共通歴265年 冬
先王を亡くしてすぐの仕事が、こんな気の滅入るものであるとは。付き従う誰もがそう感じているだろう。ユーディトもその一人だ。一人で留守番は嫌だという妹は、何とか言いくるめて城に残してきた。そしてその判断は正しかった、と目の前の状況を目の当たりにして思わずにはいられなかった。
ルベウス国内で内乱があり、そこから船で逃れようとした者達がいた。しかし、船は砲撃を受けて沈んでしまった。人々を乗せたまま――此度の一件は大まかにそう聞いている。この時期は、ルベウス側からサフィルス側に向かって強い海流が流れる。それに船の残骸が乗ってここまで漂着してきたのだ。
生存者の確認が最優先、と母は命を下していた。一人でも多く救助せよ、と。だが、確認するまでもない――元々の船の大きさは定かではないが、それなりの体積があるものを、こんな風にバラバラにしてしまえるのだから、海に呑まれた者などひとたまりもない。流される前にことが済むだろう。既にルベウス側では海岸で遺体が見つかっていると聞いている。ましてや冬の荒れた海だ。仮にこちらまで流された者がいたとしても、これでは誰も生きてはいまい、と思わせるには充分だった。
「母様……」
思わず、隣に立つ母の袖を掴んだ。母は、すこし青ざめた顔をしていたが、唇を引き結んで海を睨んでいた。そして「先に馬車に戻りなさい」と告げた。
「……貴女も連れてくるべきではなかった。ごめんなさい」
何れ王になる者として学ぶように、とは母の弁だったが、ここにあるのはそんな言葉を覆す程の光景だったようだ。ユーディトは黙って頷くと、騎士に付き従われながら馬車へと歩みを進めた。生きた物の気配がない冬の海は、波の音が絶えず聞こえるというのに、静寂を感じて仕方ない。厚い雲間からようやく差し込んだ陽光でさえも、この場を照らすには覚束ないと思えた。
ふと、その陽光を受けて光った何かが、ユーディトの視界の端で刹那、瞬いた。その方向に目をやれば、他と比べれば大きめの残骸が寄り集まり、砂の上に濃い影の塊を落としていた。
――その影の中に、人が俯せに倒れている。
ユーディトは駆け出した。付き添いの騎士達は驚いて一呼吸遅れたが、すぐに後を追って来た。
何よりまず目に付くのは、頭頂部から伸びた鹿のような角だ。淡い金色と紫色の混じった美しい鉱石で出来ている。先程光ったのはこれであるらしい。少し遅れて追いついた騎士達が警戒して、それぞれ武器を構えた。
警戒の眼差しの中、ユーディトはその伏した身体を仰臥させる。死体かもしれない、という嫌悪感は不思議と感じなかった。ただ、生きていて欲しいと。行かないでほしい、と。目の前で命の炎が消えていく悲しみと焦燥感、そしてなぜ奪われなければならないのかという、ささやかだが確かな憤りで、胸がいっぱいだった。
……まるで父を看取った時のように。
若い男だった。谷間に咲く山菫のような深い紫の髪に、褐色がかかった肌の色。サフィルスの者とは少し異なった面差しをしていた。触れた頬に温もりはない。氷のように冷たい。跪いて胸に耳を当て、祈るような気分で意識を研ぎ澄ます。あんなに静かだと思っていたのに、今は波の音がうるさくて仕方ない。どれぐらいそうしていたかは分からない。傾いだ視界に母のドレスに包まれた足が見えた頃、確かに心臓の鼓動を耳に感じた。頭を上げて母様、と呼べばそれで母は全てを察して指示を出す。にわかに周囲が慌ただしくなっていくのを横目に、ユーディトはその冷えた身体を抱き上げて、自らの体温を分け与えるように身を寄せた。
女王はフルーツサンドを頬張りながら、片手で羽ペンを走らせていた。
「行儀が悪いのは分かっています。でもちょっと見逃してちょうだい。これは今日中に片付けたいのです」
口止め料です、と彼女は残りを籠ごと差し出した。
「娘達が作りました。貴方、苺は好きですか?」
「ええ。故郷ではなかなか口にする機会がありませんでしたが」
「それは良かった。温室栽培のものが今年は良作なのです、後で食べるのですよ」
女王から何かを賜る機会などそうそうない。それがフルーツサンドであるのは多少締まらない気もするが。
「従騎士任命の儀に顔を出せなくてごめんなさい。どうしても外せない議事があって。滞りなく済みましたか?」
「はい。姫様はしっかりお務めされました。これよりは従騎士として、役目を果たさせていただきます」
「……あの子のことお願いね」
ペンを止め、どこか遠くを見ながら女王は呟いた。
「ユーディト様が見つけてくださるのが遅ければ、私は助からなかったと聞きました。恩義は、必ずや」
海に投げ出されて暫くは、近くにあった板切れに掴まっていたが途中から記憶がない。目覚めた時は数日が経っていて、サフィルス王城の医務室にいた。姫君は足繁く病室に顔を出し、自分が目覚めるのを待っていたという。
そんな経緯を耳にして驚いたのは記憶に新しい。王族と民との間には、もっと隔たりがあるものだと思っていた。
彼女の眼差しは次にこちらを見た。憂いを帯びて細められた紅い瞳と、緩やかに笑みを描く唇。美しい人だ。だが、寂しげに見える。その表情は、先王である夫を亡くし、他の者には任せられぬと自ら名乗りを挙げ、国を仕切ってきた女王のものではなく、一人の母親としてのもののように思えた。
「あの子は優しい子です。でも誰よりも激しい、炎のような子――だから一人にするのが心配なのです。どうか側にいてあげて。頼みましたよ、シャーロック」
女王は、姫の付けてくれた名前で呼んだ。まだ慣れない、だが悪くないと思っている。故郷を失い、家族が生きているかすらも分からない。全てを失ったに近いが、歩むべき道は開けていた。
――ここでなら、生きていける。