サチは無双しないと思うけどひとみはけっこう無双します
すまんな
前回はダービーでしたが今回は時間を少し遡って、1月の話です
サチがかつて戦ったライバルと再会!
「おーっほっほっほ!」
競馬界のレジェンドもいよいよ本格登場!
「皆さんこんにちは、王子進之助です」
『晴駿』特別コラム
「三冠牝馬サーチライトのライバル――ヌーベルベケット号の物語」 文:野間雷蔵
その牝馬は、三冠馬の父に、アメリカン・オークス覇者の母を持つ、超良血馬だった。セレクト・セールでは高値で取引されて関西の有名調教師の厩舎に入厩した。
良血のお嬢様は、早くからその片鱗を見せる。まず新馬戦。鞍上は天才・王子。単勝人気は1倍台。ここで格の違いを見せつけ、他馬を子供扱いする走りで圧勝。二戦目のファンタジーSでも、持ったままで完勝。
三戦目はいよいよGⅠだった。阪神ジュベナイルフィリーズで圧倒的支持を集めた彼女は、レースレコードで二歳女王の座に輝いた。
桜花賞トライアルレースでも勝ち、桜の舞踏会の
だが、レースでは最後方から飛んできたサーチライトの末脚に屈して二着。
続くオークス、王子進之助は『サーチライトに勝つための競馬』で臨んだ。道中マークし、最後の追い比べに挑んだが、ここでも二着に敗れた。
サーチライトに二冠を奪われ、陣営は背水の陣で最後の一冠を狙いにいった。
トライアルに選んだ紫苑S、サーチライトの二番人気に甘んじたが、レースではこれまでの鬱憤を晴らすかのような豪脚を披露。春に女王へと駆け上がったライバルに五馬身もの着差をつけて勝利。この日もレコード勝ちだった。
秋華賞制覇――二歳女王の、二度目のGⅠ戴冠はすぐそこまで来ていた。
しかし、ここでアクシデントが彼女を襲う。
調教中に脚部不安が起こり、彼女は出走取消となってしまったのだ。
大事には至らなかったものの、結局サーチライトに三冠達成を許してしまった。陣営は砂を噛む思いだった。
雪辱に燃えるヌーベルベケット陣営はエリザベス女王杯に進んだ。
単勝一番人気は――なんとヌーベルベケットだった。三冠牝馬を抑えての一番人気は異例中の異例だが、そこには紫苑Sでの勝ちっぷりに加え、古馬も寄せ付けないような迫力と、スタッフの乾坤一擲の仕上げがあった。
レースも、彼女のペースで終始進んでいった。
絶好の位置で4コーナーに差しかかったところで、ヌーベルベケットの様子がおかしくなった。鞍上の王子も戸惑いを隠せない。外ラチへ向かってぎこちない脚を進めていく。興奮の大歓声と、悲鳴が混じったようなどよめきが京都競馬場にこだました。
レース後、4つ目のGⅠタイトルを手にしたサーチライトの藤坂調教師はこうコメントした。
「最初にゴール板を通過したのがウチの馬だっただけで、今日のチャンピオンはヌーベルベケットでしょう。完敗でした」
余りにも早すぎる別れだった。
※
全戦で彼女と戦った王子は、彼女のことについてあまり語らない。滑らかな語り口でマスコミや記者たちに気の効いたコメントを提供する彼らしくない姿だ。
一度だけ、彼は自身のコラムの中で、彼女についてこう述べている。
――なんでしょうね……いつか、言える時が来たら言いたいんですけれど、おいそれと言葉で、引きずったままの気持ちで言ってしまったら、彼女と築き上げてきたものが崩れていってしまいそうで……僕自身怖いんだと思います。
※
年明け1月のとある週、佐知子は珍しく京都競馬場にいた。ここで行われる重賞に出走する馬の騎乗依頼が来たからだ。その馬主は長介とは現役時代から親交のある人物で、その縁で佐知子に依頼が回ってきたのだった。普段が関東またはローカルの競馬場を主としているだけに、佐知子は騎手としてはほぼ初めて訪れることになった。
佐知子はというと、おろおろとしていた。重賞は日曜だが、佐知子は金曜の夕方には京都入りしていた。前乗りの格好だ。
今は東京・京都・中京の三場開催だ。ひとみをはじめ顔なじみの美浦の騎手は軒並み東京でのレースに騎乗。優花里は騎乗停止中で、美由は中京へ行っている。残る二人の女性騎手もそちらに行っているので、現在京都にいる女性騎手は美浦所属の佐知子だけだった。
(普段一緒なひとみさんも、関西にはいつもいる優花里さんもいない……すごく不思議な感じ)
(京都競馬場かぁ……)
「やあ、サッちゃん」
「お、王子さん!」
王子進之助。
新人最多勝利・日本人の海外GⅠ初制覇・三冠ジョッキー・通算3000勝・10年連続全国リーディング、その他も多くの記録を打ち立て、同時に多くの人々の記憶に残るレースで勝利を挙げてきた、日本競馬における生ける伝説だ。
「なんだか緊張してるね」
「はい……京都で乗るのはほとんど初めてなので……」
流石に『前世では二回ほど走ったことがあるんですけど』とは言わなかった。
競馬界の看板にしてスターともいうべきジョッキー。しかし彼の柔和な笑顔がそうさせるのか、威圧感はそこまでない。
白い歯をのぞかせ、王子は思い出したように告げた。
「そうそう、サッちゃんが重賞初Vを決めたら、みんなでお祝いにジュースをおごろうって決めてるんだ」
ご祝儀である。大きなレースでは、しばしば騎手たちが各々小金を出し持ち寄って、優勝したジョッキーに飲み物などをプレゼントするという慣習があるそうだ。
佐知子は肩をすくめた。
「いやあ、私なんかまだまだですよ」
「だけど末永先生のほうは、相当気合い入ってるみたいだよ?」
王子は長介――竹馬の友のことを、冗談交じりに「先生」と呼んだ。佐知子は思わず笑ってしまった。
「謙遜しておいて、あっさり重賞をかっさらってく。現役の時のチョーさんもそんなんだったからなぁ。もしかしたらサッちゃんもそうなんじゃないかと思ってね」
「似てないですって。チョーさ……テキは、あれですよ。元からあんまり口数多くないですし」
「うん。で、俺のほうは口数多いから、より際立つんだよね」
「王子さんはテレビにもたくさん出てるから、比べちゃダメでしょ」
「だよね。なにせ俺、自分の番組持ってるから」
王子の影響力は競馬界だけに収まらない。競馬を知らない一般人でも王子進之助の名前は知っている。それくらいの有名人だ。
親交のあるタレントのバラエティ番組に出演したり、馬事文化の普及や発展のために、テレビ・書籍・イベント開催など様々な企画を打ち立てたりしている。
「あ、よかったらサッちゃんも『王子の部屋』出てくれない? きっと視聴率すごいことになるよ」
彼の冠番組『王子の部屋』。衛星放送で、毎回親交のあるゲストを招いて王子が騎乗したレースや競馬にまつわるトークをする番組だ。必要以上にマスメディアの前に出るのを嫌う長介は、これまでオファーを全て断っている。ただ、なぜか本人不在にも関わらずたびたび話題に上がるようだ。
佐知子は答えに困った。
「えっと、その」
「チョーさんを通してこの話をしたら絶対握りつぶされちゃうだろうから、直接お願いしたかったんだよね」
「お誘いはとっても嬉しいんですけど……」
「あ、返事はいつでもいいよ」
「ほぇ?」
「気が向いたらでもいいし、100勝とか初重賞制覇とかの節目でもいいよ。郷田さんと一緒とかでもいいかもね。俺が五体満足で乗れてるうちは打ち切りになることはないから」
サラリと言ってのける王子の口ぶりは、佐知子の緊張を解きほぐす。どこまでも彼はスマートだった。
「あ、ありがとうございます」
「よろしく。でも、サッちゃんが出るって言ったら、チョーさんも一緒に出るって言いそうだね」
「あはは、そんな気がします」
「俺が何度誘っても断固として出なかったんだけどなぁ。変われば変わるもんだ」
「素直じゃないですね」
王子は「ほんと、変わったよね」と続けた。
「ストラグルの、高松宮記念の祝勝会の時もそうだったなぁ。アイツ、サーチライトのことなんて何年も口にしたことなかったのに、急に話し出したんだよね」
ゴクリと佐知子は喉を鳴らした。長介が牝馬三冠を達成したサーチライトのことは、つまり佐知子の前の生のことだ。
「何かあったのかなぁ……サッちゃんは何か知ってる?」
「いやあ……わからないです」
「あぁー、そっか」
ドキドキしながら佐知子が答えると、王子はしみじみとつぶやいた。
「なんか、ちょっと羨ましかったんだよね。
俺達騎手ってさ、長くやってると、乗ってた馬のことでどこかやり切れないとか引きずってるのが、ひとつふたつあるもんだからさ。チョーさんも、サチの時はすごいショックだったと思う。良い馬だったから尚更ね……」
愛馬との突然の別れを、王子もまた、経験している。
「たぶん、サッちゃんを弟子に取ったことで吹っ切れたんじゃないかな」
「王子さん……」
佐知子の心象を察したのか、王子は先程までの気配を拭って明るく言った。
「まあ、一期一会だね。あ、ぜんぜん話変わるんだけど、二十歳になったら良いお酒贈るね。白ワインとか飲めそう?」
「えぇ? あ、大丈夫だと思います。その、飲めるかわからないんですけど――」
※
床に就き、佐知子は、かつての記憶を紐解いていた。
京都競馬場で走った秋華賞とエリザベス女王杯。
前者は牝馬三冠を達成したレースで、思い出深い。
後者もまた、決して忘れることのできないレースだ。
牝馬クラシック戦線のライバルだった二歳女王ヌーベルベケット。血の誇りと気高さ――真紅の勝負服。
あの秋に関してだけいえば、間違いなく彼女のほうがサーチライトより上だった。
もし彼女があのまま何事もなくレースを勝利していたら、当時の牝馬戦線の勢力図は変わっていただろう。そう言えるほどに、その後のサーチライトの馬生に大きな影響を与えた鮮烈なサラブレッド。
目を閉じ、何か言いたげだった王子の顔が浮かんだ。
※
『――のよ――きなさい――さいったら!』
誰かの声がする。
初めて聞く声だったか、なぜか親近感がわいてくる。
『サチ――起きなさい!』
自分の名前を呼んでいるようだ、と佐知子は思った。ぼんやりと覚醒しない意識の中で、彼女は目をこする。
『起きないと――噛むわよ』
「!」
物騒な文言に、佐知子はバタッと飛び起きた。
そこには一人の少女の姿があった。
気の強そうな吊り上がった目。艶やかな髪。端正な目鼻立ち。美少女といってなんら差し支えない美貌の持ち主だ。
まるでこれからどこかのパーティにでも行くような赤い――紅いドレスを纏った彼女は、サチに向かって指差した。
「久しぶりね、サチ」
「…………」
「まさかアンタが人間になって、しかも騎手になるだなんて、面白いこともあるのね。神様がいるのだとしたら相当な物好きだわ」
友達にいうように、彼女は佐知子に向かって話しかけてくる。
「新人最多勝利? おほほほ! アタシの宿敵ならそのくらい軽くやってもらわなくちゃ困るわよ! とはいえ、アンタなんか進之助の足元にも及ばないんだけどねっ!」
確信はなかったが、佐知子は自然とその名前を口にしていた。
「ヌーちゃん……?」
「そうよ。アンタを――サーチライトを負かした女王――末永長介が愛した牝馬がサーチライトなら、その永遠のライバルたる進之助の最高のパートナー(牝馬限定)はこのアタシよ! あ、『GⅠ勝ち鞍一つだけじゃん』とか野暮なこと言わないでよね。まあ、何にしても、アタシがアンタの永遠のライバルであることは――」
途中まで言って、紅い少女は目の前の佐知子の様子に気がついた。身体を震わせ、目には涙を浮かべている。
「ヌ゛ー゛ち゛ゃ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ん゛」
「えっ、あっ、なになに? なんなのよもー!」
「う゛わ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ん゛」
※
「落ち着いたかしら?」
「……うん。ごめんね」
「気にしなくていいわよ。そりゃびっくりするわよね。こうして化けて出てきたら」
「まさか、こうやって話ができるなんて思ってなかったから……」
「アタシだってそうよ。自分でもいまだに半信半疑なんだから」
言い切ってヌーベルベケットは笑った。可憐な笑みからは気品が滲み出てくる。
「アンタも、つらかったわね……最後まで走り切れなくて」
「ヌーちゃんだって、そうでしょ?」
「アタシはいいの。老いぼれて死ぬのはまっぴらご免だったもの。それにターフの上が最期の場所だなんて、ロマンチックじゃない?」
「……」
「……サチ?」
「…………」
「……ごめんなさい」
悲しそうに押し黙る佐知子を前に、彼女はちっぽけなつよがりを捨てた。
「……アタシも、やっぱりつらかったわ。オーナーや先生にも親不孝しちゃったし、色んな人に迷惑をかけた。何より進之助――あの人と、最後には笑顔で終わりたかったのに、あんな終わり方になっちゃったんだもの。哀しくて、やりきれなかったわ」
「そうだよね……」
「でもね、あの人が今もアタシのことを覚えてくれているなら、それはとてつもない喜びよ。アタシにとってあの人は特別だけど、あの人にとって特別なのはアタシだけじゃない。所詮は数多くいる中の一頭――そんなことは言われなくても分かってる。それでも、何千何万って、生まれては消えていく馬たちの中で、あの人の記憶に留まることができる。想ってもらえる。それってとても幸せなことだと思わない?」
甘美な諦めと、厳かな矜持が、彼女の瞳の奥にあった。
ヌーベルベケットはひとつ咳込みをしていった。
「湿っぽい話ばっかりになっちゃったわね。それじゃあ本題に移りましょ」
「え? 今のが本題じゃないの?」
「当たり前よ。昔の話ばっかりしてても仕方ないじゃない。進之助の言葉を借りれば『振り向いてもいいけど、最後まで歩みを止めてはならない』。切り替えは騎手の基本よ」
「さすがだなぁ王子さん。本当にプロフェッショナルだね」
「なーに当たり前のこと言ってんのよ! おーほほほほ!」
そして彼女は腕組みをして自慢げに語った。
「聞いて驚きなさい。今のアタシはいうなれば京都競馬場の守り神なの。守り馬といってもいいかしら」
「おお! それはすごいね!」
「まだ銅像は立ってないけどね。ほら、崇めなさい! 拝みなさい!」
「ははー! ありがたや~!」
「ふふん。で、アンタって京都での実戦は初めてなんでしょ?」
「うん。一応、騎手の先輩方やチョーさんからアドバイスは受けてるけど」
「じゃあ今日はここでの競馬について、アタシが直々に色々と教えてあげるわ。この淀の女神様がね!」
「ほんとに!?」
「ええ。それに変に乗ってケガとかされても困るし。二年目っていってもアンタはまだまだ――」
「ありがとうヌーちゃん!」
「ちょっ、ちょっと! ……引っ付くんじゃないわよバカ!」
抱きついてきた佐知子を慌てて引き剥がす。
そして、ヌーベルベケットはニヤリと微笑んだ。
「じゃあいくわよ。メモの用意はいいかしら?」
「はーい」
果たして夢の中でメモを取ったところで、意味などあるのだろうか。
佐知子はヌーベルベケットから京都競馬場の極意について学び――
――土曜最終レースで、佐知子は王子が騎乗する一番人気の馬を差し切ってハナ差で勝利を収めた。
その日の晩のこと。再度、懐かしい顔が佐知子の夢に現れた。
「あーもう! なにしてくれてんのよサチ! 親切を仇で返すなんて、もう許さないんだから!」
「しょうがないじゃん勝負の世界なんだから……」
「口応えするんじゃないわよ! サチのくせに! この、おたんこなす! スットコドッコイ! 三冠牝馬だからって調子のるんじゃないわよ! アンタなんか出禁よ出禁! もう二度と京都に来ないで!」
「ヌ、ヌーちゃん落ち着いて」
「もう決めた! アンタを呪うわ! サチなんて明日の重賞でシンガリ負けすればいいのよ!」
「過激な守り神だなぁ……」
「勝つのはもちろん王子進之助! 進之助なのよ!」
「ヌーちゃん、王子さん明日は東京だよ」
「あっ…………」
その一言で雷に打たれたように彼女の身体がくずおれる。彼女は苦々しげにつぶやく。
「ぐぬぬ……もう重賞は全部京都でやればいいのよ」
「さ、さすがにムリがあるんじゃない?」
「分かってるわよそんなこと!」
以後、佐知子は京都に来るたびにこの懐かしい友人が夢枕に立つようになった。
重賞はというと、佐知子の騎乗馬は発走直前に歩様の異常が見つかり競走除外となった。
呪いが効いたのかは定かではないが、馬のほうは幸いにも大事に至ることなく、復帰後も長く走り続け、無事に引退を迎えることができたという。
ロッカーに引き揚げた王子は、書き置きと、一通の手紙が置かれているのに気づいた。
メモ用紙の書き置きには『私のともだちからです』とある。「S」と署名があった。彼は直観的に佐知子が置いていったのだと思った。
着替えもそこそこに、彼は手紙を読んでみた。いわゆるファンレターだった。
『応援しています』
『王子さんの活躍する姿に勇気をもらっています』
『身体に気をつけてこれからも頑張ってください』
大体、そんな内容だった。
そして、最後の署名には「N」の文字があった。
名前も顔も、素性も何も分からない「誰か」からの手紙だったはずなのに、王子はこの手紙の主とどこかで出会っているような気がした。そして、その「誰か」は、自分にとって特別な存在であったような――
手紙を置き、腰を下ろして目を閉じる。
するといきなりの睡魔が彼を襲った。軽いまどろみの中を二、三分漂って再び目を開けると、「あれ?」と違和感を覚えた。先程まで目の前にあったはずの手紙と書き置きがなくなっていたのだ。風で飛ばされることなどないはずだ。しかし、影も形も見えない。誰かが持っていったとも思えない。
軽い戸惑いの後、王子は困ったような笑みを浮かべていた。
佐知子に聞けば何か分かるかもしれないが、彼はあえてそれをしなかった。
――全ては自分が夢で見た刹那の物語だったのかもしれない、と。
彼は思う。
『競馬の神様がいるのだとしたら、それはきっと相当な物好きに違いない』
余談ではあるが、王子進之助はヌーベルベケットが予後不良となった翌年のエリザベス女王杯で優勝している。天国の彼女に捧げる勝利だった。