燐光 <シーズン1>   作:るり子/janegoe19th

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3幕/幕間

記憶が飛んでいる。随分と呼吸をしていなかったような感覚に、肩で息をしながら、シャーロックは跳ね起きた。

失った血がまだ戻らない身体が揺らぎ、目の前が暗くなりかける。傷の疼きが意識を引き留めた。上着は脱がされて新しい包帯が丁寧に巻かれていた。

「――やっと起きたか」

明滅する視界の中、聞き覚えのある声がする。その方向に顔を向ければ、椅子に腰掛けて髪の毛先を結んでいるフリードの姿があった。

「相棒に感謝するんだな。失神したあんたを乗せてこの辺りを飛び回っていたんだ。そんな身体で高高度飛行なんて、無茶が過ぎる。……まぁ、俺よりは軽症だがな」

俺よりは軽症――という言い方に何か引っかかるものを感じた。休んでいられる場合ではないと、痛む身体を叱咤して立っている。それに気付かれたか、主は気が気でない様子だった。そんな自分より重症となると、今の彼のように、戦装束を纏うことすら出来ないのではないかと思えるが。

ともあれ、生きていたのか。アルと共に川に落ちた、と効いていたが。と言うことは――

「やぁ、雄鹿君。気分はどうだい?」

杖を持ったアルが姿を現わした。

「良かった、君も生きていたのか――ああ、大丈夫。まだ飛べる」

彼女に続いて、もう一人が入ってくる。屈まなければ戸口を潜れない程の長身の彼は、シャーロックを見て微かに微笑んだ。肩までのくすんだ紅髪に、切れ長の銀色の瞳。耳の後ろから伸びる角は白く、岩の塊を細く乱雑な形に切り出したような形だ。

「君は――」と男が口を開いた。その悠長な声で、この身体に刻まれた痛みの記憶のうちのひとつが色鮮やかに、脳裏に蘇った。

 

全てを失ってしまう前に、立ちはだかる者全てを葬って、血に塗れた身体で彼女を抱えて空を駆った。いつ角が折れたのか、そして肩と背中に矢を受けたのかもよく覚えていない。そしてまた今日のようにモリオンの上で力尽き、目を覚ました場所に――そう、この男がいたのだ。あの時は今よりさらに朦朧としていたが、この男のことは不思議とよく覚えている。

 

彼は、驚いているシャーロックをさも面白いものでも見つけたような眼差しで見下ろした。

「医者としては安静を言い渡したいんだが、君は聞かないだろう? 剣士君、彼の鎧を持ってきてくれるかな」

服を手渡して男は呟く。フリードは顔を上げ、外へ出て行った。

彼の言う通りだ。寝台から降りて服に袖を通す。血が滲んでいたが、上着を着て鎧を纏えば見えなくなるだろう。

「人を迎えに来たんだ。地図はないか? 現在地を……」

「心配はいらない、ここが目的地だ。パーシアス殿に呼ばれたんだろう?」

アルが答えた。目的地上空付近で酸欠で意識を失ったが、モリオンは良くやってくれたようだ。彼女には助けられてばかりいる。

「実は、ね……。手紙では事情を割愛したそうなんだけど……合流するのはパーシアス殿じゃないんだ。彼はまだやることがあって」

「何だって――じゃあ、誰を乗せて帰ったら良いんだ?」

「俺だよ」

戸口に鎧を抱えたフリードが戻ってきた。

 

 

 

 

 

「……その矢傷は、あの女王様を庇ったのか?」

フリードは目深に被っていた編笠を外して放り出し、そう尋ねた。淡い色の瞳が鋭くこちらを見ている。

「ああ、そうだ」

「飛行兵は矢を恐れるだろう」

モリオンを撫でていた手を止める。彼女は首をこちらに向けて目を合わせ、ゆっくりと瞬きした。その首に腕を回し、額を寄せて「大丈夫だ」と囁いてやる。騎手の心の僅かな陰りまで感じ取ってしまう。賢く、優しい子だ。

「最期に棺の蓋を開けてもらいたいのならば、死んでも手綱を離すな――と、俺は竜騎士になる時に教わった。分かってる。落ちたら助かる高さじゃない。地面に叩きつけられて死んだ者の姿を見たことだってある。俺だってああはなりたくない。でも――あの悍ましい矢の雨を見た時に、俺が恐れたのは自分が死ぬことじゃなかった。……あの人が死ぬことだ」

「……アンタにとっての忠誠は、生きることじゃなくて死ぬことか?」

否定できない。シャーロックは「……そうかもな」と返した。

 

彼女を失うことが何よりも恐ろしかった。一度目の喪失は、生まれ育った故郷。家族。二度目の喪失は、新しく見つけた居場所。三度目は許されない。考えるだけで胸が引き裂かれるように苦しくなる。激しさを湛えながらも、ごくたまに、少女のような純真さを見せる青玉の瞳。女性にしては低いが、芯の通った凛とした声。柳のようにしなやかな身体から繰り出される、鋭い白銀の剣筋。その輝きを、音色を、佇まいを、美しいと思った。守りたいと思った。命と引き換えにしてでも。

 

――そこまで考えて、気付いた。この感情は本当に忠誠なのか、と。彼女を守りたいという理由として、彼女が王であるということは然程重要ではないのだ。

 

「記憶を失った、と言ったな。思い出したんだ、少しだけ」

フリードはそう呟いて、剣を鞘から抜き、二度三度と振って構え、腕を下ろす。冷たい風が吹いて、長い髪が揺れた。

「……俺がトロワに命を救われたのは二度目だ。十年前、川岸で俺を見つけてくれたのは彼女だったんだ。俺はそこで一度目覚めて、彼女を見た。身体が冷たくて、熱くて、痛くて苦しくて、死んでしまいそうだった。そんな俺の側にいて、手を握って、ずっと声をかけてくれた。……俺は、それも忘れてしまったのにな。辛いことを思い出すかもしれない、と気を遣ってくれたんだろう。彼女はそのことを、俺の前で口にしたことは一度もなかったよ」

剣を収めた彼は振り返ってこちらを見た。鋭い瞳には怒りとも悲しみともつかぬものが揺れる。

「あらゆる手段を尽くして、考えて、最後に残ったものが自分の死と引き換えなら、それも選択肢のひとつだろう。だがな、喪失と引き換えの選択肢なんて、遺された側は虚しいだけだ。

俺だって死ぬ覚悟もなしにここにいる訳じゃない。死と引き換えの選択を、否定するつもりもない。でも割り切って考えられない事はある。俺はあの子に礼を言うことも出来なくなってしまった。こんな思いはもう沢山だ」

彼はそう一息に言うと、編笠を拾い上げ、再び顔が見えなくなる程深く被った。

「……それでも、あの人を失いたくない」

そう呟く。聞こえているかは分からない、フリードは何も言わなかった。

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