「例え生きていたとしても、動けるような怪我ではないと思っていましたが」
「見ての通りだ」
フリードは刀を抜いた。オブシウスはまだ剣を構えずにいた。彼は抜き身の大剣を魔力で覆って鞘の代わりとしている。抜刀の隙はない――どう出るか。螺鈿細工のような色を仄かに帯びた黒い瞳は、言葉は何とか平静を装っているものの激情を隠し切れていない。
「抜け、オブシウス。それとも“角なし”相手に自ら遅れを取ると証明するか」
「人に喧嘩を売る時ぐらい、顔を見せたらどうですか? ああ――それとも、そのお嬢さんのような面を晒すのが恥ずかしいから隠しているのですね?」
彼のその一言は、静まり返った水面に石を投じたも同然だった。何故顔を隠していたのか。それは人見知りするからだ。そこまでは覚えていた。そこから先を思い出したのだ。人見知りするのは何故か。この中性的に見られる顔に劣等感を抱いていたからだ――今、思い出した。
「……言ってくれたな」
編み笠を投げ捨てるのと同時に、オブシウスが腕を振りかぶり、剣を投擲した。こちらに真っ直ぐ飛来する剣を、フリードは正面から刀を構えて受け止めた。ギィン!と高い金属音が上がり、勢いを相殺された大剣が転がり落ちる。その刹那には距離を詰めていたオブシウスは、剣を拾うことなく接近し拳を繰り出してきた。後退したが回避し切れず、鳩尾にめり込んだ掌底が息を詰まらせ、まともに受け身の取れなかった身体が宙に浮き、木の床板の上に放り出された。咳き込みながら剣を突き立て、なんとか立ち上がった視界には、眉根を寄せながら剣を拾い上げるオブシウスの姿が映る。
「……おかしいですね。肋骨を砕いた手応えがあったのですが」
答えない。彼は、暫く訝しげにこちらを見ていたが、やがて眉間の皺を深くして言った。
「貴方――一体何を身体に入れたのです?」
「お前だって覚悟もなしにここに立っていないだろう? 同じだよ、俺だって。
……俺も一つ聞きたいことがある。お前は何故俺にばかりああいった態度を取っていた?」
「……僕は…………こんな性格ですからね。誰とも分かり合えない、というのが私の持論ですが。種族の隔たりのない、誰とでも分かり合える貴方が、羨ましかったのかもしれませんね」
「誰とでも分かり合える? 違う、ただ俺は空になっただけだ。何を失ったのかさえも思い出せない。故郷も、家族も、忠誠心も、持っていたかもそれない感情も。お前の言う隔たりさえもだ。そんなモノが、そんな空虚なモノが羨ましいだって?ふざけたことを抜かすな」
「……」
「――ああ、そうだな、お前の言う通りだ。誰とだって分かり合えない。鉱人も人間も、同じ種族同士でさえ。よく分かるよ。俺だってお前のことは好きじゃない。……だから、分かり合えないからこそ、絆にはかけがえのない価値がある。俺はそう思いたいよ」
「――失言でした。今のは忘れてください。気が合いましたね、私も貴方のことは嫌いです。他に理由なんかありません」
姿勢を低くして地を蹴る。副武装の短刀はない。必要が無かった。出来るだけ身軽な方がいい。身体の使い方を“思い出した”今となっては――瞬時に距離を詰めたフリードは上段から剣を振り下ろした。二度、三度と繰り出した斬撃を、オブシウスは構えた大剣を僅かに傾けてやり過ごしたが、何度目かの打ち合いの後に、ぶつかり合った刃が大きく弾かれ、二人はほぼ同時に反動で僅かに後退した。
パキ、という微かな音を耳にする。来る。思考よりも早く身体が動いた。跳躍では間に合わない。地を蹴り、疾駆する。自分はこんなにも速く走れたのかと、まるで身体が自分のものでないような感覚がしたが、すぐに慣れた。元々こうであったのだ。先程まで自分の身体があった場所に、さながら杭のような黒曜の塊が下から隆起していく。床板を破り、隆起に巻き込まれた睡蓮の花が水中から引きずり出され、泥混じりの水飛沫を吐き出しながら落ちていった。予備動作もなしに魔法を行使するとは――肝を冷やしながら、フリードは自重に耐えられず、音を立てながら沈んでいく黒曜の上に飛び移り、再び接近した。
跳躍と共に叩き付けた一撃を、待ち構えていたオブシウスは大剣の切り上げで弾いた。中空に放り出され、体勢を崩したフリードを迎撃すべく、オブシウスは一歩踏み込んで剣を振り下ろした。身を捩り、着地地点をわずかにずらして地に降り立つと、唸りを上げながら鉄塊が真横に突き刺さる。
刺さった剣を抜くことを即座に断念したオブシウスは、腕を貫手の形にして構えた。対するフリードは、刀を突きの形に構えて間合いを詰めた。どちらもこの距離では避けることも反らすことも難しく、当たればどちらの一撃も心臓を貫くだろう。
だが――張りつめた糸のような刹那は、突如響いた爆音によって終わりを迎えた。フリードには何が起こったのか見えなかったが、オブシウスはフリードの背後に何かを見たようだった。動揺でその身を揺らめかせたオブシウスだったが、僅かな刹那に左腕で刀を受けて心臓を守った。だが、さらに踏み込んだフリードは、刀を手から離すとオブシウスの胸倉を掴み、渾身の力で放り投げていた。先ほど黒曜で空いた大穴に向かって、彼の身体は放り出され、転がり落ちていく。
「――オブシウス!」
その姿を追う者があった。美しい黒髪に映える柘榴石の角は無残にも途中で断ち切られている。しかし、それと同じ色の赤色の瞳は依然として強い光を湛えながらそこにあった。
首領ミサキは、今まさに池に転落するところだったオブシウスの手を取って、そこに繋ぎ止めた。
どうして、と震える唇がそう告げた。
「……ワンだよ。宮殿に控えていた者たちは皆毒で無力化した。ユーディト女王はせっかく迎えに来たのに、徒労だったな」
「そんな――ワンはあんなに毒の力を使うのを嫌悪していたのに……」
「そのことならばワンから伝言だ。お前が腹を括ったのだから自分もそうする、だそうだ」
左腕には刀が突き刺さったままで、力なく垂れ下がった指先からはとめどなく血の雫が落ちていた。ここは特に池が深い。泥を巻き上げられ、濁った水は夜の天蓋が広がり、暗くなった空の下で黒々と、奈落のように口を開けていた。
「お前程私は頭が良くない。だから、私ごときがお前を説き伏せられるとは思わぬよ。だが、な……お前だって分かっているだろう。誰しも折り合いを付けながら生きていくしかない。境界を引こうが取り払おうが変わらぬことだ。なら、何とかやっていくしかないだろう。時間は長くかかるかもしれぬがな、我々は幸いにも長寿種だ。人間で叶えられぬことも、何とか長い時間をかけてでも叶えられるかもしれん、無論人間とも協力して、な。私は傷付け合う可能性よりも、分かり合える可能性を信じたい」
ヒビの入った眼鏡の上に、黒い泥が流れていた。それは彼の白い肌の上に落ちて、涙の雫のように暗渠へと零れていく。
「さっさと上がって来い、オブシウス。もう我々の友情も流石にこれまでかと思ったがな、こうしている以上私はまだお前を許す余地があるようだ。……なぁお前、私に輿入れせぬか?」
「な――」
繋ぎ止めた手が震えていた。滑り落としそうになる。さらに強くその手を握った。
「お前など牙のない猫も同然よ、死ぬまで離れに閉じ込めて可愛がってやる。他の誰にも触らせぬ」
「こんな時に馬鹿なことを!」
「今ここで私以外にお前を助けられる者がいるか! 酒も飲んではおらぬ、素面だぞ。お前が角を切り落としてくれたせいで空元気だがな。
お前が多くの者が殺し、傷付いた事実は変わらん、だがお前はして暴君になろうとした訳ではないだろう。どのみち我々は、流された血の上で生きていくしかないんだよ。あの女王を見ていると余計にそう思う。血の上に平和を築く他ないのだ、と。
その宿業から逃れ得ぬのなら、流された血に私は誓おう――時間はかかるかもしれんが、お前を決して失望させたりはしない、と」
彼は目を反らし、長い溜息を吐いた。
「…………貴女のその甘さを僕は憎んでいました。けれども同じぐらいに、深く愛していたのでしょう。
その言葉を最期に聞けて嬉しかった。ありがとう、ミサキ」
オブシウスはミサキの手を振りほどいて落ちていった。静かな水音と水飛沫が上がり、波が伝播する水面が閉じた蓮の花を揺らした。その揺らぎが消え失せた頃、あちこちで武器の落ちる音、そしていくつかの呻き声と絶叫が響いた。残ったクーデター側が降伏、あるいは自決し始めた音だった。