燐光 <シーズン1>   作:るり子/janegoe19th

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2幕

元々は山奥で暮らしていたのだ。騎馬であれど、二人にとって森の中を駆けることなど容易かった。雨は止んだが、深い霧が夕刻の森の中に白く立ち込めている。獣が出る、と杭付きの柵を向けられていた南の森だ。思っていたよりずっと大きい。シャーロックとモリオンの機影はこの森の方向へ墜ちたように見えたが――

「ユーディト様、シャルル殿が……」

ユーリシュカがそう言って馬の速度を徐々に落とした。ムネモシュネもそれに習って並走する。シャルルは、振り落とされまいとユーリシュカの腰に腕を回して、俯いて何かを呟いている。いや――まだ歌っている。先程の歌とは違う。か細い声で、物悲しい歌を口ずさんでいた。止まってくれ、と二人に告げる。ユーディトは馬が完全に脚を止める前に飛び降りて、シャルルの元へ近付いた。

「もういい、シャルル殿」

「あ――あ……ユーディト様……僕……」

「窮地は脱した。君のおかげだ」

顔を上げて彼はこちらを向いた。我に返ったらしい。元々色白の顔をさらに白くしていた。今にも馬から転げ落ちそうな彼を、追いついてきたムネモシュネが体を支えながら下ろしてやる。いつもはその聡明さに瞳を輝かせ、堂々とした佇まいのシャルルは、今はその影も見当たらない程に衰弱していた。そんな様子が、ユーディトの焦りをかき立てている。

「二人共、陛下を頼む。私はシャーロックを探しに――」

そう言いかけたところで、人の気配と葉擦れの音がした。剣を構えて音の方向を睨む。

霧の中にその者は姿を現した。

 

「――グレーテル?」

 

 

 

 

 

「もう口をきいてくれないと思ってた」

ユーディトはそう呟いた。彼女はそれには答えずに小さな蝋燭に火を点ける。この家屋は昔、森にまだ獣が少なかった時代に使われていた作業小屋らしい。ほとんど廃墟のようなものだが、雨風を凌ぐには充分だ。

「……この森の危険性は彼らも分かっています、故にここまでは追って来れないでしょう。姫様であれば、獣など恐るるに足りないと思いますので」

壁に寄りかかって肩を寄せ合いながら双子は休んでいるが、その手元には武器が置かれていた。物音を聞きつけたら二人はすぐに臨戦態勢に入るだろう。

シャルルはグレーテルが持って来てくれた毛布にくるまって寝息を立てている。少し眠れば大丈夫、とは本人の弁だが、本当に大丈夫なのかという不安が拭い去れない。

そしてシャーロックは――小屋に案内されて、横たわるその姿を目にした時、生きていたのかと安堵した。そしてすぐ、熱く燃え上がっていた胸の中が、今度は脆く灰のように崩れていくのを感じた。やっと冷静になれた、と言ってもいい。彼が墜とされたのを見て、理性を失いかけていた。

グレーテルが、墜ちていく一人と一匹の機影を偶然目にして森を捜索すると、軽傷のモリオンと、彼女の翼に守られるようにして座り込み、動けずにいるシャーロックがいたとのことだ。小屋へ移動させ、応急手当てをしているうちに、血を流しすぎたのか気を失ってしまったという。発熱しているようで、時折魘されている。

「明日の朝、もう一度来ます。約束は出来ませんが……必要そうなものを持って来ます。どうかご無事で……」

「無理はしなくていい、ありがとうグレーテル」

グレーテルは何も言わずに一礼すると、静かに小屋を出て行った。

 

 

 

 

 

矢の雨を目の前にして、自分が射られることよりも、その鏃が向けられた先がユーディトであることに戦慄した。同時に、モリオンを巻き込みたくはないと思った。彼女は人の都合に付き合ってくれているのだ。そして最終的にどういった結果に帰結しようが、無様な骸を晒したくない、とも。それらを統合し、頭が結論を出すよりも早く、身体はこれらの最適解へ向かって動き出していた。

弾き返した矢の質量と振動が手にした斧を伝わって腕に響いていく。数発を弾いたところで、左肩を衝撃が突き抜けていった。傾いだ身体を振り落とさぬよう、モリオンはこちらが指示せずとも身体の向きを動かした。矢の雨の僅かな切れ間を見出して降下する。それでも避けきれなかった何本かが掠め、突き刺さったのを感じた。だがモリオンにだけは直撃させまいと手綱を操って、眼下の森の中に飛び込んだ。

辛うじて墜落ではない、といった有様だ。最もそれは乗り手からの主観であって、側から見れば墜落したようにしか見えないかもしれない。鬱蒼と生い茂る木々の枝をへし折りながら、彼女は黒い翼を無理矢理広げて羽ばたき、着地に適した速度まで強引に減速する。その風を受けて、水を含んだ木々からは水滴が滴り落ちた。着地の衝撃が身体を軋ませたが、まだ倒れる訳にはいかないと堪えて竜の背から降りる。

「……モリオン、平気か?」

そう問えば彼女はこちらを向いてゆっくりと瞬きした。黒水晶の名に相応しい、品のある艶を帯びた美しい黒鱗には幾つか擦過傷が見受けられたが、大きく損ねられておらず、翼も折れていない。胸を撫で下ろしたのも束の間、彼女よりも遥かに重傷であるらしい自分の身体が限界を訴えた。相棒の脇腹に背を預けて座り込む。彼女は翼を僅かに広げて、その姿を覆い隠すようにしてくれた。

飛行兵に対して優位を取りづらい鉱人達の「虎の子」が先ほどの兵器群だったのだろう。左肩を掠めた矢は、肩当を跳ね飛ばし、その下の皮膚をも深く裂いている。左脚と右脇腹に受けたものに至っては鎧の上から突き刺さっていた。矢は通常のものより大きく、重く作られているようだ。矢の質量と落下の衝撃が加わった一撃は相当なものだ。身をもって知ることとなった。これならば、騎竜の強靭な鱗と筋肉を貫くことも容易いかもしれない。

「……モリオン、いい。俺のことはいい。君だけでも……どこかに……」

そう口では言いながら彼女の腹に頭を預けている。角の重みで頭と身体を支えきれないのだ。彼女はシャーロックを振り払うことも、どこかに行く素振りなど少しも見せずに、しばらく喉を鳴らしていたが、やがて他の匂いを嗅ぎつけたのか頭を持ち上げた。エルサンダーの魔道書を手に、何とか立ち上がる。ドナスタークはフィーアに預けたままで、手斧は投擲して喪失、主武装の長斧はどこかで落としてしまっていた。

森の中に小柄な人影が見えた。しんと冷えた空気を震わせて、女の声がする。

「やっぱり――ああ、良かった。間に合ったみたいね……」

茶色の髪。青瑪瑙の角。もう、会えないのかもしれないと思っていたその姿を見て、痛みも忘れて安堵の息を吐いた。

 

 

 

 

 

歌が聞こえる。

朝か昼かも分からないが、柔らかな薄橙の光が差し込んでいた。ここは死の国か。だとしたら、それはこんなにも安らいだものなのか――そう思う程にここは穏やかだ。

窓辺に少女が立っていた。歌が止まる。天極の星よりも激しく、強い青を湛えた髪を肩から滑らせながら、彼女は振り返る。驚きに見開かれた瞳もまた冴え冴えと青い。青玉の輝きを細めて少女は微笑んだ。

 

――同じ歌声で、シャーロックは目を覚ました。

 

暖かい薄橙の日差しもここにはない。小皿に乗せられた蝋燭の火だけが唯一の光だ。窓辺に少女はおらず、埃と黴の匂いをかき消す程の、水を含んだ土の匂いがした。

歌が途切れる。代わりに、微かな衣擦れの音がして、女性にしては少し低い声が耳に届いた。

「……すまない、起こしてしまったか」

無様な姿を晒したくない。身を起こそうとしたが、小さな声で「寝ていろ」と諌められた。長い溜め息の音。目が慣れて、闇の中の陰影が見えてくる。ユーディトは、立てた膝に腕を置き、剣を抱えてすぐ側に座っていた。

「私があの城から持って来れたのは、この剣と、宝玉と、ほんの少しの思い出……この歌もそうだな、母から教わった。――それとお前だ、シャーロック」

ハジャルアズラク、というサフィルスでは聞き慣れぬであろう名を告げた自分に、難しい名前ね、そうだ、サフィルス風の渾名を付けてあげるわ――と、そう言ったかつての少女が同じ唇で、自分の名前を紡ぐ。彼女の声色は少し憤りを含んでいた。

「お前が射られた時、私は怒りで我を忘れるところだった。お前を墜とした者を皆殺さなければ、と思った。あの場でユーリシュカ達が来なかったら、無我夢中で斬り込んでいただろう」

無我夢中だったのはこちらも同じだ。矢の雨を目の前にして、気付けば囮になるべく愛竜を駆り立てていた。

「――もう、あの時のような子供ではない。お前に守って貰わずとも、自分の身ぐらい自分で守る。だから、その……お前も、自分の身を大事にしろ。私の為に死のうとすることは許さんからな」

闇の中から伸ばされた手が、シャーロックの頬に触れた。熱を帯びた身体には心地よい体温だったが、彼女の手は酷く冷えていた。

「ユーリとモネが見張っている、心配しないで寝ていろ。お前には早く治って貰わなければ困る」

彼女の激しさは、優しさと表裏一体であることを自分は知っている。故に時折怖くなる。彼女はその激しさのままに、いつか自分の前から消えてしまうのではないか、と。炎を上げて美しく星が燃え尽きるように。

「ユーディト様」

「なんだ」

「……歌を……先程の歌の続きを……聞かせていただけませんか」

吐息のような声だったが、彼女の耳には届いたようだ。ユーディトは返事の代わりに、小さな声で歌い始めた。故郷を懐かしむ、祈りと願いの歌――在るべき場所を二度も失った身には、その歌はあまりにも残酷で、美しく、優しかった。

 

 

 

 

 

何故歌を口ずさんだのだろう。シャルルの影響だろうか。

……まぁ、そんなことはどうだっていい。シャーロックは先程よりは穏やかな寝息を立てて寝入ってくれたのだから。

胸が痛い。彼を傷付けられたことが苦しい。悔しい。哀しい。まるで己の身が傷付いたように。優しい黄金の眼差しが、今は痛みに侵されて不安定に揺らぐのを見て、酷く不安になる。

「……おやすみ」

もう一度だけ頬に触れる。暖かい。生きている。もう少し触れていたい。でも、これ以上続けたらまた起こしてしまうだろう。すぐに温もりが消え失せて、冷えていく掌を一度強く握り締めると、ユーディトは膝に顔を埋めた。

 

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