1幕
「おはよう、ユディス」
「ゴテル、おはよう」
庭の花に撒く水を井戸から桶に汲んでいると、甕を抱えた夫人が横に並び立った。危なっかしい足取りに思わず「……大丈夫か?」と返す。
「ダメだ、ゴテル。知ってるぞ、腰をやったそうじゃないか。どこに運べば良い? 私が持つよ」
甕をコンコンと拳で軽く叩きながらユーディトは言った。
「お客様をお待たせしてるんじゃないのかい」
「ああ……情報が早いな」
「村中その話題で持ちきりだよ。綺麗な男の子だって? 一緒にいた人はその……残念だったけどねぇ。その子だけでも助かって良かった」
“客人”の連れは村の墓所に手厚く葬った。彼にも帰る故郷があるのかもしれないが、帰してやれないことが悔やまれる。追っ手の方は逃げたと言っておいた。“客人”も察するものがあるのか口裏を合わせていてくれている。
「……今は子供達といるよ。後で話をする約束をしてるから大丈夫。少し、村を空けることになるかもしれないな。彼を他の仲間の元まで送ってやらなければならないだろう」
水の満たされた甕はかなりの重量がある。彼女でなくとも腰をやりかねない。井戸をもう一つ増やすべきだと村長に進言した方が良いだろうか……と考えた。
「すまないねぇユディス。じゃあ畑の方に頼むよ」
王都から逃れてきた貴族の娘ユディス――そんな仮の名も、偽りの経歴も十年もすれば馴染んでくる。気にしないでくれと微笑んで、ユーディトは甕を担ぎ上げた。
少年は時に優しく、時に力強く、美しい声で英雄譚を歌い上げていた。荒れ狂う竜を倒し、国の祖となった三人の英雄の物語。多くの者が知っている物語であり、村のたった三人の幼い子供達も当然耳にしたことぐらいはある筈だが、語ることを生業としている者の言葉や声には、人を惹きつける説得力があり、魅力がある。彼は吟遊詩人として仲間と各地を回っていたという。例えそれが仮初めの姿であっても、彼の技術は本物だ。自分も思わず聞き入ってしまった。
「――と、剣姫サファイアは、燃えるような恋をしたのです」
「それでそれで? 剣姫さまは幸せになれたのかしら?」
「君達はどう思いますか?」
「剣姫と紅竜はシュゾクが違うんだぜ? 剣姫様の方が先にばあさんになっちまうよ」
「でもおばあさんになってもずっと一緒にいる人はいるよ。うちのおじいちゃんだって、おばあちゃんが若い時から一緒にいるんだよ」
「うん、それは……そうだけどよ……」
「ふふ、そうやって色々考えてみるのも物語の楽しみ方です。では、僕のお話はこれくらいにしておきましょう」
「えーっ?!」
「ごめんなさい。他の用事が入っていまして……」
「でももう少しこの村にいるんでしょう? また聞かせてよ、吟遊詩人のお兄ちゃん!」
「ええ。僕の歌で良ければいつだって」
子供達は手を振ると、口々に感想を言い合いながら去っていく。彼らが立ち去って暫くした後、盲いた目をこちらに向けて「――貴方もこちらで聞いてくださって良かったのに」と、皇帝シャルルは言った。金糸雀の翼のような眩しい金の髪に、伏し目がちの紅い右目と蒼い左目。何も映してはいない筈なのに、その瞳には強い意志が宿っている。
「……あまり子供達の前で武器を持ちたくないので」
「心配せずとも大丈夫ですよ。僕は自分の身一つ、自分で守れぬ身ですから」
剣をいつでも抜ける体勢でいたが、それさえも気付かれていた。まだ十二歳であった筈だ。彼は落ち着き払い、風格のようなものさえ漂わせている。ユーリシュカの動揺さえも感じ取られている気がして、ならばどう気取ろうと無駄だな……と浅い溜息を吐いた。
「貴方を疑っている訳ではありませんが、村に何かあったら困るので」
「ごもっともです――ああ、貴方の主殿が参られたようですよ」
ユーリシュカが足音と人の気配を察知出来たのは、彼が先にそう言ってからのことだった。
「子供達はもう戻ったのか?」
主――ユーディトは髪を解きながらそう問いかけた。濃い青から淡い青へと色を変える長い髪が流水のように広がる。「ええ、僕の歌を聴いていってくださいました」とシャルルはにこやかに言う。正直なところ、ユーリシュカはこのシャルルという少年に畏怖のようなものを感じている。平然と会話を交わせる主を少し恐ろしく思った。
「先程の方はご同席されなくてもよろしいのですか?」
「ん……ああ、ユーリシュカか。彼は同席しなくても問題ない。私が決めたことに従うだろうから。困ったことにな」
腕を組んで木に寄りかかる。シャルルは杖を手に悠然と立っていた。元々もっていた杖は、森の中を逃げ回っていた時に破損してしまった。今持っているそれは、「不便だろう」と村の老人がくれたものだ。
「あれも十七だ。他にやりたいことがあるなら好きにすればいい、私に義理立てすることはない……とはだいぶ前に言ったのだがな」
「好きにした結果、貴女のお側にいたいと願ったのではありませんか?」
よく口が立つ少年だ。だがお世辞で言っているようには感じない。悪い気はしないと思ってしまう。「それよりだな」と、話を切り替えた。
「……昨日の話の続きだ。いくつか聞きたいことがある。君を追っていたのはルベウスの刺客か? いつ生きていることを知られたか検討はつくか?」
「僕に生きていられては困るのはルベウス……正確には、ルベウスの議会でしょう。議会についてはご存知で?」
「幼い皇帝の補佐役、とは聞いている」
「概ねその認識で間違いありません。ですが、実際に実権を握っていたのは彼らでした。貴女の国に軍を差し向けたのも、僕を“殺した”のも彼らです。これは推測ではなく調査を重ねた上での結論です。それと、僕を“シャルル”であると認識していたのは、昨夜の追っ手が初めてになりますね」
シャルルとユーディトが表舞台から消えた後得をしたのは誰か――それを考えれば明確な程に答えは見えていた。
「そうか。君は私を探しているとも言ったな? どのようにして私を探った」
「髪の色です。貴女はオディリア女王様と同じ色の髪をしていらしたでしょう。僕は朧げな記憶しかありませんが……女王様の髪の色は珍しく、とても美しかったと聞きます」
「珍しいのは否定しないが、他にいないとも限らんぞ。総当たりのようなものじゃないか」
「そうですけど、貴女に辿り着きましたから問題ありませんよ」
呆れる程の肝の座り方と言うか、気の長さというか。これぐらいでなければ王など務まらないのかもしれないが。
「……刺客が戻らないことを、連中も遅かれ早かれ察する筈だ。それが何を意味するか、分からない程に愚かではあるまい。君に生きていられてはまずい、と追っ手を差し向けるぐらいの知恵はあるようだからな」
昨夜は勝てた。だがもし次があるのならどうだろう。複数で来られたら? 不意打ちが通用しなかったら? 村人を人質にでも取られたら? 十年間、ひたすら鍛錬ばかりを積んで来た身だ。我流とは言え半端なものは身につけていないつもりではいるが、事態がどう動くか分からない。
「奴らは君を嗅ぎ付けた。私もまた生きていたと勘付かれる可能性は低くない。女王として振る舞うか、剣の腕が少し立つだけの村娘として片付けるか――何れにせよ、私はこの件に関する落とし前をつけなければならない訳だ」
結論を急がなければならないだろう。ユーリシュカの他に、別用で今村にはいないムネモシュネとシャーロックにも伝えなければならない。彼らもほぼ間違いなく自分に従うと言うだろうが、彼らに強制するつもりもない。
「君は吟遊詩人として各地を回っていたんだったな。サフィルス国内の様子も見たのか」
「国の様子はどこまでご存知ですか?」
「滅多に村からは出ないし、情報もここまで来ない。王都とその近隣の数領地がルベウス支配下にあると聞いている。民の詳しい様子までは分からん」
「……支配下になっていない場所では、領主様達が上手くやっておられているようです。しかし活気がありません。細々と日々を暮らすのが精一杯のようです」
サフィルスは王都と、その周辺の数領地に人口が集中している。国土を横断するような大河と大渓谷、そして深い森があり、人の住むところは自然と平地に集中してしまう。それ故に、国土を大規模に侵略されずに済んではいるのだろうが、人の営みがなければ物流が滞り、豊かな生活を営むことは出来ない。
しかし、王族亡き後、活気は失せても国土全体が荒廃しないのは、ひとえに母と父の治世があったからであると――そう信じたい。
「中には、ユーディト様の生存を今でも信じておられる方もいます。貴女が蜂起すれば共に戦う、という方も。貴女は決して一人ではありません」
「……私に話を持ちかけるだけの理由があることは分かった。だが君は? 君が立ち上がるだけの理由を、私はまだ聞いていない」
シャルルの仄かに薄紅を帯びた唇が引き結ばれ、伏しがちの瞼が大きく開いた。
「……王としての責任感、でしょうか。僕は王として生まれた以上、民を幸せにする義務があります。それを僕は何一つとして遂行できませんでした。僕は今より遥かに幼かった。ですが、お祖父様亡き後の彼らが、良くないことをしようとしていたのは分かりました。……最もらしいことを並べ立てましたが、僕はきっと悔しいのでしょうね」
彼は小さな鞄から“炎の紋章”を取り出した。昼の明るい日の下でも、それは仄かに光を帯びているのが見えた。ルベウスのそれは、薔薇の花弁のような鮮やかな真紅だ。
「僕が“殺される”数日前、これを密かに持ち出しました。今ルベウスの宝物庫にあるものは、良く似たただの希少宝石です。悔しくて、何とか出し抜いてやりたいと思っての行為でしたが……結果的に正解でしたね。切り札を一つ奪ったのですから」
そうか、とユーディトは短く相槌を打った。彼は歳の割にあまりにも大人びた振る舞いをしている故に、ある種の異様ささえ感じずにはいられなかった。だが、矜持のひとつも持ち合わせた血の通った人間である、という一面が垣間見えた。少し安心した。
「話してくれてありがとう。君は信用に値する人物だと判断しよう。もう少しだけ時間を――」
「ユーディト様!」
ユーリシュカが、血相を変えて戻って来た。「ここではユディスと……」と口を開きかけたが止めた。仮の名を呼び忘れる程に切迫した状況なのかもしれない。代わりに何があったのか問いかけた。
「村に山賊が――」