が立ち上がり、モニタからケーブルを引っこ抜く。彼女がそれらを手早くまとめているうちに、夏紀と優子は足元に広げていたたくさんのお菓子やジュースを部屋の隅に寄せてあったテーブルへと運んだ。これで床の上に残っているのは、都合二人分の布団だけだ。
「明日は七時起きだからね。くれぐれも夜更かしして朝ご飯に間に合わない、なんてことの無いように」
「ヘイヘイ」
「あと、そっちのことはよろしくね」
「お任せされました」
ヒラヒラと優子に手を振ってみせ、それから夏紀は髪を結わえていたゴムを引き抜く。ばさり、と跳ねっけの強い髪の毛が、顔の周辺に散らばった。
「じゃあ行くわよ」
「うん。おやすみ夏紀、みぞれ」
就寝の挨拶をして部屋を去る優子の背に、もう一人分の後ろ姿が続く。今夜優子と相部屋になった人物。それは、希美だった。
以下は宿に着いて程なくの話である。
『割り当てはコレで決めるよ』
二人ずつに分かれると予め知っていたのもあり、「部屋の割り当てをどうしようか」という問題への解決策を、夏紀はきちんと用意してあった。手に握ったのは紙で作った四本のひも。こういう時は平等にクジ引きで決めよう、ということだ。
『赤い印つきの人同士、ついてない人同士がそれぞれ同じ部屋ってことで。先に言っとくけど、結果についてはノークレームでお願いしまーす』
一応の断りを入れつつ、夏紀は希美に向けてクジを差し出す。
『じゃあまずは希美から、順番にどうぞ』
はーい、と何の気なしに希美がクジを引き抜く。クジの先端には赤い印がついていた。それを覗き込むようにして、優子が希美とみぞれの間に割り込む。
『次はお隣の優子さん、どうぞ』
『任せなさい、こう見えてもクジ運は強い方なんだから。絶対負けないからね』
何の勝負してんの、などと希美に突っ込まれつつ、エイヤっと優子がクジを抜く。そこにも赤い印。その瞬間、ペアは決まった。
『なんだ、二人目で早くも終了じゃん。せっかくクジ作ったのに』
拍子抜けだわー、と二人から回収した分も含めて旅行かばんにクジを押し込み、夏紀はみぞれを向く。
『というわけで私たちがペアだね。今夜一晩よろしく、みぞれ』
こくり、とみぞれが頷く。彼女はこの結果を内心残念がっているかも知れない。だがそれで良いのだ。「今夜はよろしくー」と呑気にしている希美を尻目に、夏紀はこっそり優子を見やる。交わる視線。希美たちに気付かれぬよう、二人は小さく頷き合った。
パチリ、と照明を落とすと、なんだか他の雑音まで一緒に掻き消えてしまった気がする。静まり返った室内には、寄せては返す波の音だけが遠く響いていた。
みぞれは先に寝床に入り、すうすう、と穏やかに寝息を立てている。それを眺めながら夏紀も布団に腰を下ろした。昼間の運転の疲れもあるし、それに役割はじゅうぶん果たした。さっさと寝て明日に備えよう。そう思い、夏紀はもそりと掛け布団をまくり上げる。
「夏紀?」
それは布団をかぶって枕に頭をつけたのと同時だった。耳元に沁み込む涼やかな声に、はたと夏紀はそちらを向く。
「みぞれ。ごめん、起こしちゃった?」
「起きてた」
布団を被ったみぞれは目だけをしっかりとこちらに向けていた。てっきりあのまま寝付いたとばかり思っていたのだが、どうやらそうでは無かったらしい。
「夏紀と、話がしたくて」
「私と?」
みぞれの言を、夏紀は少しばかり意外に思う。希美や優子ならまだ分かる。けれど、自分とみぞれの接点はせいぜい高校時代の同級生、それと吹部の仲間であったという、その程度だ。決して仲が悪いわけではないけれど、かと言ってあの二人ほど親密な関係でもない。それに有り体に言って「鎧塚みぞれ」という人物に、夏紀は複雑な感情を抱いてもいた。
「話って、どんな話さ?」
「大したことじゃない。でも、いまじゃないとできない気がする」
「ふうん」
相槌を打ちつつ足をもぞりと動かす。布団の中はまだひんやりとしていて、眠気を催すにはもう少し体温が移るのを待つ必要がありそうだ。
「夏紀は、希美のことが、すき?」
げふ、と夏紀は思わずむせてしまう。その質問はあまりに予想外過ぎて、受け止める準備ができていなかった。
「そりゃまあ友達だし、今もこうやって一緒に旅行に来てるぐらいだし、好きっちゃ好きだけど」
「ずっと考えてた。夏紀が吹部に入った理由。もしかして、希美のこと追いかけてたのかなって」
「へえ」
「そうだったの?」
「どうだったっけ。しばらく前の話だし、もう忘れちゃったなー」
天井を向いて、夏紀はみぞれの問いをはぐらかす。暗がりの中でも天井にはいくつかの黒い染みを数えることが出来た。
「強いていうなら、高校で何かそれまでと違うことをしたかった、ってのはあったかもね」
「ちがうこと?」
「中学の時は帰宅部だったからさ。ギターとかは弾いてたけど他に趣味らしい趣味も無かったし、せっかく高校生になったのに学校行って予備校行ってあとは家帰るだけ、ってのも味気ないじゃん。だから何かしたかったって、そんな感じ」
すん、とみぞれの鼻が鳴る。果たしてそれは納得の意思を示したものなのか。あまりの捉えどころのなさに焦れて、夏紀は切り返しを図る。
「そういうみぞれは? 希美のことどう思ってるの?」
「私は、希美のこと、」
答えは解り切っていた。みぞれならばきっとこう答えるのだろうと。だから夏紀は目を瞑り、意識を沈めることに集中する。布団にも次第に己のぬくもりが移り始め、これなら気持ちよく眠りに就けそうだと感じ始めた、そのときだった。
「――好きだった、と思う」
その回答に、寝ぼけかけていた夏紀の意識は一瞬で覚醒してしまった。
「だった?」
枕から頭を上げ、夏紀はみぞれを見やる。横向きになりながら少し俯き加減に掛け布団へと顔をうずめるみぞれが、そのままの姿勢でぽつぽつと言葉を紡ぎ始めた。
「昔はそうだった。希美のことが好きで、だから高校でも一緒に居たいって思って、希美が選んだ北宇治に私も行くことにした。でも途中で希美が吹部を辞めて、私ひとりになって。それが辛かった。苦しかった。なにより嫌だったのは、そうやって希美に執着してる自分のこと。なんでこんなこと考えるんだろう、気持ち悪い、ってずっと思ってた」
みぞれの口からぼろぼろとこぼれ出す、凄絶な告白。それに息を呑まずにはいられない。気持ち悪い。この子が自分自身をそんな風に思っていただなんて、優子からも誰からも聞いたことが無かった。きっと過去、誰一人としてこの告白を受け止めた者はいないに違いない。そんなことを考えつつ、夏紀は黙ってみぞれの言葉を受け止める。
「高校二年の時、希美が帰って来てくれて、嬉しかった。また一緒に、ううん、これからはずっと一緒にいられるって、そう思ってた。けど三年生になって、コンクールの時に色々あって、希美とは別々のところへ行くことになった」
「だね」
返事をしつつ、夏紀も当時のことを思い返す。あの頃、希美は何度か自分に相談をしに来ていた。進路のこと。みぞれのこと。それと共にあの日の出来事が頭に浮かぶ。希美とみぞれ、二人の道が決定的に分かたれた、あの瞬間。悔しさに泣き濡れたまま、いずこかへと姿を消した希美の横顔。それらは今でもはっきりと覚えている。
「その時は私、希美の気持ちが全然分かってなかった。だから希美に八つ当たりみたいなことしちゃって。でも最後は希美にちゃんと送り出してもらえて、私は一人でもがんばるしかないって思った。どんなに辛くても、寂しくても」
うん、という己の返事がどこかぎこちない。思えばこうしてみぞれの言い分を聞くのも、これが初めてのことだ。今までは想像と優子の証言によって補われていたみぞれの心理。それが今は剥き出しになって、猛然と夏紀の聴覚に襲い掛かってくる。
「でも音大に入ってからもずっと、私の中には、希美がいた」
みぞれの瞳に悲壮感は浮かんでいない。まるで心の棚おろしをするみたいに、ひも解いた過去の記憶をあるべき場所へと並べ替えているかのような雰囲気のまま、みぞれは淡々と語り続ける。
「どこかに希美がいるんじゃないか。すぐ隣に希美がいてくれたら。気が付けばそんなことばっかり考えてた。それは、希美が私にとって特別だったから。希美がずっと、私を照らしてくれてたから」
「なんとなく分かるよ、それは」
「でも、こないだ希美が風邪引いて、希美のことを看病してて、思った。何とかしてあげたい、私も希美のことを照らしてあげたい、って。その時に少しだけ、こんな事も思った」
「何を?」
「私、今までずっと、自分勝手だったんじゃないかって」
ひょう、と一陣の風が窓ガラスを叩きつける。つられて目を向けたその先には、ぼんやりと滲んだ月が寂しげに虚空を舞っていた。
「それまでは希美の方が勝手だって思ってた。急にいなくなったり、一方的に結論出して私の言うこと全然聞いてくれなかったり。だからそれを希美にぶつけたこともあった。でももしかしたら私も、私の思う通りの希美であって欲しいって勝手に思ってた、そんな気がして」
しゅるり、とみぞれの布団から衣擦れの音が聞こえる。なにかに縛られたように、夏紀は口を挟むことが出来ぬままでいた。
「……昔の私はずっと、希美に『して欲しい』って思うばっかりだった。希美に『してあげる』って思うことがなくて、だから、私はずっと希美に期待ばっかりしてたんだと思う」
「どうなんだろうね、それは」
そうとしか夏紀には言えなかった。肯定も否定もできない。けれど何かがひとつ、核心に向かって近づいている。そんな気がする。
「けれどそれじゃいけない、って気が付いて。あれからずっと考えてた。私が希美にできること。希美が私に求めてること。それが分かるようになったらきっと、私と希美、今までとはなにかが変わる気がしてる」
「それって何だと思うの? 希美が求めてるもの、って」
「まだ分からない」
ぱちり、とみぞれの瞼がおもむろに瞬く。喋り疲れてきたのだろうか。それとは対照的に、夏紀には睡魔の忍び寄る気配などこれっぽっちもありはしなかった。
「夏紀にも、分からない?」
「悪いけどサッパリ」
「そう」
「でもなんとなく思うよ。多分、今のみぞれの気持ちは間違ってない、って」
それは本心からの一言だった。みぞれが目を瞠るのを見て、夏紀は改めてみぞれに問う。
「それで今の希美のことは、どう思ってるワケ?」
「いまは、――希美のこと、今は……わたし……」
「みぞれ?」
みぞれの声が次第に減衰していき、そしてふつりと途絶える。さっきまで月明かりを映していた彼女の瞳も、今はもう完全に瞼に遮られてしまった。ふう、と一息をついて、夏紀は布団をかぶり直す。とても眠るどころじゃなくなってしまった。それはともかく、あのみぞれがこんな事を考えていたとは。ほんの少しだけみぞれの心を汲むことは出来たが、さてしかし、と夏紀はぼんやり思索を巡らせる。
「あの子だったらこういうとき、どうしたんだろう」
夏紀には高校時代、出来の良い後輩が一人いた。人の輪の中にそっと溶け込んでいるようでいて、何かとあればその心を搔っ捌いて露わにし、そこから何かを繋ぐ。そんな凄い能力を持った子。彼女に救われた人は多い。自分だって何度も助けられた。そんなあの子を自分が救ってあげられたことが、たったの一度でもあったかどうかは分からない。彼女のことを思い出すときはいつだって、あり余るほどの温かさと、ほんの少しの悔しさがあった。自分なんかがどう頑張ったってあの子のようには振る舞えない。そういう類の悔しさが。
「さて、あっちは今頃どうしてんのかね」
呟きながら寝返りを打ってみる。視線を向けるその先から物音は一つたりとて聴こえやしない。ちゃんとうまくやってるだろうな、アイツ。などと考えているうちに波の音に誘われるようにして、夏紀の意識は少しずつ、夢の沖へと漕ぎ出していった。