翌日の昼前に、ムネモシュネとシャーロックは帰ってきた。
聞けば港町が海賊の襲撃に合い、一戦交えた後に帰路についたのだという。二人には疲労が見え隠れしていた。
今日も眠れない夜だった。そんな日は昔のことを思い出す。もう、十年にもなるのだ。それなのにまだあの日の夢を見る。鮮やかに思い出せる。母が死んだ日。妹が死んだ日。血の中で沢山の人が死んでいった日。十二歳の自分がそこからずっと自分を見ている。忘れてどうにかなることでも、忘れられるようなことではない。ユーディトの心は今も血を流して慟哭している。
今日もまた眠れない夜だ。ふらりと剣を手に外に出る。山賊を返り討ちにしたことはどこまで届いただろうか。今日はきっと何もないだろうと何となく思っているが、剣を手にしていると落ち着く。
明るい月の下で、庭の隅ではシャーロックが斧の素振りをしていた。毎日続けないと体力も筋力も維持出来ない、とは本人の弁だ。帰って来て荷解きをするよりも早く、襲撃者達の遺体を葬るのを手伝っていたから、夜まで身体が空かなかったのだろう。村に若い男は少なく、この村で力仕事が出来る人材は貴重である。
「疲れているんだろう。一日ぐらいサボっても誰も何も言わんぞ」
そう声をかければ、彼はぴたと斧を突きの形で静止させ、「…………そうもいきません」と言った。構えを解いてこちらに向き直る。
「あと数十年はこの身体ですから。ちゃんと手入れしないと」
「手入れ、か……長生きする種族も大変だな」
月光から隠れ潜むように、大きな木の陰に入って幹に背を預けた。夜風が冷たい。あまり引き止めては冷えで風邪をひかせてしまいそうだ。ユーディトは前置きをせずに口を開いた。
「私は村を出るよ。私がここにいることで、皆を危険に晒してしまうのが我慢ならん。無論、それだけではないがな………。私とて未練がある。シャルル殿が言っていた、民を幸せにすることは王として生まれた者の義務だと。その通りだ。彼を大きな街まで送ると言う。そのまま戻らないつもりだ」
「では、共に」
「……まだ何も言ってない」
予想はしていたことだが、やはり実際に返事をこの耳で聞くとげんなりする。だが彼らを煩わしいと思っているのではない、決して。
「お前たちはだな、こう……もう少し自由意思というものがないのか」
「ユーディト様、お言葉ですが…………いや、何でもありません」
金色の瞳に陰りが過ぎった。
「構わん、話せ。“お前”の言葉でな」
長身は大きな角も相俟って威圧感を憶える。だが、彼の瞳は憂いすら帯びる程に柔和で、本当に優しい目をしている。月光より激しく鮮やかな黄金色の虹彩さえ、柔らかく包み込んでしまう。彼は、その瞳を細い月のように伏した。
「ここで暮らす日々は、私――いえ、“俺”にとって疎ましいものではありませんでした。ここは星も綺麗です。故郷の空とよく似ている。……俺は二度、帰るべき場所を失いました。もう失うものなんてない、と言いたいところですが……俺はここを失いたくない。貴女がこの場所を守る為に旅立つと言うのなら、俺も共に行きます」
「…………お前は本当につまらないくらい真面目ね」
ずっと昔、同じ相手に言った言葉が口をついて出る。少し呆れて、吐息で笑った。随分と笑っていないような気がした。
「そのくらいにして戻るんだな、風呂は湧いてるぞ。私はもう寝るからな」
月が雲に隠れた。今なら眠れるかもしれない。ユーディトは夜風に髪を翻してシャーロックの元を去った。
玄関の鍵を閉めていると村人達がやってきた。村長夫妻がいる。ゴテルもいる。今日は冬に備えての農作業があると聞いていたが。
「他は先に行ったのかい?」
ゴテルが口を開く。鍵は玄関の植木鉢の下へ。不用心かもしれないが、この村ではこれで十分だ。
「ああ。私はこの家の主だからな、最後に戸締りをしていかないと…………何だ、揃いも揃って見送りか?」
「君は戻らないつもりなんだろう――『姫様』。」
村長がそう言った。三人の騎士達はユーディトを姫様と呼ぶこともある。彼らもそれを知っている。だからそう呼んだとて何もおかしくはない。だがその響きは憂いと悲しみに満ちている。それが意味するものは多くない。
――ああ、いつから彼らは気付いていたのだろう。もしかしたらあの夜から全てを分かっていたのかもしれない。そう考えることは容易だ。あまり、考えないようにはしていたが。
ゴテルがユーディトを抱きしめた。昔からよく自分を気にかけてくれる人だった。母の温もりなどもう忘れてしまった、だがきっと、これはそれと良く似たものだ。
「ゴテル、苦しいよ」
振り払えずにいる。振り払おうとも思わなかった。やがて彼女は、歳を重ねて節くれだった指で、ユーディトの耳に耳飾りを付けてくれた。小さな薔薇の花の下に、橙とも薄紅ともつかぬ色の雫型の石が揺れている。
「本当は、あんたに良い人ができたらお祝いにあげようと思ってたんだけどねぇ。でも、今渡さないと後悔しそうだから……」
「世話になった、言葉に出来ないくらい感謝している。これから物騒なことが起きるかもしれない。心配はいらない、後で護衛を雇って向かわせる」
「あんたが行くっていうなら私たちは止められないよ。でもいつだって戻っておいで。私達の可愛いお姫様」
何もない、と言っても過言ではない小さな村。だがしがらみも澱みもない。穏やかな場所だった。時の流れがゆっくりと過ぎていくような。こんな場所でずっと生きていけたら、それはそれで豊かな人生なのかもしれない。けれども――ユーディトはそれを選ばなかった。
「……え、ちょっと、嘘でしょ? その格好で帝都からここまで来たの?」
港町の路地裏。海賊騒ぎも落ち着いて、路地を一つ隔てた向こうには港町らしい喧騒と活気が戻っていた。しかし休暇は仕事に早変わりだ。海風にあてられて煤けた色の壁に背を預けて待っていると、少し離れた場所に赤い角の老女が立った。
「正体がバレちゃ変装にならんですじゃ。それに家に帰るまでが偵察じゃよ。ほっほ」
「護衛は?」
「ワンは心配性じゃのう。安心せい、その辺におるよ」
「……そ。ならいいけど。どうしたの?」
「騒ぎに巻き込まれたと聞いての。顔ぐらいは見ていこうと思ってねぇ」
老女の口から自分の名前が出て少し安堵した。普段の彼女の顔を知っている身からすれば、本当に本人だろうか……と思ってしまう程の変装だ。腰は曲がり、老女相応の皴までこさえている。
「収穫あった?」
「そりゃもう大収穫で。それと、面白い者が戻っておったぞ。ありゃ天も泣く弓騎士パーシアスじゃった」
「皇帝と一緒に殉職したんじゃなかったのね……」
「まぁ、皇帝も一緒ではないと考える方が不自然じゃろうな」
ルベウス皇帝・シャルル暗殺の際は、皇帝の棺の他にもう一つ棺があった。それは、皇帝を守ろうとして共に命を落とした、老いてなお強く、誇り高き騎士のものであった。両者の遺体はあまりに無残であった為、最後まで棺の蓋が開けられることはなかったと耳にしたが。
「面白くなりそうじゃ。ほっほ……」
老女はしわがれた声で笑った。目深に被ったフードの下では、角と同じ柘榴石の瞳が、老女しからぬ覇気を放っていた。