三冠牝馬が女性ジョッキーに転生する物語   作:nの者

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サチが2年目に突入

今回は地方競馬のお話です

少々しんみりした雰囲気になります



ホタルミヅキ(葉流の英雄とその娘の物語)

 ホタルミヅキは私の大好きなサラブレッドだ。

 地方の葉流(はながれ)競馬場で競走馬としてのスタートを切ったホタルミヅキは初めから活躍を約束された血統ではなく、デビューから6、7戦目まではどこにでもいるような地方馬の一頭に過ぎなかった。

 転機は二勝目を挙げた後。ホタルミヅキは怪我のために放牧に出された。そして、放牧を終えての復帰戦で彼は見違える走りを見せた。連戦連勝を重ね、葉流でのナンバーワンホースを決めるグランプリ競走で他の有力馬をちぎってみせた。

 葉流の王となった次は、南関東や岩手、名古屋などへ遠征して他の競馬場の馬と鎬を削った。そこでも葉流の王者に相応しい走りを見せて、好成績を残していった。

 かくして、ホタルミヅキは中央GⅠへ挑戦した。東海Sを勝ち、東京ダート1600mフェブラリーS。地方所属馬の中央GⅠ制覇はこれまでたった一頭。地方の雄として中央馬に挑むホタルミヅキには大きな期待が寄せられ、それは単勝2番人気という形で表れた。

 だが、史上二頭目の栄誉には輝けなかった。惜しくも二着に終わり、それがホタルミヅキの中央GⅠ成績のキャリアハイとなった。

 ただ、以後も葉流を中心に地方でのレースに勝ち続け、地方競馬において最優秀4歳以上牡馬に選ばれるなど、中央・地方の競馬に少なくない影響を与えたサラブレッドだといえる。

 

 ホタルミヅキを語る時に、ほとんど同時に語られるのが主戦騎手を務めた湖月久(こづきひさし)だ。デビュー後の数戦を除いて地方の雄者の手綱を取った男は、若くして葉流のグランプリジョッキーの栄冠を掴み、長年その座を守り続けてきた。スタージョッキーと聞かれたら、大抵の人は中央の名手――たとえば王子進之助などを挙げるだろうが、幼い頃から葉流の競馬に慣れ親しんできた私にとってのスタージョッキーは、間違いなく湖月久だ。

 葉流での勝利数は歴代一位。絶対的チャンピオンとなり、他の競馬場へ遠征に行く機会が増えても、彼は葉流グランプリには欠かさず出続けた。勝利インタビュー。気さくな性格の彼は、人懐っこい笑顔でいうのだ。

「今年も特別な日になりました。私はこの町のにおいが好きです。私はこの町の景色が好きです。そして、馬たちが砂を蹴り上げる音が大好きなんです。葉流を、競馬を、これからも応援よろしくお願いします」

 彼は生まれ育った町を、心から愛していた。中央へ移籍する話が来ても、彼は固辞し続けた。「おれは、葉流に骨を埋める。ここの馬で日本一になりたいんだ」

 彼は40を前にして現役を引退し、調教師となった。騎手として叶えることができなかった中央制覇の夢を、今度はトレーナーという立場から叶えるためにスタートを切った。

 しかし、彼の夢は突然終わりを迎えることになった。

 

                ◆

 

『200の標識を通過して先頭はシカノタイヨウ!

 内からはサイゴウライオン迫る! 間を突いてセブンスドッグ!

 そして大外から…来た来た来たホタルミヅキが飛んで来たーッ!

 葉流の英雄が先頭に立った! あと100メートルだ!

 シカノタイヨウは伸びない! ホタルミヅキだ! ホタルミヅキだ!

 あぁ!スペクターオウルが突っ込んで来たーーッ!

 最後は二頭並んでゴールイン!

 さあどっちだ!

 地元の夢と期待を背負った蛍か?

 それとも最後に飛び込んで来た梟か?』

 

                ◆

 

 自分は騎手になるんだという想いが芽生えたのはいつだったか。もう覚えていない。

 だけど、父が毎年のように葉流グランプリを勝ってスタンドに向かってガッツポーズする姿が誇らしくて、ずっと憧れていた。

 地方競馬教養センターに行きたいと伝えたら、父は喜んだ。どうやら父のほうも満更でもなかったらしい。

 父が亡くなったのは私が教養センターに行く1ヶ月前。未明の馬房で倒れ、そのまま亡くなっていたと聞いている。

 あの頃の私は、誰にいうでもないことを、ずっと胸の奥で、頭の隅で、唱えていた。

 ――ずっと、あの人と一緒にいられるものだと思っていた。

 私にとっての競馬は、葉流だ。中央じゃない。他のどこの地方の競馬でもない。人口は8万人程度の町のちょうど真ん中あたりにある、大きな湖のすぐそばの、競馬場。お世辞にも綺麗とはいえないけれど、楽しそうな声と蹄の音がする、あの場所。

 卒業して騎手になったら、あの場所で、あの人が着ていた勝負服を着て、あの人が管理する馬に乗って、レースに勝つ。

 そして、いつか中央の貸服を纏って、GⅠレースに出て、勝つ。あの人の夢といっしょに。

 温めていた青写真は、二度と手に入らない理想の遺影になってしまった。

 母や近しい人たちは、慰めてくれた。自分たちだってつらいだろうに、私に気を遣ってくれた。

 そんな人たちの不安や心配を少しでも取り除くため、あるいは自分の喪失感を紛らすため、私は競馬に打ち込んだ。冷たい炎の上で走り続けるような日々で、表情筋はすっかり固くなった。感情をあまり表に出さなくなった。

 トップの成績で卒業し、父と親しかった調教師の方の厩舎から私はデビューした。もちろん勝負服は、あの人と同じ柄。ずっと待ちわびてきた衣装だったけれど、袖を通したくないと思う自分もどこかにいた。『もう、父ちゃんはいないんだ』

 

                ◆

 

 デビューから自分でも出来すぎだと思うほど順調に勝ちを重ねて、とうとう父と同じ葉流グランプリジョッキーの栄誉を手に入れた。

 この頃にはもう『もし、父が生きていたら』などという妄想は捨て去っていた。もう私はプロの騎手で、葉流を代表するジョッキーの一人なのだから甘く温い感傷に浸る暇などはない。

 私にはいつの間にか『葉流の若き天才』なんて二つ名がつくようになった。

 史上最年少、さらには初の女性騎手としてのグランプリジョッキーの誕生は、経営不振に落ち込む地方競馬にとって格好のカンフル剤になる。市・県や関係各所からのキャンペーンやタイアップの話が次々舞い込んでくるようになった。

 中央では郷田ひとみという化け物のような女ジョッキーが旋風を巻き起こしていた。(歴代新人最多勝利や史上初平地GⅠ制覇などをやってのけた彼女のことを、語弊を恐れずあえてこう表現させてもらう)。「競馬界に舞い降りたニューヒロイン」なんて具合に、マスメディアはこぞって彼女を取り上げた。だが、彼女は究極的にストイックだった。「女」というだけで持て囃したがる連中に、中指を突き立てるような発言・対応は私自身胸がすく思いで見ていた。彼女は成績を伸ばし続けた。自分には決して真似できないような郷田ひとみの追い方は、女子格闘技を見ているかのようだった。余談ではあるが、彼女に憧れて騎手を目指すようになる十代の少女たちが増えていると聞いた。私は、なにか勘違いしているような輩が競馬の世界に来るんじゃないかと内心危惧していた。怪我への恐怖も知らず、覚悟も無しにこの業界に入って来るのではないか、と。だが幸いなことに、今のところそういう騎手はいないそうだ。まあ、競馬学校や教養センターでの生活に耐えれないような子を篩い落とすのは自然なこと。取り越し苦労だったようだ。

 郷田ひとみと私の違いはなんだろう。

 きっとこうだ。私は『記号になること』を拒まなかった。

 私は『葉流競馬を盛り上げる』ためなら手段を選ばなかった。テレビ・ラジオ出演、雑誌、イベント、施設訪問。地下アイドルじみた安っぽい衣装での撮影もしたし、幹部や議員なんかが集まる楽しくもないパーティーにもよく行った。町を歩けばそこかしこで私の写真が使われた広告を目にする。

 葉流は崖っぷちの競馬場だ。かつての活気は失われ、人口減少も歯止めが効かない町で、大きな予算を食いながら業績回復が見込めない競馬場の廃止が検討されたのは一度や二度ではない。ホタルミヅキや湖月久のようなヒーローはもういない。私がデビューする直前まで、段階的な廃止計画がほとんど決まりかけていたほどだ。

 そんな時に私がデビューした。志半ばで旅立った地元の英雄の娘――笑顔を振りまく愛嬌は無いけれど、落ち着いた佇まいで雰囲気がある女性ジョッキーが、崖っぷちの地方競馬を廃止から救う、という、そんなシナリオ。

 私は己――湖月美景(こづきみかげ)という存在を、恐ろしく客観的に見ていた。大衆の理想を演じる自分と、その自分をプロデュースする自分が別々にいるような気がしていた。

 騎手はギャンブルの駒だというが、私は独楽でもあるだろう。回り続けて、最後の止まる時まで、見ている人を楽しませる。それが私に課せられた使命に思えてならなかった。

 私は、張りぼてのヒーローでよかった――可愛いだけのお人形さんで。いつも、自分にそう言い聞かせていた。

 父との思い出の場所を、失くしたくなかった。

 

                ◆

 

「美浦の末永長介厩舎からやって来ました、君野佐知子といいます。よろしくお願いします!」

 そう名乗る少女が葉流に来たのは、去年のことだった。デビュー一年目、ピカピカの一年生の彼女の目は、きらきら煌いているように見えた。

 女性同士なわけで、私が彼女の面倒を見るのは決まっていたような流れだった。

 君野佐知子は愛らしい容姿で、それらしい衣装とメイクを施せばもしかしたらアイドルでも通用するんじゃないかと思う。

 私は最初、少しだけ彼女の元気の良さに手を余していたが、こちらが黙っていても彼女のほうから喋りかけてくれるので余計な気苦労をせずに済んだ。どうやら社交性は高いようだ。

「葉流の砂って、東京や中山とも南関とも違う感じで独特ですね」

「テキからは『当たって砕けろ』と、ありがたい言葉をいただきました……大丈夫かな? ま、なるようになるか」

「まだまだ覚えることが多くて大変です。はぁ、これなら自分で走るほうが楽ちんだなぁ……。ほぇ? な、なんでもないですっ! アハハ! アハハハ!」

「フルーツが名産ってことは、それを使ったスイーツとかもあったりしますか?」

「葉が流れるって書いて葉流。なるほど、確かに湖や川がありますもんね。あ、そういえば湖月さんも『湖』ですね!」

 次から次へ話題が変わる。掛かり気味の若駒のようでさえある。

 ふと、彼女がこういった。「テキから聞いたんですけど、湖月さんのお父さんも葉流のジョッキーだったんですよね」

「そうです。湖月久です」

 私はこともなげに返した。

 湖月久という名を、今の若い人たちはきっとそこまで知らない。葉流での知名度は高いが、それも所詮小さな輪の中の話。フェブラリーSで二着になったのは昔の出来事。熱心な競馬ファンでもなければ、湖月久の名前もホタルミヅキも速い流れの中を過ぎていくだけのものになる。

 無垢な瞳が、私を覗き込むように見ていた。

「私がセンターに行く少し前に亡くなりました」

「そう、だったんですか……」

 一瞬にして彼女が勢いを無くし静かになる。萎れた花のようだ。

 私は伝える。「昔のことです。……別にいいですよ。聞いたらNGってわけでもないですし、全然話しますよ」

「じゃあ、ひとつ聞いてもいいですか」

 私は少しうなずいた。

「お父さんはどんな方でしたか?」

 表情ひとつ変えずに答える。

「あの人は永遠に私の目標です。だから、絶対に届くことはないし追いつけもしない。たとえ届いても追いついても――懐かしむことしか、今はもうできないんです」

 

 その昔、まだ父が現役だった頃の話。

 幼かった私に、あの人は色んなことを教えてくれた。

 その中でもこれは多分、私のいちばん古い記憶で、いちばん明確に残っている記憶でもあった。

「ほたるって、どうしてひかるの?」

「オスがメスにプロポーズするため、だったっけ? ごめん、ちょっと自信ないけど、確かそうだったはず」

「『ぷろぽーず』ってことは、父ちゃんと母ちゃんみたいな?」

「そうそう」

「『こうはい』ってこと?」

「うーん、まあ間違いじゃないけど、もうちょっとロマンチックだよ」

「どういうこと?」

「うん、おれと母ちゃんの話なんだけど――」

 もう二十年以上前の話。父が湖のほとりで母にプロポーズをしたのだ。ちょうど蛍の飛び交う時期の、満月の晩だったそうだ。

 湖面に映った月の上を無数の光が飛び回っているという幻想的な情景を前に、父は母に指輪を渡した。

「ちょっと前までは、夏になれば湖や川のまわりでは、そこら中蛍が飛んでたんだ。わざわざ保護活動なんかしなくっても、いっぱいいた。だけど、どんどん蛍も減っていっちゃったんだ」

「なんで? なんでほたるへっちゃったの?」

「なんでかなぁ。きっと、ここよりいいところを見つけて、そっちに行っちゃったんじゃないか」

「はながれ、いいところだよ。けいばじょうあるし、みずうみも、おみせも、なんでもあるよ」

「そうだね。でも」

「どうしたらいいの?」

「…………」

「父ちゃん……?」

「おれも、美景に蛍でいっぱいになる湖を見せてあげたい。ほんとうに綺麗な景色だったからな」それは、寂しそうな横顔だった。どんなレースで負けた時にも、そんな表情をしたことはなかったと思う。「だけど、ほんとうに大切なのは――」

 そこから先の言葉を聞く前に、父は厩舎の先生から呼び出されて出ていってしまった。結局、あの言葉の続きを聞けず終いだ。それとなく尋ねたことはあったが、父は『忘れた』と返すばかりだった。

 

 その日、君野佐知子は葉流での初勝利を挙げることは叶わなかった。

 追い方に迫力は感じられなかったが、レースを重ねるごとに何かを掴んだのかポジション取りが的確になっていった。

 その晩、私は彼女と共に食事をすることになった。

 そして、私は盛大に失敗をした。醜態を晒した。

「だ、大丈夫ですか? 湖月さん?」

「……佐知子、馬って話通じると思う?」

「えっ! ええええぇぇ!? ななな、何の話ですか! 一体、何のことやら……」

「……私はよく話しかける。とはいえ一方的に私が話すだけだから、馬が何を考えてるかは解らない。何を言ったところで言った通りに走ってくれるわけもない。じゃあなんで話しかけるか? 解る?」

「え、ええーーっと、ゲン担ぎ、とかですか?」

「……そう。父ちゃんがよくやってた。音楽を聞かせた野菜が美味くなる、ってハナシがあるだろう。似たようなもので、話しかけたら馬が速くなるって。私は信じてないけど。だけど、今更やめるわけにもいかないからやってる。ああ……なんか返事してくれればいいのに」

「そうなんですねぇ……ほっ」

「ん? どうした?」

「あ、いえいえなんでもないです!」

「ちょっと美景ちゃん、君野さん困ってるから。ほら、水飲んで落ち着いて」

 厩舎のスタッフからお冷を受け取る。

 私は普段から酒はあまり飲まない。はっきりいって苦手だ。宣伝でもアルコール関係のものには出ないと決めている。

 だけど、この日はお偉いさん方に勧められた手前、断る事もできずに強めの酒をだいぶ飲まされた。そのお偉いさんは、間近で見た中央の可愛らしい騎手に満足して帰っていった。気儘な連中だ。

 君野佐知子は、ギリギリ未成年だということでアルコールを摂っていない。そして、彼女は親切にも私の相手役を務めてくれている。今時めずらしい良い子だと思った。それなら私は今時どこにでもいる面倒な先輩だろう。

 グラスの水を飲み干して、私は立ち上がった。「風に当たってくる」

 そして、すたすたと――もとい、ふらふらと、店の戸を開けて外に出た。ひんやりとした夜風が熱とともに鬱屈した感情も冷やしてくれるようだ。

 慌ただしい店内から「私がついていきます!」と声がして、彼女が飛んで来た。私が振り向くと、彼女は困ったように笑って舌を出した。

 私は君野佐知子を連れて、湖畔にある公園のベンチに腰を下ろした。湖がちょうど一望できる。月明かりなどなく、薄い照明灯の光だけだ。

 ほぼ無意識に言葉を吐いた。

「馬が何考えてるか解らないのは当たり前だけど、人間だって同じ。相手が何考えてるかなんて、解らないもの」

「ですよね。ちゃんと口で言って行動で伝えて、っていうことは大事だと思います」

「葉流、どうだ? 住みたくなった? それとも帰りたくなった?」

「その……いいところだと思いますよ。なんていうか、においが好きです」

「におい?」

「なんていったらいいんだろう? 競馬場のある町独特のにおい、みたいなものです。『あ、ここには競馬場があるぞ!』って感じの」

「……面白いな」

 それから、私はどうしてか、彼女にあれこれと話をした。とりわけ、葉流競馬の現状だ。

 ほとんど初対面の彼女に、なぜ。いや、むしろ初対面の彼女だからこそ、そんな風に話せたのかもしれない。

 

「たぶん、いや、間違いなく、葉流の競馬は終わる。もう段階的に廃止する方針で何年前からか動いてる。まあ今は、私が居るからな。これまでの負債をいくらか取り戻せると踏んで先延ばしにしてるだけだ。でも、それも長くない。私だって自分の商品価値が長くないことは知ってる。目新しさが無くなれば、大衆の注目は別のアイコンに移る。

 知ってるか? 蛍は、光りながら飛び回るのはオスだけ。メスは弱い光を出してオスを待つ。でもどっちにしろ、蛍の成虫の寿命じゃ夏は越せない。結局、私ひとりじゃどうにもならない」

 すると、彼女は真剣な表情になった。レースで集中している時のようだ。

「――だったら」その声を私は遮った。

「いいんだ佐知子。これはもう、誰が悪いとかどうすれば回避できるかとか、そういう話じゃない。好意は嬉しいけど、これは結局この町の人間の問題だから。

 ……移籍の話ならもちろんあった。南関からも、中央からも、それ以外からも。でも、終わりの時に、目を背けたいからといって他所に移るなんてしたくない。大好きな場所だからこそ、最期の時もきちんと見届けてやりたい。だから、私はここで騎手を続ける。続けたい。それが『葉流のジョッキー・湖月美景』の生き様だ。たとえ何を失くしても、最後の一人になったとしても、私はここに立つ。立つとも」

 これまで、母親か師匠くらいにしか言ったことのなかったような言葉を、どうして彼女に言ったのか、うまく説明はできない。

 きっと、酔った勢いというやつだ。そうに違いない。

 

「失くならないです」

 流れる水のように澄んで通る声が、夜の畔に響いた。

 ハッとして、私は顔を見上げた。その瞳は穏やかな光を灯していた。

「大丈夫です。湖月さんの大切なものは、失くならないです。」

「そうかな……?」

「そうですよ。ここにはステキな人たちがたくさんいるはずです。大切な人たちと過ごした思い出っていうのは、失くならないんです」

「……そうか」

 ――思い出の場所を失くしてしまったら、その思い出まで消えてしまうのだと、ずっと思っていた。

 だけど、そうじゃない。そうじゃなかったんだ。

 ほんとうに大切なものはもう既に手に入れていて、それはどこかへ行ったり消えたりはしない。たまにちょっと、見えにくくなってしまうだけで。

 彼女は真っ直ぐな眼をこちらに向けている。

「湖月さん」

「佐知子……」

「ふぃ」

「……ふぃ?」

「ふぃーーっくしょん!」

 いきなり彼女は大きなくしゃみをした。そういえばだいぶ話し込んでからそろそろ肌寒くなってきた、と思い出す。

 打って変わって縋るように私を見てくる彼女の姿に、私は思わず噴き出してしまった。

「あ、笑った! っくしょい! って、またぁ!?」

「ふふっ、ふふふ」

 気の抜けるようなくしゃみの連発に、普段働かない表情筋が働き者に変わり身している。面白い。

「ええ……湖月さん、ティッシュかハンカチって借りてもいいですか?」

「はい」と私はハンカチを差し出していった。「美景でいい。葉流で湖月っていったら父ちゃんのことだからさ。あと、なんとなく窮屈そうだから敬語も要らない。よろしく」

 

                ◆

 

『――さあ、先頭は6番のサイレントナイト! 追う1番スウィートホリデイとは身体半分差! 内から迫るのは5番のワンダーゾーン!

 サイレントナイトが突き放してリードが二馬身から三馬身開く!

 二番手スウィートホリデイ! ここで外から追い込んできたのは2番のノーチェンジ! スウィートホリデイをかわして単独二番手!

 三番手争いはスウィートホリデイかワンダーゾーンか、しかし先頭は突き抜けました! サイレントナイト!

 一着は6番のサイレントナイト。二着に2番ノーチェンジ、三着争いは内5番のワンダーゾーンと外1番スウィートホリデイですが、ワンダーゾーンがやや優勢でしょうか。

 勝ち時計は1分16秒6。上がり3Fは40秒8と表示されています。

 サイレントナイトの鞍上は、葉流競馬所属の湖月美景騎手。なんと今日三勝目』

『すごいですね。昨日もダイオライト記念をユメミヅキ――あのホタルミヅキの孫で制覇していますから、まさに絶好調といった感じなんじゃないでしょうか』

『そうですねえ。葉流の天才騎手の血を受け継ぐ若き才能が、今日もここ船橋競馬場で躍動している模様です』

 

                ◆

 

「うぇーい」

「うぇーい!」

 佐知子とハイタッチをする。いつもやってるわけじゃないし、特に深い意味はないけど、なんとなく。

 私は葉流や南関が主で、佐知子は中央が主。一緒のレースに出る機会は少ないけれど、会うたびに刺激を受ける存在だ。

 あれから私はユメミヅキという素質馬で葉流グランプリを優勝し、明けてダイオライト記念も制した。当面の目標は夏のダート王を決める帝王賞だ。

 佐知子は佐知子で昨年新人最多勝利騎手に輝き、着実に勝ち星を積み上げている。

 変化のひとつとして、私はメディアへの露出を抑え目にしたというのがある。記号になることは自ら納得したことではあったが、やはり自分は馬に乗るのが第一だという原点に立ち返ってみることにした。葉流競馬は、今のところは存続という形になっているけれど、いつ廃止に舵が切られてもおかしくない状況に変わりはない。でも、前ほど焦燥感はない。1レースを噛みしめ競馬ができることへの感謝の念を深いところで感じれるようになった。「その時」はやがてやって来るだろうが、悲壮感と責任感に囚われて次に続く道を見失うことはなさそうだ。

 思い出は大切ではあるが、思い出だけで人は生きていけない。振り返ってばかりではダメだ。

 未来は解らない。だが、未来が過去になる前の今にしか得られない喜びもあると気づいた。

 

 それからもうひとつ変化があった。私としては、これはもうほんとうにびっくりな変化である。

 

「――そしたらチョーさんもハマっちゃって」

「ふふっ、楽しそうだ」

 

 なんでもないようなことで笑うようになったのだ。





様々な事情を抱える地方競馬
昨年も色々なニュースがありました。
新しい時代、願わくはメイセイオペラのようなヒーローがまた出てきてほしいですね


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