燐光 <シーズン1>   作:るり子/janegoe19th

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序章
introduction


エルツ大陸 年代史

 

■最古の記録

現存する最古の記録の段階で、エルツ大陸には「竜族」「人間」「鉱人」の三種類の陸棲人型種族が存在したと記されている。それ以前のもの、人型種族の発生理由などは不明。

 

 

■共通歴より数400年前

闘争本能の強い「竜族」が覇権を握り、他種族への攻撃と同士討ちを繰り返す。それに伴い元々少数であった「竜族」の個体数が著しく減少。

 

 

■共通歴より394年前

竜族の青年・銀竜アルギュロスが自身の力に飲まれ巨竜と化す。その際に竜族はアルギュロスの兄・紅竜バイルを除いて全員殺害・及び死亡する。

紅竜バイルの呼びかけにより、対アルギュロスの戦力として人間の女剣士サファイア、鉱人の大魔術師フェイツェイが集う。

三人によりアルギュロスは討たれ、死してなお残された力は三つの宝玉に封じられる。

宝玉はその内に淡い炎のような燐光を宿し、“炎の紋章”と呼ばれた。

バイル・サファイア・フェイツェイはその功績から「三英雄」と呼ばれ語り継がれることとなる。

 

 

■共通歴 1年

バイル・サファイアは婚姻関係を結び、その間に生まれた双子の兄妹が国を興す。

兄ヴラドは北西にルベウス帝国を、妹セントレアが北東にサフィルス王国を建国し、

同時期にフェイツェイも南部にリゥスイ連合を結成する。

この三国建国を節目に「共通歴」として暦が制定された。

 

“炎の紋章”は各国の統治者が一つずつ所有し管理することとなる。

 

バイルはサファイアが病死した後、隠居していたがいつしか姿を消す。

フェイツェイは5人の夫と沢山の子供達に看取られて、天寿を全うした。

 

 

■共通歴248年

鉱人ミサキがリゥスイ連合の首領として着任。

 

 

■共通歴265年

サフィルス国王ユーセが病で死去。その王妃オディリアが女王として即位。

ルベウス国内の鉱人の街で大規模な民族紛争が発生。

 

 

■共通歴266年 1月

ルベウス王女カサンドラ、双子の兄妹を出産するも出産後に死亡。

兄はシャルル、妹はキルシーと名付けられる。

 

 

■共通歴268年 2月

ルベウス帝国皇帝オルヒ、自身の管理していた“炎の紋章”を用いて“巨竜”と化す。

オルヒは帝都を蹂躙し、国境線を超えサフィルス王国へと向かったが、サフィルスの王都の目前にして三国連合軍により討伐される。

 

 

■共通歴268年 3月

オルヒの死に伴い、その孫であるシャルルが皇帝に即位。

幼い次期皇帝を補佐する目的で「議会」が発足。

リゥスイの協力のもとルベウス、サフィルス両国の復興が進められる。

 

 

 

 

 

―――共通歴268年 4月

 

 

母の部屋には大きな肖像画がある。まだ結婚したばかりの父と母の絵だ。画家の腕が良いのだろう、ぎこちない顔の母と、穏やかに微笑む父の顔がまるでそこにあるように描かれている。絵の中の母は今より少しだけ若く、また父は、病に倒れて世を去る前の姿でそこにあった。

その絵の下で、母・オディリアは剣を差し出した。鞘には息を飲むほど繊細な美しい装飾が施されている。両手で受け取ってもそれはずっしりと重い。

「こうやって手に取るのは初めてでしょう? “炎の紋章”と並ぶ我が国の至宝、竜殺しの宝剣“ベトリア”――今からこれは貴女のものです」

背の高い母は身を屈め、視線の高さを合わせると、ユーディトの髪に触れ、頬に触れ、目を細めた。

「年々お前は私に似てくるわね。でも、目だけはあの人の色だわ。ああ、ユーディト――本当はこのようなことは知らない方が良いことなのです。でも貴女は王族の女……いえ、王たる女になる者として、知らなければなりません。武器の重さとは、それによって奪われる命の重さなのです。それを忘れた時、我々はただの人殺しに成り下がる。そうなってはいけません。ゆめゆめ、忘れないように。良いですね?」

「はい、母様。我が血筋とこの剣に……誓います」

ユーディトがおずおずと返事を返すと、母は穏やかに微笑んで立ち上がる。

窓の外を鳥が飛び去って行く。春の日差しは柔らかく部屋の中を照らし、二人の影を床に淡く落としていた。

 

 

 

 

 

城のあちこちを騎士達が行き来していた。物資を詰んで出て行く部隊は、隣国ルベウス帝国へ復興支援へ行く者達だ。

ルベウス皇帝の乱心の理由は定かではない。

少なくともユーディトの耳には、皇帝は乱心し“炎の紋章”を用いて竜になり、帝都を蹂躙し国境を超え、サフィルス王国の王都目前で討伐された……といった旨が届いている。あの日は城から外に出ないよう言われていた。ルベウス皇帝は厳格だったが、それだけではなかったことをユーディトは知っている。厳しくも優しい王だった。それが何故……と思ったことは一度や二度ではない。ルベウスは、まだ幼い皇帝を補佐する為の新体制がこの間出来上がったばかりだ。国の安寧の為にも今はサフィルスの支援が必要だろう。

足早に歩くユーディトの姿を見ると、騎士達は一斉に足を止め剣を捧げた。こちらも立ち止まり、「ルベウスの人達を頼みますね、皆さん」と声をかけた。列を過ぎ去って、離宮へと続く石畳と石柱の渡り廊下へと向かう。ちょうど、よく顔を知った女中の姿があった。

「グレーテル、シャーロックを知らない?」

「シャーロックでしたら、アルテミジア様に手を引かれて裏庭へ向かわれたのをお見かけしましたよ」

「そう、ありがとうグレーテル」

彼女の手に飴玉を押し付けて立ち去る。渡り廊下を横切って、蔓薔薇の垣根とアーチを抜ければ、裏庭はすぐそこだった。

 

裏庭は今も、かつて父の好んだ花が植えられている。表の庭園は、父が母のためにと母が好きな花ばかりを植えたのだ。王なのだからここは貴方が選ぶものにすべきだ――と母は父に言ったらしいが、父は首を縦には降らず、裏庭に自分の好むものを揃えた。

華やかな花よりも、素朴な花を好む人だった。背の低い茎の先には落ち着いた色合いの小ぶりな花々が咲き、春の日差しとそよ風を受けて僅かに揺れている。様々な色の花が咲き乱れているが、乱雑だとか雑多だとか、そういった印象は受けず、不思議と纏まっている。大きな針葉樹の根元で、黒麟の騎乗竜が花を食べていた。彼女――モリオンがいるということは、騎手も近くにいると言うわけであって――

「シャーロック、探したよ」

綺麗に刈り揃えられた芝生に腰掛ける背中に向かって声をかける。振り向き、こちらを見た金色の瞳が驚きに揺れた。

「これはユーディト様、失礼を――」

「いい、そのままで。寝かせておいてやって」

シャーロックの膝に頭を預けて、妹姫のアルテミジアが眠っていた。妹姫は膝でお昼寝中、しかし主人は従者を探し回っていた……となれば真面目な彼は気が気でないかもしれない。そう言ってやれば彼は申し訳なさそうな顔をした。

「……なぁに、その頭は。ははははは」

ユーディトは、彼の紫色の髪から伸びる紫金水晶の角に、色とりどりの花とリボンが飾られているのに気付いて、思わず声を出して笑った。彼は鉱石の角を頭部に持つ“鉱人”で、鉱人の女性は自らの角を装飾品で飾ることもあると聞いている。今の彼の角はまさにそのような状態であった。勇ましい雄鹿のような角は随分と可愛らしくなってしまっている。

「これはアルテミジア様が……。今日風呂に入るまで取ってはいけない、と」

「じゃあそうしているんだな。お前の主人は私であれ、アルテミジアとて一国の姫君。騎士のお前は命に従わなければ」

「言われずとも。アルテミジア様から花を頂戴する機会など、願ってもみないことです」

「…………お前は本当につまらないくらい真面目ね」

相変わらず堅物な男だ。元々、彼は三年前に起きた鉱人同士の内乱で落ち延び、文字通り流れ着いた異邦人だ。肌の色は少し日に焼けていて、色白が多いサフィルスでは少し目を引く。砂浜で倒れていた彼をユーディトが見つけ、それ以来シャーロックは恩義を感じて側にいる。

そんな経緯を差し引いても、彼は良くも悪くも生真面目だ。遊び心がない、とも。無邪気な妹には振り回されてばかりいる。妹は楽しくて振り回しているようだが。

「ユーディト様、私にご要件があったのではありませんか」

「あったけど……アルテミジアが寝ているから。母様から“ベトリア”を授かったの。剣の相手をして欲しかったのだけれど。今日じゃなくてもいい」

「それは……おめでとうございます、ユーディト様。王妃様もお喜びでしょう」

「大がかりな儀式もなしにいきなり渡されたの、びっくりしちゃった。まぁ、母様はそういうのはあんまり好きじゃないし。お金も時間もかかるから」

ああ、そう言えば――とユーディトは母から受け取った言伝を思い出した。

「母様が今日の職務を終えたら来るようにって。確かに伝えたから――じゃあ、その子を頼むわね」

妹は熟睡していて起きる気配がない。彼はしばらくこのままだろう。目覚める頃には足が痺れて立てなくなっているかもしれない。多少同情の念を覚えながら、ユーディトは裏庭を後にした。

 

 

 

月光に映し出される女王オディリアは背筋に寒気を覚える程美しい。毛先にいくにつれ青から淡い色に変わる髪は流水のように肩を流れる。伏し目がちではあるが、その瞳に憂いはなく、強い光を湛えていた。

「貴方にこれを」

王族しか入れない宝物庫に通された時点で薄々勘付いていた。祭壇に安置された箱は豪奢な装飾が施されていたが、鍵は飾り気がなく、ごくありふれた鍵に紛れたら見失ってしまうだろう。

「お分かりですね。我が国、いえ――サフィルス、ルベウス、リゥスイ三国の至宝が一つ“炎の紋章”。合鍵を貴方に託します」

「畏れながら女王様」

身に余るものだ、とシャーロックは言った。姫の従騎士であれど自分は余所者であるのだ、と。すると女王は、細い眉を少し顰めた。

「貴方を余所者だと思っているのは貴方自身ぐらいなものです。口を慎みなさい、シャーロック。私が許すと言っているのです。私に何かあったら、至宝と娘達を……いえ、どちらか一人だけでも構いません。どこまでも逃げて、生き延びて欲しいのです。貴方の選択を私は咎めません。誰にも咎めさせたりはしません。我が血筋と先王に誓って」

そう言われてしまえば首を横に振る訳にもいかなくなる。

女王はしばらくその紅い瞳でシャーロックを見ていたが、何かを思い出したのか、再び口を開いた。

「シャーロック。貴方には姉がいた、と聞きましたが」

「はい。内紛の折に別れて、それきりですが」

「……先日ルベウスを訪れた際に、皇帝陛下の乳母で、従者であるという女性を遠くから見かけたのです。貴方のように少し日に焼けた色の肌で……鹿のような紫金水晶の角を持っていました。貴方の姉君も?」

女王の口から意外な言葉を耳にして驚いた。内紛からまだ三年、だが随分と時間が経ったような感覚がある。最後に見た姉の記憶は、砲撃を受けて大きく傾いた船の上でのものだ。舟に乗っていたのは大半が女子供で、魔術に長けた自分は彼女達の守りを任されていた。何の役にも立てないまま荒れ狂う海に投げ出され、赤子を抱いていた姉は手を伸ばすことも出来ず、ただ金色の瞳を見開いて自分を見ていた。

「はい。私の姉も同じ角を持っています」

「……次にルベウスに赴く時、貴方の話を出来ないか取り計らってみます。近しい者と共に在れないのは辛いことです」

「お心遣い痛み入ります、女王様」

 

 

 

 

 

「姉様、シャーロックを知らない?」

編み籠を腕に引っかけたアルテミジアと廊下ですれ違った。籠の中には野菜やフルーツを挟んだパンが入っている。

「訓練場じゃないかな? そろそろ午後の訓練が終わるから行ってみるといいわ」

「私ね、グレーテルとパンを作ったのよ。彼、いつもお腹を空かせているから差し入れに持って行くの! ……ああ、訓練なら他の皆の分もいるのだわ。きっと足りないからもっと作って来なきゃ!」

鉱人は角に栄養を取られる分、筋肉が付きにくい体質をしている。その一方で人間には扱えない魔法が使えるのだが、あの生真面目な従騎士は、凄まじい鍛錬と食事の摂取で武術と魔法の両立をやってのけているのだった。

妹はぱたぱたと慌ただしく駆けていく。その背を見送りながら、ユーディトは一人裏庭へ向かった。

 

世話焼きの妹はシャーロックだけでなく他の騎士達を、城で働く者達を、そして国民を平等に愛し、愛されている。次の王は年齢的にユーディトではあるが、ただ母の背を追うことしかできない自分には正直なところ荷が重い。誰からも愛され、共に支え合って生きていけるだろう妹こそが、王位に相応しいとさえ思っていた。では、自分は? ――そう自問自答して出した答えがこれだ。

鞘から宝剣を抜いて構える。歳の割に背は高いユーディトだったが、それを差し引いても刀身の長い剣だ。刃は片刃で、長さの割に薄く思えた。白銀の輝きを放ち、僅かに湾曲した切っ先は鋭い。かつての英雄はこの剣で、強靭な竜の鱗さえも容易く切り裂いたという。今までユーディトが使っていたのは刺突に向いたレイピアだ。それとは比べ物にならない程重く、構えるのも覚束ない。これを使うのであるならば、立ち回りを変えなければならないだろう。

慣れなければ、と思った。自分はアルテミジアの側で彼女と国、そして人々を守りたい。それには力が必要だ。

 

 

 

 

 

気が済むまで素振りをしていれば、いつの間にか日が随分と傾いていた。何やら城の中が騒がしい。通りがかったグレーテルを捕まえて話を聞いた。彼女は、「ああ、姫様……!」と悲壮な声を上げる。

「女王様のところへ。ルベウスへ支援に行った騎士達が……飲み水に毒を盛られて……!」

「毒? どうして毒なんか――」

「――姫様、お下がりください!」

彼女の視線が上空に向けられる。無数の竜騎士が飛んでいた。大きく旋回し高度を落として接近している。赤を基調にした鎧はルベウスの――何故だ。ルベウス帝都は先の皇帝の乱心で壊滅状態だ。軍を展開することなんかよりやるべきことがある筈だ。それが、何故。

グレーテルが前に飛び出し、魔道書を構えた。吹き上がった風が彼女の帽子を飛ばし、青瑪瑙の角を露わにする。さらに高度を落とした竜騎士の群れに、烈風が吹き荒れて隊列をかき乱した。気流を乱されて体勢を崩した数騎はそのまま裏庭の方に墜落していったが、やり過ごした数機は依然とこちらに接近しつつある。

「早く城の中へ!」

グレーテルの声に急き立てられ、一番近くの扉に飛び込んだ。感情が押し寄せてきて飽和する。サフィルス王国騎士団の多くは、ルベウスの復興支援の為に出払っている。故に、今この城は手薄だ。母様は? アルテミジアは――真っ白になりかけた頭に無数の足音と剣戟の音が届き、皮一枚で理性を繋ぎ止める。戦いが城の内外で始まっていた。

 

 

 

 

 

血の匂い。煙の匂い。人の悲鳴。そんな異物はこの城には今まで存在していなかった。切り裂かれたタペストリーの下で、給仕の少女が斬り殺されていた。階段の上から下まで血を引きずって、いつも裏庭を手入れしてくれる庭師の男は、あらぬ方向に手足を曲げて伏していた。王座へ向かう道には折り重なって騎士達が死んでいた。ある者は背中に矢を生やし、またある者は正面から斬りつけられ仰臥している。あまりの凄惨な状況に二の足を踏むのを躊躇う。花瓶に生けられた花は血を被って赤い雫を滴らせていた。美しい天窓から差し込む夕刻の仄かに朱を帯びた日差しは、流れる血の赤をより濃く鮮烈な色彩で浮かび上がらせる。

「ユーディト!」

母の声がした。兵士が切り捨てられ、王座の低い階段を転げ落ちる。母は剣を構え、取り囲む数人を鋭い眼差しで睨め付け、その気迫だけで怯ませていた。

「アルテミジアはどこへ!」

分からない、私も探しているの――と口を開こうとした刹那、バルコニーに竜騎士の影が降り立った。返り血を帯びた赤の鎧――ルベウスの徴が刻まれた鎧の男は、バルコニーの扉を蹴り開けた。短い鳶色の髪をした若い男だ。アルテミジアの襟首を掴んでいる。

「姉様!母様!助けて!やだ、やだ!」

男は無造作に妹を放り投げて肩を踏みつけた。

「いや、いやよ!姉様!姉様!ねえさ――」

斧が振り下ろされる。切り落とされた頭が転がって、柵の間を通り抜けて落ちた。ユーディトの悲鳴をも掻き消して、オディリアの絶叫が響く。その瞬間、オディリアは女王ではなく一人の母であった。その刹那が、彼女の弱みになった。妹の首に駆け寄ったオディリアの背中を剣の切っ先が薙いでいった。美しい髪が天を衝くように広がり、黒を纏う肢体が頽れる。

母は地に伏せながら天を仰ぎ見た。見開いた紅い瞳には底知れぬ憎悪と憤怒が宿っている。その猛る紅はこの世のあらゆる業苦を寄せ集め、燃やした炎より赤く激しいものであっただろう。母のそんな顔は今まで一度も見たことがなかった。

その眼差しに応えるように、黒竜に跨る騎士が天窓をぶち破って降り立つ。降り注ぐガラス片にも傷一つ付かない黒麟と、谷間に咲く山菫のような紫の髪もまた血を浴びていた。彼は金色の目で周囲を見渡し、口元を引き結ぶ。そして動けずにいるユーディトの元へ向かい愛竜を駆った。

彼が何をしようとしているのかは自ずと分かった。ユーディトを片腕で抱え上げ、シャーロックは竜を駆り割れた天窓から飛び出した。開けた視界に夕刻の陽がぎらついている。

「止まると撃ち落とされます。しっかり掴まっていてください――行きますよ」

 

有無を言わさずに竜は飛び立つ。斜陽を受けて疾駆する竜を追って、幾度も弓矢が放たれ、追っ手が差し向けられたが、その何れもが二人を止めることは出来なかった。

やがてその姿を彼らは見失った。

 

 

 

 

 

どれぐらいの時間が経っただろうか。それは永遠に続くかのような感覚だったが、木の葉の擦れる音でユーディトの時間は再び動き出した。日は落ち、強い風に吹かれる雲の切れ間からは時折月が見え隠れしていた。

深い森のようだ。騎竜の翼であれば数刻でもかなりの距離を行けるであろうが、ここがどこなのかは分からない。途中で大きな滝のそばを通って水飛沫がかかった記憶があるが、それだけで場所の特定が出来る筈もない。宝剣を抱えたまま、振り落とされないようにしているのがやっとだった。モリオンは木の頂点が触れるか触れないかの高さを器用に滑空していたが、徐々にその高度をゆっくりと下げていった。木々の切れ間に潜り込むように彼女は降下する。接触してへし折れた小枝や木の葉が礫のようにぶつかってきた。

翼を広げて彼女が地に降り立つと、手綱を握っていたシャーロックの長身が鞍の上から滑り落ちた。受け身も取らず、操り人形の糸が切れたように転がる肢体を目の当たりにして、背筋が冷たくなる。抱えていた剣を放り出して、ユーディトはシャーロックに駆け寄った。

左肩と背中に矢が刺さり、右の角の半分から上は欠けていた。鉱人の角が、自然な生え変わりを待たずに折れた時の痛みは失神する程のものであるという。服を黒く染める血は返り血だけではなかった。こんな状態で飛び続けて来たのか……と、胸が痛む。名前を呼んで揺り動かしても、微かな呻き声が返ってくるだけだった。モリオンも騎手の異変を察知したのだろう。小さく喉を鳴らしながら頬に頭を擦り寄せている。いつ彼が負傷したのかは定かではないが、凄まじい精神力と執念にも近い忠誠心だ。それに比べて私は――

森の中を風が吹き抜けていく。その中に一際大きな葉擦れの音が聞こえた。追っ手か――いや、動物かもしれない。ユーディトは放り出した剣を拾い上げた。何にせよ自分を守ってくれる人はいない。右も左も分からない闇の中であったが、ただそれだけが心の中で埋み火のように、紅く火を燃え上がらせていた。

「モリオン、シャーロックを頼むわ」

そう小声で呟き、音の方へ接近する。

駆けて来るのは二人の子供だった。鏡写しのように同じ背丈に同じ顔――おそらく双子だろう。暗闇の中に淡い色の髪と、色違いでお揃いらしき服が僅かに見てとれる。

すぐさまもう一つの音が続き、次に表れたのは剣を持った軽装の鎧姿の男だ。男は双子を見、無精髭の生えた口元を笑みの形に歪ませた。片方が脚を縺れさせて転倒し、もう片方はそれを引き起こそうとしている。二人に夢中で、こちらには気付いていない。二人は怯えていた。妹の無邪気に笑う顔と、泣き叫んだ最期の顔が脳裏にちらついた。

 

――あれを殺さなければ、と思った。

 

指先まで行き渡った激情が身体を突き動かす。本当の意味で人を斬ったことはない、だがやり方は分かっている。簡単だ。訓練で禁じられていることをすればいい。

鞘を投げ捨て、剣の重さに振り回されるようにして叩きつけた一閃は、男の肩から腰までを袈裟に切り裂いた。切っ先が掠めたくらいの手答えしかなかったが、竜の鱗すら切り裂いたという伝承が現実であった、と信じ込ませるには十分な斬れ味だった。おそらく何が起こったかも分からなかっただろう。男が膝を折り、顔から突っ伏して崩れ落ちた。

双子は身を寄せ合って震えていた。ユーディトは剣を血振りして納め、近くの木に立てかけると、双子の側に寄った。

「……君達はどこから?」

「お家は王都だよ」

「悪い人たちが入ってきて」

「馬車に入れられたの」

「他にも子供がいっぱいいた」

「逃げられたのは僕達だけ……」

双子は交互に言った。混乱に乗じたのか、あるいはそれも目的の一つであったか――双子の言葉から察するに人買いまで出張って来たようだ。城だけでなく、王都もおそらく混乱状態なのだろう。今ここで確かめる術はない。王都の状態も、母の無事も――母はどうなってしまったのか。妹は――妹はもう――

今更になってやっと感情が追いついた。嵐が過ぎ去った後のような心のしじまの中に、悲しみが取り残されてゆっくりと溢れ出してくる。

「おねえちゃん、どうしたの」

「泣かないで、もう悪い人はいないよ」

双子が心配そうに顔を見上げている。しばらくユーディトは声を殺して泣いた。

 

 

 

 

王都が侵攻された、という初報からまだ一日も経っていなかった。王都陥落の報せは、山間の平穏な小さな村をも大きく揺るがせた。そんな嘘よ、王女様達は、この国はどうなるんだ……といったどよめきが集会所に瞬く間に広がっていく。とにかく引き続き見張りを続けよう、と年嵩の村長が言った。

「先生、出発はまた日を改めた方が良い。寂れたところですから、ルベウス兵が大挙してくることもないでしょうが、何が起こるか分かりません」

「……そうですね。ではお言葉に甘えて。お心遣い痛み入ります、村長殿」

「引き続き客間を使ってください。困ったことがありましたらどうぞ遠慮なく」

一箇所に留まることを出来る限り避けてはいるが、今回は仕方がない。お節介焼きの性分から、あちこちを旅医者として巡る日々を続けてはいるが、流石にこういった事態に首を突っ込むのは身に余る。昔のように無茶ができる程若くもない。

「先生! 先生はまだいらっしゃいますか?」

「私ならここにいるよ、ゴテル。どうしたんだい」

不意に表が慌ただしくなる。自分が呼ばれたということは、自ずと何があったのかは限られてくる。村長宅の女中である老女に、旅の荷物を客間に運んでもらうよう頼むと、診察用の鞄だけを手にして表に出た。

人集りが割れる。そこには身なりの良い一人の少女と、顔の同じ二人の子供、そして村の若い衆に抱えられた若い鉱人の男がいた。男の片方の角は折れ、肩と背中には矢が刺さっている。如何にも逃げ延びてきた、といった風体だ。

「――ありがとう。後は私が引き継ごう。構いませんね、村長?」

厄介ごとに巻き込まれる可能性があるがよろしいか。

そういった意味を含めて村長に尋ねる。最も、首を横に振らせるつもりは毛頭ないが。一番近い医者が山を越えた先の村だ。診察費は受け取らない代わりに、食事付きで宿泊させてもらう、という破格の値段で請け負ったのだ。これで拒むような輩は余程の恩知らずだろう。

「……ええ、構いません。誰が見捨てることなど出来ましょうか」

辺境の村ではあるが、この村の人々は偏屈にはならず開放的で優しい住人ばかりだ。そう言ってくれると思っていた。杞憂で済んだ。

 

 

 

 

 

白に近い銀髪をした双子の子供は、診察の途中で疲れたのか眠ってしまった。二人はどちらがどちらなのかは分からないが、ユーリシュカとムネモシュネと言う名で呼び合っていた。二人共疲労だけで怪我はしていなかった。少女は腕を捻っていたが軽傷。青年は重傷だが、一命は取り留めた。王都から逃げ延びてきた貴族と、その従者であるという。

「君も休みなさい」

青年の眠るベッドの側に椅子を置いて腰掛けていた少女はこちらを見た。その眼差しは疲れ切ってはいるが、鮮やかな青玉のような瞳は濁っておらず、その内に炎を宿しているように猛っている。遠い記憶の中、薄れてはいるがまだ消えてはいない面影が脳裏に蘇る。

「……私の顔に何かついていますか?」

「おっと、これは失礼」

つい、じろじろと見てしまった。

「先立たれた妻の若い頃にそっくりだったものだから」

少女は少し不思議そうな顔をしたが、自分の耳の後ろから生える角を見て納得したようだ。『鉱人ならば見た目と年齢が一致しないことも珍しくない、この医者の男は年寄りには見えないがそんな歳であるのだろう』――と、さしずめこんなところか。

「彼は私が見ているよ。目覚めた時に君が疲れた顔をしていたら、彼は辛いだろう?」

「……どうか、よろしくお願いします」

椅子から立ち上がり、少女は深々と頭を下げて部屋を出て行った。貴族の娘――彼女がそう言っているのだからそういうことにしておこう――が頭を下げるなんて由々しき事態ではあるが、そんなことを彼女は気にも留めないだろう。

 

やはり妻に良く似ていた。

 

だが瞳に宿る炎は酷く不安定で、一度大きく燃え上がってしまえば二度と消えないような――そんな秘められた激しさを持っていた。

 

「――ああ、始まってしまうようだ。サファイア、フェイツェイ……分かっているよ。僕は見届ける。この呪いのような永い命はきっとその為にあるのだから」

 

男は記憶の中の妻と友にそう語りかけた。

 

夜はじきに開けようとしている。

 

 

 

 

 

 

 

■共通歴268年 4月

ルベウス、サフィルスへ侵攻。王都へ進軍しこれを陥落させる。

サフィルス王族は王女ユーディトが生死不明、残りは全員死亡。

王都はルベウスに占領される。

リゥスイは戦乱に伴う王都の難民の受け入れを優先して執り行う。

 

■共通歴274年 12月

皇帝シャルルの妹、皇女キルシーが事故により昏睡状態に。

 

■共通歴275年

皇帝シャルル暗殺。

意識不明のキルシーに変わり「議会」が代理で政治を執り行うこととなる。

 

 

 

 

 

 

――共通歴 278年 10月

 

 

瀑布が轟々と音を上げている。流れ落ちる水は月明かりに仄かに白く浮き上がっていた。

――今日は誰も来ない。最も、誰も来ない日の方が多いのだが。一番近い医者が、山を越えた先にあるぐらいの辺境の村だ。山賊ですら滅多に来ることはない。来たところで、村の住民達はそれに気付きもしないだろう。今までそれらを全て、自分達が葬って来たのだから。

深い森は風を受ける度に騒ついて、急き立てるように四方八方から音を立てる。慣れていない者ならば、自分がどちらから来たのかを見失ってしまいそうだが、十年という歳月は、闇の中の陰影を見極めて道に迷わずに帰ることが出来る技量を身に付けさせていた。

もう帰ろう、と腰に下げた剣の柄に置いていた腕を下ろす。風が強くて少し寒いぐらいだ。相方が遠出中で、どこか暇そうなユーリシュカに声をかけたら酒に付き合ってくれるだろうか……と考えた。

 

そんな他愛もない、穏やかな考えを巡らせたばかりだったが、森の木々が立てる音の中に異音を捉えて、一度降ろした腕をまた剣の柄にかけた。ザラザラと小石が転がるような音を余韻に引きずって、斜面を誰かが滑落していた。投げ出された身体が地面に転がる。剣に手をかけたままで近付いた。

旅人にしては身なりが綺麗だと思った。滑落中に壊れたのだろうか、背負った箱の割れ目から弦楽器らしきものが覗いている――吟遊詩人か。

「近くの村の者だ。大丈夫か?」

若い男は呻いていた。助け起こそうとして息を飲む。袈裟に斬られていた。彼が滑り落ちてきた斜面には血が伸びた跡が残っている。転落による怪我よりこちらの方が余程重傷だ。腰に巻いた帯を解いて傷口に当てがうが、応急処置ではどうしようもないように思えた。村に戻れば杖で治癒術が使える者がいる。それまで保つかは分からないが、このままにはしておけない。

男を抱えようと腕を伸ばすと、彼はその腕を掴んだ。瀕死の身体のどこにそんな力が残っているのかと思う程に強い力と、強い眼差しをして、こちらを見ている。

「連れがまだ、森の中に……追われて、いるんだ……早く……あの子、は……目が……」

手が滑り落ちた。天を仰いで沈黙したまま、それきり男は息をしなくなっていた。最後の力で自分に何かを託そうとしたその目を閉ざしてやる。

 

……人を殺すことを厭わない者が森に紛れているようだ。

ならば生かして返す訳にはいかない。

 

 

 

 

 

何かが紅く発光している。その光に向かって弓を構えている者がいた。

光と射手の間に割って入り、放たれた矢を叩き落とす。顔を隠すように外套を目深に被り、口元までを布で覆い隠した男は、すぐさま弓から短刀に持ち替えてこちらに接近しようとしていた。だが、闇の中に目を凝らし、鋭く睨めつけた眼差しに射抜かれ、男は気圧されるように身を強張らせる。接近し、空いた腹に向かって蹴りを繰り出す。薮を突き抜けて男は吹き飛び、そのまま崖の下まで吸い込まれていった。叫び声の一つでも上げたかもしれないが、滝の音に掻き消されたのか何も聞こえなかった。

 

辺りに敵の気配がないことを確認し、光の元へ戻る。少年がいた。手探りで地面を掻いている。その指先が紅い発光体に触れ、手繰り寄せると、少年は安堵したように小さな溜息を吐いた。燐光を内に秘めて輝く“それ”を自分は知っていた。あの日忠臣が持ち出して、今は自分が有している“それ”を。

「――待て。何故それをお前が持っている」

剣を突き付けて低い声で問いかける。少年は薄目を開いてこちらを見た。その目線はこちらに向いてはいるが、何も写してはいない――盲目であるらしい。男が「目が」と言っていた理由はこれか。

「……貴女はこれが何なのか分かる。だからそう聞いたんでしょう?」

そう言われてしまえば言い返す言葉もない。威圧的に聞いた手前、どう反応すべきか戸惑っていると、少年は「貴女も持っていますね」と澄んだ声で言った。

「“炎の紋章”が熱を帯びて共鳴しています」

剣を握る手に力が入った。それを耳聡く察知したのか少年の顔が少し曇る。

「その剣で僕を斬るならどうぞお好きになさってください。ですが……僕の話を最後まで聞いてから、どうするか決めた方が良いと思います。

 ――僕はシャルル。ルベウス帝国皇帝です」

「皇帝シャルルは死んだ筈だ」

「貴女と同じですよ、僕はひっそりと逃げ延びた。最も、先程の追っ手は僕が誰だか分かっていたようですが……。僕は貴女をずっと探していた」

「私を――?」

「――取引をしませんか、サフィルスの王女ユーディト様」

久しくその名で呼ばれた。その懐かしい響きは郷愁と、今も夢に見るあの日を、夕陽より赤く染まった王座の色を脳裏に鮮やかに蘇らせる。胸の奥深くに埋もれていた火が、再び炎を宿したのを感じた。

「貴女が国を取り戻す為の支援をさせていただきます。その見返りとして、共に戦ってはいけないでしょうか。

僕は、誇り高きルベウスを取り戻し、再び貴女と、そしてサフィルスと肩を並べて歩んで行ける日々を望んでいます」

 

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