三冠牝馬が女性ジョッキーに転生する物語   作:nの者

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「石井」
「どうした、チョーさん」

 ふと、なぜか彼と酒を酌み交わすのが久しぶりに思えてしまった。
 毎年、いや数か月に一度はこうして顔を合わせて呑んでいるはずなのに。

「最近、妙な夢を見るんだ」
「へえ、どんな夢だ?」
「俺が調教師になってるんだ」
「なんだ、いい夢じゃないか。というか、それはお前の願望だろ?」
「……そうなのか?」
「そうだよ。そうに決まってら」

 彼は、決して派手な騎手ではなかった。身体が硬く、他の騎手と比べてもフォームは不格好で見映えの良いものではなかった。馬乗りとしての技術も、特に秀でたものがあるわけでもなかった。
 それでも石井は、ひたむきに馬と向き合い続けた。オーナーや調教師やファンの期待に応えようと、彼なりに努力を続けた。何年も何年も種を撒き、水をやり、その積み重ねがGⅠタイトルという大きな花を咲かせた。
 引退式の時、彼を慕う後輩たちと一緒に胴上げをしたことを思い出した。そして石井の妻と子供が、涙まじりに石井に花束を渡す光景も。

「でもな、その夢の中だと、お前はもう死んでしまってるんだ。現役のうちに、落馬事故で」
「……そりゃまた、随分と恐ろしい夢だなぁ」
「俺たちは馬乗りだ。いつ馬に振り落とされて蹴られて死ぬかも分からない。真夜中、麻酔が切れたみたいにそんなことを思うことがある。馬に乗るのが恐くなったら騎手は辞め時なんていうが……いや、俺も齢を食ったな」
「当たり前だろ。もう四十路だ」
「だよな」
「ああ。でも――」

「俺たちは競馬の世界でしか生きられない人間さ。死ぬまで乗り役どころか、きっと死んでも乗り役のままだ。今さら会社員やら公務員やらに生まれ変われるわけないだろう。もっと器用な生き方ができるならとっくに別の仕事に就いてる。だから、確かに死ぬのは恐ろしいが、おれが悲しいのは死んじまうことではない。もう二度と競馬に関われなくなることが悲しいんだ。だからもしかしたら、馬に乗るのが恐くなるっていうのは幸せなことなのかもしれない。もっとも、何が幸福で何が不幸か、そんなものはわざわざ誰かに決めてもらうもんじゃないけどな」

 一瞬、目の前がかすんだような気がしたが、すぐに石井の赤らんだ顔がハッキリと見えた。

「そうか……」
「辛気臭い話になっちゃったな。まあ、今日は飲もうぜ。東の天才ジョッキーに英気を養ってもらわなくちゃな」
「――ありがとう、石井」
「気にするなよ。それに、感謝してもし足りないのはむしろ俺のほうだ」

 彼はそう言うと、グラスにビールをなみなみに注いでくれた。
 俺は、勢いよく喉を鳴らして飲んだ。






探照光

 

 

 

「どれって言われても、どれでも嬉しいわよ?」

「じゃあ、千里さんの好きな動物ってなんですか?」

 

 ガラス越しに陳列されたプライズは、動物を模したキーホルダーのぬいぐるみだった。

 犬、猫、兎、牛、蛙、蛇、そして馬に似ているが、きっとこれは正確にいえば驢馬なのだろう。

 彼女は動物たちを一瞥して、じゃ細い人さし指でまん丸い目を持つぬいぐるみを指差した。

 

「猫ですね。分かりました」

「うん。あ、でもここはやっぱり『馬Time』のMCらしく馬って言っておくべきだったかしら? あれ、でもこれロバよね?」

「だと思います」

 

 おれは100円玉をサッと投入した。360度自由に動かせるレバーを操作し、ターゲットに照準を合わせる。

 この手のタイプの台なら小学生の頃に取り方を覚えているので、何の造作もなく狙った獲物をゲットできる。

 あっという間に手に収まるサイズの三毛猫が、彼女の小さな手に収まった。

 彼女は感心したように口を開いた。

 

「ありがとう。すごい、光くんってこんな特技があったのね」

「はい。あまり競馬とは関係ないんですけどね」

「かもね。うふふ。だけど、ありがとう。大事にするわ」

 

 どうやら喜んでくれたようだ。

 普段なら、おれもここで自然と頬が緩んでいるのだろうが、今ばかりはぎこちなくはにかむことしかできなかった。

 それを見て、千里さんはくすくすと目を細めて笑った。おれが照れているのだと思っているのかもしれない。

 

 約束の時間より三十分も早く合流してしまったので、食事を終えて店を出た時点で時刻はまだ16時だった。

 おれたちが今いるのが、そこから少し歩いたところで目に入ったゲームセンター。

 小さい子どもと若い親、中学生くらいのカップル、友達同士で来たような男子大学生の集団。皆、思い思いにゲームを楽しんでいた。

 ゲームの効果音、店内BGM、笑い声、悔しがる声、何かが弾むような音。雑多な音と雰囲気に包まれる。ここでは身分も肩書きも関係ない。たとえ騎手だろうと、タレントだろうと、みんなゲームを楽しむお客さまなんだ。なぜかそんなふうに思えた。

 

 猫の丸い目と見つめ合っている千里さんに、おれは尋ねてみた。

 

「千里さんって猫派なんですね」

「ええ、小さい頃に飼ってたのよ。白い猫。シルクっていう名前だったわ。私が3歳の時に家にやって来た猫でね、とってものんびり屋だったわ」

「へえ」

「寝て、起きて、食べて、寝て。起きて、たまに遊んで、また寝る。悠々自適で、こうして振り返るとちょっと羨ましい暮らしぶりね」

「かもしれないです」

「私にとってはじめてできた人間以外の友達だったわ。父も、母も、妹も、家族はみんなシルクが大好きだった」

 

 そう言うと彼女は、台の――先程まで三毛猫がいた――空いたスペースに視線を向けた。

 

「私が12歳の時に、シルクは死んじゃった。いや、本当に死んだかどうかは分からないけれど、姿を消してしまったの。でも、きっと死んでしまったんだと思うわ。猫は死期が近づくと姿を消すっていうしね」

「…………」

「その頃、家の雰囲気は最悪だったわ。私の中学受験のことで両親はいつもいがみ合ってケンカしていたわ。その上、ささいなことで父が不倫しているんじゃないかって母が思い込んじゃって、ね……。それで、離婚したわ。私は母に、妹は父に引き取られたわ。『あれだけ仲の良かった家族が、バラバラになる時はこんなにあっけないものなんだ』って、その時に、私思ったの。もしかしたら、シルクが、私たちを見えない糸か何かでつなぎとめてくれてたんじゃないかって。不器用で不安定な私たちの幸福を、見えないところで導いてくれていたんじゃないかって、そんな風に思っちゃってね……」

 

「でも、逆にこうも思えたの。もしかしたらシルクは、家族の幸福がボロボロに崩れていく様を見たくなくて、家を出たんじゃないかな、って。もし私たちがずっと仲良くいられたら、シルクも最期まで私のそばにいてくれたんじゃないのか……なんてね」

 

 切なさをこらえるように、彼女は短く鼻をすすった。

 おれは、改めて自分が今からやろうとしていることの重大さを思い知らされた。

 おれは、今から彼女の胸にナイフを突き立てるがごとく、残酷な告白をしなければいけないんだ。

 あの真紅の彼女から言われたことを、改めて反芻する。

 

 

                  ※

 

 

 三冠牝馬の生まれ変わりだとかなんとか――

 

 人間の脳は不思議だ。

 突拍子も無い事実の連続であるにも関わらず、置かれている状況があまりにもぶっ飛んでいれば、その事実すら拒絶反応もなく受け入れることができるのだから。これも一種のつり橋効果なのかもしれない。違うのかな?

 目の前の美少女は、少し憂いを帯びた表情で説明を続ける。

 

「サチ――君野佐知子は、存在自体が奇跡的なバランスで成り立っているのよ。あの子は、前世の記憶、しかもサラブレッドの記憶を持っているわ。それはサーチライトという馬の根幹ともいえる部分よ。でも、君野佐知子は『人間』。二足歩行をして、思考して、言葉を操りコミュニケーションを取り、人間社会の一員として生きている『人間』なの。この『人間』、『サラブレッド』という本来は同居するはずのない2つの要素をサチは持ち合わせている。それは、あの子の魂の構造には人間的な面とサラブレッド的な面がある、と言い換えることもできるわ。それは、普通の人間では決してありえない構造よ。それが今回の世界改変を招いた一因ね」

「………」

「今回起きた世界改変は、歴史の再構築とも呼べるわ。もしサーチライト号が存命だったとしたら、末永長介はまだ騎手を続けているかもしれない。死ぬはずだった人物がまだ生きているかもしれない。ひとつの分岐において『起こらなかった側』の歴史を紡いでいった結果のひとつが、今のこの世界というワケ。アンタ、オタクの気があるんでしょ? だったらifルートっていえば早いわね。恋愛ゲーとかやるでしょ?」

「あ、はい、やるけど……」

「……ハンッ」

 

 おれの答えを、ヌーベルベケットは軽くあざ笑った。

 

「え、なんで今おれ鼻で笑われたの?」

「そんなことはどうでもいいとして、サーチライトが存命だったとして、アンタが元いた世界線と異なるいちばん大きな事象って何だか分かる?」

「どうでもいいのかよ」

「うっさい。で、どう? 元の世界とのいちばんの違いは?」

「それは……ここには、サチがいない。誰も覚えない……というより――知らない。サーチライトが生きていたら……サチという人間そのものが、いなくなるってワケなのか?」

「ええそうよ。佐知子という少女は、天に召されたサーチライト号の記憶と魂を引き継いだ存在――もっともそれを本人が自覚して覚醒したのは幼少の時だったけれどね。でも、もしサーチライト号が死んでいなかったら、記憶も魂も動かないし引き継がれない。元からそうであったように、人の言葉を発さないサラブレッドの物よ。となると、当然名牝だったサーチライトの生まれ変わりの少女もまた、この世に現れない。ということになるの」

「そうなのか……」

「そうよ。もし同姓同名の人物がいたといても、あなたが知っているサチとはまったくの別人よ。それで」

「それで――」

 

 ――おれはどうすればいい? どうすれば、もう一度アイツに、会えるんだ!」

 

 おれは彼女の言葉を遮るように強い語調で言った。言ってしまった。ハッと目の前の彼女を見れば、驚いたように目を大きく開けていた。

 

「あ、えっと――」

「急におっきな声出すんじゃないわよ! びっくりしたじゃない!」

「あ、ごめんなさい」

「そんな大声出さなくたって聞こえるわよ。気をつけなさい!」

「はい」

 

 彼女は腕組みをして、おれに背を向けた。

 

「結論からいうと、今回の世界改変の元凶はサチよ」

「えっ……」

 

「あの子、この間落馬したじゃない。それがトリガーになったんだけどね」

「落馬で……ってことはもしかしてサチは――」

「いや、命に関わる怪我でないことはアタシのほうで確認済みよ」

 

 その言葉に、おれは無意識に安堵していた。よかった。本当によかった。

 

「でも、肉体面よりも、精神面のショックが今回の事態を引き起こしたの」

「じゃあ……」

 

 いくらサチといえども――名馬の生まれ変わりといえども、落馬の恐怖というのは、尋常ならざるものなのだろうか。

 

「いいえ。それも半分不正解よ」

「えっ?」

「むしろ逆。あの子は、実は恐怖が薄いのよ。もちろん、落馬が恐くないことはないでしょうね。どちらかというと、死への恐怖――生への執着が薄いというのが、あの子の『片一方の』本質ね。だって、"あっち"は一度『死』を経験しているんだもの。人が死ぬことを怖いと思う理由のひとつが、知らないことへの恐怖よ。『死んだらどうなるか』。過去に哲学者たちが散々悩んでそれらしい説を立ててはいるけれど、でも、そのひとつの答えをサチは既に得ているともいえるわ。だからきっと、『死』に対して、そこまで深い嫌悪感や忌避感が無いのでしょうね。でも、それはあくまで『片一方』の話」

「『片一方』っていうことは、もう片方は――」

「ええ。繰り返しになるけれど、"君野佐知子"は、人間的な部分とサラブレッド的な部分が絶妙なバランスで成り立っている存在なの。そして、その人間的な部分は、もうひとつの非人間的な面を間近で見続けた結果として、そのバランスを取るためにより"人間らしく"あろうとした。それは『"非サラブレッド的"であろうとした』と同じことよ。

 で、ここからは仮説なんだけど、サチがサーチライト号の生まれ変わりとして覚醒した頃から"本来の君野佐知子"の人間的な面というのはあまり表に出なくなったと思うの。もちろん、あの子を形成する重要な要素には変わりないのだけれど、それ以上に表立ってサーチライト号だった時の記憶や意識に引っ張られるようになったんじゃないか、ってね。それが良いか悪いかなんて、誰にも分からないし決められないわ。ただ、それでずっとうまいこと成り立っていたし特に問題はなかった。でも、それがあの日崩れてしまった。

 今まで体験したことも無いような落馬事故。その外傷のダメージ以上に、心的なショックは計り知れないほど大きかったでしょうね。もし、普通の少女として人生を送っていたら――高校を卒業して女子大生にでもなっていたら――絶対にありえないようなショッキングな体験。それに対して、君野佐知子の人間たる部分が激しい拒否反応を起こした。それこそ、自らのルーツさえ否定したくなるほどに」

 

 ――拒否反応。

 プロの騎手でさえ落馬への恐怖は大きいというのに、それを"普通以上"に痛みに過敏な人が体験したとしたら。

 

「元々、馬が人間に生まれ変わるっていうミラクルを起こしてる子なんだから、いまさらこの程度のことをやってのけても、アタシはそこまで驚かないわ。ただ、とんでもないバカだとは思うけどね」

 

 ――新居千里。

 

 ヌーベルベケットの口から、唐突にその名前が出た。思わず心臓が跳ね上がりそうになった。

 

「『ア ラ イ チ サ ト』。なるほどよくできてるわね。『名前は呪。運命を縛るもの』とは言ったものだけれどね」

「そうだ。千里さんは、あの人は一体――」

「彼女は、君野佐知子が元々持っていた人間的な面から成り立っている存在。言うなれば、どこかの世界であったかもしれない"君野佐知子"の可能性の発露よ。もうひとりのサチ、ともいえるかもしれないけど、まったくの別人。あの子ほど能天気じゃないし、歳も離れてはいる。魂の器は同じだけど、色や柄が違うとでもいえばいいかしら。もしくはあの子が居なくなって空いた席に、彼女が座っているというのかな。まあ、なんにせよ君野佐知子の代わりに新居千里がいるのがこの世界、ということよ」

「――っ」

 

「で、素朴な質問なんだけど、アンタこれまで二股とか三股とかかけて、女の子を泣かせた経験ってある? あるワケないわよね」

 

 聞くまでもないというように彼女はそう言い切った。

 

 

                  ※

 

 

「弘前のさくらまつりって知ってるかしら? 前に一度イベントに参加したことがあるんだけどね。弘前城のある公園内で2600本もの桜がいっぺんに咲いてね、とってもキレイなのよ。夜にはライトアップもされて、昼に見る時とはまた違った景色が広がってるの。濠に散った花びらが絨毯のように流れ往く光景も、風情を感じるわ。出店もたくさん並んで、とっても賑やかで楽しいお祭りなの。

 まあ、ジョッキーの光くんには、弘前はちょっと厳しいかもね。でも、近いところでもいいから一緒にお花見できたらいいなって、私は思ってる」

「…………」

「って、やっぱりちょっと気が早いかしら。ごめんなさいね。でも、四月からのスケジュール、前に比べたらずっと余裕があるからそういうことを考えちゃうのよね。今までできなかったこととか、見落としてたこととか、ゆっくり楽しめなかったこととか、そういう取りこぼしてしまったものを拾ってみてもいいんじゃないか、なんてね」

 

 日暮れが一気に迫って、オレンジ色の陽が彼女を横顔を照らした。

 艶のある唇が震えている。思慮深そうで優しげな眼差しが、潤んでいるように見えた。おれは目を逸らすことができなかった。

 

「千里さん、おれ、伝えたいことがあるんです。いや、伝えなきゃならないことがあるんです」

「……それって、楽しい話?」

 

 おれは黙って首を左右に振った。

 すると、彼女は「そう」と相槌を返して視線を逸らした。

 

「じゃあ、聞きたくないかな。こう言うと途端に子供っぽいわね。でも、私は聞きたくない。言わせたくない。ワガママよね」

「千里さん……」

 

「逆に、私の方から言ってもいい?」

 

 気丈に振る舞う彼女と、徐々に群青に変わって夜を招いている空の色が、やけに沁みた。

 

「この前から薄々感付いてはいたけど、今日会ってみて確信したわ。今の光くんは、私を見てくれていない。まるで、私を通して他の誰かを見ているような気がしてならないの。そして、その眼差しがとても真剣でまっすぐなの。……責めるつもりは毛頭無いわ。むしろ、答え合わせができたみたいで、私としてはちょっとホッとしてるの」

 

 千里さんは胸ポケットから、禁止されている煙草を取り出して、火をつけた。渦を巻いた思いが白い煙をくゆらせる。

 

「ごめんね。私、本当は汚くて、醜くて、酷い人間なの。今の事務所に所属できるようになったのも、お金と、枕と、媚びと、コネクション。光くんには、なるべくそういう部分を見せたくなかったから見せないように努力したんだけど、でも、やっぱりダメだったのね。

 私は光くんに釣り合うような人間じゃない。光くんは、私みたいな女なんかと居ちゃダメだって。それが、私の感じていたことよ。若くて、元気があって、不器用でもがむしゃらに頑張っている光くんに、私は自分の願いを託してたのかもしれないわ。それで、仕事で距離が近くなってからは余計に勘違いするようになった。光くんと一緒にいれば、自分も同じようにがむしゃらに頑張れるようになるんじゃないのかも、なんて。そんなはずないのにね。人間なんてそう簡単に変われるはずないもの。

 年上として、光くんに恥ずかしくないような女性になろうと努力してきたけれど、結局それも私の自己満足だったわ。光くんの心が私から離れていく以上に、私が光くんを分かってあげられなくなるのが恐かった。ひとの気持ちを分かってあげようだなんて、傲慢もいいところよね」

 

 そこで彼女が手にしていたカバンから光る物を取り出すのが見えた。

 ナイフだ。

 

「でも、こうも思ったわ。もし、光くんを私だけの永遠にすることができたら――って。そうすれば……」

 

 彼女の瞳が赤く染まったような気がした。

 おれは唾を飲み込んで意を決した。

 

                  ※

 

 

 ヌーベルベケットは、おれにこう忠告した。

 

「アンタにとってこの世界は『本来の世界』じゃないけれど、新居千里にとってはこの世界が『本来の世界』なのよ」

 

「もしアンタがこの世界を否定するのだというのなら、それは彼女の世界を否定することになるわ。そして、たとえほんの少し前に出来た世界だったとしても、この世界での記憶は、偽物ではない。この世界の誰も、偽物ではないのよ。世界が元通りになってめでたしめでたし、というのは無いわ。たとえ否定されたとしても、私たちが感知できなくなったとしても、世界は続いていく。やるのは勝手だけど、誰かの願いを拒絶することの重みを、きちんと理解しておきなさい」

 

「こじれない別れ話なんてどこにもないわ」

 

 

 ――刺される覚悟くらいしなさいよ。

 

 いよいよその時が来たんだと、息を吸い込んだ。

 

                  ※

 

 

 しかし、おれの覚悟はあっさりと空気が抜けて、拍子抜けする事態になった。

 彼女は取り出したナイフをまじまじと見つめた後で、それをカバンにしまいこんだ。

 そして、困ったように笑った。その瞳は曇ったまま揺れていた。

 

「そんなバカなこと、できるわけないのにね……。結局私は何も変えられないし、変わることもできない……。ここまで来て、また光くんの気を引こうとしてる自分が、哀れに思えてくるわ!」

「…………」

「こんな人間になりたいわけじゃなかった。こんな女になりたいわけじゃなかった。だけど、私にはこれしかないの。この、七面倒くさい、それでいて外面ばかりは良く見せようとする新居千里しかないの。代わりなんて、どこにもないのよ!」

 

 涙混じりに彼女は声を荒げる。

 

「こんなふうに、叫びたくもないの! もっと落ち着いて、別れる時だって、クールでいたかったの! この期に及んで嫌われたくないなんて考えてる自分に呆れ果てる! だけど……だけど……」

「……大丈夫ですか?」

 

 彼女は疲弊したらしく膝をついた。

 おれも片膝をついて、彼女と目線を合わせた。彼女の目は何かに怯えていた。それが、おれに対してなのか、それとも将来への不安なのかは読み取れなかった。

 もっとも、おれにそんなものを読み取れるだけの器用さも経験も無かったと言ったほうが正しいかも知れない。

 おれは、心に思ったことを声に出して言った。

 

「あの――千里さんは素敵な女性です」

「……」

「たとえ、汚くて、醜くて、酷い部分があったとしても、そんなのおれたちはみんなどこかしら持ってるものだと思うんです」

 

 品行方正で清廉潔白なだけの人間なんて、生き物なんて、いない。

 欲を持たない人間なんていない。良くは知らないけれど、みんな今より良くなりたいと思うから、何かを願ったり求めたりするんじゃないか。たとえ動機が不純だったとしても、もたらされた結果が悲劇だったとしても――汚いから、醜いから、道義に背くから――ただそれだけの理由で誰かの願いを無下に扱っていいのだろうか。

 

「きっと、そういう部分もひっくるめて――千里さんは見えないように隠してたかもしれないけれど――おれは、千里さんを好きになったんです」

 

"おれ"が千里さんと接したのはほんの一週間程度だ。だけど、これまでの彼女との日々はおれの中には記憶としてちゃんとあるし、感情も思い出せる。それを作り物の紛い物とは、思わなかった。思いたくなかった。

 

「千里さん、あなたが好きでした」

 

 

 たったそれだけが、おれが千里さんに言える言葉――伝えたかったことなんだ。

 

 

 もう、千里さんは感情を押し留めなかった。おれの肩を掴んで、涙でシャツをぐしゃぐしゃにして、言葉を紡ぐ。

 

「光くん……どうしてそんなに優しいの? これからお別れをするから? それとも……私が可哀想だから?」

「いえ、そうじゃないです」

「……そうなの?」

「今までおれは、色んな人に助けてもらったり救われてきました。だから、おれも、これまで助けてくれた人たちにしてもらったように、誰かの力になれたらって思うんです。でも、人ひとりの人生を大きく変えるほど、勇気を与えたり希望を見せたりは、きっとできないと思います。だから、せめて今目の前にいる人だけでも。たった一人だけでも、力になりたいと思うんです。それが、おれが好きになった人なら、尚更ですよ」

 

 言葉を口にしながら、おれは思った。おれは、優しいのだろうか。確かに優しさは持っているかもしれない。

 でも、その優しさはきっと、おれが生まれ持ったものではない。これまでに人からもらった優しさで、おれの優しさはできているんだ。

 きっとその優しさのひとつは、彼女からもらったものだ。

 

「そうなのね……でも、光くんは優しいわ。でも、優しさって時に残酷なのよ? 突き放してほしい時に、優しくされることほどつらいことってないのよ」

「……すみません。でも、苦しんだり困ったりしてる目の前の人を見て見ぬフリできるほど、大人じゃないんです。それは、おれのわがままかもしれません」

「そうなのね。でも、どうしてかしら、とっても光くんらしいわ。参っちゃうわね。うふふ」

 

 彼女の表情がほんのわずかだが緩んだ。それが、おれにとってちょっとした救いだった。

 それが作り笑顔だったとしても。

 本心じゃなかったとしても。

 

 千里さんは立ち上がって、脚についた砂を払って、おれのほうを向いた。

 

「それで、光くんの本命の子って、どんな子なの?」

「……やっぱ、言わなきゃダメですか?」

「当たり前でしょ。私だって仮にもタレントよ。私を振ってまで付き合いたい女の子が居るっていうんだったら、気になるに決まってるじゃない」

「ですよねー」

「その子って年上? 年下?」

「同い年です――」

 

 それからおれは、彼女の質問攻めに遭った。

 千里さんは、これまで話したどんな時よりも無邪気そうだった。

 

 それが、この世界での最後の記憶になった。

 

 

 

探照光(Search & Light)

 

 





『元の世界に戻る時には、ここの世界での記憶は全て消えるわ。修正が働くということよ』

『でも、もしかしたら例外的に残るものもあるかもしれないわね』

『強く気持ちを動かされた時の感情とか、ね』

(これで、あの子の魂も安定するでしょうし、もうこんな事態になることはないわね)

『にしても、世話が焼けるわね。サチも光も』

『ていうか、見ててまどろっこしいのよ。とっとと「オレの女になれ」くらい言ってやりなさいよバーカ』


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