「ヴァンパイア……ねぇ」
ギャラ子の元を離れた私は未だ釈然としないまま徒歩で帰路についていた。当然、真っ昼間から姉さんが寝ている〈きづな〉に帰るわけにはいかないので、今の私が帰るべき場所は〈ARIA〉の他にない。
そもそも、ヴァンパイア……吸血鬼などと言ってみたが、実際は邪推もいい所だ。確かにイタコさんの東北家は大昔から怪異と戦っていたと聞いたことはあるが、実際に私が地底のトカゲ人間や円盤に乗った鬼を見たことがあるわけではない。そんなファンタジーな存在が実際にいるとは理性では微塵も思っていないはずなのに、それ以外……言うなれば『本能』でそれを眉唾だと一蹴出来ずにいたのだ。
これでは探偵失格だな。
他人がそう祭り上げただけなのでプライドや仕事への誇りなどは微塵もなかった私だが、流石に「今回の事件の犯人は……ヴァンパイアです!」とは言えない。そもそも、探偵というのは実際には殺人事件にでくわして密室や動機を推理して真犯人を当てる……と言うことはしない。人捜しやネコ探しがほとんどである。従って殺人事件の調査能力は本職の警察官には遠く及ばないものであって、そんな私が導き出した『真犯人』はきっと真ではないのだろう。
「私はアリだと思ってますよ、その推理」
「んぇ?」
脳内の独り言に返ってきた言葉。意識を思考の海から這い上がらせて声の方に顔を向けると、ONEさんの顔があった。私はいつの間にか〈ARIA〉に帰ってきていつものスツールの上に座っていたらしい。目の前にはグラスに注がれていたブラックニッカには手を着けた様子はない。
それにしても、私はよく病院からほぼ無意識に〈ARIA〉まで戻ってこれたものだ。と、まるで他人事のように感心した。心ここに在らずな状態で車を運転するなど危険極まりないが、筆記も実技もほぼ満点だった教習の教えを守り、日々安全運転を心がけていた積み重ねの賜物であろう。
或いは、それよりも強い『帰巣本能』でここに戻ってきたか、だが、巣で待つ女王蜂ことONEさんは、いつものように人を小バカにしたような
笑顔で、私が外から持ってきた情報と言う名の蜜を欲している様子だった。
「葵さん、戻ってきてからずっとブツブツ呟いてこちらを見向きもしないものですから、嫌われてしまったのだとばかり」
「まさか。我らが女王陛下にそんな感情など抱きませんよ」
「それは良かったです。ではやはり、情報整理でトリップ状態だったんですね。よろしければその推理内容、私にも聞かせてくれませんか?」
ならば何故「私はアリだと思いますよ」なんて言ったのかと思ったが、「うわごとのように『吸血鬼』という単語を呟いているのは聞こえたのですが……」と続けてくれた。そこを聞かれてしまっては言い訳出来ない。現状把握も兼ねて、私はONEさんに説明を開始することにした。
「事の始まりは一週間前の12月6日に来たタカハシ君の捜索依頼。大学や彼女であるさとうささら氏に内緒で学生寮を抜け出した彼は近くの賃貸アパート〈CeVIO〉に引っ越し、部屋中に『魔除けの儀式』を施して身を潜めていた」
「男の秘密の趣味の部屋……と言うわけではなさそうですね」
「それも考えた。けど、それにしてはスマートさに欠ける。タカハシ君の実家にいたお母様の話を聞いた限りでは、趣味に盲目になるタイプではなかったんだ」
「急にオカルトグッズに手を出して……と聞くと、まるで新手の新興宗教にのめり込んでしまったとも取れませんか?」
「……確かに、それもあり得たかもしれない。でもこの数日間の出来事をタカハシ君は覚えていないとも言った。覚醒剤による幻覚症状も考えられるけど、病院で『ただの貧血』と診断された以上、短期間で人間を洗脳できるのは現実的ではない」
「現実的ではないと来ましたか。そうなると、葵さんの言う『吸血鬼』とは言葉通りの意味ではなく、何かの暗喩でしょうか?」
「いや、矛盾してるのは重々承知してるけど、吸血鬼っていうのは文字通りの吸血鬼の事だよ。ここで3日前、12月9日のイタコさん殺人事件に繋がるんだ」
「容疑者は殺害現場前のアパートに済んでいた男性ですよね? もしや、彼が吸血鬼だと?」
「それだと納得がいくんだ。イタコさんの死因は出血多量によるショック死。現場と犯人の状態から酔った容疑者が深夜に帰宅途中だったイタコさんをレイプか現金目的で襲撃。彼女の抵抗に対し勢い余って……というのが妥当な線だと思う」
「今の話に、容疑者が吸血鬼であるという根拠になりそうな理由は無かったように聞こえますが?」
「そう。ここまでなら私もイタコさんはクズな通り魔に殺されたと思っていた。だが、翌日12月10日のある出来事で状況は変わった」
「……容疑者の獄中自殺、ですか」
「そう。それも原因不明の『中毒死』だ。逮捕されて以降一度も食事を摂っていなかった容疑者の突然の死。解剖を担当したギャラ子は確かに『胃は血塗れだが空っぽ』だと言った。そこでタカハシ君の吸血鬼騒ぎに戻る。いや……『繋がった』と、言うべきかな?」
「こう言っては不謹慎なのでしょうが、難解なパズルが段々解けてきた様な興奮を感じてきました。それで、どう繋がったのですか?」
「それは……」
ギャラ子からの連絡待ちだね。と言おうとしたその瞬間。ポケットに入っていたスマートフォンに着信が一件。神がかったタイミングでギャラ子からの電話が来たのだ。カウンターの上にスマホを置いた私は、スピーカーモードで通話に出た。
「もしもし」
『オレだ。ギャラ子だ。今、大丈夫か?』
「問題ないよ。それで、どうだった?」
『当たりだったよ』
「聞かせてくれ」
『あぁ……解剖した遺体をもう一度調べた。葵の予測通りだったぜ。松原忠司の胃の中に、イタコさんの血が入っていた。それも大量にだ』
「ほう……」これはONEさんだ。小さく頷いた顔を見て、私もまた頷き返す。【松原忠司はイタコさんの血を吸った食中毒で死んだのでは無いか?】という推理が現実味を帯びてきていた証拠だった。
『しっかし、どういう事だ、こりゃ? 生きた人間の血を吸ったなんて、まるで吸血鬼みたいだぜ』
「その線で推理を進めている」
『は?』
スマホ越しにギャラ子の間抜けな声が聞こえる。が、私は続けた。
「ただ、ここで疑問が残る。仮に、仮に松原忠司が本当に吸血鬼だと仮定しよう。そうすると、彼は何故、吸血をして死んだのか?」
『……ちょっと待ってくれ葵。血を吸って食中毒になったのだとしたら、もしかしたら血液型が違うのが問題かも知れねぇ。コイツはかなりのアルコール依存で内臓もボロボロだったんだ。酔った勢いでイタコさんの首筋に齧り付いて血を吸ってしまった結果、身体がショックを引き起こしたってのも考えられないか?』
「そうだな。医学的な観点から見て、この謎の死で一番現実味がありそうな見解だと思う。だけどなギャラ子。ここで昨晩の事を思い出して欲しい」
『昨晩の……ッ!』
「ゆうべはおたのしみでしたね」
顔が見えないのに赤面してるであろうギャラ子と、ここぞとばかりに茶々を入れるONEさん。何を勘違いしているのかしらないが、私は別に夜中に外でギャラ子と愛し合った話を掘り返したい訳ではない。
「私を襲った暴漢青年だ。アイツもな……私の首筋を噛もうとした」
『マジかよ!?』
「おやおや。これは『繋がって』きましたね」
「タカハシ君失踪事件、イタコさん殺人事件、そして私へのレイプ未遂事件。これらには偶然にも『吸血鬼』の様なものが絡んでいた」
『って事はよ……【吸血鬼は二人居た】って事か?』
「いや、これはあくまで推論の域を出ない話なんだけど、あの二人は所謂働き蜂なんだと思う。女王蜂たる【吸血鬼】がより多く血を摂取する為の眷属。それがあの二人だった。そして、タカハシ君は眷属にされかけた際に、彼女から偶然プレゼントされていたロザリオによって支配から逃れていた……」
「と、なると。三人に接点のある人物或いは場所に吸血鬼が居るという事ですね」
「そう。……そして居場所にもおおよそ見当がついている。色んな人が定期的に出入りして、なおかつ【血】があっても違和感のない場所」
『おいおい……まさかウチの病院とか言わないよな……!?』
「だとしたら入院中のタカハシ君に何の反応もないのは変だろ」
『……それもそうか』
一瞬とり乱しかけたギャラ子を一言で落ち着かせ、私はこの一連の事件の犯人……【吸血鬼】が潜伏している場所を告げた。
「……〈月読クリニック〉だ」
と、ここで私はコートに今朝拾った暴漢青年こと、タコのようなイカ君の財布を拾っていたことを思い出した。本革の高級な財布をぞんざいに開き、中の現金には目もくれず、一枚の診察券を出した。診察券には〈月読クリニック〉の文字が。よく見ると真新しい診察券の裏を見ると、初診は昨日の朝、12月11日だった。
「なぁ、ギャラ子。話がある」
『……いや、ダメだ。それは出来ねぇ』
付き合いが長いせいか、私の言おうとした事をギャラ子は察したらしい。
「まだ何も言ってないじゃないか」
『お前のことだ。乗り込んで確かめるなんて言いかねん』
「そのまさかだ」
『断る。……いや、本当はオレも行きたいさ。だがな葵、お前なら知ってると思うが、この職に就くために、オレはずっと頑張ってきたんだ。人を救うための医者に、だ。……まぁ、その過程で死者を解剖する方に行っちまったが、それは今は重要じゃねぇ。確かに葵の推理には納得いくが、だからといって同業者の〈月読クリニック〉にカチコミなんか掛けられねぇ』
「そうか……そうだよな」
出鼻を挫かれた感じがしたが、内心安堵している自分もいた。ギャラ子が着いてくる意思を見せれば私はきっと〈月読クリニック〉に向かっただろう。仮に相手が本当に【吸血鬼】なら、ちょっと喧嘩が強い程度の私達二人で敵うだろうか? いや、きっと手も足も出なかったに違いない。それが分かっていて、口では仕事がと言っていたが、ギャラ子は私を制してくれたのだ。私が逆の立場なら、きっとそうする。
「しかし〈月読クリニック〉ですか……。そうすると、危険じゃありませんか?」
そう言って怪訝な表情を見せたのはONEさんだった。現状なにが危険なのか。私には皆目見当が付かなかった。
「何が?」
なのでつい、聞いてしまった。
「茜さん。そこに通院してるんですよね?」
「ッ!」
『おい葵! 待てッ!!』
気が付けば私はスマホもコートもそのままに〈ARIA〉から飛び出していた。
そうだ。〈月読クリニック〉は姉さんも通っている。私はいつも外や待合室で待機していたから知らなかっただけで、もしかしたら姉さんも既に【眷属】になっているのではないか?
背筋がゾッとした。
姉さんが吸血鬼に襲われた、とか。私が襲われるのでは無いか。という恐怖は感じなかった。
むしろ私はONEさんに言われるまで【〈月読クリニック〉に通っている唯一にして最愛の肉親】の心配を、していなかったのだ。
恐怖以外の、何物でも無かった。
両親を亡くし、医者になる夢が潰えた私を支えてくれた双子の姉。その姉が一連の事件の犯人の近くにいる事に最初に気が付かねばならないのに、あろうことか他人に言われるまで脳の片隅にもなかったのだ。
こんな感覚ありえない。あってはならない。
まるで姉を【赤の他人】の様に感じるなんて。
「姉さん……!」
〈きづな〉の古びた外階段を駆け上がる。部屋の鍵は、開いていた。しっかり者の姉らしからぬミス。しかしそんな事より、私は一秒でも姉に会いたかった。
「姉さん!!」
「わっ! ど、どうしたの葵!?」
標準語が飛び出るほどに驚いた様子を見せた姉は、タートルネックの上から割烹着を羽織った冬のお母さんスタイルでコンロの前に立っていた。
「姉さん! 大丈夫!?」
「えっと……火加減? だ、大丈夫やと思うけど……」
「そっちじゃなくて……そうだ、首筋の傷!!」
タカハシ君、イタコさん、松原忠司、ゆでイカ青年の共通点にして、私も仲間入りしかけた【首筋の傷】。
それの有無を確かめる為、私は姉の肩を掴んで身体の向きを強引に変える。状況が飲み込めずきょとんとする姉に説明するのも惜しく、私は強引にタートルネックの首部分を引き下げた。
「やぁんっ!」
右の首筋に噛まれた痕は……ない。念のために反対の左首筋も見るが、そこにもなし。むしろ傷一つ無い真っ白で美しい首筋だった。なぞってみると凹凸のないなめらかな曲線。姉であるはずなのに。否、姉であるからこそなのか、他の美女を抱いた時には抱かなかった背徳感を覚えた。不躾にも敬愛する女王陛下に触れてしまった騎士の様な心境、とでも言えようか。
「そんな……あ、あかんよ葵……ウチらその、双子やし……な?」
「……あっ」
頬を紅潮させる姉の顔が視界に入って初めて、自分が何をしていたのかを理解した。いきなり帰ってきた妹に無理矢理服をはだけさせられて首筋をなぞられたのだ。いくら少年の心を持ち性に疎く、朴念仁な姉でも過ちに気が付き咎めようというもの。
「ごめん、その……心配で」
「ふふっ、そんな慌てんでもお姉ちゃん、見ての通りピンピンして……」
私の手を取りはにかんだ姉の顔が、一瞬歪んだ。
「……姉さん?」
「うっ……あっ……うっ……!」
雪のように真っ白だった姉の肌から、珠のような汗による洪水が起こっていた。
「ぎ……っ! ああああああああぁああぁああぁあああああああああ!?」
「姉さん!」
何が起きているか一瞬分からなかった。生まれてこの方聞いたことのない姉の悲鳴が轟く。手に持っていた調理器具を落とし、赤い髪を振り乱しながらその場に倒れ込む姉。
「ど、どうしたの!?」
「あ……えぐっ……げほっ……だ、大丈夫。最近調子良かったからかな。反動来ちゃったのかも……?」
明らかに大丈夫ではない。介抱しようと近づく私を痙攣する手で制しながら「ホンマ、大丈夫やから……」と呟く姉。
「こんくらい、少し横になってたら治るから……」
「そんな訳……ッ!」
「……なぁ、葵。お姉ちゃん今、汗とか涙ですっごいブサイクなんよ。こんな姿葵に見せたくないから、しばらく、一人にさせてくれへんか……?」
病の深刻さを隠す言い訳なのはすぐに分かった。病で臥せ始めた頃から、妙に美容関係に興味を持ちだしていた姉はきっと、やつれていく自分の姿を見せて心配させたくなかったのだと思う。小さい時に砂と泥で顔面パックをしながら公園を駆けていたのを知っている身としては今更と思わなくもないが、その気丈な振る舞いこそが今の姉を支える精神的支柱だと考えると、私もこれ以上は追求できなかった。
「……うん、ごめんね姉さん。取り乱しちゃって」
「気に……せんで、ええよ」
「何か作ろうか?」
「大丈夫……」
「そう……」
「……」
「また、出掛けてくるね」
用事は無かったが、ここにいたら余計な気を遣わせてしまうと思った。私が居るときはきっと弱音を吐けない。そう考えた私は用事も仕事も無いが、外出する事に決めた。
「……うん」
「……いってきます」
「うん……」
力ない返事を背中で聞きながら、私は部屋を後にした。