「で?」
「で、って何よ」
部屋に入るなり声を掛けて来た希美に、優子はじとりと尖った視線を向ける。
「またまたとぼけちゃって。とっくに気付いてるよ」
「だから何がよ」
「部屋割り。細工してたんでしょ、クジに」
どすり、と肝に重たい衝撃が走る。まさか。優子が凝視したその先で、希美はこちらの反応に確信を得たかのようにニヤリとほくそ笑んでいた。
「……いつ気付いたの?」
「あえて言えば最初っからかな。こんな良いお宿なんだし、ホントは四人で泊まれる大部屋もあったんでしょ? それなのに二人部屋しか無いって言うし。わざわざ空き部屋調べたりはしなかったけど、これはなんかあるなって。で、いざクジ引いてみたら都合よく私と優子の二人が連続アタリ。さすがに怪しいって思うよ」
それもそうか、と優子は降参の溜め息を洩らす。希美の慧眼を前にして、これ以上ごまかすことはもはや不可能そうだ。
「でも、だったらどうしてあのとき夏紀にツッコまなかったのよ? クジに細工してるでしょ、って」
「いくら私だってそこまで野暮じゃないよ。それに私はけっこう本気で、誰と一緒の部屋になっても良いって思ってたし」
「それはみぞれでもそれ以外でも、ってこと?」
「もちろん」
しっかりと首肯する希美。それは優子にとっては少々意外な展開だった。てっきり希美はあの子と一緒の部屋が良いと思っているに違いない、とばかり考えていたのだが。
「それより細工の仕込みが知りたいんだけど、どうやってたの?」
「カンタンよ。全部のクジに印つけといて、あとは順番固定で引かせるだけ。わざわざ私が希美とみぞれの間に割り込んだのはそれが理由」
「なるほど、シンプルで確実な方法だね」
クツクツと希美が喉を震わせる。そんな彼女の不審な様子を、優子は注意深く観察していた。この感じ、希美も別に怒ってはいないのだろう。かと言って、純粋な好奇心からこんなことを尋ねているわけでも無い筈だ。果たしてこの子の心中は。希美の表情からそこまでを探り出すことは、もう一つできなかった。
「言っとくけど、バレてたって話、夏紀には絶対しないでよね。アイツなりにけっこう頑張って演技してたんだから」
「はいはい。ホント優子は素直じゃないよね。そういうの、もっと本人に言ってあげたらいいのに」
「バカじゃないの。あんなヤツに言うわけないし」
さっきから希美の振る舞いはやけに軽妙で、却ってこっちが調子を狂わされてしまう。まるであの先輩が希美に乗り移っているみたいだ。そんなことを思いつつ、優子はテーブルに置いてあったペットボトルを手に取りキャップを捻る。あとでトイレに起きることになるかも知れないのは少々億劫だけれど、今はそんなことよりも、緊張と動揺のせいですっかり渇き切ってしまった喉を潤したかった。
「それで? 誰とでも良いと思ったって、どういう心境の変化よ」
「まあそれは、お布団の中でってことで」
希美はそう言って足元を指差す。事が露見してしまった以上、場の主導権は完全に向こうに握られていた。優子はしぶしぶ布団に潜り込み、枕に片肘をつく。希美も隣に寝そべり、二人はそのまましばらく睨み合う恰好となった。
「怒らないの? 私たちがいろいろ仕込んでたこと」
「なんで怒んなくちゃいけないの?」
怪訝そうに希美が尋ね返す。それは、とまで言い掛けて、優子はその先をしばらく口にすることができなかった。
「一応は、希美のこと騙したわけだし」
「そんなの気にしないって。いいかげん付き合いも長いんだし」
声量を抑えつつくすくすと、希美は笑った。
「むしろ感謝してるよ。優子とこうやってじっくり話す機会、あんまり無かったし」
「それはそうね」
「だからこの組み合わせにしたのもきっと、優子が私に言いたいことあるからなんじゃないかなー、って思ってた」
「そこまでお見通しなら、さっさと本題に入った方が良さそうね」
片肘を崩し、そして優子は布団から身を起こす。
「私の話は、もう薄々勘づいてると思うけど、アンタとみぞれのこと」
キッ、と優子は真摯な眼差しで希美を見据える。それを受ける希美もまた、うっすらと浮かべていた笑みを引っ込めた。
「最近みぞれとはどうなの?」
「どう、ってば?」
「だから普通に連絡取り合ってるかとか、一緒にどこか遊びに行ったりするかってこと」
「んー、一緒に遊んだりは無いかな。みぞれも忙しかっただろうしね。でもあれ以来、ちょくちょく二人でメッセージのやり取りはしてるよ。今日大学でこんなことあったよーとか、あそこのアイス美味しかったから今度食べてみてとか、そんな感じのことばっかだけど」
「ふうん」
「優子だって知ってるんでしょ?」
「まあね」
優子は常日頃からみぞれと連絡を取り合っている。そしてそのみぞれからは、希美からこんな連絡が来た、という報告がひっきりなしに寄せられていた。つまり希美とみぞれの会話内容は、ほとんど優子に筒抜けだった。
「それが私にはけっこう驚きでさ。希美、ついこないだまでみぞれには直接連絡すること無かったじゃん。そりゃあアンタの気持ちとか事情は私も知ってるし、いろいろ分からないじゃないけど」
「でもホントはちょっと私に怒ってたでしょ、優子」
そりゃあ勿論、というのは優子の偽らざる本心だった。だいたい希美はいつも勝手が過ぎる。みぞれに何の相談もなしに吹部を辞めて、自分が戻りたいからという理由だけで吹部に戻ろうとして、みぞれと同じ音大に行くと言い出して、それをあっさりと撤回して。そんな希美の身勝手な行動にみぞれの心が翻弄されっぱなしだったのは、疑いようの無い事実だ。
悲しみ、苦しみ、そして呻くみぞれの姿を、優子はずっと傍で見て来た。みぞれのことが可哀そうだ。希美はもっとみぞれと向き合うべきだ。ずっとそんな思いを抱えながら、それでも努めて一人の友人として、優子は希美と接し続けてきたのだった。
「だからなのかな。このタイミングで優子と話しといた方がいいかなって、そんな風に思ってて。だから却って良かったよ、優子と同じ部屋にしてくれて」
「それって皮肉のつもり?」
「残念ながら混じりっけなし、濃縮100%の感謝オンリーです」
「ホント、今夜の希美には調子狂わされっ放しだわ」
ハー、と大げさに憤懣を吹き飛ばし、優子は天井を仰ぎ見る。そこに浮かぶ大きな染みには流石に宿の年季というものを感じ取ることが出来た。けれどそれもまた、この宿が培ってきたであろう年月の妙を慮ることができて、悪い気はしない。
「まあ、最近の私がみぞれと普通にやり取りできてるのは、こないだの風邪のおかげかな」
「こないだって、五月のアレ?」
うん、と枕に頭をつけたまま、希美が頷く。
「あのときはホントヤバくてさ。私このまま死ぬんじゃないかー、ってぐらい辛かったんだよね。けど、そこにみぞれが来てくれて。まぁ呼んだのは私だし、それも熱のせいで操作ミスったからなんだけど」
「後から真相聞いた時は呆れたけどね。自業自得っていうか、出来の悪いドラマみたいな話だし」
「だけどね。あのときみぞれが来てくれて、私のこと一生懸命看病してくれて。ちょっとあちこち抜けてたのはみぞれらしかったけど、それでも頑張ってくれるみぞれを見てて、何て言うのかな、今まで色々抱えてたものが全部バカらしくなっちゃったって言うか」
「バカらしい?」
「みぞれ自身は本当に、ただ『みぞれ』なだけなんだなあ、って。私が勝手にあの子はすごいとか舐められたくないとか、そんな風に思ってただけで」
それは今まで固く封じられ決して表に出ることの無かった、希美自身の本音。そうと直感して優子はおもむろに布団に寝そべる。それはいま希美に目線を合わせるべきだと、そんな風に自分の心が告げていたからだ。
「私さ、たぶん自分で思ってたよりずっと、音楽が好きなんだと思う。今だって結局オケやってて音楽からは離れられてないし、実のところ他の人たちにも負けたくないって、心の底ではそう思ってる」
「実際うまいでしょ希美は。少なくとも私なんかより」
ありがと、と微かにはにかんで、希美は続きを述べる。
「自分の好きなことで、音楽で、他の誰にも負けたくなかった。努力を続けることが、好きでい続けることが何より一番の才能なんだって、そんな風に考えてた時期もあったと思う。だからこそあの時は、そういう私の考えをみぞれに粉々にされた気分だった。本物の才能に、それも自分で掘り起こした才能に、努力っていうものの価値を全部否定されたっていう、そんな気分」
黙って希美の語る言葉を聞きながら、優子はだいぶ前にみぞれから聞いた話を思い出していた。みぞれが中学で吹部を選んだ理由。それは希美に誘われたから。教室でいつもひとりぼっちだった自分に最初に声を掛けてくれたのが希美だったから。そう語った時の、少し嬉しそうだったみぞれの横顔と一緒に。
「これ以上がんばったって、私じゃどうにもならない。それを目の前に突きつけられた時はサイアクだったよ。私に与えられなかったものを全部持ってるみぞれはずるいって、実際に本人にそう言ったこともある。いろんな意味でカッコ悪かったなあ、あの頃の私。今思い返しても、ほんと、サイアク」
ふ、と乾いた希美の自嘲が室内に跳ね返る。圧倒的なうまさ。どうにもならない壁。それに打ちのめされた経験は優子にもある。それも自分自身ではなく、心から尊敬する対象がそうなってしまった瞬間に立ち会うかたちで。
「コンクールの時、せめてみぞれのソロを完璧に支えてやるって思ったのは、私の意地だった。才能なんて無くたっていい。努力以外に能のない人間でもいい。それでもここまでやれるんだって、みぞれに、周りに、見せてやる。多分そういう気持ちが私の中に燻ってたんだと思う。そのせいで私はずっとみぞれを避けてきた。だけど一度ぶつかり合って、それのおかげで、ちょっとだけみぞれのことが解った部分もあったんだ」
「解ったって、どんなこと?」
「口じゃうまく言えない。けど何となく、みぞれはこう考えるだろうな、とか、みぞれならきっとこうする、とか」
思い当たる節は無いでもない。話を遮るような真似はせず、優子は小さく相槌を打つ。
「それからはずっと私の中に、みぞれのことを認めたくないって気持ちと、みぞれのことを解りたいって気持ちとが、ごちゃごちゃになって混ざってた気がする。それが風邪の時に、なんでか分かんないけどスルッてほどけた感じになってさ。みぞれがどんな風に私のことを思ってても、私がどんな風にみぞれを見てても、それとお互いの気持ちとは関係ないことなんだ、って。そう思ったら急に、みぞれと普通に接していられるようになった」
ジジ、とつけっぱなしの蛍光灯が、むずかるように己が存在を主張する。消さないと、なんて気持ちには到底なれなかった。少し首をすくめ、たっぷりと日干しされた布団のかおりを肺の奥に吸い込みながら、優子はじっと続きを待つ。
「私ずっとさ、みぞれと一緒に過ごしてきたのに、みぞれのこと何にも知らないままだったんだと思う。みぞれはこういう子だって決め付けて、思い込んで、本当のみぞれを知らないままで過ごしてた。才能がどうこうなんて関係なく、あの子自身のことをもっとちゃんと見てあげてたら、きっと私はあの頃でもみぞれのことをきちんと祝福して送り出せてたんじゃないか、って」
「希美がそんなふうに思ってるなんてね」
「意外?」
「チョー意外よ。おかげでこっちの言いたかったことまで忘れちゃうぐらい」
本当は今日この場で、希美に言ってやりたいことが幾つもあった。そしてそれが、本来の目的を果たすことにも繋がる筈だと。けれど、もしかしたらその問題にも、希美の中ではもうとっくに答えが出ているのかも知れない。あるいは答えに辿り着いていなくても、いま希美が向いているのは限りなく、それに近い方角だ。そんなことを、優子は希美の醸す雰囲気から感じ取る。
「それで? これからのことはどうするつもりなの」
「みぞれとのこと?」
んー、とそこで希美は考え込むような仕草を見せた。
「分かんない、かな。私がどうこうってより、こうしてるうちに自然にどっかに辿り着いていくんじゃないか、って気がする。なるようになるっていうか、多分そんな感じだよ、きっと」
「ずいぶんとまあ、楽天的なことで」
「優子はどう思う? 私とみぞれがこれからどうなるか、どうするべきか」
「アンタたちに分からないことが、私なんかに分かるワケ無いから」
すげなく告げて、優子は頭を枕に押し付ける。重しを掛けられた枕がミシ、と苦しげな声を上げた。
「当人同士の問題、ってやつでしょ。少なくとも私は、何か行動するから何かが変わる、って思ってるけど」
「そうだね。――優子もさ、けっこうあの後輩の子の影響受けてるよね、何気に」
「どうかな」
誰のことを言われてるのかすぐに思い当たり、優子は希美の反対側へと寝返りを打つ。今夜はこのまま寝落ちてもいい。ここから先の領域は自分たちが関わるべきじゃない。そう判断することができたのが、一番の理由だった。
「……こんなふうに考えられるようになったのは、あの夜のこともあるけどさ」
優子の背中に声を掛けるかのように、希美がぽつりと洩らす。
「いつまでもこうやって一緒に過ごせるとは限らないって、それに気付いたから、かな」
え、と優子は息を詰まらせる。
「希美?」
振り返った先にあった希美の表情は、何かを想像する時のようにうっそりと温度の低い笑顔を形作っていた。じわ、と背骨のあたりを何かが這う感覚。後ろ手に背中をこすり、追って尋ねようとしたその言葉を、しかし優子は呑み込んでしまった。
「だから、優子には感謝してる。もちろん夏紀にも」
やめてよ。そう言いたかったのに、言葉が喉につっかえてうまく出てこない。そのまましばらく、二人とも押し黙ってしまった。
「それにしても、優子も思い切ったよね。わざわざ旅行組んでまでこんな話するつもりだったなんて、けっこう勇気要ったでしょ?」
「……まあね」
急に話題をすり替えられ、うろたえつつも優子は肯定する。実のところ、食事の席で慣れないお酒を飲んだのもそれが理由だった。素面じゃとてもこんな話は出来ない。普段優子がこの話題を丁寧に避けてきたのは半分はみぞれの為であり、もう半分は希美の為でもあったのだから。
「でもようやくこういう話ができて、今はちょっとスッキリしてる。ありがとね、優子」
「どういたしまして」
目を合わせ、そしてクスリと笑い合う。こんなやり取りを希美と交わすのもこれが初めてのような気がする。希美は希美なりにいろんな思いをしてきた。いろんなことを考えていた。そして希美は今、その全てに向き合おうとしている。それが解っただけでも、優子にとってはもう充分だった。
「ところでさ。実は私も、前から優子に聞きたい事があったんだけど」
「なに?」
「優子、いま夏紀と一緒に暮らしてるでしょ」
突然の図星に、はあ?! と優子は素っ頓狂な声を上げてしまった。
「な、ちょ、希美、なんでそれ、」
「さすがにバレてるよー、みぞれは多分気付いてないけど」
愉悦の表情を宿らせた希美が、その詳細を次々と述べていく。
「部屋のあちこちに優子のシュミじゃないものが置いてあったりするし、食器の数も前より増えてるし。それとたまに夏紀と街中でバッタリ会うけど、駅と全然違う方向に帰ってるからね。で、その先にあるのが優子のアパートでしょ? 今回の件も併せて考えると、そりゃあ二人がアレコレ仕込めたハズだよね。時間はたっぷりあっただろうし」
あわわわ、と口からヘンな音が洩れてしまう。よりにもよってそこに気付かれるとは。そのときの優子の気分たるや、まさしくサイアクだった。
「二人がどういう関係になってるのか、詳しく聞きたいなー? これだけ私も話したんだし」
うぐぅ、と自分の喉が悔恨の念をがなり立てる。あらゆる意味でのアドバンテージを希美に握られ、もはや優子にはどうすることもできそうになかった。
「……希美はホント、変わったよね」
「そう?」
「視野が広くなったっていうか、目ざとくなったっていうか。心の余裕ができたせい?」
「それはあるかも」
ニタリ、と希美の口角が引きつるように持ち上がる。その表情はやっぱり、あの優秀で偉大な先輩が良く浮かべていたそれにそっくりだった。一つ息を吐き、それから優子はありったけの恨めしさを込めてたっぷりと、希美を睨みつける。
「言っとくけど、これも絶対言わないでよね、夏紀には」
はいはい、とにやつきを崩さない希美。どうやら今宵は長い夜になりそうだ。そう覚悟する優子の耳には、浜辺の奏でるザザアという潮騒の音が響いていた。