『中山5R三歳芝の未勝利戦1800メートル。一着は6番ミナトサキタマ3番人気、クビ差の二着に1番ダイチャンス1番人気、二馬身離れて三着7番オーノーブラザー4番人気でした』
(クビ差か……5戦走って未勝利……ここいらかなぁ)
騎手の交代――乗り替わりの理由は様々ある。
お手馬がかち合う、当日に海外でのレースに出る、騎乗停止、怪我などの騎手の事情。
馬主からの要望。
調教師の判断。
乗り替わりによって才能が覚醒する馬もいれば、成績が落ち込む馬もいる。
騎手との相性もある。馬の特徴や癖を知っているから能力を引き出せるケースもあれば、逆に馬への先入観がないことで新たな才能を開花させるケースもある。
かつては厩舎所属の騎手にレースでも騎乗させる気風もあったが、厩舎に所属しないフリー騎手が増え「エージェント」――騎手の騎乗依頼を仲介する人物――が台頭するようになってからは、いい騎手に強い馬が集まるという風潮が強まっている。
「テン乗り」というのは、乗り替わりに際してある騎手がその馬に初めて騎乗することを指す。
成績が悪くても同じ騎手を乗せ続けるケースもあるが、結果を出せない騎手が替えられるのは致し方のないことなのかもしれない。
「ダイチャンスは乗り替わりだ」
「だよね」
長介から鞍上交代を告げられた佐知子は淡々としていた。
ダイチャンスは騎手時代から長介と縁の深い馬主の馬であり、出走するレースや騎手については長介に一任されていた。新馬戦から日々の調教においても、佐知子が乗り続けてきた馬だ。現役リーディングサイアーの血を継いでいる。
この馬を乗るにあたり、「4、5戦して結果が出なかったらヤネを替える」と長介は宣言していた。年が明けて春を迎えるまで、春のクラシックに乗り込めるか否かはここが正念場となる時期だ。佐知子はチャンスをフイにしてしまった格好だった。
「だが、新馬の頃に比べたら格段にいい走りができるようになった」
「そうだね。たぶん、次で勝てると思うよ。誰乗るの?」
「大江に乗ってもらうよ」
長介は美浦のベテランジョッキーの名を挙げた。
「まあ、また次頑張ってくれ」
「うん」
「それでもうひとつ話がある」
「まだなにかあるの?」
「今度は逆にお前に乗り替わりで騎乗依頼が来てる。土曜中山9R四歳1000万下、コースは芝の1600。牡馬で、名前はベストチューナー」
「永江先生のところの馬ですね」
「そうだ。郷田が他の馬とかち合っててな。お前に回ってきた」
「ひとみさんだったんですね」
「郷田が乗ってただけあって動きはいい。とりあえず思うように乗ってみろ」
「はい!」
佐知子が追い切りに乗ってみた感じ、ベストチューナーは確かにいい馬だった。
反応もよく、終いの脚もよく伸びた。
調教助手によればゲートでチャカつくこともあるそうで、前走で負けたのはそれが理由らしい。
(枠にもよるけど、前で進めたほうがいいかも。……もしかして逃げるのもアリ?)
そしてレースの時が来た。
『少し風が出てきました中山競馬場。9Rは芝1600メートル十頭立てで行われます。最後に一番人気、現在二連勝中のボーンペップが収まりました。
スタートしました。
7番のスノーウォーマーが少し出遅れ、それ以外は揃ったスタートを切りました。
内から押して押して1番ベストチューナーが先頭に立ちます。3番のアカイマンネンヒツがその外につけて二番手。ここで各馬外回りの二コーナーへ向かっていきます。
三番手が6番リトルグラス。その内側半馬身後ろに2番のゴールアトムも前へ。その直後9番ヒゲスラックスマンが馬群の中。
インコースには10番ボーンペップ一番人気、内をすくって徐々に押し上げて今四番手まで上がってきました。
先頭から六頭目には5番ダイナミックサブ、8番サラバ、4番ブックマークと続いて、最後方追走が7番スノーウォーマーという展開になっています。先頭との差は十馬身程度。ペースは緩みなく流れています。
先頭はベストチューナー、二番手に一馬身差をつけて逃げています。これに迫ろうかというリトルグラス。さらにアカイマンネンヒツも差を縮めています。
四番手以降はひとかたまりになってきました。内にボーンペップ、外目につけてヒゲスラックスマン、そして間からはサラバ。
4コーナーから直線に向かって先頭は最内1番のベストチューナー、並んで6番リトルグラス、3番アカイマンネンヒツほぼ横一線。
外に持ち出してボーンペップ、ヒゲスラックスマンも追い上げ体勢。
残り100メートル、先頭は内ラチ沿い粘るベストチューナー。ボーンペップがこれを捉えにいく。
ベストチューナーがもうひと伸び。ボーンペップは決死の追い込み届くかどうか。三番手争いはアカイマンネンヒツが一歩抜け出した。
先頭は、ベストチューナー! ゴールイン!
一着はベストチューナー、二着ボーンペップ、三着がアカイマンネンヒツという順番です。
勝ったのはベストチューナー、鞍上は君野佐知子騎手、乗り替わりでの勝利となりました』
ひとみが騎乗した一番人気ボーンペップを退け、ベストチューナーは勝利を収めた。
『サチにやられた。お手馬に手を噛まれた気分だぜ』とひとみは佐知子を称えた。佐知子はジュースをおごってもらったという。
だが後日――
『ええー、なんで勝ったのにお姉が乗り替わりになるの?』
「そういうものなの」
電話口の妹の声は不満げだった。
テン乗りで結果を出したからといって続けて騎乗できるかどうかは分からない。
特に、ベストチューナーは一口馬主による大手クラブの馬なので騎手起用に関してはシビアだ。それは佐知子も長介も承知の上だった。
次走には関東リーディング上位の松崎騎手が乗るとのことだ。
「そう言われたわけじゃないけど、元々今回だけの代打騎乗っていう気持ちで乗ってたからね」
『でもさ、なんていうか、ヤじゃないの?』
「別に、かなぁ。私ってまだ二年目で実績なんかあるわけじゃないし、特典付きの女性騎手っていうので割増してもらってる部分もあるし」
『なんだかなぁ……じゃあ例えば、デビューからずーっと乗っててずーっと勝ち続けてる馬が、GⅠの前にいきなり他の人が乗るってなったら悔しくない?』
「うーん、自分が乗れないっていう意味じゃ悔しいかもしれないけど、そういう経験ないしなぁ。でも、私だけの馬じゃないから。自分が関わった馬が勝っていってくれたらそれは嬉しいよ。自分が鞍上じゃなくってもね」
『…………』
「乗る私たちもプロだし、乗せる人たちもプロだからね。それに騎手って依頼をもらってはじめて乗せてもらえる立場なわけで、乗せてくれる人がいなくなったらご飯食べていけないんだよ。だから、乗り替わりに関してはわりと割り切ってるね。また機会が巡り会うことだってあるかもしれないし」
『……そういうものなのかなぁ……いや、理屈は分かるんだけども――』
妹は乗り替わりについて、最後まで納得できない様子だった。
確かに一昔前は、同じ騎手が乗り続けて大レースを勝つような名馬も少なくなかった。一度や二度の騎乗ミスがあっても寛大な心持ちで乗せ続ける個人馬主もそれなりにいただろう。
『もっとさ、「この人にこの馬」みたいな、名コンビが出てきてほしいんすよ!』
長介とサーチライト号も、やはり古くからの気風がまだ強い時代のコンビだった。調教師の藤坂と馬主の幸野は古くからの仲であったし、サーチライトが秋華賞のトライアルレースで敗れた時も『色々言われてるようですが、サーチライトには末永でいきます』と力強く後押ししてくれた。
もちろんそうした気風が完全に失われてしまったわけではない。現代においても、そうした話はある。
『それでいったらやっぱり今年のクラシックはフォーユアアイズを応援したいな。ひとみさんに女性初のダービージョッキーになってほしいし』
「うん。そうだね」
『弥生賞も楽勝だったし今のところ不安要素は無いね。いけるでしょ』
郷田ひとみとフォーユアアイズはここまで四戦四勝。2歳で朝日杯FSを制し、皐月賞トライアルでも一番人気に応えて勝利を収めた。現状、牡馬クラシック戦線最有力のサラブレッドだ。
鞍上を務めるひとみがフリーになる前に所属していた厩舎の所属馬であり、かつての師弟がタッグを組んだ馬でもある。
「『女性の乗り役に乗ってほしい』って感じで、たまに調教で乗せてもらってるんだけど、あれはすごい馬だよ。今までで乗った馬でいちばん乗り味がすごかったかも!」
『お姉のお墨つきいただきました! ということはダービー当確かな~!』
「どうだろうね。こればっかりは走ってみないとわかんないから」
『いやいや、フォーユアアイズ軸はカタいでしょ。他にもいい馬はいるけど、そこまで信用できるかっていったら不安残るし。ドリームメイカーはいくら鞍上王子っていっても初関東だしこれまで勝った相手もそこまでじゃん。フリップフロップはホープフルSから直行でしょ? 「ぶっつけで大丈夫?」ってなるし。それだったら輸送パスして共同通信杯でいい脚使ったモミノキが上位に来ると思うんだけど――』
高校生の妹が饒舌に皐月賞の予想をまくしたてるのを聞いて、佐知子は尋ねた。
「チエ……いちおう確認なんだけどさ」
『なに?』
「馬券買ってないよね?」
『あはは、お姉ったら心配性だなあ。勝馬投票券の購入は二十歳になってから、そんなの常識じゃん! 予想してるだけだってば』
「だよねー」
『あ、そうそう。私将来馬主になるつもりだから』
「ウソぉ!?」
君野知恵--サチの妹、愛称チエ。女子高生。好きな脚質は逃げ