ふと目が覚めて、それから希美はあたりの様子をそっと窺った。
ゆうべ遅くまで話し込んだせいか、隣の布団にいる優子は未だ深い眠りについている。それはお酒のせいもあったろう。先に寝落ちたのは彼女の方だったし、部屋の灯りを消したのも自分だった。ふう、と軽く息をついて、むくりと起き上がる。近くに置いてあったカメラバッグを手に取り、物音を立てぬよう静かに動き、紺色の羽織に袖を通して、希美はそろりと部屋を抜け出した。
高校までの習慣のせいか、毎朝の早起きはすっかり体に沁みついている。むしろ、早起きをしない日は却って体調が悪いと感じるぐらいだ。皆が起きるまでそぞろに散歩でもしてこよう。そう思い、玄関のサンダルをつっかけた希美はぶらぶらと近くの浜辺へ向かった。後ろの山際から昇り始めの陽光が射し込み、辺りの景色は薄いオレンジの光を帯びている。海岸沿いの道路をひょいと渡り、浜辺へと降りる階段の途中で、希美は浜に一人佇む先客の存在に気が付いた。
「希美」
先に声を掛けてきたのは、自分と同じく浴衣に羽織姿のみぞれだった。おはよう、とあいさつをしながら希美はみぞれの元へと近づく。
「早いね。何か用事あった?」
「ううん。いつもこの時間に起きてるから、くせで。希美は?」
「私もそんな感じかな。夏紀は……まだ寝てるよね」
「ぐっすり。たぶん、お酒のせい」
「それ言ったら、ゆうべ一番飲んでたのはみぞれだったと思うけど」
今朝のみぞれはやけに涼しい顔をしていた。こう見えてみぞれはけっこうザルな体質なのかも知れない。お酒に酔う気分とは一体どんなものなのか、まだ飲んだことも無い希美には想像することすら難しいものがある。
「せっかくだし、朝の海でも撮っとこうかな」
そう思い立って希美がカメラバッグのふたを開けようとした拍子に、バッグの端から一つ、丸められたハンカチがするりと落ちてしまった。さく、と軽やかな音を立てて砂浜にめり込むハンカチ。みぞれがそれに手を伸ばし、おもむろにその包みをほどいていく。
「きのうの、貝殻」
取り出された貝殻の半片。それは朝日を浴びてきらきらと、えもいわれぬ輝きを放っていた。その眩しさに目をすがめつつ、希美は素直にきれいだ、と思う。貝殻も、それを持っているみぞれのことも。
「はい」
滑らかに貝殻を捧げるみぞれに、希美は一瞬うろたえてしまう。ありがとう? というへんてこな返事に、みぞれは微かに喉を震わせた。受け取った貝殻を一旦羽織のポケットにしまい込み、それから希美は改めてカメラを取り出してファインダーを覗き込む。
「ありがとう」
不意にそんなことを言われ、いったい何に? と希美はカメラを構えたままの姿勢で振り返る。
「一緒に旅行、来てくれて」
「なんで? 私だって旅行来たかったし。優子たちともそうだけど、みぞれとは特に」
「だから、ありがとう」
「お礼を言われるようなことじゃないって」
希美は構えたカメラを下ろさなかった。今のこの表情を、みぞれには捉えられたくない。だって、まだ旅行は、続くんだから。
「優子からは、もう聞いてる?」
「なんのこと?」
そ知らぬふりを貫いて、希美のレンズは日の昇る山際を向く。眩しい。目が焼けつく。きっとそのせいだ。今の自分が、こんなふうになっているのは。
「来月から私、海外に留学する」
ぽつりと告げられたその宣告を、希美は聞こえないふりをしたかった。けれど辺りにさざ波の音しか無いこの場所では、それも叶わぬことだった。
「音大の先生に勧められて、二年間。すごく有名な奏者が教えてくれるから、プロになる為には行った方がいいって。いろいろ考えたけど、そうした方がいいって自分で決めたことだから、だから私は海外に行く」
そうなんだ、と答える自分の声が震えているのがはっきりと分かる。みぞれがいなくなってしまう。その事実を、随分前から希美は知っていた。だからこそだった。この機会に免許を取ろうと考えたのも、夏紀が旅行しようと言い出したのも、優子が今回自分と話をする為に画策していたのも、それは、全部、なにもかも。
「だから、良かった。その前にみんなと、希美と、たくさん思い出が作れて」
喉から苦悶の音が漏れそうになる。しっかりピントが合っているはずのファインダーには何も映らない。ただ寄せては返す波の音だけが、胸に巻き上がる正体不明の感情をざらざらと撫でつけている。
不思議だった。
あんなに痛いと思ったのに。
あんなに苦しいと思ったのに。
あれほどまでに打ちのめされたはずなのに。
当たり前だと思っていたものが、すぐ傍にあると思っていたものが、ずっと遠くに行ってしまう。それがこんなにも痛くて苦しいものだなんて、思ってもみなかった。そしてそのことに、自分がこれほどまでに打ちのめされるものだなんて。
「すごいじゃん。やっぱりみぞれは流石だよ」
明るい声でそうとだけ言って、希美はみぞれへとカメラを向ける。きらきらと輝きを帯びるみぞれの姿。それは今までに見たどんなみぞれよりも美しくて、儚げで、綺麗なみぞれだった。
「希美は、うれしい?」
「嬉しいに決まってるって。みぞれがもっとすごいところに行くんだよ? 自分のことみたいに嬉しい。私、応援してるから」
嘘ではなかった。もっと言えばほんの少し、みぞれのことを誇らしくさえ思う自分もいる。がんばれと願う気持ちだって本物だ。そうだ、嘘ではない。ただ、それだけじゃないだけで。
「だったらどうして、泣いてるの」
やっぱりダメだ。カメラじゃごまかし切れない。カメラを握る希美の手から力が抜けていく。ファインダーにびっしりとこびりついた涙が、奥の像を歪ませていた。みぞれの顔をまともに見ることは、できなかった。
「なんでだろ、自分でも、良くわかんない」
一生懸命我慢していた嗚咽が、とうとう溢れ出してしまう。何に憚ることもなく、そのまま希美は暫くの間、ただ砂の上にぽつぽつと涙を落とし続けた。
ようやく向き合えると思ったのに。ようやく解ってあげられると思ったのに。その相手はまた遠くへ行ってしまう。それも今度は、物理的に。気軽に会える距離じゃない。今までより忙しくなるみぞれを煩わせるわけにもいかない。その現実に、希美は完全に打ちのめされていた。
そっと頬に何かが添えられる。それはさっきのハンカチ。みぞれはそのハンカチで、希美のこぼす涙を拭ってくれていた。
「泣かないで」
その一言を聞いた時、もう感情を堪えることは無理だった。希美はおもむろに手を伸ばし、子供が親にそうする時のように只々みぞれへ縋り付く。いやだよ。さみしい。そんな言葉を吐くことなんて、自分には許されない。だから希美は声を押し殺し、ひたすらにみぞれの温もりをこの手に抱き続けるしかなかった。
やがて、噴き上がった感情も少しずつ収まってきた。希美はゆるりとみぞれから離れる。ゴメン、とだけ言ってみぞれからハンカチを受け取り、希美はまだ目頭に残る涙をごしごしと拭う。
「分かれても、」
唐突に、みぞれが何かを言い掛けた。そのまま惑うような彼女の仕草に、どうした? と努めて明るく、希美は尋ねる。
「きのう希美が言ってた短歌。思い出せなくて」
ああ、と希美はみぞれとのやり取りを思い出す。そして一度はポケットにしまった貝殻を、再び取り出した。
「みぞれもこれ、持ってきてる?」
少し怪訝そうにして、それからみぞれはこくりと頷き、希美と同じように羽織のポケットから貝殻を取り出した。そうして二人とも言葉無く、互いの貝殻をカシャリと擦り合わせる。
「瀬をはやみ、岩にせかるる滝川の、われても末に、逢わむとぞ思う」
みぞれに教えた百人一首。それを詠み上げてから、希美も気付いた。みぞれの言いたかったことに。
「留学期間が終わったら、必ず帰ってくる。希美のところに」
「うん」
「だから、希美には笑顔でいてほしい」
「うん」
「希美」
「なに?」
「私、希美のことが、すき」
日の光がいっそう強くなる。それを照らし返す海原の水面もまた、燦然と輝いていた。
目の前のみぞれに返す言葉はもう、とっくに決めていた。カシャ、と乾いた音を立てる手の中の貝殻ごと、希美はみぞれの手を握り締める。シャッターを切った景色が自分の心にも刻まれるのと同じように。いつか離さなければいけないのだと知っていても、その手触りとぬくもりをいつかきっと、もう一度掴む日の為に。
朝焼けはどこまでも柔らかく二人を包んでいた。みぞれに答えを返してから宿に戻るまでの間ずっと、二人の手は固く繋がったままだった。