気配を経つようにして歩く音はユーディトのものだ。村にいた時、森で狩りをすることもあったというから、その癖なのかもしれない。シャルルは歌を止めた。
「あの時起きていたのか?」
「え? あの時、とは」
「戦場から離脱して、森の作業小屋で一晩明かした時だ。知っている歌だったから」
「いえ、僕は歌しか覚えていません。夢を見たのだと思っていたのですが。貴女の歌だったのですね」
彼女は少し沈黙する。疑っているようだが、誓って嘘は言っていない。
「歌はどなたから教わったのですか?」
「母からだ」
「この歌の起源は、サフィルス北部の流浪の民と言われています。元は鎮魂歌なのですよ。二度と故郷へ帰れぬ死者への祈りが、いつしか転じて望郷の歌になったのです。だから、さっき僕が歌っていたものは、ユーディト様の知っているものと、歌詞が違うかもしれませんね」
シャルルは、この度の戦いにおける戦没者を埋葬した墓地へ足を運んでいた。姿が見えないから、彼女は心配して来てくれたのだろう。一人で出歩くのは控えるように、と言われているし、その理由も重々分かってはいる。暗殺者にでも狙われたらひとたまりもない。だが、どうしてもここへ来たかった。リゥスイへの滞在もあと少しで終わり、次の段階へ向けて慌ただしくなる。少しでも時間があるうちに、祈りを捧げておきたかった。
今頃ルベウスでは、皇帝がリゥスイに現れたどころか、何食わぬ顔をしてクマノ解放軍に加わっていたことに戦々恐々としているだろう。
「そろそろ奉納の舞が始まる。貴賓席へ案内しよう。ミサキ殿が君の為に、一番楽団に近い席を用意してくれた」
「わあ、嬉しいな。ありがとうございます。では、お願いしますね」
彼女はいつも速足気味で、シャルルを置いて行きそうになると立ち止まって待ってくれる。同じ速さで並んで歩くことは少ない。だが今日は少し歩みが遅い。首領に新しい服を宛てがわれ、歩き難いのだろうか。
「…………あの、ユーディト様。少し、よろしいですか」
「どうした?」
「その……先に、この話を持ちかけた僕が、このようなことを貴女に言うのは、恥ずべきことかと思いますが。聞いていただけますか」
「ああ」
「――少し、怖いと感じました。戦いを。貴女はお強い方です。どうしたらそのように振る舞えるかと思って」
祈りの歌を捧げれど、死者は何も答えてはくれない。祈りでも晴らせぬものは、どこへ昇華したら良いのだろう。武器を手に、村にいた時から戦っていた彼女ならば知っているのかもしれないと、隣を歩く彼女を感じながら思った。だから思い切って問いかけた。
ユーディトは歩みを止める。群衆の細やかな喧騒が、風に乗って僅かに聞こえてきた。
「…………シャルル殿。貴方が戦いに心を痛めたのなら、それでいい。どうかその痛みを忘れないままでいて欲しい。こんな答えを求めていたのではないのかもしれないけど――私はもう、人を斬っても何も感じない」
そんな声を耳にして、シャルルは思わずユーディトの手を取った。ひどく冷えていた。触れているこちらが凍えてしまいそうなぐらいに。
「アルテミジアもよくそうやってくれた。懐かしい気分だよ」
耳馴染みのない名前だが薄っすらと記憶にある。王都陥落の際に殺されたという妹姫の名だ。
彼女は人の気配がする少し手前まで、シャルルの手を解かずにいた。篝火の燃える音と、楽団が舞台裏で楽器の調律をしている音がする。「私は皆の所に行く」と告げ彼女は去って行った。
強い人だ、と思っていた。けれども――彼女は強い人ではなく、悲しい人なのかもしれない。少なくとも、あんなにも感傷的で、寂しそうな女王の声を聞いたのは初めてだった。
特に彼女に対して特別な意識があるのではないが、こうも顔が近いと、どこに目をやったらいいのか分からなくなる。朱色の顔料を塗った細い筆の先が目尻に触れ、ひやりとした冷たさを感じた。
「よし、完璧!」
ワンは筆を机に置いて自慢げにそう宣言した。「どうせ見えなくなるのに……」と呟けば、耳ざとく聞きつけたのか辰砂の瞳がじろり、とこちらを見た。
「見えないところにも力を入れるのがお洒落なのよ」
「理解できん」
「もぉ~! 貴女、ちょっと記憶戻ったらなんだか可愛げがなくなったわね!このこの!」
ワンは筆を再び手に取ってつつくような仕草で襲い掛かってきた。それを悠々と回避していると、控え室の入口にかけられた暖簾を潜り、アルとミサキが顔を出した。
「舞台に上がるまで待とうかと思ったがな。どんな面構えになったか待ちきれなくて見に来たぞ」
今日のミサキは、普段の着物風ドレスではなくしっかりとした着物だ。柄も派手ではない、髪は凝った形に纏め上げ、角と同じ柘榴石の簪で留めている。切り落された角は少しずつ伸びているようだ。華やかな容姿をしている故か、これぐらい大人しい格好をしていてもよく目を引く。
「本当に大丈夫なのかい?」
「大丈夫って、何がだ?」
おうむ返しに尋ねれば、アルは眉間に皴を寄せ、露骨に不満気な表情をする。
「君、あの戦いのすぐ後に、血を吐いて倒れたじゃないか。あれからそんなに経ってないんだぞ」
「もう治った。完治したと診断したのは君だろうが」
「うっ……。確かに、そうだけどさ。まったく、君は一体どんな魔法を使ったんだ?」
質問には答えずに、振付の最終確認をして来ると告げて立ち上がり、はぐらかした。すると、アルはフリードを引き止めた。振り向けば、少し目を伏して、躊躇しながら、彼女は言った。
「フィーアから、預かってきたんだけど……これ。トロワの私物の中にあったって。君宛てのものだ」
親愛なる友 フリードへ
突然こんな手紙を貰って、貴方は困惑しているでしょうね。
先に謝っておくわ。ごめんなさい。
直接言う勇気がないから、手紙にしたためました。
同封したものは見てもらえたでしょうか。
私の自然剥離した角を加工して作った耳飾りです。
少しだけ魔力が込められています。
ちょっとした魔除けぐらいにはなるかもしれません。
さて、ここからが本題なのですが。
貴方がこのことを知っているかどうかは分からないけれど、
鉱人の間では、自然剥離した角を加工して作った装身具を贈るということ、
その装身具を見に付けることに特別な意味があります。
そして、私は貴方に、その特別な意味を見出そうとしているのです。
貴方のことを慕っています。
もし私のこの行為に、貴方も特別な意味を見出してくれたのなら、
どうか、奉納祭で舞を踊る時に、この耳飾りを付けてきてほしいのです。
良い返事を待っています。
トロワ
追伸 必要なかったら燃やしてください
その時は、今までと変わりなく友人でありましょう。
――ずっと、昔の話だ。
剣を振っていた。それぐらいしか、覚えていなかった。自分の名前さえも実感がなかった。
ちょうど盛夏の時期で、樹々は大きく葉を茂らせ、木漏れ日が射している。その揺れる光の中、何かがキラキラと反射していた。目を凝らせば、木の幹に半分隠れるようにして、少女がいる。結い上げた髪の結び目に、蝶の羽のように伸びる角があった。
「君は……近くの集落の子か?」
そう声をかけると、少女はおずおずと姿を見せた。
……てないの。
少女は何かを口にしたが聞きとれなかった。
今にして思えば――彼女は少し落胆していたのだ。
――「覚えてないの」と。
一度目覚めた時に自分は彼女を見た筈なのに。
「おからだ、もう平気?どこも痛くない?」
「……ああ。」
少女は少し俯いて、意を決したように顔を上げる。
「あのね、私、お姉様が宮殿で働いてるの。お姉様達のために、お昼のお弁当を届けにいくの。それでね……あなたも、どうかしら。きっと、みんなで食べた方が、美味しいのだわ!」
「……いいのか?知らない人が混ざっても」
「もう、知らない人じゃないのだわ!」
少女は袖を引っ張って宮殿の方へと歩き出す。
「……わ、分かった。じゃあ、ご一緒させてもらおうかな。君の名前は?」
「トロワ。あなたは?」
「ベルフリード、というらしい」
「じゃあ、フリードって呼ぶわ! 」
少女――トロワは花が咲いたように笑った。つられて自分も、少しだけ口元を緩ませた。ここに来てから、初めて笑えたような気がした。
「……冷えるね」
リゥスイ首都・クマノは一年中温暖な気候だそうだが、どうも今年は異常気象のようだ。誰もがいつもよりも冷たい風に肩を縮めていた。日が落ち、暗くなった蓮池のあちこちには篝火が焚かれ、死者の名前が記された小さな灯籠が水上に浮かび、輝いている。灯籠は静かな水面にその身を任せているが、祭の最後には小さな炎を上げ、燃え尽きて沈んでゆくのだという。炎に失われた命を重ねるのだ。
数多の人間を飲み込んだ水に根を張る蓮の花は、次の花期はきっとより大きく、鮮やかな花を咲かせるだろう。さぞかし美しい光景だろうがあまりにも儚く、恐ろしく、寂しいとさえ思う。
ユーリシュカは、隣のムネモシュネの肩に自分の外套をかけてやった。ありがとう、とよく似た顔で微笑まれる。
「大丈夫か?」
「うん。もう普通に動けるよ。戦うのはまだ流石に無理だけど」
「今ぐらい、戦いのことは忘れても良いだろう?」
「………そうだね」
近くにいた角を持つ老人が、椅子を持ってきてくれた。礼を言って、ムネモシュネをそこに座らせる。蓮池に渡された足場には、祭の見物客の安全の為に簡易的な柵が取り付けられている。宮殿から続く長い足場の先にある舞台では、さらに多くの篝火が焚かれ、誘われた小さな羽虫が時折火の中に身を投じていた。
「ねぇ、ユーリ。また僕のこと叱ってくれる?」
「どうしたんだ、いきなり?」
「……うん、何となく。思い立ったから口にするだけだよ。あの時僕は、姫様の為なら死んだっていいって言ったけど。ユーリは叱ってくれたでしょ。なんだか嬉しかったんだ。あのまま死んじゃってもいいくらい」
「………何度だって叱ってやるさ。それで君を失わずに済むのなら、な」
「えへへ。お兄ちゃんらしいことたまには言うんだね、ユーリ」
だから死んでもいいなんて言うなよ――そんな言葉は口には出せなかった。言う勇気がなかった。
「あ、姫様とシャーロックだ!こっちこっち!」
リゥスイ東部の民族衣装だという、白い着物を纏ったユーディトと、特にいつもと変わらない佇まいのシャーロックに向かって、ムネモシュネが手を振った。女王の登場に見物客がにわかにざわついたが、「気を使わないで欲しい」と彼女の一声で、ざわめきは祭の喧騒へと還っていった。
「ちょうど始まるところですね、姫様。……ところで、貴賓席にいらっしゃったのでは?」
「一緒に見たくてな。ミサキ殿に断りを入れて抜けて来た」
ユーディトは、髪を着物に合うように結い上げている。耳には四人で暮らしたあの村から持って来た耳飾りが揺れ、纏め上げた髪には宝石の輝く串状の髪飾り――確かカンザシ、という名前のものだ――があった。紫金の輝きをもつその宝石には見覚えがあったが、ここで指摘するのは野暮であるような気がして、何も言わない。ムネモシュネがちらと目配せした。半身も分かっていて口にしないようだ。
太鼓の音が響き、辺りは水を打ったように静まり返る。舞台の奥から、足音ひとつ立てず、しかし微かな衣擦れの音だけを立て『舞い手』が現れた。白い細面の女の面を被っていた。面は泣いているのか、微笑んでいるのか、怒っているのかよく分からない、何とも言えない表情をしていた。
『舞い手』が誰なのか、当日まで特に隠したりはしない。それ故に誰もが、その面が外されることはないと思っていた。顔を隠すことを条件に引き受けたのだろう、と想像することは容易い。
だが、彼は――フリードは指先で面を外して、放り出してしまった。あっと声が上がる。元々中性的な顔立ちの男だったが、長い髪と細身の肢体に紅白の舞装束を纏い、目元と唇に紅を指した姿は、いよいよもって性別が曖昧だ。それどころか、この世のものとは思えないような佇まいさえ身につけている。
背後で控えている楽団が動揺していた。そんな彼らを叱咤するように、緋色の下衣の裾から見え隠れする爪先が一歩踏み出され、床板を強く踏みしめる音が響く。それに合わせて、ようやく神楽が奏でられ始めた。
強い風が吹いた。雪の交じった冷たい風に白い上衣が靡き、幽玄な舞いを彩っていく。挙動に合わせて振り乱れる髪の下では、どこかで見たことがある色の耳飾りが、篝火の灯りを受けて時折輝いているのが見えた。
「おい、舞がじきに始まるぞ。見ないのか」
シャーロックは馬屋の一角を間借りしているモリオンの所にいた。彼は振り向くとばつの悪そうな顔をする。
「この子には随分と助けられましたから。しばらく、一緒にいてやろうかと思って」
「モリオンは行って来いと言っているぞ?」
適当なことを言った訳ではない。モリオンは鼻先でシャーロックの腰をつついていた。いいのか、と優しい声で囁いて彼は愛竜の頭を撫でた。
「素敵なお召し物ですね」
「お前も一丁前に世辞を言うようになったか。首領殿といつもの彼女達だよ。私を着せ替え人形か何かと思っているのか……まぁ、悪い気はせんがな。綺麗な服だ。動き辛くはあるが」
何着か着物を用意され、好きなものを選べと言われた。ミサキは一番派手な紅色を勧めたが、白をユーディトが選ぶと、少し残念そうにしていた。袖を通すのがミサキなら、派手な色でも似合うだろう。だが自分ならば着物に負ける。そう思っての選択だ。服飾にはあまり凝らないがそれぐらいは分かる。
「……ユーディト様。不躾ながら、少しよろしいですか?」
いつになく小さな声だ。傷の具合でも悪いのかと思ったが、そんな様子はない。彼は細長い箱の中から簪を取り出した。
「雑貨屋で見かけて、貴女に似合いそうだと思ったのです。受け取っていただけますか」
髪に挿し込む部位には艶のある黒漆が塗られ、先から金色の細い鎖と飾りに彩られた、爪ほどの大きさの紫金水晶が下がっていた。水晶は繊細な形に研磨され、日の沈んだ薄闇の中でも光を帯びて美しく輝いている。
「これはお前の角か?」
「いえ。その……宝石には詳しくないので。ただ、紫金水晶に価値があることは存じております。価値の分からないものをお贈りするよりは、と」
「お前らしいな。…………私は挿し方を知らん。お前がやってくれ」
ユーディトはシャーロックに背中を向けた。「では、失礼します」と近い位置で声がした。耳に優しく残るのは、少し低く、穏やかな声。
「……ミサキ殿は寛大だな。クーデターに加担した者を、兵の任を解いて帰順を誓わせるだけで済ませた。鉱人は長く生きるだろう。この処分は慈悲であり、罰なんだろうな」
どんな顔をしてこんな話をしたらいいか分からない。顔の見えぬうちに、とユーディトは口を開いた。
「もし私がミサキ殿の立場であったのなら、きっと彼らを許せない。そもそも、お前達を損なった時点で、私は相手を殺すことしか考えないだろう。だからと言って彼女を愚かだとは思わない。むしろ……私は少し、あの人が羨ましくある。
……シャーロック。私はこの通りそういう女だ。自分の感情を抑えることが出来ない。だから、お前に頼みたい。いや、女王として、お前に命じよう。
もし、私が道を違えたら――お前が私を殺せ。」
向き直れば、シャーロックは膝をついて首を垂れていた。ユーディトはそれを肯定と判断した。
彼はゆっくりと顔を上げる。憂いすら帯びて見える程の瞳。十年という時は、ユーディトの周りのものを大きく変えた。だが、それでも変わらないもののひとつ。自分より長く生きるであろう彼は、さながら時間が止まっているかのようにさえ思える。
ユーディトは手を伸ばした。彼は、その手の甲に忠誠の口付けを落とす。
刹那、触れ合った指先には温もりを感じた。
「似合うか? 私からでは見えん」
「お似合いですよ。後で誰かに鏡を借りましょうか」
「そうだな――では、行こう。双子が待っている」
まだ足の怪我が完治しきっていないシャーロックの歩みに合わせて、ユーディトはゆっくりと歩みを進めた。慣れていない服と履物だ。隣り合って歩ける程の速さがちょうど良い。