王子進之助と末永長介が覇を競っていた時代。まだ長介が藤坂寅一厩舎の所属だった頃。
長介の所属する藤坂厩舎にひとりの女性騎手が所属することになった。
これに対して『俺は反対です』と長介も師匠である藤坂に進言したが、それでも藤坂は彼女を所属させた。まだ当時の競馬界は圧倒的な男性優位の世界であり、「乗り役が男がするもの」という意識が根深く、女性騎手の数はほぼゼロ、いたとしても今のように多く勝てる時代ではなかった。ファンやマスコミの目を惹きたい、話題を集めたい、という目で見られることも致し方ない。長介もそうした視点を持った騎手だった。初対面の時からなだめすかした態度でそりが合わないだろうと彼は思っていた。
しかし、いざ馬に跨った彼女を見たら、その偏見は覆された。乗り難しい馬を乗りこなし、勝ちあぐねていた馬をあっさり勝たせた。彼女は騎手として天賦の才を備えていた。
デビュー年、当時の女性騎手としては史上最多の新人勝利を挙げた。
翌年から長介は厩舎を出てフリーになったので、同じ厩舎にいたのは一年足らずだったが、その後も彼女にはよく世話を焼いた。馬乗りの才能と引き換えにしたのかは不明だが、彼女はやや性格に難があった。
彼女の考え方は徹頭徹尾自分本位だった。
『いいですか先輩。騎手になろうとする人間なんて、みんな自分が大好きな連中なんですよ。俺を見てくれ。私を見てくれ。そんな具合に。まあ、親や親戚がやってるからという理由でなる方もいるんでしょうけれど、基本的に皆さん英雄願望を持ってると思うんですよね』
彼女は、
『究極的にいうと、私はどうでもいいんですよ。勝とうが負けようが。他人にどう思われようが。私が興味あるのは「私」だけなので』
言い方はいつも極端だった。その舌禍で馬主や他所の調教師と揉め事を起こしたのは一度や二度ではなかった。そのたびに藤坂先生が相手に頭を下げにいった。長介が苦言を呈すると、
『負けさせて文句を言われるなら解りますが、勝たせて文句を言われる理由は解りませんね。もしかして私の方が馬より目立ってしまうからでしょうか。馬7人3なんて言いますが、走らせる人がいない裸馬は馬券になりませんし、賞金も入りませんからね。感謝されることはあっても非難されることはないでしょう。
おや、どうしました先輩? 私、間違ったことを言っていますか?
なら逆に問いましょう。あなたは私の発言を咎め糾すだけの〝正しさ〟をお持ちですか? 何者にも、何事にも、揺るがぬ〝正しい言葉〟をご存知ならば私にご教授ください。この愚かな後輩をどうかお導きください。
――なんて言われても仕方ありませんよね。
私は確かに駒ですが、小間使いではありません。言い方がこまごまとしていますが、困ったことに、騎手なんですよ』
といった。
そうした性格のせいで、彼女にはなかなか有力馬の騎乗依頼が集まらなかった。それでも、彼女は人気薄の馬を勝たせていった。
そして彼女にチャンスが回ってきた。なんと無敗で三冠を達成した馬の騎乗依頼だった。
デビューから乗っていた主戦・王子進之助が海外でのレースに騎乗することになり、代打としてGⅠレースへ出走することになった。
無敗の三冠馬の突然の乗り替わり。しかも大レースでの実績のない女性騎手。マスコミからは疑惑の目を向けられた。ゴシップ誌がこぞって『今回の乗り替わり劇は彼女がオーナーと寝たからだ』『主戦の王子を籠絡したからだ』『競馬を私物化』などと書き立てた。
『おーおー、元気なことですね。皆さん好き勝手書いてくれてるようですけれど、これでもし私があっさり勝っちゃったらどうするんでしょうかね。
自信? もちろんありますよ。普通に乗れば普通に勝てます。ごめんなさいね、先輩。ですが、ここは後輩の節目の勝利を気持ちよく祝福してくれると私としては嬉しい限りですがどうでしょう? まあ、どっちでもいいですけど』
そして迎えたレース、三冠馬は終始悪くない手応えだったが、直線に入ると急に失速を始めた。そして、セーフティリードと思われていた差が徐々に詰まり、最後の最後で長介の馬にかわされてしまった。王者の、初めての敗北だった。レース後、その馬が競走中に骨折していたことが判明し、同馬はそのまま現役引退を余儀なくされた。鬼の首を獲ったようにマスコミのバッシングが始まった。薬物疑惑、八百長疑惑、枕営業疑惑、人格さえ否定するかのような文言が並び、中傷は彼女の周囲にも及んだ。
そして――
彼女の名前は競馬界から消え去った。
競馬界において、彼女の存在はタブーとなった。最早誰も、好んで彼女の話題を出そうとはしない。忌避する。テレビにも、本にも、ゲームにも、彼女の名前は上がらない。
彼女と仲が良かった――少なくとも自分ではそう思っている長介もまた、口を開くことはない。開いたところで、彼女は帰って来ない。開いたところで、真実は日の目を見ない。開いたところで、古い日の傷口がじくじくと膿み返すばかりなのだ。
ただの〝トップジョッキー〟としてなら、この出来事も割り切れただろうが、長介は〝後輩想いの先輩〟だった。思い返せば彼女のことが好きだった。彼女とは男女の仲などでは無かったが、危なっかしい非人間的な振る舞いの中に垣間見える人間らしさが好きだった。長介は自らの在り方を問い、惑い、悩んだ。脳梗塞を発症したこととの直接の因果関係は定かではないが、一概に無関係と決めつけることはできないだろう。
彼女がどこにいるのか、誰といるのか、何をしているのか、生きているのか死んでいるのか、それすらも解らない。
『チョーさんだけに、蝶の話でもしましょうか。腸よりは蝶のほうがいいでしょうし。
先輩は蝶と蛾の違いって解りますか?
はいはい――ふむふむ――ほうほう。
成る程。確かに一般のイメージでいえば、そうなりますよね。ですが、昼行性の蛾もいますし、夜行性の蝶もいます。同様に、胴が細い蛾もいれば、胴が太い蝶もいるんですよ。翅の模様の美醜なんて、結局はニンゲンの価値観や主観によるもので個人差もありますよね。
実は生物学上では、蝶と蛾は同じ「鱗翅目」の虫なので区別が難しいんですよね。日本では蝶と蛾と呼び分けていますが、外国では同じ言葉で表現されている場合もあるんです。たとえばフランスでは〝papillon〟と。呼び分けが必要な時は〝
ですが、しかしながら、それもこれもどれも、とどのつまりは人間の理の話です。虫の世界では――虫に世界があるかは知りませんが――自分を蝶だと思い込んでいる蛾もいれば、自分を蛾だと思い込んでいる蝶もいるでしょう。そんな風に、切に信じている〝papillon〟もいるんじゃないですか?
胡蝶之夢も、もしかしたら実際は蛾になった夢を見た男の話だったのかもしれません。彼自身が、蝶だったと、信じ込みたがっているだけで』
彼女は、蝶と呼ぶには余りにも毒々しく、蛾と呼ぶには余りにも繊細すぎた。
時々発作のように彼女の言葉が蘇ってくる。寝苦しい夏の夜に見る、何かに追われる夢のように。
長介の過去回想でした
次回はまたゆるりとした話になる予定でーす