鳥の声がする。瞼越しに強い光を感じた。目を開ければ、雲の混じる空に血が滲むような赤色を広げている夕刻の斜陽が視界を焼いた。そこから顔を背け、地に押し付けた掌には砂利と小石の感覚がした。
一体どうなった――アルは身を起こした。フリードを追って川に飛び込んで、何とかその身体を引き寄せて。そして――
すぐ隣にフリードは倒れていた。浅瀬を見つけて這い上がったことを思い出す。そこで自分は力尽きたのだ。全身の痛みと凄まじい疲労感があるが、五体満足であるようだ。問題は彼の方だ。俯せに転がる身体を仰向けに返せば、彼は小さな咳をした。生きている。だが辛うじて、だ。串刺しにされ、濁流に洗われた傷は深く、血を失った身体は蒼白で冷たい。
医療の知識や治癒術の心得があっても、道具を持っていなければ出来ることは限られてくる。今持っているのは皇帝が貸してくれたハンカチぐらいだ。綺麗に洗濯して、次に顔を合わせたら返そうと思っていた。それを拝借して泥のついた傷口を拭ってやりながら、アルは祈るようにフリードに声をかけた。
「だめだ、フリード。君にまで死なれてしまったら、私はトロワに顔向け出来ない……!」
不意にその名を口にして、胸の奥が凍り付いたような感覚がした。
「トロワ……」
最期に何の言葉も交わせなかった。あの子は躊躇わなかったであろうことだけは理解した。きっと恐怖よりも、彼を失うことを恐れたのだろう。恐怖に勝るほど彼を好ましく思っていた――いや、愛していたのだろう、と。
「貴様は何者だ」
そんな声を聞いて心臓が跳ね上がった。振り向けば、弓を構えた老人がいる。川の周りは鬱蒼と茂る熱帯雨林だ。その中を音も立てずにここまで接近してきたのか――と、見せつけられた力量に身がすくむ。敵であるならば敵う筈がない、と。だがアルはフリードの前に立ち塞がった。
「観光客に見えるなら医者として検査をお勧めするよ。頭のね」
鏃と一体化した眼光は鷹のように鋭く、矢を構えた姿は一分の隙も見当たらない。老人とは思えぬ程の鍛え上げられた体躯をしており、刻まれた顔の皺と、無造作に束ねた髪の白さだけが彼を老人たらしめていた。
老人は、やがてその鋭い真紅の目をアルの手元に向けると、僅かにその気迫を揺るがせた。
「――何故それを持っている。それが誰のものか分かっているのか」
彼が目を向けているのはシャルルのハンカチだった。
「ああ、分かっているとも。優しい皇帝陛下が貸してくれたのさ。まぁ、信じるかどうかは君次第だけど」
皇帝が生きている、ということはどこまで広まっているのだろうか。密偵が嗅ぎ回っていてもおかしくはない筈だ――老人は、しばらく矢を向けたまま沈黙していたが、やがてその気迫を鎮め、あろうことか弓を下ろしてしまった。そして、「クマノから来たのか?」と尋ねた。弓を下ろされたところで、丸腰でも敵うような相手ではない。応えずに睨みつけていると、彼は小さな溜息を吐いた。
「近くの村に医者がいる。まだ、助けられるかもしれない」
村、医者――そんな単語に頭を揺さぶられた。老人は静かに歩み寄ると、フリードの身体を丁寧に抱き上げた。
「クーデターの話は知っている。陛下とはこれから連絡を取る予定だった」
「おい、君は……」
味方なのか、という言葉を投げかける前に彼は言った。
「心を許さぬ者に、陛下がこれを貸す筈がない――私はルベウス皇帝シャルル陛下が騎士、パーシアス。時間が惜しい、今はその名で充分であろう。君も来なさい」
あの子が呼んでいる。いや――あの子は死んでしまった。だからこれはずっと昔のこと。ずっと昔――そうだ、やっと思い出した。俺を助けてくれたのはあの子だった。まだ幼かったあの子。礼の一言もついぞ言えぬまま、自分を庇って死んでしまった。ただただ優しかった故に、可哀想な娘。こんな男と出会わなければ、そもそも死ぬことなんてなかったものを。
目覚めて最初に思ったのはそんな後悔。全身が引き千切られるような、痛みよりも激しい悲しみが苛んだ。
「おや、もう起きたのかい」
声の方に目を向ければ、角を持つ長身の男がいた。寝台のすぐ傍の机には医療器具と薬。医者であるようだ。男を挟んだ隣の寝台ではアルが寝息を立てて眠っていた。その側にもう一人、屈強な体格の男がいるようだったが、暗がりで顔は良く見えない。
「俺はいつ、動けるようになる…?」
「うーん、全身打撲と外傷が沢山。君の身体はズタボロだ。繋がっているだけ幸運だが、控え目に言っても重傷だね。一週間や二週間で治る訳がないなぁ」
「…………それでは困る」
随分と悠長な喋り方をする男だ。こちらの焦りなど知る由もない、といった体で。喉を震わすことにさえも疲れ果てたフリードは、溜息を吐いて男から目を反らした。細く開いた窓からは夜の色が見え、蝋燭の炎が部屋の中を照らしていた。何度目の夜なのかは分からなかったが、「もう起きた」と言うからには然程時間が経っていないと思いたい。
机の端には、医療器具や薬に紛れて、拳大の鉱石のようなものが置かれていた。鉱石の内側から仄かに紅い光を放っている。その輝きに見覚えがあった。これは――――
「……“炎の紋章”?」
口に出してから少し違和感を覚えた。式典の時に見たことがある“炎の紋章”は、この鉱石と同じように内側から淡い光を放っていたが、球形をしていた。故に「宝玉」とも呼ばれるのだ。
「鋭いね君は、中に入ってるものは同じだ。だが成り立ちが違う。気にしないでくれ、私の手にある以上ただの道具だ。君達を怖がらせるような使い方はしないし、君には必要ない」
「……俺には?」
「おっと、口を滑らせたかな。うん、まぁいいや。これは私の切り札さ。道具は使い方次第ということだよ。例えば――お産中の母親とお腹の中の子供、どちらか一方の命の選択を迫られた時、これを使えば両方助けられる。ギリギリ助からない怪我を、ギリギリ助けられる怪我に出来る。そんなモノさ。だから、君には必要な」
「それを使えば、すぐに治るのか」
「せっかちだねぇ君は」
銀色の瞳を細めて彼は呆れたように笑った。
「確かにこれを使えば君は明日にでも動けるようになるだろう。動けるどころか、しばらくの間は怪我をしてもすぐに治るぐらいだ。これの力が残っているうちはね。でもこれは負担がかかるんだ。具体的に言うと寿命を何年か前借りすることになる。だから最後の手段さ」
「構わない」
即答した。
「俺は余所者の異邦人かもしれない。だが……俺を受け入れてくれた人達を、これ以上失う訳にはいかない。今、戦わなければ……救ってもらった命にも、意味がなくなる。寿命なんかいくらでもくれてやる」
「――ほう。気に入ったよ剣士君。いいよ。その覚悟を見込んで特別に治療してあげよう。」
俺は鉱石を手に取って、フリードの胸の上に置いた。そして、耳元に口を近付けると「ただし、このことは皆には内緒だ」と囁いた。