長く生きていると、覚えている出来事がどれぐらい前のことだったのか、曖昧になることがある。
少なくともこれは――せいぜいここ数年の記憶だ。
薄暗い物陰に連れ込まれ、何人かの男に蹴られ殴られた記憶。角のある者も、ない者も混じっていた。この場にいた者以外は誰にも知られぬように、と顔を殴ってくることはなかった。痛む身体を引きずって官舎へ戻ろうとした時、当時はまだ事務職についたばかりのトロワと遭遇してしまった。そこであろうことか意識を失い、気付いたら資料室にいた。
「今私しかいないから」と彼女は自分を運んで手当てをしてくれていた。傷だらけの理由を聞かれて口籠もれば、それで察されて溜息を吐かれ、酷いことされたのね、辛かったでしょう――と呟いて、彼女は悲痛そうに目を伏した。
君は優しいんだな、と思わず漏らした。親の七光りの癖に、王の器ではなかった期待外れである僕相手に。首領の近くに置いてもらっているのもお情けなんだろうって皆が言ってるの、ずっと前から知ってる。あいつらは僕が気に入らないんだ。だからああやって鬱憤を晴らしにやって来る。
私は誰にだって優しいのよ、と彼女は言った。あんたが誰の息子で誰の友人かだなんて関係ないわ。嫌な奴もいるのね、あんたから言いづらいなら私が上にチクっとくけど?
貴方さっきから眉間に皴寄せて私のこと見るけど、目見えてないんでしょ。そうだわ、弟が視力矯正用の何かを作ったんだって――眼鏡をかけるようになったのは、そんなことを言われたのがきっかけだ。
死者の遺体は埋葬した。死者の埋葬に時間を割いている暇はない、だが蔑ろにすることは出来なかった。衛生面の問題もある。トロワは特に、丁寧に弔った。彼女を殺したのは他ならぬ自分であるのに、二律背反もいいところだ。
――構わない。誰しも矛盾を抱え、折り合いをつけてなんとか生きている。それから目を反らすよりはずっといい。
愚かである事に何の隔たりもありはしない。
あの時友に、鉱人が主体の国に作り替える、と言ったのも些細な長所を重んじただけに過ぎない。少し知能に長け、寿命が長い故、やり直しが効く。ただ、それだけだ。もし、鉱人と人間の間に引かれた境界線が見目の違いだけであったのなら、単純に優れた者をここに立たせるだけだ。
部下の声が聞こえて、オブシウスは暫しの瞑想から舞い戻った。
女王が蜂起したという。
「もうシューターは撃って来れない。被害面積と被害人数、矢の備蓄数からざっくり算出して――矢を回収しないかぎり、あれで弾幕を張れる程の矢の残りがないはずだ。シューターの矢は専用のものだからね、普通の矢では代替出来ないんだよ」
「では、頭上には気を取られずに戦える訳だな」
「うん。でも普通の弓歩兵も少しはいるだろうから気をつけて」
力強く肯定するフィーアの声を背に受ける。解放軍の面々には、出来る限り太陽を背にして戦うよう告げている。シャーロックからの助言だ。赤々と燃える夕刻を背にすれば、相手はこちらを認識し辛くなる。だがそれも日が落ちるまでの話だ。暗くなってしまえば、数で劣るこちらはさらに神経質な戦いを強いられることになる。それは避けたい。
「では、全員検討を祈る――私は、先に往く」
ユーディトは腰を落とし、低い姿勢から駆けだした。土を踏む感触が、やがて池に渡された木製の足場を蹴る軽い感触に変わる。総大将自らの突撃ににわかに騒然とした気配が伝わったが、怯んでくれたなら好都合だった。
先鋒は重装の魔法兵――防御を補いつつ得意の魔法を生かせる、という訳だ。走りながら鞘から剣を引き抜き、先頭の一団めがけ投擲した。回転しながら飛んでいく宝剣は、数人をまとめてなぎ倒したところで、ようやく床板に突き刺さって止まった。竜の牙と骨で作られた剣は、多少手荒な扱いをしたくらいでは傷付きもしない。
前方が開けたところで、腰に下げていた副武装のレイピアを二本抜いた。床板を蹴って加速する。盾を構えた兵士の少し前で跳躍し、盾の上部を踏み台に大きく跳んだ。重装とは言え、文字通り穴は存在する――肩に着地したユーディトは、レイピアを首元の鎧の隙間から捻じ込んだ。地に降り立てば事切れた男がどっと崩れ落ちた。血の一滴すらも零すことなく倒れた男の向こうに、僅かに動揺したものの、役目を果たすべくこちらに向かってくるさらなる一団が目に留まる。真横と頭上をごう、と音を立てて何かがいくつも通り過ぎていった。こちら側からの魔法の援護だった。
「何だあのデタラメな動きは!」
「驚いている場合か!続け続け!ユーディト様が道を切り開いた!」
炎が燃え上がり、雷撃が奔り、風が大気を引き裂いている。その嵐のような戦場の合間を縫って、かつてサフィルスにいた者達が武器を持って走り出していた。剣戟と咆哮の中に、美しい歌が響く。シャルルの唄だった。後方で、武闘装備を見に付けたフィーアに守られながら、鼓舞の讃歌を紡いでいた。その声に背を押されるように、ユーディトは再び駆けた。
一人の見張りを残して他は出て行った。戦いが始まったのだ。無数の剣戟の音がする。
王座にもたれかかるミサキに、ワンは付きっきりで側にいた。美しい顔には疲労が滲んでいるが、辰砂の赤を帯びた瞳の奥には激しい感情が揺らめいている。ゆらり、と彼女は立ち上がり、見張りの元へと近付いた。戦えぬ者と戦う意思のない者しかいないならば、見張りは一人で充分と判断されたか。それとも見張りに手を回すよりも、宮殿を解放しに来た者達を先に始末するべきと判断したか、定かではない。判断するには情報が少なすぎた。
剣を携えた見張りの男は、ゆっくりと接近するワンを見て剣の柄に手をかけた。ワンは、紅が落ちてなお紅い唇を笑みの形に歪ませると、すっとしなやかな腕を伸ばし、男の背中に絡ませた。そして――驚きに呼気を漏らしたその唇を唇で塞いだ。
男は暫く驚きに目を見開いていたが、異変に気付いたのか剣を取り落とし、身体に回された腕を離そうともがいていた。だが、やがてワンの背中を掻く指先が痙攣し、次に痙攣を腕から全身に伝播させ、やがて膝を折って床の上に崩れ落ちた――辰砂毒だ。ワンの角を形成する鉱物には毒が含まれている。その影響か、彼女は粘膜にその毒を有しているのだ。お陰で好きな人が出来てもキス一つできないのよ――とぼやいたのはいつのことだったか。虚しさを埋めるように、人との繋がりを求める彼女の姿をミサキはよく知っていた。
「……死んだのか?」
倒れた男を爪先で小突く。ワンは口元をハンカチで拭いながら「一応は生きてるわ」と呟いた。
「後遺症は残るかもね――ミサキ、煙管はある? 禁煙して何処かにしまっちゃった?」
「執務室の机の中にあるが……」
「そう、分かった。窓と扉を閉めていてもらえるかしら――私が戻るまで絶対に開けたらダメよ、絶対にね」
彼女は低い声で言うと、靴の踵をコツコツと鳴らしながら王座の間を出て行った。やる気だ。煙と一緒に毒を撒き散らすつもりだ。
玉座の肘置きに手をついて、ようやく立ち上がったミサキは、女官達に声をかけた。
「窓と扉を閉めろ!それと、出来るだけ空気が通るような隙間を塞げ!」
いくら馬術に長けようと、狭い足場の上では小回りが効かない――なので、今日は馬は置いて来た。視線がいつもより低いのがしっくり来ない。敵の魔法兵は率先してリゥスイ兵が相手してくれている。背中を焼かれる心配を少しでもしなくて済むのは心強い。
敵味方入り乱れての激しい乱戦だ。花弁を閉ざした睡蓮の花に、夕陽の光よりも赤い血が降り注いだ。敵はこちらが返り血を浴びるよりも早く、角の生えた頭の重さに引きずられるように、後ろに向かって身体を傾かせていく。水飛沫が上がる。沈んだらおそらく上がっては来れないが、溺死する前にことが済むだろう。
姫様は――と周囲を見回した。敵側総大将狙いの主は、今もなお最前線に斬り込んでいるところだった。彼女の動きに合わせて乱れ、舞い上がる青色の髪は全てを飲み込む激流のようだ。綺麗だ、とムネモシュネは思った。彼女の騎士になりたいと思ったのは恩を返したい、と思ったから。けれどもその他に、彼女をずっと側で見ていたい、と思ったことも理由のひとつ。圧倒的な破壊とは、時に美しささえ感じるものだ。
「増援が止まったな、何故だ?」
剣で重装兵を切り捨てながら、ユーリシュカはこちらに声をかけた。
「分かんない。正直どれぐらい増援が来たとか把握してない!」
増援が止まろうが、こちらは数で劣る。協力を申し出たサフィルスの民は長らく戦場に立っていない。しかし女王の突破力ばかりにも頼っていられない。どれだけ士気が高く統率されていようが、純粋な戦力差というのは覆しがたいものだ。
そんなことを考えているうちに、女王の姿が重装兵の姿に埋もれて見えなくなった。ガン!と鎧と金属の擦れる音がこちらまで届く。圧殺する気か――ムネモシュネは槍を構え、渾身の力を込めて投擲した。主武装として使っている長槍は戦いの最中に壊れ、予備の手槍で戦っていた。これを失えば丸腰になる。だがムネモシュネは躊躇わなかった。
頭上から降り注いだ槍に一人が貫かれた。
随分と遠くに、ムネモシュネの赤い鎧姿があり、そこに別方向から兵士が殺到するのを見た。
ユーディトは今すぐにでも引き返さなければと思った。だが、自分が戻るまでもなかった。ユーリシュカが殺到する兵士を斬り伏せていたからだ。
彼がいるのなら大丈夫と判断する。槍を胸に受け崩れ落ちた肢体の頭上を飛び超え、反転し剣を叩き付ける。一人が池に落ち、厚い鎧を凹ませてさらに一人が天を仰ぎながら倒れた。ひしゃげた鎧に胸を圧迫されて息が出来ないのか、その若い男は助けを求めるように手を伸ばしていた。
距離を取り次の動きに備えた。動きを止めた別の兵士をユーディトは一瞥する。女王の首を取るべきか、助けるべきか――と躊躇したのであろう。まだ年若く見える彼は仲間を助ける方を取った。
一人を殺すよりも、一人を負傷させた方が、負傷者を救出する分だけ人手を減らせる。戦う意志のない者を深追いすることもない。
一度剣を血振りしながら辺りを見回せば、随分と奥まで入り込んでしまったことに気付く。宮殿はもう目の前だ。ただひたすら、敵の多い場所を狙って突き進んでいたが、どうやら正解だったらしい。
三人の死体の真ん中にムネモシュネは膝をついて座り込んでいた。木の床板の上に流れ出た血は、それが元は誰のものだったのか分からない程に混ざり合っていた。
「だめだよ、ユーリ」
肩と腰の辺りから血を流しながらムネモシュネは言った。
「姫様は行った。君も立ち止まっちゃだめだ」
「馬鹿を言うな、君を放っていけるか」
あらゆる音が飽和している。近付いてくる無数の足音が敵なのか味方なのか、もう分からない。それほどまでに頭の中がいっぱいだった。
脳裏にちらつくのはあの夜の記憶――石に足を取られて転んだムネモシュネは、小さな声で「おいてにげて」と。確かに、そう言ったのだ。
「まだ敵が来る!僕はいい、姫様の為だったら死んだっていい!」
「駄目だ!姫様の為だろうが君に死なれたら困るんだ!」
あの夜は二人の全てだった。主たる女王と、ただ一人の血のつながったきょうだい。天秤にかけることはできない。どちらも、失う訳にはいかない大事なものだ。どちらかでも失くしたら、きっともう生きていく意味なんてなくなってしまう。
「見て」
血の流しすぎで白い顔をしたムネモシュネは、どこか呆けたような顔をして天を仰ぎ、空を指で指し示した。朱色に、夜が近付き始めたことを示す濃い瑠璃と黒が混じり始めて、空は極彩の階調に彩られている。
…………そこに、豆粒ほどの騎竜の影が一つ。人影が躊躇いなく飛び降りたのが見えた。それはちょうど、主が切り込んでいった辺りに向かって落ちていった。合流する、と言っていたが――どうも、竜から飛び降りた人影は一人分にしては大きかったように見える。
続いて、どこからか放射状に光と、少し遅れて風が吹き抜けていった。広範囲治癒術だ。
「――ムネモシュネさん!ユーリシュカさん!」
フィーアと共にシャルルがやってきた。シャルルは細腕に治療道具を抱えている。
「少し離脱しましょう、立てますか、モネさん」
「うん……さっきの治癒術が少し効いたかな。誰なんだろう」
「あれは――」
シャルルの代わりにフィーアが口を開いた。
「アル姉さんだ」
宮殿が近くなったところで足場が広く、高くなった。舞台のようなものが見える。近々祭が執り行われると聞いていたが、それに使われるものだろうか。
階段をゆっくりと登って行けば、少数精鋭らしい佇まいの、片手の指に収まる数の兵に囲まれた将が悠然と待ち構えていた。彼は部下たちを制し、他の手薄な場所へ向かうよう指示を出した。
「まったく無茶な人だ。総大将自ら突撃とは……」
「考えを巡らせる頭も人的余裕もないものでな。それに将が動かねば部下に示しがつかんだろう」
声色は呆れ混じりだったが、眼鏡の奥の黒い瞳には感情の動きが見えなかった。決して屈強ではない体躯に、身の丈ほどの大剣が異様さを覚える程に噛み合っていない。だが、飾りではなさそうだ。一戦交える覚悟もなしに、のこのこと姿を現す程愚かではあるまい。
「クーデターを起こした時、流石に国外に逃げてくれるかと思ったのですが」
「私がもう少し賢ければそうしていた。だが生憎とお前ほど学がない。――私個人としてはな、お前の思想などどうだっていいさ。そんなことより、ミサキ殿にはサフィルスの民を救ってもらった恩がある。それを前にして逃げ出すことなど誰ができよう?」
「良いでしょう。お互いに長引くのは得策ではない、ここでケリをつけましょうか。正直なところ少し安心しています。あれだけ兵力をぶつけても貴女は止まらなかった。竜の血脈を受け継いだ王族の力は凄まじいものですね。………ですが、流石に疲れが見える。これならば私にも相手が務まりそうだ」
「ふん、ほざけ軟弱者が。口よりも身体を鍛えておけば良かったと後悔させてやる」
副武装のレイピアを外して身体を少し軽くする。辺りは薄暗くなり始めていたが、篝火を灯す者はおらず、ただ闇が深く濃くなっていくばかりだった。オブシウス、という名だったか。武術の心得はあるようだが、この男が戦っているところをユーディトは見たことがない。どういった戦い方をするのか皆目見当がつかない。まずは出方を伺うか――と迎撃の構えを取った。
その刹那だった。オブシウスは息を飲んで後ろに跳び退った。距離が開いた二人の間に人が降り立ち、編み傘の下から流れる珊瑚色の髪がふわりと揺れた。腕に女性を一人抱えている。
頭上では騎竜の影が離脱していくのが見えた――合流する、と言っていたが「誰と」とは聞いていなかった。今更ではあるが。てっきりシャルルの仲間である弓騎士のことであるとばかり。それにしても、あの高さから降りて無傷だと言うのか。そもそもとして、彼は負傷して川に落ちた、とフィーアから聞いた。数日で治るような負傷だったのかも分からない。だが――こうやって生きていたのだからそんなことはどうだって良かろう。
感情の動きが見えなかった筈のオブシウスの瞳が、動揺と驚愕、そして激昂に揺れる。
フリードは抱えていたアルを下ろした。アルはオブシウスを一瞥したあと、溜息を吐いて宮殿とは反対方向へ走り出した。走りながら、彼女は杖を掲げた。彼女を中心とした放射状に、広範囲の治癒術が齎す光が広がっていく。あの一瞥には様々な感情が篭っていた。だが、彼女は軍医だ――復讐よりも治すことを選んだのだろう。
「……どうやら私はお呼びでないようだな?」
ユーディトはそう言うと、オブシウスとフリードの横を通り抜けて宮殿へと向かった。ここはフリードに任せて、増援の処理とミサキ達の救出をしなければ。