運命に噛み付いたところで
すすり泣く声も聴こえないや
がらんどうのハートで
血を吐くほどに叫ばせて
愛を
(Casablanca)
「美味しい?」
「はい。ソースと焼き加減が良くて、そのぉ、美味しいです」
千里の問いかけに、光はドギマギしながら答えた。フォークとナイフを手から離して紙ナプキンに手を伸ばす。触れてみれば、その質感さえも高級そうに感じられた。チェーン店のファミリーレストランに置かれているそれとはまったく異なるしっとりとした感触。それがまた、光の心を脇腹をくすぐっているようだった。
向かいの席に座る彼女は、顔を綻ばせた。
「よかった」
「こういうお店、普段から食べに来たりしてるんですか?」
「ううん。仕事関係の付き合いで食事する時は、もっと広くて賑やかなお店の方が多いかしら。でも、本音を言うと、賑やかすぎる雰囲気って得意じゃないのよ」
「へぇ、そうだったんですね」
「得意そうに見えた? まあ、私も芸能界に身を置いてるわけだから、そういう風に見られても不思議じゃないわね」
千里はそういうとロゼワインの注がれたグラスに口をつけた。少し熱っぽく朱に染まっていく彼女の頬は、どこか艶めかしい。それにしてもどの表情を切り取っても絵になるヒトだ。カメラの前に立つという職業柄なのだろうか。
大人の女性、そう呼ぶにふさわしい。光は改めて思った。
彼らが付き合ってから既に2か月が経過していた。
千里はとある芸能事務所に所属するタレントだ。いっぱしの読者モデルに過ぎなかった彼女だが、今ではテレビやドラマ、イベントの司会、CM出演などその活動は多岐にわたる。そして彼女のメインの仕事のひとつが、競馬番組『馬Time』のアシスタントMC兼リポーターだ。
光が千里と出会ったきっかけもまた、言わずもがなその番組の企画、新人騎手のインタビューの際だった。インタビューに緊張気味だった光をリラックスさせようと千里が、あれこれと話題を振って、互いに好きなマンガや映画などの話で盛り上がった。この時に連絡先を交換したこともあり、2人はその後もプライベートの場で何度か食事をするようになった。
千里はしっかりとした女性だった。欲望と誘惑があちこちに張り巡らされ、生き馬の目を抜く世界である芸能界に身を置きながら、ハッキリとした芯の強さとそれを柔らかく包み込む優しさを持ち合わせていた。騎手としても人間としても未熟な光に対しても、真摯に接してくれた。仕事や競馬、趣味、そして恋愛の話題についても2人はよく語り合った。光が競馬で失敗をすれば、千里は彼を慰め、そして前を向かせた。
『光くんはいつか素晴らしいジョッキーになれるわ。私は信じてる。ずっと応援してるから』
その度に光は千里との価値観の近しさと心地の良さを感じ、惹かれていった。光は仕事の付き合いの延長ではなく、一組の男女としてもっと親しい関係になりたいと思うようになり、次第にその想いは強くなった。だが、自分にその資格があるのか、何度となく悩んだ。彼女にはいつも支えてもらっているが、自分は彼女を支えていけるだけの男になれるのだろうか、と。
そして、昨年の関屋記念で初めて重賞を制したことによって、彼の中には確かな自信が生まれた。この時の勝利を千里は自分のことのように、いや、自分のこと以上に喜んでくれた。その顔を見て、光は改めて決意を固めた。
サイバーロードランで挑んだ秋の天皇賞では惜しくも勝利を逃したものの、堂々たる走りを見せた。
そして、光は千里に告白した。
『本当はGⅠ勝って、カッコよく言いたかったんですけど――』
夢名抄
「光くんてさ、カワイイよね」
「え、そんなことないですよ」
「いーや、カワイイと思うわ。騎手だから小柄で線も細め。目もパッチリしてるし、メイクすれば結構化けると思うな。ちなみに女装の経験は?」
「中学の時に一度だけ。でも、似合ってなかったですって」
「へぇ、そうなんだ。見てみたかったわね。光くんの女装姿。もしよかったらメイクの仕方、ちゃんと教えてあげようか? 今後、女装する機会がないとも限らないでしょ」
「か、勘弁してくださいよぉ」
「ふふふ」
酔いが回ったのか、千里はいつになく饒舌だった。
もうひと口ワインを喉に流して、ミステリアスな笑みとともに千里は光に問いをかけた。
「例えばの話、もし光くんが騎手をやってなかったら今ごろ自分がどんな道に進んでいたか、想像できる?」
「おれは……どうなんでしょうか。大学とか行ってるかもしれないです。勉強自体は嫌いじゃなかったので」
「そうね。そんな気がする。サークル入って、バイトして、就活して。案外、光くんって大学に普通に居そうなカンジだもの」
「そうですか?」
「うん。で、要領はいいから単位は絶対に落とさないし、教授からも好かれるタイプ。そのまま院に上がって、助手みたく扱われちゃうかも。なーんて、大学に行ったことの無い私がこんなこと言っても説得力ないか」
自嘲気味に語る千里だったが、光は彼女の言葉になんとなく納得していた。幼い頃に騎手という夢を抱いたものの、挫けそうになったことは一度や二度ではなかった。とりわけ競馬学校時代は何度も辞めたいと思った。寮の外の少年少女たちのように、普通の高校生として過ごしたいと思ったこともある。
千里はさらにこう続けた。
「じゃあ、もしこの世界から競馬が無くなったら――もっといえば、もしこの世界に競馬というものが存在していなかったら、どうだったと思う?」
「どう、って……」
「競馬がないなら騎手という職業も、調教師も、厩務員も存在しない。あるいは歴史を辿って馬に乗るという文化が地上に芽生えなかった世界線があったとしたら――、こんなふうにいうと、SF映画じみてるわね。まあ真意をいうと、最近読んだSF小説で似たような題材のものがあったからつい尋ねてみたくなっちゃったのよ。そこまで深く考えなくてもいいわよ」
「あっ、はい」
競馬の存在しない世界。
光はちょっと考えてみたが、おいそれと想像はつかなかった。生活の基盤そのものが初めから無かったものとして世界が成立している、という状況は、確かにフィクションの世界では何度か目にしたことはあるが、やはり空想の域を出ない話だった。天変地異よりも起こる可能性が低い。
千里はグラスを空けて、頬杖をつきながら窓ガラスから外の景色を眺めた。都市の灯りが輝きを放ち、直下に視線を落とせば歩道を行き交う人々で溢れていた。
「ねえ」と、吐息を漏らしてから、遠い思い出を懐かしむように彼女は語り出した。
「競馬じゃないんだけど……私の友達でバントをやっている子がいてね、彼女にとって音楽っていうのは生きるための糧で、音楽のためなら人生の全てを捧げてしまっても構わない。そして、その行きつく先に何もなかったとしても――人生を棒に振ってしまってもいいと言い切れるモノ。もし、それがこの世に最初から存在しなかったとしたら、ってね。似たような質問をしたことがあるの。
そしたら、彼女なんて言ったと思う?
『アタシが"音楽"を発明していると思う』、そう言ったわ。その時は思わず笑っちゃったけど、言われてみたら割としっくりくる答えだった。あの子がこれまで音楽にどれだけ情熱を燃やして、打ちこんで、苦しんで、それでももがきながら音を鳴らし続けているのを知ってたからね。
あの子、バンドがいよいよこれからっていう大事な時期に突発性難聴になっちゃってね。原因は、極度のストレスだったみたい。その時は酷い落ち込みようだったわ。それこそ、声もかけられないくらいどん底。楽器も何も触れなくなって、音楽を聴くだけで体調を崩してた。『自殺する一歩手前までいった』なんてことを、後になって教えてくれたわ。
でも、それでもね、あの子をどん底から救ったのは、やっぱり音楽だった。それくらい、あの子とは切っても切り離せないモノなの。髪を伸ばしてたと思ったらいきなり坊主にしたり、自分のだけじゃなく他の人の楽器も噛んだり、対バンで一緒になったバンドには手当たり次第ケンカ売ったり、自分のことを『ジミ・ヘンドリックスとカート・コバーンと坂本九の生まれ変わり』と言って回ってるような、変わった子なんだけどね。彼女の音楽はとっても真っ直ぐで、演奏を聴いてると不思議と涙が出てきちゃうの。音から、歌詞から、表情から、生き様が滲み出て、突き刺さって、胸を揺さぶって。
本当に"音楽"を発明してもおかしくないような子なの。仮に音楽の神様がどこかにいるとしたら、ちゃんとあの子のことを見ててくれているんだろうな、って思うと、なんだか嬉しくて――」
夜空と、街灯りと、店の照明と、夜の色と溶け合ったような千里の表情が、煙草の火に照らされていることに光はそこではじめて気がついた。
彼女が煙草を吸っているのを見るのは、初めてだった。
千里は、ばつが悪そうな表情になって、灰皿に煙草を押しつけた。
「あ、ゴメン。今のマネージャーから煙草はNGって言われてるから、一応ナイショでお願い」
「……煙草、吸うんですね」
「うん。初めて吸ったのは16だったかな」
「本当ですか?」
「あの頃は、だいぶ荒れてたっていうのもあったんだけど……もしかして、幻滅した?」
光は首を左右に振った。
「普段も滅多に吸わないんだけどね、今日は、どうしてか手が伸びちゃったの。だから、ごめんね……」
「千里さん?」
うつむいた千里の声が震えていた。光は思わず声をかけた。
付き合ってこそいるが、光は千里のことを深く知っているわけではない。踏み込んだ話題――とくに過去の傷や後ろ暗い記憶などを話せるまでの間柄ではなかった。それは、相手を想ってのことなのかもしれない。大切な相手だからこそ知りたくない/知られたくない部分もあるだろう。しかし、もし彼女が過去の悲しみや苦しみに苛まれることがあるのなら、その時は迷わず彼女の手を取って寄り添ってあげたい。時間はかかるかもしれないが――拒絶されるかもしれないが――少しでも力になりたい、と。それが光の決意だった。
そして、今がその時なのかもしれないと彼は思ったに違いない。
しかし、彼女は光を手で制して、ほんの数秒してから、再び顔を上げた。その笑顔は、彼女がテレビに映っている時と遜色がないほど明るかった。
「私は大丈夫だから」
「……」
「そうだ。デザート頼もうか。ここ、ジェラートが美味しいのよ」
光は、尋ねるのを止めた。伸ばしかけた手は、ゆっくりと宙を漂って彼の膝へと戻った。
しばらくして運ばれてきたジェラートは、林檎の味だった。口に広がる酸味と、ひんやりした食感は、光の心を徐々に落ち着けていった。
一息ついた頃、千里が再び口を開いた。
「あとね、私『馬Time』卒業することになったの」
「えっ、そうなんですか?」
「うん。契約満了ってカタチね。次は、また別の新しい子が選ばれたみたい。まあ、私も3年近くやってきたし、制作としてもフレッシュな出演者が欲しかったらしくて、テコ入れっちゃテコ入れよね。悔しいけど、若い子には敵わないわ」
「そうだったんですね。なんか、残念ですね……」
しかし、うなずいた千里は真っ直ぐな迷いのない瞳を光に向けた。
「でも、私もそろそろ潮時だと思ってたから、予想はできてた。むしろ、もうちょっと長くやってたとしたら私のほうからそろそろ卒業させてくださいって言ってたかも」
「それって、どういう……」
「新しいことに挑戦してみたい、と思ったの。私、これまで色んな仕事をしてきたけれど、『これだ』っていう仕事って見つけられていないの。モデルも、MCも、リポーターも、人生を賭けてもやりたいっていう仕事じゃなかった――そんなところね。ずっとこのまま続けていくのかな、と思っていたんだけど、君に会って私の中でなにかが変わったの。私は、有名になりたいわけでもスポットを浴びてお客さんを夢中にさせたいわけでもないって気づいた。私ね、誰かを応援したり支えたり、そういう方が性に合っているというか、そういう仕事をやってみたいの。具体的にどういう職業かまでは絞り切れてないんだけどね。実のところ、そこまで芸能界にもこだわりはないし」
――思い切って転職もアリかなー、なんてね。専業主婦も、もちろん候補の1つよ。
あっけらかんにそう言うと、千里は不敵に微笑んだ。
※
2人は店を出た。明日、光は休みだが、千里は朝から仕事が入っていた。
道路は渋滞していて、タクシー1台捕まえるのも億劫なほどだ。
忙しない人波の中、ふと思い出したように光はつぶやいた。
「そういえば、誕生日プレゼント買ったんですよ」
「へえ、そうなんだ。ちなみに誰の?」
「はい。えっと……」
そこまで言いかけて、光は自分の頭がぐちゃぐちゃになるような感覚に襲われた。乗り物酔いのように、三半規管がやられてしまったような気持ち悪さ。それがジェットコースターにでも乗ってやって来たかのようだった。
「……あれ?」
「光くん!? 大丈夫!?」
突如ふらついた光の腕をパッと掴んで、千里が慌てたように口走った。慌てて身体を車道から遠ざける。通行人たちは邪魔くさそうに光の身体をかわしていく。
目を閉じて大きく深呼吸して、手のひらを開いては閉じてを何度か繰り返していると、その不快感は少しずつ収まっていった。
そうして、大きく息をついてから光が口を開いた。
「あ、平気です。すみません。なんだろう、ちょっと人に酔っちゃったのかもしれません」
「よかった。でも、あんまり無理はしないでね。若いといっても体調を崩してまで頑張ることはないんだから、帰ったらゆっくり休んでね」
「はい、ご心配おかけしてすみません」
すると、一台のタクシーがようやく止まってくれた。
「じゃあ、また今度ね。今日は楽しかったわ。ううん、今日も楽しかった、かな。ありがとう」
千里は光と恋人のハグを交わしてから、タクシー乗り込んでいった。
別れ際、光は何の気なしに聞いていた。
「あの、千里さん」
「なに?」
「誕生日っていつでしたっけ?」
「7月だけど」
「ですよねえ」
「いきなりどうしたの?」
「いえ、深い理由はないんですけど――」
「ふうん」
「――ふふふ、それならちょっと気が早いけど楽しみにしてるわね。じゃあ、おやすみ」
その会話を最後に、タクシーは夜の光の川へ流れていった。
彼女の誕生日、などという分かり切ったことをどうして聞いたのだろうか。不思議な感覚に陥りながら、光は目の前に聳え立っていたショッピングセンターの灯りに視線を向けていた。
競馬の無い世界にも、きっと自分は立っているだろう。
けれど、それを本当に自分だといえるのだろうか。
ビルの灯りはどこか現実味がない。煌びやかさの裏で無機質な感動を演出しているかのように見えた。
「いい週末だったな。同期として鼻が高いよ。それと同時に、今でも第一線で乗り続けてるお前らには本当に恐れ入るよ」
「そりゃどうも。なんてったって黄金世代だからな」
「だとしたら俺は格落ちだ。お前らが飛車角だとしたら、俺は歩がいいところだ」
「何言ってんの。俺たちはみんな桂馬だよ。馬に乗って暮らしてるんだから」
「さすが王子だな。口が達者だ」
「ありがとうございます石井センセイ。今後も精進して参ります」
「あ、角が成ったらどうなるんだ? あれだって馬だろう?」
「あれはダメでしょ。斜行は制裁が入る」
「ははは。座布団でも持ってくるか?」
栗東トレセンの一角、二人の中年の男が立ち話をしていた。
王子進之助と、石井正嗣だ。
「でも、お前だって立派なGⅠジョッキーだよ」
石井は現役を退き調教師として活動している。真面目で一本気な彼の性格は、調教師向きでもあった。かつての職人肌ジョッキーは、新進気鋭のトレーナーになっていた。
「そういえば郷田とフォーユアアイズの次走報が出てたな」
「おお、海外?」
「いや、春は国内だ」
「なんだ、海外に行ってくれたらライバルが減ったんだけどなぁ」
「西の天才が情けないことを言うなよ」
「いやいや、チョーさんも同じこと言ってたんだって」
石井は腕組みしながら笑った。王子もまた、同じようおに腕組みしてつぶやいた。
「となると、春はまた女性ジョッキー旋風が吹き荒れるのかな?」
「だろうよ。郷田と優花里のGⅠ勝ちジョッキーはもちろんのこと、若手の柊と木津もいい馬が回ってくるようになって十分チャンスはある。小中も展開がハマれば勝てるだけの実力は持ってるからな」
「春に"三人官女"ならぬ"五人冠女"もありえるってわけだ」
「お前はよくそんな洒落た言葉が出てくるなぁ」
「――ん?」
前触れもなく、王子は何か違和感めいたものを感じた。
「中央の女性ジョッキーって、五人だったかな?」
即座に石井は半笑いで答えた。
「今は五人で間違いないよ。まあ、地方から湖月が移ってくるとか、海外からミモザやエーベルバッハが移籍するとか、そんな噂はたまに聞くけど、どうなることやら」
「だよなぁ。そうだよな」
結局、違和感めいたものはすぐに消えて無くなった。雲一つなく青々とした空の色に目を向け、いつしか王子は違和感めいたものを抱いたことすら、すっかり忘れてしまっていた。
to be continued