三冠牝馬が女性ジョッキーに転生する物語   作:nの者

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フォビア(馬に乗るということ)

 

「今回も、特に異常はありませんでした。ほんの少し視力が落ちていますが、問題無いでしょう」

「そうですか」

「はい、お大事になさってください。いつも応援してますよ」

「ありがとうございます」

 医師に軽く会釈をして、長介は診察室を後にした。

 脳梗塞を発症して以降、長介は年に数回病院へ行っている。何の仕事においても身体は資本だ。長く馬と接するためには、何より先ず自分が健康でなくてはならない。これは師匠である藤坂寅一調教師が口酸っぱく言ってきたことだ。長介は、病に倒れ、その言葉の重みを身をもって痛感した。

 軽く飲み物でも飲んでから帰ろうかと、玄関口の自販機で買ったブラックコーヒーを手にベンチにもたれかかっていると、不意に声をかけられた。

「末永さん」

「雨宮さん、ご無沙汰しててすみません」

「いえ、私のほうも、なかなかご連絡を差し上げることができなくて、申し訳ありません」

 振り返るとナース服の上にパーカーを羽織った女性が立っていた。

 雨宮一恵。彼女は、長介がかつて倒れた時のリハビリや治療を担当していた看護師だ。付き合いはもう十年近い。優しい性格で、入院時に心身共に弱っていた長介と真摯に向き合い、寄り添ってくれた女性だった。

「今から休憩ですか?」

「はい。末永さんはすぐに戻られるんですか?」

「いや、ここで一杯やってから行こうと思ってました」

 

                  ※

 

 蒸し暑い空気を裂くように蝉の声が聞こえる。ふたりはベンチで肩を並べていた。

 長介はリラックスした雰囲気で会話を弾ませた。

「そういえば、君野さんの体調はどうですか? 夏バテとかしてません?」

「アイツに夏バテなんてものはありませんよ。むしろ夏になって調子が上がってきてます。正直、うるさいくらいです」

「うふふ。元気なことはいいことです」

 

※君野佐知子の近走重賞成績

6月東京 GⅢ・ユニコーンS  7番人気15着

6月福島 GⅢ・ラジオNIKKEI賞 14番人気10着

8月新潟 GⅢ・レパードS   9番人気4着

 

 佐知子は、確かに夏になって調子を上げてきていた。

 特に次の重賞、関屋記念で騎乗するイチダイジは、かなりの素質馬だ。三歳春にはNHKマイルCを目標にニュージーランドトロフィーで三着と好走した馬だったが、直後に怪我が見つかり、春は全休となった。その後も弱い体質のせいもあって思うような成績が残せずにいたが、春先から走りが安定。前走OP戦でレースレコードに近い走りを見せて快勝、いよいよ本格化か、といったところだった。

 恐らく当日の単勝オッズは一番人気となることだろう。

「サチはやってくれるでしょう」

「そうなるといいですね。職場にも、君野さんを応援してる方がけっこういらっしゃいますし。もちろん、私も応援してますよ」

 笑顔を見せた雨宮だったが、「でも」と付け足した。

 

「でも……やっぱり無事に回ってきてくれるのが、いちばんです」

 しみじみと言った彼女の目は、どこか遠くを見ているようだった。

「もちろん、勝負の世界だということも、騎手の方はレースで結果を出さないといけないということも分かっています。でも、やっぱり心配なんですよね。ここにも、怪我をしたトレセンの方が運ばれてくることもありますし、レースで落馬した騎手の方が大怪我に遭われたというニュースも耳にします。落馬事故で亡くなった方も……」

「…………」

 

 彼女の言葉に、長介は一人のジョッキーのことを思い出す。

 石井正嗣という騎手がいた。末永、王子という二人の天才を輩出した『黄金世代』の一員だ。競馬学校時代から、真面目で一本気な男だった。

 デビューしてから長らく重賞と縁のなかった彼が、やっと重賞タイトルを手にしたのは30を間近に控えた時だった。石井は所属厩舎の馬で見事に重賞タイトルを掴んでみせた。入線後、彼は涙を流してガッツポーズをしてみせた。乗鞍が少なくなり、一時は騎手を辞めようかと考えていた男に訪れた歓喜の瞬間だった。そのレースの後に王子が言い出して、近いうちに同期だけで祝勝会をしようということになったのを長介はよく覚えている。

 だが、その祝勝会が開かれることはなかった。

 初タイトルを射止めたわずか数週間後、あるレース中に騎乗馬が故障を発生し、石井は落馬。病院に運ばれたものの、後続馬に頭や身体を蹴られた彼は帰らぬ人となってしまった。重賞を制覇した馬でのGⅠ優勝を目標にしていた矢先の悲劇だった。

 傍目には華やかに見える舞台だが、競馬は常に危険と隣り合わせだ。騎手には落馬のリスクが付きまとう。厩舎スタッフもまた、いつ馬が暴れて蹴ってくるかわからない中で仕事をしている。

 長介もそれは承知の上だった。だから、常に細心の注意を払い、危険を察知したらすぐに最も被害の少ない選択を即座に取るようにしていた。

 馬に乗ることが怖くなったら乗り役を辞めるべきだ、という者もいる。だが長介は同時に、果たして何の恐怖も無しに馬に乗り続けていられるものだろうか、とも思う。

 なんと返したらいいのか戸惑った長介は、謝っていた。

 

「すみません。ご心配をおかけします」

「いえ、いいんです。皆さん、懸ける想いがあって乗っていらっしゃるんですよね。それは、もう、分かってますから」

 

                  ※

 

「……」

「あ、末永さん、いいですか?」

「ええ、はい」

 何か思い出したように、彼女はそっと右手を差し出してきた。長介はそれに応じ、右手を差し出す。手を取り、彼女の肌の温もりがじんと伝わってくる。

 リハビリの時から、二人がよく行なっていたやり取りだった。後遺症により上手く動かない右手だが、彼女が力を入れるとすぐに感覚が伝わってきて、温かさを覚える。

 しばらくして手を離し、空になった缶コーヒーのラベルを眺めながら、長介が言った。

「あの……よかったら、またお食事でも行きませんか?」

「いいんですか?」

「はい。お世話になってるのに、なかなかお礼もできませんで……」

 長介が自嘲気味に笑うと、雨宮は穏やかな笑みを浮かべた。

「じゃあ、楽しみにしてます。ご連絡、お待ちしてますね」

 そう言うと、彼女は立ち上がって病院の関係者出入り口へと歩いていった。長介は、ぼんやりと自分の手のひらを太陽にかざしていた。

 

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