「ベラ・リリン」の一員として過ごす日々は、大変なこともあるが苦痛ではない。何より給料が良い。祖父がいなくなってから引き取られた孤児院に時々赴いては、少し良い菓子を振る舞えるくらいには余裕がある。コレーは今日も仕事を終えて、孤児院へと足を運んでいた。歩くと少し遠いが、普段から鎧を着込んで槍を振り回しているコレーにとっては、大した道のりではない。
閑散としている帝都の大通りを抜けて、森の遊歩道へ足を踏み入れた。冬の近付いた森は薄茶けた色合いで、落葉して隙間の空いた木々の中を冷たい風が通り抜けている。
「…………およ?」
遊歩道の真ん中に猫がいた。猫はしばらくこちらを見ていたが、やがて菓子の匂いにつられたのかこちらに歩み寄って来る。
「お前が食えるようなモンはねーぞ、ごめんな」
人慣れしているのか、逃げるどころか脚に頭を擦り付けてくる。首輪はしていない、真っ黒な猫だ。
真っ黒な――そこでやっと、コレーはその異変に気付いた。
まるで、猫の形に黒く空間を切り取ったような。その空間も、一転の陰影もなく、ただ光を通さない黒、漆黒よりもさらに強い黒に塗りつぶされているのだ。それなのに毛の感触はちゃんとある。
どうしてこんなものを自分は『猫』だと認識した?
冷や汗が背中を伝い落ちた。“それ”から一刻も早く目を反らしたい。だが目を反らしたら“それ”は何かをしてくるかもしれない。両腕で抱えた菓子の袋が微かな音を立てた。“それ”がこちらを見上げる。
「ベラドンナ」
知っている声がした。紫紺水晶の角と、少し褐色がかかった肌の女――アンネマリウが横道から姿を現す。“それ”は彼女の姿に気付くと、コレーには興味を失ったのか彼女の方へと向かった。“それ”はアンネマリウの足元の影に飛び込むと、影と同化したのか姿が見えなくなってしまった。
「ごめんなさいねコレー。驚かせてしまったわね。この子ったらずいぶんと遠くまで散歩に出ていたみたいで」
「アンネマリウ様……あの、今のは」
「ああ――貴女は初めて見るのかしら? 私の魔道書よ」
「魔道書?」
彼女は小脇に抱えた魔道書をコレーに見せた。
「この子はベラドンナ――私はそう呼んでる。最初に触れた時、猫みたいな手触りだと思ったから、昔飼っていた猫の名前をつけてあげたの。私が故郷から持って来れた唯一の物品よ。でもこれが何なのかは良く分からないわ。内乱の時に、書庫の一番奥に大事そうにしまわれてたから持って来たのだけれど、今となってはもう誰もこの子のことを知らないの。
――これは推測だけど。おそらくこの子は人によって作られたモノよ。そうじゃなきゃ、こんなに可愛い猫の形をしていないでしょう?」
「そう、ですか――」
大丈夫なんすかそれ。
そう言いたかったが、言ったところでどうにもならない気がするので黙っておいた。アンネマリウには懐いているようだし、今まで何もなかったのだから、これからもそうであると願いたい。
「……そうだ、丁度良かったわコレー」
アンネマリウは女性にしては低めの声を持つ。その声色が妖艶さを引き立てて、時々ぞっとするような色香を感じさせる。彼女はコレーの元へ歩み寄り、吐息を感じるほど近くまで顔を近づけて来た。
「聞きたいことがあるの、貴女の忠誠はどこにあって?」
試されている、と思った。下手な答えを返せば、その得体のしれない魔道書が牙を剥くかもしれない。彼女とて伊達に皇女の親衛隊帳をやっている訳ではない。瞬きの間に自分など消してしまえるだろう。一度鎮まった筈の冷や汗が再び噴き出すのを感じながら、コレーは言った。
「――皇女様であります、アンネマリウ様」
「本当?」
「我が祖父・パーシアスに誓って」
「…………そう――そう。良くってよ、嗚呼――ベラドンナが気に入った子を消さずに済んだわ。良かったわねベラドンナ。ふふふ……」
冷や汗は止まるどころか酷くなった。そんなコレーを知ってか知らずか、満足気にアンネマリウは微笑むと、耳元で彼女は囁いた。
「貴女も秘密を共有しましょう。籠の鳥を逃がすことを考えているの。可哀想な籠の鳥――――私達の皇女様を。」