燐光 <シーズン1>   作:るり子/janegoe19th

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7幕

サフィルスからの難民の記録の閲覧の許可が下りてからは、宮殿の資料室と集落を行き来する日が続いている。

氏名と当時の受け入れ先が記されているが、十年もすれば移り住んでいることもあるだろう。親族などを頼って祖国へ戻れた者もいるかもしれない。受け入れ先がクマノの住民の名前を書き写して、後はひたすら住民達に聞き込んでいく。文字通り自分の足で調べられるのはクマノ内が限界だ。

もっと広い地域を出歩きたい、と言えばミサキは許可をくれるかもしれないが、目立って反感を買うのは避けたい。地道だが、これが確実だろう。実際にサフィルスの者と顔を合わせ、言葉を交わしたいというのもある。

多くの者はユーディトを覚えていてくれた。よく生きていてくれた、と涙を流して喜ぶ者もいた。

……そして、蔑みの言葉をユーディトに向ける者がいないことに安堵した。自分は命惜しさに国を捨てて逃げたのではないか、と思ったことは何度だってある。彼らの口から、叱責や怒りの言葉が吐き出されることを恐れていた。

甘いのかもしれない。それでも少しだけ救われた気がした。

 

――しかし、気がかりなことはある。

 

控えめなノックの音を聞いた。口から湯気の立つ金属製のポットを盆に乗せている。クマノでは有名らしい、鉱人四姉弟のうちのトロワだ。資料室勤めの彼女とは何度か顔を合わせている。

「こんにちは、女王様。お茶をお持ちしたんですが、良かったら休憩しませんか?」

「ありがとうトロワ。いただくよ」

「クマノ名物のハス茶です。美容にも良いらしいんですよ」

彼女はそう言って慣れた手つきでお茶を淹れてくれた。仄かな香気が立ち上る。ユーディトはつい椅子の上で背伸びをしたが、人の目があったことを思い出して「……失礼」と呟いた。いいんですよ、とトロワが微笑む。気が強そうな顔立ちだが、朗らかで愛想が良い。離れの衣装棚に民族衣装を用意してくれたのも彼女だそうだ。温暖なクマノでは、いつもの服は少々暑さを感じるが、最近袖を通しているそれは、着心地が良く、その上動きやすくて気に入っている。

「随分と難しい顔をされてましたけど……あの、私にもお手伝いできることはありませんか? 私、統計調査とかで外回りする時があるんですけど、もしかしたらお役に立てるかも……かも……?」

少し自信がなくなったのか、声が小さくなった。ユーディトは茶を一口啜り、少し目を閉じる。

「人を探しているんだ。ここにいるかもまだはっきりしないんだが……。トロワ、何か知っていたら些細なことでもいい、教えてくれないか」

 

最後に彼女を見たのは、あの日の騒乱の中だ。ユーディトの記憶の中では、今も彼女はあそこにいる。名簿と資料室と集落を行き来する日々の中で、それは時が過ぎる度に深く根を下ろしていった。その“気がかり”の名は――

 

 

 

 

 

――青瑪瑙の角に茶色の髪の方、当時は三十代後半の方ですよね。南の村の食堂に……そんな方が働いていたような。当時でそれぐらいのお年でしたら、今もそんなにお変わりない筈です。私達は、二十歳を超えた辺りで老化が急激に遅くなりますから。でも、お名前が……女王様がさっきおっしゃられたお名前で、呼ばれてなかった気がするんだよなぁ――

 

南の村の近くの森には凶暴な獣が出るから、あまり近寄らない方がいい、と道すがらの角のない老人から教えてもらった。村の所々に物々しい杭付きの囲いが組まれているのに違和感を覚えていたのだが、理由を聞けば納得のいくものであった。

ついでに人を探していると言えば、老人は道端の小さな石像に新しい花を供えながら、「あの娘さんならもうちょっとで帰って来るよ」と。日中は食堂で働いており、家にいるのは昼下がりかららしい。

 

待ち伏せというのも何だか気分が良くないが、機会を逃したくない。村外れの、森に一番近い場所にぽつんと建てられた小さな家の近くで待っていると、長くを待たずして“彼女”は戻って来た。

茶色の髪は当時より短くなっていたが、青瑪瑙の角と穏やかな面差しは、記憶の中のものと変わらずにそこにあった。

「――ホレという名前のご婦人は貴女か」

壁の影から姿を現すと、彼女はその瞳を大きく見開いた。続いて震えながら開いた唇が僅かに息を呑み込んだが、それを声として吐き出すことを彼女はしなかった。ただ、怯えたような目をして、森の方へと走り出して行った。

「待て!待ってくれ――グレーテル!」

獣が出ると聞いたばかりだ。追いかければその分だけ逃げられてしまう気がした。確信を得るまでその名を呼ぶのは避けようと思っていたのだが、咄嗟にそう叫んだ。その声を耳にしてから立ち止まった彼女は、ゆっくりと振り向いて「姫様……」と震える声で言った。

「どうして逃げるんだ。私は……貴女を咎めに来たわけじゃない。貴女に会いに来た。……懐かしい話を、貴女とできたら良いと思って……いいえ、それだけじゃないわ――あの時の事を、聞きたかったの」

彼女は何も答えない。ユーディトは腰に下げた剣を留め具から外した。剣が転がる重い音が響く。

「……大丈夫。怒って貴女を斬ったりしないわ。あの日のあの場所に、貴女を置いてきてしまったんじゃないかって、ずっと思っていた」

彼女は――グレーテルは、暫く呆然と立ち竦んでいたが、やがてゆっくりとユーディトの元へ近付き、剣を拾い上げて差し出した。

「いけませんわ姫様――ああ、このような危ないところで、剣をお外しになるなんて――」

少し落ち着いてくれたようだ。ユーディトは剣を受け取ると、足元の覚束ない彼女の肩を支えながら、家の扉をくぐらせて貰った。

 

 

 

 

 

雨が降り始めていた。窓ガラスに飛び散った雨粒が弾けて、小さな雫を気まぐれに撒き散らしている。ここ数日は天気が崩れ気味だった。

ユーディトはグレーテルが淹れてくれた紅茶を傾けながら、彼女が語り出すのを待った。ほんの少しだけ砂糖が入った紅茶の味は、十年の時を経てなお変わらない。

二杯目としてミルクを入れたものを、こちらが何も言わずとも注いでくれながら、彼女は雨音に掻き消されそうな程のか細く頼りない声で呟いた。

 

「――私は、逃げ出したのです」

 

彼女が暗い表情をし、暗い言葉を口にするのは苦しかった。アルテミジアとパンを作りながら、共に笑っていた彼女を今でもよく覚えているが故に。

「姫様を、城の中にお送りしてからは……私はずっと外で戦っておりました。城を襲ったルベウス兵は……それは、残忍で……戦えない者から殺していったのです。まるで……まるで我らの心を挫くようにそうしていったのです」

あの時、ルベウスは先帝の一件があり、決して余裕はなかった筈だ。こちらの心を挫くことで、戦力差を埋めようとしたのだろう。頼りの騎士団は大半がルベウスに出払ったまま、これを絶好の機会とし――信頼を裏切り、毒を仕込んで多くを無力化し、城の者は徹底的に虐殺する。理解は出来ないが納得はいく。

「……私は……少しでも沢山の人を逃したくて戦いました。やがて……ああ、やがて。バルコニーに人影が見えたのです……私は、それを……それを、オディリア様だと思いました。お祝いの時に、美しい女王様が……手を、お振りになられるのは、あのバルコニーからでしたから。きっとそこで、勝利の言葉を口にされるのだろうと。私は……そう思って……ああ、ああ!」

グレーテルは顔を覆って泣き崩れた。ユーディトはティーカップをソーサーに置いて、彼女に寄り添い、両腕で抱き締めた。

「なりません、なりませんなりません! 私の口からは……とても……! これは冒涜です、王族の誇りと名誉に対する冒涜です!」

「話してくれグレーテル。貴女が、傷付くのも分かってる。でも、私は――それでも私は、王族として聞かねばならない。受け止めなければならないんだ――王の最期を看取るのも、王たる者の役目だ」

「ユーディト、様……」

彼女は雨よりも激しく涙を流していた。恐れ、震えるその唇が、ゆっくりと、その言葉を告げる。

 

「バルコニーに現れたのは……鳶色の髪の竜騎士でした。その男は――オディリア様と、アルテミジア様を……お二人のご遺体を……酷く傷付けられたお二人を、あろうことか、そこから……そこから下へ、投げ込んだのでございます…………」

 

その言葉を耳にした時、さながら世界が燃え上がったような――あるいはそうなったのはユーディトの心だったのかもしれない。小さな熱を抱いたままの埋み火が一息で燃え上がるような、そんな感覚だった。それは灰すらも残さぬ程熱く、この世の憎悪を寄せ集めて燃やしても、まだ足りない程の熱を持っていただろう。

――ああ、母が終焉を前にして焼かれたのはこの炎だったのか。

 

「それを見て私は……恐ろしくなって逃げたのです。次は私がこうなるのかもしれないと……そう思うだけで身が竦みました。城を逃れ、救出に来てくださったリゥスイの方々の元へ、身を寄せました。私は名前を偽りました。最後まで戦わなかった臆病者と、罵られるのが怖かったのです――」

「――分かった。辛い思いをさせたな。よく話してくれた。貴女を臆病などと責めたりはしない。そんな者が現れたら、私が手ずから宝剣の錆にしてくれる」

「ユーディト様――」

ゆっくりと、グレーテルはユーディトから離れた。泣き腫らした目は幾分か落ち着いたように見えたが、悲壮なものを滲ませている。

 

「……いいえ。貴女が許してくださっても、私は私が、許せないのです。貴女に合わせる顔はない筈だったのです――どうか、私めをお忘れください。私はただの給仕婦です。グレーテルなどという女は、あの日にとうに死んだのです」

 

外は雨です、と言って彼女は傘を持たせてくれた。

それはおそらく彼女からの最後の言葉になるだろう、とユーディトは思った。

 

 

 

 

 

「この間よりだいぶ片付いたじゃないか。手伝おうか?」

 

換気のために開け放たれた扉に片腕を気怠げについて、ユーディトがひょっこりと顔を出した。最近は服に合わせて結い上げている髪の毛先が揺れる。もう片方の腕には閉じた傘がぶら下がっていた。

「終わる目処が立ちましたよ。ところでユーディト様、今日はその……グレーテル殿は見つかりましたか」

「ああ……見つからなかったよ。残念だ」

「きっとどこかで元気にやってらっしゃいますよ」

「そうだな――なぁフィーア、傘はどこに置いたらいい?」

奥にいたフィーアはそこでやっと女王の来訪に気付いたようだ。慌ただしく出てきたが、両腕に本を抱え、会釈も出来ない状態だ。

「申し訳ありません、傘はそこの壁に――」と彼女は口を開いた。だが、遠くから聞こえた妙な音に言葉を止めてしまった。何の音だ? シャーロックは窓へ向かい外を見た。ユーディトと、本を机に置いたフィーアもその後に続く。

クマノの宮殿の方角から煙が上がっている。フィーアが、「姉ちゃん」と小さく呟いた。

「フィーア、君はここにいるんだ。シャーロック! お前はモリオンを呼び戻して来い。私は――宮殿へ向かう」

「はい。すぐに追いつきます」

何もなければいい。小火か何かであればそれでも安心出来る。嫌な予感がした。先程聞こえたあの音は爆発音だ。もう耳にしたくもないと思っていたが――

 

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