鍋に入った、あか。鍋を満たす赤い水が、沈んでは浮かぶを繰り返す臓物が、見た目が、匂いが。食欲を促した。手で掴んで喰らう。弾力のある食感と滲み出る血肉が口内に弾けた。鍋を掴んで飲み干せば、喉越しに快楽が広がっていく。ボタボタと口に収まらない液体が溢れ出し、服を汚した。食事を楽しんで、一言。両親が教えてくれた言葉。笑って口にする。
「ごちそうさま」
命を喰らって、奪った。失っては喰らって、守りながら喰らって、殺して喰らって、死なせて喰らう。命は命を喰らって生きている。その上で俺達は生きていた。
――これはそんな話。生まれ間違えた、哀れな生き物。孤独な
いい子だね、母親はよくそう言って俺の頭を撫でていた。親譲りの髪質を、大切な宝物を愛でるよう。それが心地よくて暖かくて。柔らかい。いつまでも触ってほしい。父親の手はまるで逆。とても武骨で岩のよう。ガシガシと押し付けるから髪が乱れた。やめてほしいのに、嫌いじゃない。……そんな二人の手が、好きだった。
外にいきたい、ちょっとした興味本位。口にすれば瞬く間にその手は暴力に変わった。どうして、と泣き出して頬を打つ母親。まだ早い、危ないと心配しながら殴る父親。お前のためだと俺を殴って止めた。外に行きたいと言わなくなるまで。日が暮れるまで、ずっとずっと。……そんな二人の手も、好きだった。きっと俺の言っていたことが間違っていたんだ、親が正しいとそう信じた。泣きながら諦めた。
一室の優しい牢獄で、俺は学んだ。勉強は難しい。足し算に引き算掛け算、そして割り算。ひらがなに漢字とカタカナ。積み上げられた本に埋もれていく。文字を覚えた。今度は意味ある単語を教わった。窓から見える太い棒は電柱で、それを繋げる紐は電線。灰色の道は、速く走る鉄の塊は、両親は知っている範囲で教えてくれた。あれはなんだ、これはなに。俺の質問に両親を困らせたこともあった。私達にも分からないこともあるの、すべては教えられない。申し訳なさそうに歪んだ顔を覚えている。少しばかりの悔しさと怒りが滲んでいた。ごめんなさい、そう続けて話す両親。悲しみも混じっていて、わからない。どうしてなのだろうか、何故なのだろうか、疑問に思っても伝えられる言葉を紡げなかった。意味を伝えられない俺と、伝わらない両親に、怒りを覚えて、
後になって気付く。きっと両親は世界の理不尽に怒りを覚えていたのだろう。これは推測。自分たちの生まれに、喰種を悪と断ずる社会の理に。悔しさを噛みしめて、口を噤んで両親は生きていた。そしてあの悲しみは、これから巻き込まれる俺に対して。それら全ての、謝罪だ。だからせめてと、俺が困らないようにと尽くしてくれたんだ。戸籍を作っていたし、居場所も勉強出来る環境もあって、お金も困らないようにしてくれていた。ありがとう、それを向ける相手はもういない。
ある程度文章も読めるようになった頃、俺は本を貰った。外に出られない代わりに、と両親から贈られた。部屋で読むたびに、興味本位だったそれは憧れに変わる。部屋に居れば世界は狭いのだとこの時知った。見回してみれば両親はいない。『仕事』というモノをしているようだ。それならちょっとだけ、小さな反抗心だった。扉の取っ手に触れれば、止める声が幻聴となって聞こえてくる。両親の罵声と、殴られた衝撃を思い出す。回すことを
路上という場所に出た。初めて見る『犬』に吠えられ、尻餅をつく。『犬』を連れた誰かが申し訳なさそうに「ごめんなさい、怪我はない?」と俺を立ち上げさせた。両親以外の誰かと話すのは初めてで、衝撃だった。次に来る衝撃は『車』だった。真横を俺より早く横切って走り去る。大きな『車』から小さな『車』まで、それらは何度も交差する。そんな光景をいつまでも見ていた。
『電柱』と『電線』。『車』、そして直接浴びる『太陽』。両親と本でしか得られなかった知識のモノが、たくさん生きていた。俺は、今確かに冒険をしていた。帰ってくれば両親が居ないかと身構えたが、部屋に入れば気配はない。心臓がやけに近く耳に響く。しばらくそんな状態になっていた。両親はその内帰ってきたがいつも通りで自然と俺もいつも通り元に戻ることが出来た。幸運なことに、両親に気付かれることはなかった。罪悪感はあった。だがそれ以上の発見と興奮で胸をすくような気持ちだった。それからは外に出ようと躍起になった。またあの気持ちになりたくて、両親にいかにバレないかを考えた。念入りに計画した。さり気なく一日の予定を聞いてみたり、行動パターンと日常パターンを観察した。次第に時間管轄が分かるようになって自由に出る時間を探り当てた。両親の幻聴は既になくなっていた。
それが定期的な楽しみになった頃、俺は一つの失敗した。慣れは感覚を麻痺させた。もう少し、もう少しと時間を延ばしてしまったんだ。行動する範囲も広がって、遠くに行ってしまう。気付けば青空が茜色に染まっていた。今、帰っても間に合わない。ベランダに近づいただけでも顔面が血まみれになった。外に出たんだ、ただじゃ済まない。両親の罵声と暴力が蘇って、身体が震える。いっそ家を出てしまおうか、そんなことを考えていた時だった。ねぇ、不意に声を掛けられた。最初は気付かなかった。俺に声を掛けてきているなんて、少しも思っていなかった。しばらく考え込んでいると、肩を揺さぶられてからようやく気付く。……顔はもう、覚えていない。少女だった。
「家出?」そう面と向かって問いかけられて、思わず頷いた。考えたこともなかったが、想像すれば自由に胸が高鳴って思わず笑った。私も家出をしたの、少女がクスリと笑っていた。顔が思い出せないのに、綺麗な笑顔だったと断言出来るのは何故だろうか。意気投合して沢山話した。家を出ていって何をしようか、お金があったら何をする、お互い大した知識は無い。たらればの話しか出来なかったが楽しかった。俺は結構冒険をしたけれど、知らない場所の移動を戸惑わせた。顔も忘れた少女はそんな俺の手を握る。唐突に引っ張られて、一歩ずつ連れ出した。何も悪いことは起こらない。「ほら、怖くない」と胸を張っていた。強引だったが、嬉しかった。
公園で寝よう、少女は俺に提案する。頷いて公園に一緒に入る。目の前で少女が転ぶ。大丈夫かと様子を見るため屈んでみる。少女の膝は赤い血が滲みだしていた。赤、赤。あか赤あか赤アカ。脳内が文字で埋め尽くされる。匂いが、鼻孔をつく。嗅ぎ慣れた、いい匂いがした。いつの間にか意識が無くなった。美味しい、そう感じていた。
滴る何かの音がする。俺の顔から何かが滴っていた。意識は徐々にハッキリとしたモノになる。気付けば、足元が赤くなっていた。見慣れた光景、見渡せば少女が倒れていた。真っ赤に染まる彼女を抱けば何の液体か、気付いた。少女の身体から出る液体と俺の頬を汚す液体は同じもの。……同じ匂いがした。少女の腹の中身はごっそりと無くなっていた。声を掛けても反応はない。死んでいた。そして同時に、俺が両親に与えられていた食べ物の正体を知った。
こういう時はごちそうさまって言うんだよ、両親の言葉を思い出す。両親は笑っていた。俺も笑っていた。思い出に亀裂が入る。……何も教えられていなかったのだな、そう考えたら、足は自然と元来た道を戻った。帰り道の記憶はない、家に帰れば両親の罵声が飛んできた。あんなに怖かったのに今は遠くに感じて、何を言っていたのか覚えていない。何かが出た気がした。……気付けば両親は息絶えていた。母親は上半身と下半身が真っ二つになっていて。父親は穴が複数開いていた。もう会えない、悟って泣き叫んで、食べた。不味かった。これだったら少女の方が美味しかった、眼が赤くなるのは皆同じだと思っていた。味が違うのは、俺と少女が違う生き物なのだと否が応にも気付かされた。
両親は不味かった、それでも全部食べた。もう会えなくなるなら一つになりたい一心だった。服は赤に染まって、元の色が分からなくなっていた。着替えて家を出た。空は青くなくて、暗く冷たい夜空が俺を包み込んだ。冒険という気持ちは、もうなくなった。
主人公はとりあえず、何食べていたのか知らずに育っていたっていう話です。
どっちみち途中退場するのでそれまでをお楽しみいただければ、と思います。