女王は一人で別行動だ。一人にするのは不安があったが、当の本人が一人にして欲しいと言うのだから口の出しようがあるまい。サフィルスから移り住んだ人々に会っているようだ。
シャーロックは朝からいなかった。魔道書について調べものがしたい、と言っていた記憶があるので、図書館にでも向かったのかもしれない。
そしてユーリシュカとムネモシュネは、首領から呼び出しがかかったシャルルの付き添いだ。彼はさながら目で見るように、視覚以外の感覚で過ごしているが、それでも流石に初めて来た場所は不安があるようだ。宮殿の入口まで付き添った所で、後はリゥスイの女官が引き継いでくれた。
こうやって待っている間は、不届き者がいないか見張っているのが騎士の役割なのだろうが、生憎とその役割はリゥスイの警備兵達も担っている。手を抜く気はないが少々手持無沙汰な感覚がある。
「なんか身体なまっちゃうね」
リゥスイでの滞在は、特に波乱もなく数日が過ぎようとしていた。当然監視の目はあるものの、不便さや露骨な警戒心を向けられる感覚もなく、さながらちょっとした休暇のような穏やかな時間が流れている。ムネモシュネは、槍にもたれかかりながらそう言った。
「村で暮らしてた時も、そんなに毎日バタバタするようなことはなかったけどさ、ごくたまに山賊は来る訳だし。姫様は特にいつもピリピリしてたじゃない?」
「そうだな。姫様も羽を伸ばされているみたいだ」
ここに来てから、主は少しばかり穏やかな顔を見せるようになった。最近は用意されたリゥスイの民族衣装を身に纏い、髪を結い上げた格好で出かけて行く。
「これから戦争やろうっていうのにね。でも――こんな風にさ、ゆっくり生きるのも楽しいんだろうね。別に今の暮らしが不満ってことじゃないけど」
「まぁ、同感だよ。でも祖国を取り戻せば、そんな日もいつか来るかもしれないし、穏やかな暮らしをする時があるのかもしれない。私達だって、いつまでも剣や槍を振るっていられる訳じゃない」
するとムネモシュネは、首だけをこちらに向けて飴色の瞳で見た。
「――嘘。そんな気微塵もない癖に」
我が半身ながら時々ドキッとする。無垢故に何もかも見透かされているような感覚がした。
事実だ。戻る家も、血の繋がった家族ももう半身以外にはない。あの日に二人を攫った者達は、他にも貴族の家に押し入って子供をかどわかしていたようだった。馬車にいたのは身なりの良い子供たちばかりで、おそらくは後に親の仇、親族の仇と立ち上がる者を減らそうという見込みもあったのだ。
その子供達はどうなったのか。二人の家はどうなったのか。二人の時はあの夜で一度止まり、そして女王に出会ったことで再び動き出した。歪に繋がりあったままで。後悔はしていない、だが心残りがないと言えば嘘になる。
「僕はそうだよ。他の人生なんて欲しくない。僕はユーディト女王の槍だ。だから折れるまでずっと一緒にいる」
「……ああ、私だってそうだ。そういうこと、聞くまでもないだろう」
それでも進む他ない。今この身で抱えたもの以外に、何が必要か。ムネモシュネは小さく笑い、「じゃあもっと強くなろうね、一緒に」と言った。
宮殿の扉が開いた。女官に付き添われたシャルルが戻って来たのだ。二人は姿勢を正す。いつもならば、見えずともその聡明さに瞳を輝かせている彼であったが、どうも様子がおかしい。表情が曇っている。蓮池に渡された通路を通って宮殿を離れるまで、彼は二人に付き添われて歩いていたが、「すみません、一人にさせていただけませんか?」と一人歩き去ってしまった。
一人にさせてくれと言ったのだから……という躊躇いがあり、二人は二の足を踏んだ。その間に、彼の姿は消えていた。これはまずい。杖をついているからとは言え、一人にはしておけない。ましてやあんな顔の者を。
涙ひとつ零れてこない自分を、冷たい人間だと思った。
他者の記憶の中のものを読み解くことでしかもう感じられない、立派な祖父の姿。
それらを壊したのも皮肉なことに祖父自身であった。最も、祖父もそれを望んではいなかったのだろうが。
人の気配が遠ざかり、小さな池か泉に水が流れ込む静かなところで、シャルルは座り込んだ。今は独りになりたいと、無責任なことを言ってしまった。今度は自己嫌悪がじわじわと胸の中を埋めていく。でも、こんな顔を見られたくない。
果たして、どれぐらいの間そうしていただろうか。膝に顔を埋めるシャルルの耳は、藪を掻き分けてやってくる足音を捉えた。あの双子の騎士ではない。二人ならば足音は二組ある筈だし、鎧を纏っているのだから音で判る。今聞こえるのは、軽い足音だ。杖を拾い上げて立ち上がると、身を隠すのに丁度良さそうな木を探し当てた。こちらの気配を最小限にして、その裏に隠れる。
微かな衣擦れの後に、水の中に飛び込んだ音が続く。泳いでいるのだ。息継ぎで漏れる吐息は女性のもので、穏やかに、時折激しく立ち上る飛沫の音はさながらひとつの楽曲のようだ。深く水底に沈んでいたような胸の中が少し、洗い流された気がした。「人魚」という美しい女の海魔の伝説を詠った旋律があるが、耳に届くのはまさしくそれを顕したような流麗な音だ。
パタン、という音が波のさざめきを途切れさせる。杖が倒れた音だった。
「――誰だ!」
凛とした声だ。聞き覚えがある。先日、長風呂で首領が湯あたりしたという騒ぎがあったが、その時に駆けつけてきた軍医の声だ。
「すみません!盗み見するつもりはなかったのですが!」
「こ――皇帝陛下?!」
木陰から姿を現してそう言えば、上ずった声が上がった。
「そ、その……失礼しました!私は帰ります故――いたっ!」
ザバザバと水から上がる音。そして小さな悲鳴。シャルルは慌てて彼女に駆け寄った。
「陛下、どうかお気になさらず!」
「ああ、すみません、お召し物を着られてないとか…?!」
「違います違います!」
「驚かせてしまってすみません。あまりにもその、楽しそうだったもので」
一刻もこの場を去りたいといった様子だ。何故だろうか。シャルルは思い切って尋ねた。
「まるで泳いでいるところを人に見られたくないようですが。不躾でなければ、理由をお聞かせ願えませんか?」
ぴた、と彼女が動きを止めた感覚がした。
「貴女が『人魚』だと言うことは誰にも言いません」
「…………情緒ある言い方をなさるんですね、皇帝陛下は……」
観念したような口ぶりだ。彼女は自分の名を「アル」だと名乗った。滞在初日に船頭をしてくれた女性がいたが、その者は姉に当たるという。
「陛下もご存じでしょうが……我々鉱人は体質上、身体を動かすことは不得手です。なので、そもそも身体を動かす趣味を持つものが少ないのです。だから、その……水泳が趣味だなんて、変な目で見られてしまう……」
「どうしてですか? 貴女のその趣味が誰かに迷惑をかけましたか?」
「お言葉ですが陛下、この国にはまだ古い考えの人も多いのです」
凛とした女性、という第一印象だったが、その声がだんだんと小さく萎んでいく。シャルルはハンカチを取り出しながら、先ほど何処かを負傷したのではないかと尋ねた。
「……もし貴女にそういうことを言う人が現れたら、僕を呼んでください。僕は戦いもできないし、目も見えないけど、口論だったら誰にも負けません。論破して差し上げますから」
二の腕にハンカチを巻いてやりながそう答える。は、と彼女が小さく息を呑んだ。
「いーーーーーたーーーーーー!!!」
穏やかな沈黙をぶち破った、ムネモシュネの絶叫に二人は飛び上がった。
息を切らした二人の騎士が鎧をがちゃがちゃ言わせながら駆け寄ってくる。
「陛下すみません、一人にせよとの仰せでしたがそうもいかず」
「追いかけてきました!ってなんかこれ空気読まない感じっぽいですね!?やっぱり帰った方が良いですか?!」
一気に賑やかになった。アルがたまらずにクスクスと笑い出した。
「…………ごめんなさい、なんだかおかしくて。賑やかな人たちですね」
「かまいません。実の所落ち込んでいたのですが、何だか少し、気分が良くなりました。ありがとうございます、アルさん」
そう呟いたシャルルの頬に、ぽつりと冷たい雫が落ちたのを感じた。雨粒だ。空気の匂いが変わり始めている。さっきまであんなに天気が良かったのに。柔らかく降り注いでいた陽光が雲に遮られたのか、急な冷えを身体に感じた。