三冠牝馬が女性ジョッキーに転生する物語   作:nの者

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主人公が遂に登場!

ホイホイ話が進んでいきます


リスターター(もう一度あなたと歩む道)

 実力、人気ともに日本トップクラスだった長介の引退は大きなセンセーションを巻き起こした。影響は競馬界に留まらず、普段は競馬のニュースなど流さないような朝や昼の情報番組にも彼の名前が挙がるほどだった。

 長介は、退院後も決して復帰は考えなかった。リハビリを重ねた今でも、右手に力が入らないのだ。予想していたよりも早くその時が来てしまったわけだが、きっとそういうタイミングだったんだと受け入れた。

 調教師として再スタートを切った長介だったが、はじめの頃はだいぶ苦労した。「名選手、名監督にあらず」の言葉のように、騎手として優秀な成績を残した者が必ずしも名調教師になれるとは限らない。今でこそ厩舎から重賞を勝てる馬が出てきてはいるが、それでも「物足りない」と言われることがある。他ならぬ長介自身がそう感じることさえある。

 GⅠ勝ちの馬が出ないまま、とうとう長介も四十路に足を踏み入れていた。鏡の中を見れば、やせぎすの身体はそのままに、かつて天才と言われた若者の面影を持ったくたびれた男の顔がある。周りを見れば自分より一回り、いや、二回り近く年下の騎手達がレースに乗るようになっている。かつての恩師達の中には既に鬼籍に入ってしまった人もいる。教えられる側だった自分がいつしか教える側に回っていることに、いやでも時の流れを痛感させられる。そして、今年もそれに拍車をかける事柄があった。競馬学校で騎手を目指している学生たちへの講演依頼が舞い込んできたのだった。

 

                  ※

 

「本当に私でよかったんでしょうか?」

 今更ながらに長介は戸惑いの弁を口に出すが、職員の男性はまじめな顔で答えた。

「何を言ってるんですか。三冠もリーディングも獲得した元トップジョッキーで、現役トレーナーでもある末永先生の講演ですから、生徒たちも楽しみにしているんですよ」

「そうですか」

 開始の時間になった。

 講演の行われる部屋の前にやって来て、ひと呼吸入れる。メディア対応でカメラや人の前に立つことはこれまで何度もあったが、講演という形で壇上に上がる機会はなかったので、心なしか緊張していた。リハーサルもとい練習はきちんとやって来たが、カンペや台本のようなものは持たなかった。あくまで場の空気を感じたうえで最適な講演にすればいい。騎手という職業は、万全の準備をしながら本番になってその全てが無になってしまうかもしれない仕事をこなさなければならない。勤勉さと臨機応変さが肝なのだと、長介は師匠から教わっていた。

 ドアを開けると拍手が起こった。誰か一人、ひときわ大きな拍手を打っている生徒がいるようだったが、長介は毅然とした表情で壇上に立って、一礼をした。

「はじめまして、末永長介です」

 顔を上げて、ざっと席を見回す。一面、坊主頭の生徒たちが見えた。「そういえば俺も昔はこんな頭だったな」と一瞬思い出しつつ、最前列に違った色を見た。茶色が混じったような髪の毛で、長さも他の生徒のそれとは異なっていた。男子は原則として全員坊主なわけだから、坊主でない生徒がいるとしたらそれは女子生徒ということになる。

 ここ十数年で女性騎手もかなり台頭してきた。かつては競馬の世界といえば、男の世界だった。しかし、女性騎手への減量の新たな規定が生まれたこともあり、競馬界にもジェンダーフリーの波が打ち寄せた。当初こそ「人気に対して実力が追いついていない」という女性騎手に対するステレオタイプを打ち破るには至らなかったものの、数年前にデビューしたひとりの女性騎手が平地GⅠを制覇すると、保守的な人間たちも口をつぐんだ。

「こうやって講演をするというのは実は今日が初めてなので、拙い部分もあると思いますが、どうぞ最後までお付き合いお願いします」

 そう言って頭を下げると、再び拍手が起こった。また大きな拍手の音がした。その音の主が先頭の席に座っていた彼女であることが、今度はわかった。

「大きな拍手をいただけて、大変恐縮です」

 照れたようにはにかむと、教室内に笑いが沸き起こった。例の彼女は、さすがに気恥ずかしくなったのか頬を染めている。

 少女の顔を眺めて、長介ははっとした。

 動揺や戸惑いが生まれたが、決してそれを生徒たちには気取られぬように振る舞い、彼は人生初となる講演をつつがなく成功させた。

 

 プログラムが終了した後、僅かではあったが生徒たちとの自由交流の場が設けられた。簡単な自己紹介と、ひとり一つか二つか程度の質疑応答を交わす時間だ。

 質問は技術的なことから、過去のレースのこと、現役時代の食生活やトレーニングのことにまで及んだ。

 円形に並べた椅子に座る生徒たちの反応は十人十色だった。長介の現役時代をよく知らないという生徒も中にはいた。まあ、鞭を置いてから十年も経っているのだから当たり前にいるだろう。

「と、こんな感じでいいかな」

 一通り質問に答え終え、長介は言った。

「じゃあ逆に質問してもいいかい?」

 何でしょう、という生徒たちに向けて長介は尋ねる。

「この中でいちばん上手な子は誰?」

 純粋な好奇心からの質問だった。もしかすると将来、この中にいる騎手の卵の中から自分と大きな仕事をやってのける騎手が現れるのではないかという、冗談めいたものでもあった。

「だったらサチだよな」

「ああ。馬乗りでサチに敵うやつはいないもんな」

 ひとりの生徒がそう言うと、他の生徒もそれに同調した。サチ、という呼び方に長介は内心ぎょっとしたが、あくまで平静を保った。

 君野佐知子(きみのさちこ)――伏し目がちだった少女に全員の注目が集まる。本人は照れているようでなかなか顔を上げない。

「どうしたんだよサチ、しおらしいなんてお前らしくもないな」

「こいつ、普段はこんなやつじゃないんですよ。どっちかっていうとうるさいほうで」

「憧れのチョーさんを前にしてテンパってんだよ」

「部屋にも現役時代の末永先生のポスター貼ってるんですよ」

 生徒たちの話を聞くに、紅一点の彼女は優秀な生徒であると同時にどうやら熱烈な長介のファンだったようだ。

「そうだったんだ。だけど、俺の現役の時って、君野さんはまだ五つか六つとかでしょ? なんていうか、珍しいね」

「ずっと……見てたから……」

 消え入るような声で彼女がそう言った。まあ、今のご時世は動画サイトや、オフィシャルでレースのアーカイブを残しているようになった。そこでたまたま自分の存在を見知って、注目してくれるようになったのだと、長介は自分の中で解釈した。

「末永先生、そろそろ……」

 ここでタイムアップが来たようだ。職員に促されて、長介や生徒たちは椅子から立ち上がって最後の挨拶を交わす。

「あ、あのっ……!」

「どうかした?」

 彼女が切羽詰ったような声で何かを言いかけた。定まらない視線で、次の言葉が出て来ない彼女を前に、長介はじっと待った。

「えっと……その、なんでもありません……ごめんなさい」

 結局、彼女からそれ以上言葉は出なかった。

 

                  ※

 

 長介の中に言い様の無い感情が湧き上がっていた。

 ただ、余りにも荒唐無稽で現実味のないそれを、信じようとは思えなかった。信じられずにいた。四十にもなったいい大人が、そんなことを信じるほうがどうかしていると切り捨てようとしていた。

 

『騎手課程の生徒の受け入れに関することなのですが』

 講演の後、教官から連絡をもらった長介に驚きはなかった。調教師の仕事も板についてきたところで、自分の厩舎に騎手を所属させてもよいと無理なく思えるようになっていたからだ。きっと講演のオファーの裏には向こうのそうした思惑もあったんじゃないかと勘繰りそうにもなるが、あえて言葉に出すことでもなかった。長介は教官の話に応じた。

「いいですよ。どの生徒でしょうか?」

『君野さんです』

 その名前が出たところで、一瞬言葉に詰まった。が、気を取り直して会話を続けた。

「ええと、それは本人の希望でしょうか。それとも学校側の判断でしょうか」

『君野さんからの強い希望がありまして、学校としても検討を重ねました結果、こうしてお願いしようということになったのです』

 いや、しかし――という喉まで出かかっていた語をぐっと飲み込む。

 教官が続ける。

『彼女は模範的な生徒ですし、心配はないと思います。体力の面でも、精神の面でも、男子生徒に劣らないほどたくましい生徒です。飲み込みも早く、気配りや気遣いといった人間性の面でも申し分はないはずです』

「ですが、それほどの生徒であれば他の先生方からも引く手あまたなのでは?」

 ところが聞けばそうではないとのことだった。

 彼女の親族には競馬関係の職に就いている人間はおらず、いわゆるサークルの外の家庭で彼女は育った。

 幼い頃に競馬好きの叔父に連れられて東京競馬場でレースを見たことが初めての競馬体験だったそうだが、この時に彼女は競馬の世界の魅力に取りつかれたのだという。

 しがらみ、もといコネクションはない。オファーもない。ならば本人の希望と、講演した縁でどうか――そんな話だった。

 断る理由など、適当にいくらでも作れるはずだった。だが、長介の答えはあっさりとしていた。

「わかりました。ではまた日を改めて詳しいお話をうかがいます」

『よろしくお願いします』

 電話を切った後で、長介は液晶が暗くなっていく様を静かに見ていた。

 そこからはとんとん拍子に事が進んでいった。かくして三月から佐知子は末永厩舎の所属騎手となることが決まった。

 

                  ※

 

 競馬場ではどんよりとした雲が上空に漂い、昨夜降り続いた雨で芝はぬかるんでいた。

 騎手課程の三年生たちによる模擬レースのゲート入りが着々と進んでいた。

 午前のレースを終えて、自厩舎の馬の出番はメインである11Rを残すのみだった長介は、彼らを見守っていた。さらにいえば、佐知子を見ていた。

 現役騎手も参加している模擬レースだったが、観衆の注目はやはり佐知子だった。彼女は大外枠からの発走となっていた。キョロキョロと周りを見て落ち着かない様子の彼女を見て、長介の心中は穏やかではなかった。

「……集中しろ」

 長介の声は届いていないようだった。

 すると佐知子が舌なめずりのように舌を出して片目を軽く閉じてみせた。さながらアイドルの決めポーズのようだった。観衆が沸く。

 長介は目を見開いた。

「こら君野、レースに集中しろ」

「あ、すみません」

 傍らにいた教官に窘められ、申し訳なさそうに頭を下げた。

 佐知子が、最後のゲート入りを済ませると発馬機のランプが点灯してスタートが切られた。

 同時に、悲鳴がスタンドから上がった。

 佐知子の馬が、ちょうどつんのめった体勢でスタートを切ってしまい、つまずいてしまったのだ。馬はすぐに立ち上がったものの鞍上にいた佐知子が振り落とされてしまったのだった。

 もはや長介の関心は模擬レースの結果などでなく、ただ彼女の安否だけに注がれた。

「あ~~~~!!」

 息を呑んで様子を見ていた長介の耳に、そんな声が聞こえてきた。

 大の字になって天を仰いでいる佐知子の声だった。駆け寄ってきた教官に促されつつ、彼女は自力で立ち上がった。どうやら意識はしっかりしているようだった。

 

                  ※

 

「あ、末永先生」

「彼女の具合はどうですか?」

「問題なさそうです。意識もしっかりしてますし、受け答えもちゃんとできています。気分が悪いとか、そういったこともないようですし」

 医務室に向かう最中、すれ違った教官とそんな会話を交わした長介だったが、気が気でないといった様子で急いで医務室へと駆け込んだ。

「あ……」

「だ、大事ないか?」

「すみません……ご心配おかけして……」

 ぺこりと頭を下げる佐知子。

「君ひとりか? 先生は?」

「ええと、先ほどの5レースで落馬があったみたいで、そちらのほうに向かわれました。終わり次第すぐ戻ると思います」

「そうか」

 長介は立ったままで所在なさげに部屋の隅や、天井や、テーブルの上に置かれたリンゴなどに視線をうろつかせていた。どうも佐知子と目線を合わせることができないでいるようだった。佐知子のほうも、何を話せばいいのか迷っているようでうつむいたまま口を閉ざしていた。

 しばらく――ほんの数十秒ほどの沈黙が数十分にも感じられるほど――して、長介が佐知子のある変化に気がついた。

 つぶらな瞳から涙がこぼれている。佐知子本人はそれに気づいていないのか、雫を押し留めようとも拭おうともしないでいた。

 長介はポケットの中を探って、やや迷ってから普段使いのハンカチーフを手渡した。対する佐知子は、その意図が伝わっていないのか長介の顔を見上げてきょとんとしている。

 仕方なく長介は目元にハンカチを近づけてやった。そこまでするとさすがの佐知子も気がついたようで、慌てて小さな手で涙を拭い始めた。

「ご、ごめんなさい……!」

「あ、いや、別に」

「なんでもないんです……これは、その……落ちちゃったのが悔しくって……」

 そう絞り出すと、さめざめと泣いた。なるべく声を出さないようにシーツに顔を当てるようにして。

 長介にはどうしても目の前の少女が、あの日の夢に現れた生き写しのような少女と――そして、かつて彼が共に苦楽を分かち合った一頭の牝馬と――無関係とは思えなかった。

 ファンであることにしても、発走直前の()()のことにしても。

 ただ、そんな話をしたところで、自分がひどい妄想癖の中年男であるということを自ら暴露するだけだ。そうなる未来しか見えなかった。

 だから、「こんな馬鹿げた妄想は胸に伏せて、そのまま忘れてしまうのがいい」「彼女とあの少女が似ていると思うのは、自分の都合のいい空想なのだ」と圧して、あくまで調教師として振る舞うと決めていたはずなのに。

 長介は堪え切れずに彼女の手を取っていた。

 顔を上げた佐知子の潤んだ瞳が、長介を射抜いた。

 それは、やはりいつかの夢と同じ光景だった。彼女と同じ、どこまでも無垢な色だった。

 そこで我に返った長介は慌てて手を離した。

 だが、今度は彼女が手を伸ばして長介の手をつかまえた。

「握ってて、もらえますか?」

 その要求を、長介は押し流されるように受け入れることになった。自分よりも高い体温が彼女の手から伝わってくる。生の感覚が伝わってくる。

 言葉は交わさずとも、その微かな指の動きや体温から、彼女の意志が感じられるような気がした。

 

「先生……私、今からおかしなことを言います。たぶん変な子だとか、アブない子だとか、そういうふうに思われても仕方ないんですけど、だけど、私にとっては小さい頃からずっと思ってきたことで、ずっと誰にも――両親にも友達にも言えなかったことがあるんですけど、聞いてもらえますか?」

 少女は、周りを気にするようなぼそぼそとした喋り方で言った。

「ああ……」

「ありがとうございます……」

「誰にだって、言いたくても言えない、言ったところで誰にも相手にしてもらえないような話のひとつくらい、あるだろうさ。俺にだってあるんだ。君にもあったって不思議じゃない」

 長介の言葉に、佐知子はちょっと驚いた顔をした。

「リンゴ、好きなんだな」

「あ、その……はい。好きです」

「昔、俺の知り合いにもリンゴが好きなやつがいたんだ。ケンカした後なんかは拗ねたアイツのところにリンゴを持って謝りに行ったもんだ」

「…………」

「もうだいぶ前に遠いところに行っちまったよ。嫁入りもまだだったのにな。……いい娘っ子だったよ」

「……そうなんですか」

「ああ、そうだよ。今でもたまに夢に見るよ。自分ばかりいい思いさせてもらって、結局あいつを本当に幸せにできたかどうかは自信がない。もしかしたら、俺のことを恨んでるのかもな」

 彼女を死なせてしまったのは自分ではないのか。そんな思いが長介の中にはずっとあった。

 あるいは、最後の舞台を勝利で飾れなかったのは、自分のせいだったんじゃないか、と思うこともあった。

 

「そんなことない」

 

 はっきりとした口調で佐知子が言った。矢継ぎ早に続けた。徐々に語調が強まっていく。

「確かに途中でお別れすることなっちゃったのは悲しかったけど、それは、きっと、誰のせいでもない。きっと、そういう運命だったんだよ。だけど、少なくとも私は感謝してる。つらいことや苦しいこともいっぱいあったけど、それ以上に嬉しいことや楽しいことがあったから! 私は幸せだったよ!」

 敬語が抜けていることにようやく気づいたが、むしろこちらの口調のほうがしっくりくる、と長介は感じた。咎めることも指摘することもなく、彼女の話に耳を傾けた。

「だから、チョーさんを恨むはずない…………と思います」

 思い出したように付け足した最後の言葉に、長介はなんだか面白くなってきてしまった。ふふっと笑いをこぼすと、佐知子は焦ったように手を振って主張した。

「あ、これは、その……その牝馬の気持ちになり切って言ったことであって、決して私がその子だったとか、そういうことじゃなくってですね……!」

「まだニンジン嫌いなのか?」

「そりゃ嫌いですよ。いいですか、私たちがみんなニンジンを好きと思ったらそれは大違いですよ。人間と同じで趣味嗜好はそれぞれ……って、違います! 今のは一般論です!」

「そうなのか」

「そうなんです! だから私は、チョー……先生の、知り合いの方とは全く何の関係もありませんし、何の因果もないんです!」

 猛烈な勢いでまくしたてる彼女に対して、ぼそりと長介がつぶやいた。

「いや、俺はその「知り合い」が「牝馬」だなんて一言も言っていないんだけどな」

「あっ……!」

 しまった、というように口を押さえる佐知子の姿を見ていると、やはり笑ってしまう。面白おかしくて、馬鹿げていて、とても現実に起きている出来事とは思えなくて、気が抜けてしまう。そして、感情も勝手にこぼれていってしまう。ぐちゃぐりゃに押し寄せてくる想いを我慢できない。

「は、ははは」

 佐知子は鼻頭を手でこすって、へにゃりと微笑んだ。

「ヘンなこともあるんだね……」

「ああ、ヘンだ」

「馬が騎手になるなんて、自分でもどうかしてると思った。頭おかしくなったのかなって思ったし」

「俺もお前も、頭のおかしいやつで決まりだな」

「えへへ、お揃いだね」

「はた迷惑だ」

 心地良い軽口の応酬に、長介は口元を緩めていた。

「……生まれ変わり、とでも言えばいいのか?」

「私も、それはよくわからない。生まれた時から前の記憶があったわけじゃないんだ。お父さんもお母さんも競馬に興味のない家でさ、叔父さんに競馬場に連れてってもらわなかったら、ずっと知らないままだったと思う。競馬場でファンファーレの音を聞いた時に、ぞぞぞって何かが湧き上がってきて、色んなことを思い出したんだ」

「そうだったのか……」

「うん。最初は自分でも処理しきれなくて大変だった。段々落ち着いてきてから、この記憶が正しいものなのか確かめたくて、本やネットで調べた。前の私のことも、チョーさんのことも、先生やオーナーのことも……」

 だが、藤坂や幸野は、佐知子と出会うことなく、既にこの世を去ってしまっていた。

「でもね、私、誰にもわかってもらえなくてもいいって思ってたの。きっとこんなこと、家族にも友達にも、誰にも信じてもらえないと思ってたから……ずっと、本当の意味で「ひとりぼっち」なんだと思ってたから。だから、今こうしてチョーさんと話ができてるのが、まだ信じられないんだ」

 佐知子はどこか寂しげな表情だった。長介は彼女の後ろで結わえた髪を軽く撫でた。

「俺もさ。俺も、自分がどうにかなっちまったんじゃないかと思って、だけど誰にも言えなかった。怖かった。あんな夢を見て、瓜二つのやつに出会って、いよいよトチ狂ったもんだと参ってたところだった。だけど、お前は、お前だった……やっぱり、「サチ」だった」

「うん……うん……!」

 場内では、ひときわ歓声が上がっている。どのレースだろうか。

 しかし、彼らのひとときにおいて、それは遠い世界の出来事でしかなかった。

「お前……どうして、騎手になろうと思ったんだ?」

「どうしてかな……きっと、そういう巡り合わせだと思ったんだ。ちょうどチョーさんが病気で引退することになった頃だったし」

「……お前も馬鹿だな。いいか、ここは甘い世界じゃねえぞ。それに、お前は人間だ。もっと、高校や大学に行くとか、結婚するとか、別の仕事に就くとか、そういう幸せを選ぶことだってできただろうが」

「知ってるよ。でも、だからこそ、私はここに帰ってくることを選んだ。チョーさんがいる、ここに」

 歯を見せてはにかむ佐知子を前に、長介はそれきり何も言い返せなかった。

 

                  ※

 

 通常の年度方式にのっとれば、三月が卒業や退職のシーズンでして四月から新しい場所――職場や大学などに入社・入学するのだろうが、競馬界の暦ではこの時期が年度替わりだ。定年を迎える騎手や調教師、厩舎スタッフは二月を最後に別れを告げ、三月は新人がデビューする時期となる。

 三月第一週の末永厩舎。中山競馬場でのデビューを控えた佐知子は、調教師である末永と向かい合っていた。

「なあサチ」

「なに?」

「お前さ、夢とかあるか?」

 自分でも何を聞いているんだろう、と思ったが、佐知子は澱みなく返した。

「あるよ。メディア向けじゃないやつ、でしょ?」

 メディア向け、というのはあくまで一般大衆のファンに向けての抱負、プロフィール的なものだった。もちろんそこに書かれた「末永先生のようなジョッキーになりたい」というのも、本音ではあった。

「うん。二つ、かな。一つは、ちゃんと騎手を引退すること。もう一つは、うん。お嫁さんになること」

「デビューする前から引退の話とはな……」

「だからオフレコでお願い。新人のくせにこんなこと言ってたら思いっきり叩かれちゃうからね……あ~ネットって恐ろしい」

「でもまあ、お前らしいよ」

「うん。前は、どっちもできなかったからね……」

 佐知子はしみじみとつぶやいた。

「夢、か……」

「チョーさんの夢って何?」

 佐知子の問いに、長介はとぼけたように「……さあな」とぶっきらぼうに言った。

「ふぅーん……まあいいケド。それよりチョーさんも早く結婚しなよ。この職業で、しかも一回倒れてるんだから、老後のことも見据えていいヒト見つけておいたほうが絶対いいって」

「余計なお世話だ」

「でもでも、若い頃はウキナを流してたんでしょ? アイドルやタレントと噂になったことだって一度や二度じゃなかったみたいだし」

「ネットの情報を鵜呑みにするんじゃねえよ。あんなのはデタラメだよ」

 長介のメディア嫌いは業界では有名だ。

 若くして人気、実績を手に入れた長介。整った外見も相まって男性アイドル的な扱いを受けた時期もあったが、根が職人気質の彼はそうした形で持ち上げられることを嫌った。サーチライトが急逝してからは、さらにその傾向が強まった。悲劇や美談として書き立てるメディアに対して、強い語調で抗議したこともあった。

 今では昔から親しくしている記者の取材以外は、基本的に受け付けないことにしていた。

「お前も気をつけろよ。週刊誌にあることないこと書かれるかもしれないから、怪しい連中と付き合ったり変な取材を受けたりしないように。まあ、そんなふざけた連中は俺が叩き潰してやるけどな」

「はーい」

 笑顔で返事をする佐知子を見て、長介は苦笑いする。

(……こいつ、やっぱりかしましいやつだったんだなあ)

「あ!」

「どうした?」

「だったらさ、私が立候補してもいい? ふっふーぅ、こう見えて結構尽くすタイプだよ?」

「馬は恋愛対象外だ」

「違うよ、元馬なだけだもん!」

「はいはいご苦労様です」

「ぶーぶー!」

 不機嫌そうにブーイングする佐知子をよそに、長介はそれとなく尋ねた。

「なんだ……そのー、お前って好きなタイプっていうか、好みの芸能人とかいるか?」

 そういうと彼女はかつて巧みな演技で日本アカデミー賞を取った俳優の名を出した。

「……渋いな」

 長介と佐知子はリンゴをつまみながら、まるで父娘のような会話を広げていた。

「騎手だったら、そうだなぁー、王子さんかなあ」

「ブフッ!」

 長介は思わず噴き出してしまった。

 王子――王子進之助(おうじしんのすけ)といえば日本一有名なジョッキーといっても過言ではない人物だ。競馬学校では長介と同期で、デビュー後も「東の末永、西の王子」として火花を散らし合ったライバルでもあった、長介の引退後は長らくリーディングを守り続けているもう一人の天才騎手。

 一方、甘いマスクの持ち主でたびたび女性関係でワイドショーを賑わせることもある人物だった。良くも悪くも、長介とは対照的な騎手だ。

「おいサチ、あいつは」

「わかってるってば。あくまで顔の話」

「ったく……」

 あきれ顔の長介に向けて微笑みかけて、佐知子は最後のリンゴを頬張り、無邪気にウインクをしてみせた。

 立場や、関係や、姿形こそ変わってしまったが、やはり自分にとって特別な存在には違いなかった。

「さーて、行こっか!」

 

                  ※

 

スプリングタイムス電子版 20XX年 3月○日

 

『君野佐知子騎手、初騎乗初勝利!』

 

中山3Rで1番リスターターが一着となり、君野佐知子騎手(美浦・末永長介厩舎)が初騎乗初勝利を挙げた。

競馬学校を首席卒業した君野騎手は、今年デビューの新人騎手の中で初勝利一番乗りとなった。

 

君野佐知子騎手

「勝つことができてホッとしています。とにかくスタートで遅れないことだけを意識して、あとは馬の力を信じて乗りました。ここまで支えてくれた方々にただただ感謝です。お世話になっている方々に少しでも恩返ししていけるように、これからも頑張っていきたいです」

 

末永長介調教師

「とにかくスタートを集中するように、とだけ言いました。幸先の良い、素晴らしいスタートを切ってくれたと思います」

 




ということでここまでがプロローグとなります

この世界の中央競馬にはサチを含めて6人の女性騎手がいる設定です

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